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女はナイ

 生長の家の聖典「生命の実相」にこういう話がある。鶏をぐっと両手でつかんで、それを地面に抑え付けて置き、その鶏の目の前で白墨で地面に線を引く。そうすると鶏から手を放しても、鶏は自分の目の前に引かれた線を自分を縛る縄と勝手に勘違いして、じいっと動けないままでいるというのである。

 我々は本来、肉体ではなく、神の子無限力であり、完全円満、自由自在の生命であるが、それを自覚せず、自分は駄目なんだと勝手に自己限定するとその力が出て来なくなるのである。また、自分以外に対立的に何かが存在していると思うと心がそれに縛られて、力が出て来なくなるのである。

 私は生まれつき、自分で言うのも何だが、女性に優しい性格であった。それと本当に女性が好きであった。平たく言えば女好きである。それと高校生位から口幅ったいが私は女性にもてた。自分でも多少、容姿には自信があったのである。
 しかし、である。私は自分に好意を持ってくれた女性と付き合うとそれが大概、二ヶ月と続かなかった。全て、私の方が女性にふられるのである。

 私は大学の四年間、四人の女性と付き合ったが、毎年、違う女性と付き合って、その度にふられたのである。相手はどういうつもりで私に愛想を尽かしたのか分からないが、私は自分で分かっていた事は女性とデートしている間、私は始終緊張していて、それでその日、相手と別れるとホッとするのである。女性は男性には最初は容姿とか何とかで惹かれるだろうが付き合いだして見ると自分を楽しませてくれる相手を喜ぶ様になるのである。私は女性に優しく、サービスしているつもりで私と居るのが相手の女性は苦痛だったのだろう。
 
 要するに私は女性、特に自分が魅力を感じる女性の目の前だと普段の実力の十分の一も発揮出来なかったのである。私は相手を尊重しようという純粋な考えの上に魅力的な女性というものが大好きであり、かつ相手は自分に多少、魅力を感じてくれていると思っていたので相手からのイメージを損なう事を恐れて、相手を意識しすぎていたのである。
 鶏に取っての目の前に引かれた白墨の線と同様に私も目の前の魅力的な女性というものをアル、アルと思っていたので、それをつかみ、執着し、それに縛られていたのである。その為に自分の当たり前の実力を縛っていたので、こちらは相手に実力も魅力も発揮出来ず、相手は離れていったのである。

 私はその事が分かってから、女なるものはナイと心の中で一刀両断にしたのである。(この表現は誤解と生むといけないので補足しますが、女性の方の本体の神の子としての生命が存在しないと言っているのではありません。現象としての女性が本来ナイと言う事です。そう言う意味なら師もナイし、親もナイし、生長の家もナイです。)その時から私の心は自由になり、女性の前に立っても、当たり前の普段の自分が発揮出来る様になったのである。同様にこれは昔から男性の求道者に取っての重大課題であるが所謂セックスに対する執着というものも解脱したと思う。無理な禁欲思想という事で無しに。

 ところで昔の私と同じ様な状態である男性は沢山いるのではないか?

堀 浩二
 
by koujihori | 2007-11-30 13:12 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

我々は今、そのままで完全円満である。

 生長の家の教えに神に証拠を求めてはならないというのがある。また、信仰の収穫をすぐに求めてはならないともある。
 
 生長の家で自己の実相が完全円満の神の生命であり、それを信じて、その通りの自覚を生活に実践して行けば、その完全円満の実相が現象的に顕現され、肉体の病気は癒え、その他のありとあらゆる不如意は改善されるとある。だから、自分がこれだけ信仰しているから、これだけ神想観しているから、これだけ聖経を誦げているから、これだけ行をしているから、まだ治らんか、まだ良くならんかと現象の肉体その他の結果を気にするのである。それでその結果を良くしようとするが、その良くしようという心が既に悪とか不完全をつかんでいるのである。

