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今、何も問題はナイ。

 我々は生長の家の教えを学んで、人間神の子無限力という事を学ぶ。そして、それは現象の事ではなくて、現象の奥の実相生命の事であり、それを自覚して、かつ、その自覚の元に行動して行けば、それが潜在意識に刻印されて、また、それが現象、現象の肉体に現れて、その実相の素晴らしさが顕現すると教えられている。

 だから、それを信じて、祈って、その通り、一所懸命、生長の家の生き方をして行けば、時間の経過の後にその実相の素晴らしさが徐々に現象に顕現して来るから、それを信じてせっせと愛行とか訓練に励むという事になる。

 それまでは現象にはまだ病もあり、問題もあり、その他色々の困った事柄があると何となく思っているのである。しかし、それは間違いである。我々は現象はナイと教えられているのである。そして、我々が神の子で、無限力であるのは遠い未来の事でも何でもない正に今の事であるのである。
 生長の家の人は人間神の子無限力とは言うもののそれは実相の事であって、現象の自分はまだまだ力は足りません、まだまだ病弱であります、又は私は心では実相独在、人間神の子無限力を悟っていますが、現象は未だ過去の悟っていなかった迷いの時代の心が現れていて自壊作用の真っ最中でございますから現象はまだ病気です、力は出ませんなんて何となく思っている人が多いのである。しかし、それは間違いである。谷口雅春先生も最初はそう思われていたのである。要するに人間は神の子無限力であるのは分かったが現象は唯心所現であるから、現象の自分はまだ体も弱くて、経済力も無いと思っておられたのである。しかし、泥棒に二回入られてそれまで現象的にせっせと積み上げて来た現象の富を奪われた時、忽然と悟られたのである。現象はナイ、自分は今、無限の富者であり、無限健康であると。
 それからすぐに生長の家を先生は始められたのであり、そこで立たなかったら現在の生長の家はこの世に存在しないのである。

 現象はナイのである。我々が無限力で完全円満なのは今の事なのである。我々は今、出来るのである。今、立てるのである。それを如実に悟った人は正に今、立つ事が出来るのである。現象はナイからである。私は素晴らしい力も志もありますが、私はこの体が過去の迷いの残像でまだ病気が残っておりまして、だから、立てません、力が発揮出来ません、私は本当は誰にも負けない力と才能があるのですが、この体の欠陥があるから力が発揮出来ません、これさえなければ私は誰にも負けないのですが、なんて言うのは全て自己弁解である。我らはそのままで今、完全円満、無限力であるのである。それを自覚すれば今、立てるのである。聖書にある所のキリストが足萎えの人に向けて、「汝の病、既に癒されたり、立ちて歩め」と断固として、その人の今の生命の実相の完全円満さを認めたキリストの言葉の元に足萎えがその場ですぐに立ち上がって歩んだのは誇張でも比喩でも何でも無いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-30 17:22 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

パートナー(2)

 私はテニスが趣味であり、週三回位プレイする。土日の早朝テニスに月曜の夜はテニススクールに行っており、また家から十分位歩いた所にあるテニスクラブに入っているので、そこには暇を見つけては行って、プレイしている。

 テニスの試合は殆どと行っていい程、ダブルスである。ダブルスは当然、パートナーがいるのだが、これもやはり当然の事だが、強い人と組めば、勝率は上がる。
 さて、私はダブルスを組む時、苦手なのはこちらがミスしたり、おかしな動き、プレイした時に機嫌が悪くなったり、文句を言ってくるパートナーである。そういう人と組んでダブルスの試合をするのは本当に精神的にきつい。萎縮してしまうのである。要するにそういうパートナーと組むとこちらの本来の力が発揮出来ないのである。

 さて、先日、テニス仲間の忘年会で、ある人が私にこんな事を言った。それは「あなたはパートナーがミスすると赦せないタイプでしょう。」という事であった。私はハッとした。確かに私は試合に勝つ事に相当入れ込むし、感情を割合、表現するタイプであるので、ダブルスの試合をしていて、パートナーが変なミスしたり、おかしな動きをしたりするとそれが赦せず、態度にもそれが出ていたのである。そうした私と組んで試合をするのはパートナーの人には相当なプレッシャーだった様である。ダブルスの試合で仲間であるパートナーが萎縮してしまっては先ず勝てない。その人の力が半減してしまうからである。私はパートナーが自分を萎縮させると思っていたが、萎縮させていたのは私であったのである。