 病気はナイ。不完全はナイ。病気や貧乏その他、不完全に見えるものが我々に見えているのは勝手に自己限定して、自分はまだ駄目だ、まだ病気だ、まだ不完全だと思って、それを心でつかんで良くしようとしているからである。
我々は今、そのままで完全円満である。不完全に見える肉体の病気その他の現象はあるように見えて、ナイのである。それは自分が勝手に自己限定して、まだ駄目だと思う心、そして、それを良くしようという心の引っ掛かり、もしくは自分の考え方に決定的な間違いがある場合、それが映っているだけであるのである。

 我々は今、完全円満であるという事を信じて、今に全力を投入して生き、結果とか現象の良さを求めないのが良いのである。
 良くしようという事の中に分かろう、出来ようという心がある。それも現象の結果を求める心であり、自分が神の子であり、完全円満であるという事の証拠を求める心である。そんな現象の「分かる事」、「出来る事」、「治る事」、「良くなる事」という結果を求めず、現象ナシと一刀両断に現象を真っ二つにして、今、そのままで自分の生命の実相が完全円満、無限力であるという事を信じて、今を全力で生きれば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-29 13:15 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

赤ちゃんに殴られる

 腹が立つのは良くない事である。それも一時ならまだ良いが、何時までも継続して、恨み、腹立ちを抱き続けるのは良くない。何かことある毎にあの時、あいつにあんな事を言われた、された、くやしい、仕返しをしてやりたいと思い出し、むかむかするのである。でも、生長の家は人を恨んだり、憎んだりし続けるとやがて病気になると言われる。
 怒りの感情は言葉に出して、怒りを現したらそれですっきりするかと言ったらそうではなくて、そうすると言葉の力によって、その怒りの感情がより増幅されてしまうし、それならその怒りの感情を表現せずに我慢しておれば良いのかと言うと、やはり、その表現されざる恨みの感情、怒りの心は「腹ふくるるわざなり」という事でそれが心の底深く潜行し蓄積されて、やがて、病気になるとやはり「生命の実相」にある。

 それならどうしたら良いかと言ったら、腹が立たないようにならなくてはならないと生長の家では教えている。腹が立たなくなるのは憎しみの感情の反対の感謝の感情を引き出すと良いと言われる。だから、「有り難う御座います。私はあなたを赦しました。」という生長の家の「和解の祈り」をするのも一つの方法であろう。

 しかし、もっと根本的な腹の立たないコツは自己の生命の実相がこのままでなにものにも傷付けられる事の無い偉大なものであるという事を悟る以外無いのである。
 腹が立つのは相手の無礼な言葉や行いによって、自分が傷つけられるかも知れぬという恐怖があるからである。自分が外部から何をされても押しも押されもしない完全円満なる神の生命であると悟ったら、相手に何を言われようが、されようがそれは丁度、赤ちゃんに頬を殴られた様なものだと生長の家では教えている。

 我々はたった今、神の子であり、神の子であるという事はそのままで完全円満、無限力、無限健康、無限供給の生命なのである。出来なかったり、失敗したり、乏しかったり、病気などというものはたった今、一切、針の先といえども我らに無関係な事なのである。
 実相は完全円満、無限健康だが、現象の肉体はまだ自壊作用が残っておりまして、まだ完全に治っておりません、実相の生命は無限力ですが、現象の自分はまだ力不足で下手で出来ませんなんて事は無いのである。現象はナイと我らは教えられているのである。現象がナイとは不完全な肉体、病気、まだ出来ない自分もたった今、ナイという事である。
 それが神の子完全円満を本当に自覚するという事である。そうなった時、誰に何を言われようとどうされようとそんなもの赤ちゃんに平手打ちされた様なものである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-27 13:30 | 信仰 | Trackback | Comments(3)

講話とは相手を拝む行である。

 かつて、生長の家創始者、谷口雅春先生がご活躍だった頃、先生は講話をされる時、最初に聴衆に向かって、「有り難う御座います。」と深々と礼拝されてから講話を始められたそうである。
 ある霊眼の啓けた人がその聴衆者の最前列に座っていたが、先生が礼拝された時、ふと自分の後を振り返って見ると、後に座っている聴衆が全部、菩薩様の姿をしていたそうである。
 