 それはともかく、その事で私は一つの大きな学びをした。要するに生長の家の教えでは相手の良い所を見て、それを言葉で認め、褒めろというものがあるが、私はその事が本当に分かった。私は非常に真面目で何事も一生懸命な性格であるのでテニスに限らず、仕事でも全力を傾注しなければ済まない性分である。そうすると自分の仕事のパートナーが私に取って、納得の出来ない事をしたりするのはどうしても赦せず、それをいつも批判し、厳しく心で責めていたのである。
 しかし、そんな事をすれば、相手は伸びず、パートナーが伸びなければ、一緒に仕事をしている私も会社全体も伸びることは出来ず、それどころかもっと深刻な事業の失敗、倒産って言う事だってあり得たであろう。

 要するに相手を伸ばすのは相手の欠点とか至らない部分を責めるのではなくて、相手の良い部分を認め、感謝する事であるのである。それが引いては自分も伸び、組織全体も社会全体も伸びる道である。これは生長の家の教えの根本、日時計主義であるが、その事を今回、本当に学ばせて頂いた。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-29 19:03 | 社会生活 | Trackback | Comments(2)

厳しい環境でなければ鍛えられる事は無い。

 人はよく私だけが何でこんなに苦労しなければならないんだろう。他の人は皆、適当に楽しくやっているじゃないかと思う事が往々にしてあるものである。
  
 私などもよくそういう事を思った。しかし、生長の家では「困難に戯れよ」と教えているのである。我々の実相は神の子であり、無限力である。しかし、それは鍛え出さなければ、現象として表現される事はない。人間は背水の陣を敷いて、もう後がないという状態にならないと真に力を発揮しないものである。
 
 逆に言うと、この世に素晴らしい使命を持ち、その為にこの人生において卓越した能力と人格を磨き出すべく運命づけられた人は自らの力を鍛え出す為に無意識的に自分の心の力を使って、困難な問題を造り、それを自ら課すものである。しかし、如何なる困難な問題でも自分が造ったものであるから、必ずそれを克服して、力と人格を鍛え出す事が出来るのである。
 
 無意識的に造り出すとは元々感じやすくて、それで人が悩まない様な事も真剣に悩んでそれで、神経衰弱になるとか、また、その他の色々の悩み、迷い、それもかなり深い迷いを持って、かなり間違った心を持って、何か問題を起こすとか病気になるとかその他云々である。そういうのは元々素晴らしい悟りと能力があるから、一旦、迷いとか恐怖とか弱さとなって、出て来て、その事から生じた深刻な事態から必死で立ち上がる時に無限力を出す事で、素晴らしい訓練と鍛えが成されるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-28 12:59 | Trackback | Comments(2)

経験により実相が出て来る

 私の趣味はテニスだが、それを本格的に始めてから約10年経つ。
 さて、テニスをする中で気がついたのはテニスの腕前が進歩上達するのはどういう時かと言ったら試合経験、主に失敗経験を積むと強くなるという事である。
 テニスのチャンピオンのスイスのロジャー・フェデラーは最高のコーチは試合相手であると言っているが、全力で試合をする中で、こういう打ち方、やり方がいいと肌で感じた事が身について、実力が向上して行くのである。
 テニスのレッスン書などでこういう風に打つのが正しいとか知って、試合中、その通り取って付けた様にやってみても、とてもではないが、上手くいかない。
 それなら、その正しいやり方を反復練習しておればいいか言うとそうでもない。反復練習した事が必ずしも本当に自分に身につくかと言ったらそんな事は無いのである。やはり、実際の試合経験をする中で実体験により、こういうやり方が本当に良いと肌で感じる瞬間がその技が本当に身につくことである。
 それは以前、コーチや上手い人に習った事でその時はそんなものかと思って聞いていた事であったが、試合経験をする事で本当にそれがそうだなと実感する瞬間である。それが、テニスの技が上達、進歩するという事である。
 それは魂的に見れば、既に我々の中にある無限の能力が自分で出て来たのである。自分で出て来る過程に於いて、先生とかコーチについて、一所懸命練習し、そして試合に挑み、その試合経験の中から、その習った事が本当にそうだなと実感する事で身につくという展開になるのである。