 先生はだてに聴衆を礼拝されていたのではなかったのである。本当に聴衆一人一人の神性、そのままで完全円満で救われ済みの神の子の生命を拝んでおられたのである。
要するに生長の家の講話をするという事は救われていない、心得の悪い凡夫に向かって、「お前の態度、行い、心持ちのここが悪い。そういう心持ちだから病気になるんだ。わしが今から有り難い生長の家の真理、生き方を教えてやるから今後、心を入れ替えて、せいぜい善行に励め。」などと上からものを言う様な説教をする事ではないのである。
 また、似た様な事を谷口清超先生も仰っていた。先生は長い間、毎年、全国59教区をくまなく御巡錫されていたが、今から十数年前、谷口雅宣先生に御巡錫をバトンタッチされて、引退される年、全国代表者会議という場で全国の生長の家幹部に向かって、「今まで私(清超先生)が講習会で講話させて頂く中で学ばさせて頂いた事は数限りなくありました。有り難うございました。」と深々と全国幹部を合掌礼拝されたのである。

 私は現在、生長の家地方講師として毎月、教区内の各地域の誌友会に出講させて頂いている。出講は何十回やっても、毎回が真剣勝負である。自分の生命以外なにものも頼るものが無いからである。
 さて、私は以前、ある誌友会に出講が決まっていたのであるが、私はその誌友会に出講に行くのが、非常に気が重かったのである。出来れば出講したくなかった。それはその誌友会の会場リーダーさんが正直、苦手な人であったからである。
 私はその人から苦い思いをさせられた経験があったのである。それで気が進まない中、講話の準備を進めていたのであるが、ある時、はっと気がついた。これは相手の生命を拝む行であると。
 私はその人が苦手だ、悪い人だと何となく思っていたがそれは私の迷いであり、その人は悪い人ではなく、神の子で素晴らしい人であるのを私が勝手に色眼鏡で見て、悪い人だなんて思っていたのであって、その人の開催する誌友会に出講に行くという事はその人の生命の実相を拝む修行をしに行く事であると思い直す事が出来たのである。
 そうしたら、気持ちがすうっと楽になって、準備が進み、出講当日も実に気持ちよく講話をする事が出来た。その会場リーダーさんも大変、親切に行き届いた司会をして下さった。私はこの時、本当にこの世に悪い人は居ないのだなと実感し、講話は相手を諭して、救ってやる行為ではなく、既に救われている神の子の相手の生命を拝む行であると思いを新たにしたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-26 13:26 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

神の国は我が内にあり(2)

 我らは誰でも理想的な社会を欲する。会社その他の組織に属していれば、理想的な会社組織を模索するだろう。真面目な人は特にそうだと思う。しかし、その理想社会を模索するに当たって、人間観、世界観という事が大変重要になって来る。理想国家を目指して純粋な愛国心に燃える青年が決起しても、そのやり方が暴力革命的なやり方であったら、挫折するのである。

 革命というのは神の国即ち理想世界を外に求め、悪をありとして強引に力でもって、神の国を建設しようとする行為である。それに対して、光明化運動というのは今、そのままで万物の内側の神性を見つめ、長所を讃嘆する事により、神の国を拝み出す運動である。
 神の国は我が内にあり。神の国を外に求めようとするから駄目なのである。神の国を外に求めようとするから、あの時、あいつがあんな事を言いやがった、やりやがったと憤慨し、憎み、その相手をやっつけるなんて事になるのである。しかし、それは相手の悪を認め、そして、その相手が非難し、愚弄した所の自分の落ち度までも認めているのである。
 現象という外の世界に理想世界を求めてもそれは徒労に終わる。現象即ち外の世界はナイのである。神の国、真の理想世界は今、ここ、我らの内にある。既にそれはあるのである。それを見つめて、国とか組織とか上司とかその他の人の良い点を見つめ、感謝する中でそれを祈り出すのが生長の家の人類光明化運動である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-21 13:12 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

訓練

 我々の本当の生命は神の生命であり、無限健康、完全円満、無限力である。その完全円満の神の生命をそれぞれの個性と役割を与えられて、表現されたのが一人一人の個々の人間である。だから、我々は一人一人個々の個性と役割があると同時にその根底に無限があり、その無限に生かされて、生きている。

 さて、その我々の本当の生命の無限力を我々一人一人の個性と役割に応じて、開発、表現する為には先ず、自分の生命の実相が完全円満の神の生命であるという哲学に目覚めなくてはならない。そして、目覚めたらそれを開発する為の訓練をして行かなくてはならないのである。それを人生における求道というが、その自分自身の生命の実相を追求し、発見し、それを訓練して行く事は人生に於いて、自分に巡って来る課題を通してのみ為されて行くのである。
 自分は神の子、無限力であるから、その力を開発したいとする。そこでこういう訓練をしたらいいのではないか、こういう学習をして行ったらいいのではないかと色々思案する事もあるかも知れない。しかし、本当の訓練、学習というのは自分で意図的にこういう事を学ぼうとか訓練しようとする事よりも、今、自分に丁度巡って来る人生上の課題を丹念に目張り強く、挑んで行く事でのみ訓練されて行くのである。

 例えば、私の様にテニスをやっていて、それの能力向上を目指しているとする。それで毎日、素振りをやったり、テニススクールに行ったり、経験を積む為に色々なテニス大会に参加して見たりする。確かにそうした努力を重ねて行く事で進歩、向上はあるだろう。しかし、私の経験から言うと、その様に自分が意図的にやろうとした事よりも偶然の幸運により、導かれ、実力が向上したという事が殆どである。私がテニスのテクニック的な事で本当に導かれたのは壁打ちをやっていて、偶然、隣にいた人に教えてもらった事とかテニスクラブで一人でサービス練習をやっていたら、偶然、そのクラブで一番上手い人が隣のコートに居合わせて、こうやったらいいとその場で指導してもらった事、そして、生長の家相愛会で知り合った人と何の気無しにテニスの試合をやったら、その人が偶然、全日本ランキングでも上位にいた人でその試合だけで今までテニスをしていて何十年も分からなかった事が一気にいくつも分かったなんて事があったが、私が上手くなったきっかけはこの様に偶然の幸運によるものが殆ど全てなのである。

 要するに我々の生命の実相の完全円満さは我々の我(が)が意図して、良くしよう、引きだそうとして出て来るものではなく、我々の生命の実相自らが自分で出て来る事により成就するのである。それは現象的には我々の人生に於いて、我々に自ずと巡って来る事、課題、困難に対して、逃げずに真正面から立ち向かって行く中で我々の生命の実相の素晴らしさ、無限力が出て来るのである。
 だから、余り、自分はどうしたら良くなるか、本当の事が分かるかなんて悩まないでもそのままで現在の課題に真剣に取り組めば良いのである。
 従って、逆に自分の人生が如何に表面的に苦難があろうとも失敗があろうとも、それはそうした状態に陥った自分が駄目だからそうなるのではなくて、自己の生命の実相の素晴らしさを表現する為に自分自ら自分の心の力を駆使して、そうした問題を自ずと作り出しているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-19 12:42 | 潜在能力 | Trackback | Comments(1)

今を生きる

 私は以前、高校生位から始終、悩みが尽きないという状態であった。また取り越し苦労の仕方が異常だと言われた事もある。
 悩みが出て来るのは自我に目覚めた状態であり、人は子供の頃は明るく、無邪気な心で生きているから、悩みも何も無いが、思春期になると自分というものを意識する様になり、それで対面を気にして、異性の目を意識したり、色々先の事を心配したりする様になる。そうすると色々な悩みが出て来て、それは精神的な悩みとか肉体の悩みとか容姿の悩みとかという形で出て来るのである。

 しかし、その悩みというのは本人に取っては重大なものであるが、実際、他人から見ると大した事でないという事が殆どで、当人もある事で死ぬほど、悩んでいても、何か他の困った事が出て来ると悩む対象が移り、以前、悩んでいた事は問題でなくなる。
 要するに悩みというのは実体が無いのであって、悩みを勝手に心に描き、そして、それを心につかむという行為が悩みの正体である。だから、悩みの対象も悩みという心も何等具体的な存在ではないのである。