 それはテニスだけにとどまらない。人生全体に言える事である。我々は生長の家を知って、人間神の子無限力という事を知る。しかし、それだけで我々が生命の実相を悟り、幸福になるかと言ったらそんな事は無い。生長の家を知っていてもやっていても病気になったり、表面上、不幸になる人はいくらでもいる。だからと言って、生長の家は私には役に立たないなんて思うのは間違いである。そういうのは丁度、テニスを習って、それで試合に出てみて、失敗経験する様なものなのである。失敗経験したから駄目だなんて言っていたらテニスは上達しないのである。失敗経験する中で本当の事が学び、我らの信仰が本物になって行くのである。生長の家をやっていてもかつ人生に於いて、様々な失敗経験をするのはこれ全て、我々の実相が顕現して、進歩生長する為である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-27 14:48 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

日常生活は信仰を鍛える道場であり、学校である。

 私は十年前に当時、生長の家の宇治別格本山にいらした榎本恵吾先生に薫陶を受け、自分の中に神の国があり、全ての人類はそのままで救われている神であるという事を悟る事が出来たのである。

 そして、宇治から帰って来て、会社に復帰し、生長の家の活動にも復帰し、又、地元のソフトボールや野球の活動やその他、趣味のテニスや英会話などあらゆる場を通じて、精力的に活動して来た。しかし、その過程では殆ど、失敗の連続と言っていい程であり、試練の連続であった。
 要するに聖典「生命の実相」によると先ず、人間は神の子であるという事を観念的に悟ったら、その後、それを行動化する事でその信仰が本物になるとあるが、私の場合、私は神の子であり、自分の中に神の国があると悟りはしたが、それは宇治から帰って来た直後はまだまだ観念的な悟りであり、それが実際の私の生活習慣化しておらず、潜在意識にも浸透していなかったのである。
 それで宇治から帰ってきて実社会に復帰して、色々活動して来たこの十年間はその観念的悟りを実際的悟り、行動を伴った悟りにする為の訓練の連続であったのである。榎本先生のお言葉の中に「実相は自分で出て来る」というのがあるが、私の場合、内側に神の悟りが火がつき、それが自分で生長して自ら出て来る過程として、観念的悟りの実行動化があったのだと思う。どうしてそうなったかと言えば、それはやはり自然とそうなったとしか言いようが無い。

 それは本当に甘いものではなかった。正に命懸けのものであった。特に自分というものをつかみ、それを保とう、良くしようという心の習慣が私には生まれつきあり、その習慣で40年以上生きてきたので、その習慣を放つのは正に清水の舞台から飛び降りる思いであった。しかし、私は勇気を持って、それをやったのであった。それが出来たのは私の本質が勇気そのものの神の生命であったからである。それが内側から自ずと出て来た事により、おのれを捨てる行、所謂、捨身が出来たのである。

 それはともかく、榎本先生の別のあるお言葉に「悩みや問題は神が消して下さる。」というのがある。即ち、問題や悩みを心でつかまずに放っておいて、神に全託しておれば、神がその悩みとか問題を自ずと解決して下さるというのである。それを知らなかった私は何か問題とか心配事が発生するとそれはそれは気をもんだものである。
 その気のもみ方が尋常ではなかったので「お前は取り越し苦労の仕方が異常だ。」とかつて若い頃、仲間から言われた事もある。要するに問題とか悩みをアルと思って、それを自分で解決しなければならないと思っていたからそうなったのである。
 しかし、現在は問題はナイ、悩みはナイ、神が全ての悪を消して下さると信じているので、何か心配事が発生しても「神様お願いします」と神に全託して、そのままにするのである。
 
 丁度、昨日と今日、連続で仕事上で重大なミスをしてしまった可能性があり、それは前日に家で何の気無しにその可能性に気がついたのだが、以前の私だったら、その心配を無くす為にそれこそ必死に色々、画策したと思うが、現在は現象はナイ、如何なる問題が起こってこようがそんなものは所詮現象ではないか、現象はナイと教えられている私であるから、どんと来い位の気持ちで構えていたら、その二つの問題は結局、大した事無く、問題なく解決したのである。
 この様にして実相独在、現象ナシ、問題ナシ、悩みナシの生長の家の教えは日常生活の試練における行動化により、より実際のものとして顕現するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-26 13:12 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