 それなら何故、悩みというものが出て来るかと言えば、それは本来無い状態が出て来ているという事である。本来無い状態が出て来ているとはちょっと変な表現であるが、それは本来の本当の実在である「今」を外しているからである。「今」こそが本当の実在する時であり、その「今」にしか本当の実在即ち完全円満の神は存在しない。だから、その「今」を外せば本来無い悩みとか迷いが出て来るのである。迷いとか悩みが出て来る所、恐怖心が出て来る。それを取り越し苦労と言ったり、後悔と言うのである。

 要するに悩みとか憂いとか恐怖とか後悔しない為には今を生きれば良いのである。それならどうしたら今を生きる事が出来るかと言えば、それは神に全託するしかないし、全託すればいいのである。
 神に任せられないという思いが今を生きないで、過去や未来に引っ掛かり、それが取り越し苦労と悩みを生むのである。神に全部、お任せして大丈夫であると神に全託するならば、安心して今を生きる事が出来る。そうすれば、今の事物に対する判断力は増し、良く覚えているから記憶力も増す。そして、取り越し苦労も後悔も消えるから、頭がすっきりして、全ての悩みや恐怖が消えるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-16 12:56 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

何時までも怒らない

 ここで以前、紹介したエピソードであるが、今回、また引用させて頂く。
 かつて、榎本恵吾先生にお聞きしたお話であるが、谷口雅春先生がまだご活躍だった頃、本部か何かで先生を中心に会議をしていた時の事、その時は夏の暑い日であったので、扇風機を使っていたそうである。

 扇風機は首振り装置がついていて、自動的に首を振って、風を左右に流していたのであるが、その調子が良くないので雅春先生のお付きの人が適当に向きを調整しようとした時の事、突然、雅春先生が「それはそのままにしておいて下さい!」とそのお付きの人に一喝したのである。

 その声はすさまじい怒気を含んでいたそうで、お坊さんの一喝の「喝!」なんていう悟りに導く、爽やかなものなんてものではなくて、憎しみや憤りがドロドロに混じった様な怒声だったそうである。
 廻りの人達は一様に皆、その場で固まってしまったそうである。しかし、その後、また会議は進められていったのである。そうしたら、10分も経たない内に雅春先生はさっき、思い切り、怒ったそのお付きの人とまるで何事も無かった様に朗らかに談笑していたそうである。

 雅春先生は別の所で仰った事に「私も怒る事がある。でも私はすぐ、その相手を赦すんだ。」というお言葉がある。
 我々は和顔、愛語、讃嘆が大事であると生長の家で教えられる。しかし、それもとらわれれば駄目であり、時に怒るべき時は怒っていいのである。その方が相手を生かす事だってある。それはどういう事を怒るかと言えば、相手が神の子らしくない事をしている時に「それはお前の本性と違うだろ!」という事で怒るのである。それは相手の悪をつかんでいるのではなくて、相手の悪を非存在のものとして否定する事である。だから、どこまでも悪を否定し、相手の本性の善を観ているのである。

 しかし、我々はともすれば、何か相手から変な事を言われたり、されたりして、その場では適当に流していても、後からじっくり、相手の言った事、した事を思い出してみるにつけ、だんだん沸々と怒りが湧き上がって来るなんて事がある。それで自分の尺度で相手を審いて、どうしてもこれは道義上、赦せんなんてひとりでうじうじと怒り続けるなんて事が往々にしてあるものである。しかし、それは相手の悪をつかんで、とらわれているのである。悪とは本来実在しないものであるから、そんなものにとらわれれば、迷いは深まる一方である。それは「今」という神のいらっしゃる時を外しているからそういう事になるのである。「今」しか無いのであり、その唯一ある「今」にこそ、本来の実在である神はいらっしゃる。その「今」を外して、過去や未来の事をうじうじ考えたり、思い出したりしているから、本来実在しない、神でないもの、即ち相手の悪とか非道とかそんなものに引っ掛かるのである。そして、それが迷いや憤りや恐怖の正体である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-15 13:00 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

御利益信仰

 生長の家に入ったら、即、何も問題の無い、表面的に幸福な状態になるなんて事は無い。そんな事を考えるのは虫が良すぎるのである。(御利益みたいに見えるのはそれはその人を生長の家の道に導く為の神様が用意されたおもちゃである。)

 生長の家は御利益信仰ではない。御本尊とやらを拝んだり、献金しさえすれば、その見返りとして、幸福に、豊かになるなんてものではないのである。

 生長の家に御本尊など無い。あるとすればそれは自分の中にある生命の実相である。そして、それを発見する求道の道は決して、安易で容易な道ではない。
 生長の家に入るとはもっと峻厳なものである。峻厳な求道の道に入るという事である。そうした中では病気になったり、離婚したりする事もある。求道、生長とは何も問題が無くて、のんきにのらくらと浮き世の楽しみに身をやつすという事ではない。生長の家に入ったが故により峻厳な人生に入るという事である。そこでは忍耐と持続心と火の出るような真摯さが要求される。しかし、その先にあるものは実相独在のこの上ない常楽の境地である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-14 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

利己主義

 利己主義というのが良くない事であるのは誰も異論は無いだろう。しかし、自分の事が大切でない人も居ないと思う。だから、昔から「情けは人のためならず」という諺があるのである。要するに他人に情け、思いやりを掛ける事はいつかは自分にそれが返って来るのだから、人に親切にせよという事であるが、これは一見、いいことを言っているみたいだが、私にはまだちょっと取引的な匂いが感じられる。というのは究極は自分に良くされたいから、今は不本意ながら、他人に親切をしましょうという風にも取れるからである。考えすぎだろうか?

 生長の家では愛とはただ与えるものであるという風に説かれる。要するに見返りとか収穫を気にせず、当てにせず、与える事が悦びだから与えるのであり、そういう愛こそが本物であるというのである。これは最高の教えであろうと思う。ただ与える-こんなにも尊い気高い行為があろうか。そして、そういう人こそが結果的に尊敬され、慕われる。

 私は11年前にちょっとした心の緩み、油断で転落した事があるが、それは愛他的になれず、利己主義になり、自分の事ばかり考えていた為に転落したのである。そして、不眠症、神経衰弱になった。
 谷口雅春先生は不眠症とか神経衰弱は利己主義の人がなる病気だと仰っているが、正にその通りなのである。だから、不眠症とか神経衰弱の人は利己主義を捨て、愛他的になれば、治るのである。だから、私はそうなってから、この雅春先生の言葉通り、懸命に約一年間、愛行を徹底的に実行した。
 しかし、それで徐々に治ったかと言うとそんな事はない。いくら愛行みたいな事をする努力を重ねても一向に私の不眠症は改善せず、私はもうふらふらの生ける屍状態になってしまった。私は睡眠薬など医薬は一切手をつけなかったのでよくあの状態で生きていたものだと思う。
 そして結局、生長の家の宇治別格本山に導かれ、榎本恵吾先生の薫陶の元、自己の神性に目覚め、救われ、そして、不眠症も神経衰弱も完治した。

 要するに真に愛他的になる、利己主義を捨てる為には自己の神性に目覚めなければならないのである。目覚めれば、愛他的になろうと力まなくても自ずとそうなる。自己の神性に目覚めるとは自己は今、そのままで完全円満、無限力で、無限健康、無限供給であるという事を本当に自覚する事である。
 その様に自覚すれば、我らは自ずと他に求める事無くひたすら与えたくなるし、そして、おのれは既にこのままで完全円満であるのであるから、自分を良くしようと悩んだり、迷ったりする必要が無くなるから自分の事を考える事をやめ、自己を捨てる事が出来、自ずと利己主義を脱皮する事が出来、今、目の前のもの、人、対象に全神経を集中する事が出来、それが相手への与えきりの生活、愛の生活になるのである。そこにおいて悩みも憂いも消えるのであり、真の悦びの生活がある。悩みとか憂いとは自分を良くしようという心であるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-11-13 14:41 | 信仰 | Trackback | Comments(0)