「我が儘」の反対「そのまま」

 榎本恵吾先生は偉大な先生であった。多くの素晴らしいお言葉を残されているが、その一つに「我が儘の反対そのまま」というのがある。

 私は四人兄弟の末っ子で両親から可愛がられて育ったが、末っ子なだけに我が儘な所があったと思う。それと幼い頃からと言うか生まれつきと言うか、信仰的であったので、根が非常に真面目であったと思う。それで、「こうでなくてはならない」と言う気持ちがとても強かった。それはものごとをゆるがせにする事が出来ず、仕事でも何でも完全にしなくてはならないという考えであった。
 それで仕事は何としても失敗無く、上手くいかなくてはならない、趣味のテニスでも卓球でもこんな相手には絶対負けてはならない、他人特に異性には必ず良く思われなければならない等々という基準で気負っていたのである。それは又、後悔する事の多い人生であった。こうでなくてはならない、こうあらねばならないという気持ちがあって、常にその基準に合わなかった自分の過去を思い出し、後悔し、恥ずかしさで一杯になり、そして、自分を冒涜した者を恨み、それを見返す為におのれの力をつける事に必死であった。

 しかし、それは全部、私の「我が儘」なのであった。信仰とはそれをする事により、自分の思惑即ち我(が)の考え通りに自分の人生をねじ曲げようとする事ではなくて、自分の人生そのままが神の流れであり、実相が出て来る展開であり、一つも悪い事は無かったとして、それを受け入れる事であったのである。それがそのままで良いという事である。
 自分の思惑通りの展開にならなくて失敗したり、恥をかいたり、能力が出せなかったとしても、そこに神が無いのではなく、そこには神は確かにいらっしゃったのであり、表面的に神が成就していなくてもそれは最も良い時期に神が自ら顕れる為に最も必要な過程であったのである。だから、我らの人生は一つも悪い事は無いのである。それを信じ、そのままの自分の人生を百点満点であったと受け入れる事が真の信仰である。それを称して、榎本先生は「我が儘の反対そのまま」「そのままの反対我が儘」と仰ったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-25 13:06 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

生長の家は神が伝えて下さる。

 私は生長の家の信徒である。大学2年の時、生長の家の本ばかり読んでいたが、自分で読むばかりでは駄目でこの尊い教えを他人に伝えなくてはならないと思い、生長の家青年会に入ったのである。
 その後、組織運動に打ち込み、「第一のものを第一にする」という考えで神様の御用を第一にするという生き方をして来た。そして、組織運動で数ばかり追っている様では真の愛行にはならないと思い、日常生活における伝道を大切にした。会社の同僚とか友人とか親戚に普及誌とかを機会ある毎に渡した。また、知り合いで癌だのノイローゼだのという人が居たら、積極的に訪問して、生長の家の本を渡した。相手の為に聖経「甘露の法雨」をさらしに写経して、渡した事も数回ある。それがけっこう大変で一文字を書く毎に「有り難う御座います」を三回唱えるのである。

 これほど伝道に一所懸命になったのはこの生長の家の教えを万人に伝える事が何よりも大事な急務であると心の底から信じていたからである。それは今も変わらないが。
 だが、当時の私、10年前までの私はそれを自分がやらなくてはならないと思っていたのである。いくら人間神の子と言っても、現実に目の前にそれを知らないで苦しんでいる人がいるなら、そして、人間神の子無限力という生長の家の真理を知れば、そこから救われると分かっているなら、それを相手に伝えないで手をこまねいている事は当時の私には到底、出来なかった。
 しかし、それをやっている内に私は心の平和を失っていったのである。常に私が私がと思っていたので、それが心の重荷というか強迫観念になってしまったのである。それで夜も眠れない様になってしまった。
 しかし、それがきっかけで私は宇治の榎本恵吾先生の元に導かれ、自分の中に神の国があり、全ての人類は既に救われ済みであると悟る事が出来た。そして、私の強迫観念は消え、不眠症も治ったのである。

 それからは私は人類を既に救われている神の子であると拝む事が出来る様になった。しかし、それで何もしないかと言うとそうではない。私は今、ここがそのままで神の国であって、物質はナイ、病はナイ、悪はナイという事が分かったら、嬉しくて、以前の百倍は活動的になった。
 生長の家の組織運動も以前に増してバリバリ出来る様になり、現在は教区の相愛会副連合会長をやり、壮年対策部長などやって、生き生きと活動させて頂いている。そして、この様に悦びで生長の家の真理の悦びを語るブログなども立ち上げさせて頂いてもう2年近くになる。
 
 私は現在は会社とか友人関係で普及誌を片手に相手を追い回す様な事は一切していない。相手は既に救われている神の子であると悟ったからである。そして、伝道は私ではなくて、神がして下さるという事が分かったからである。
 そうしていると自ずと生長の家を伝える機会が与えられる。私はそういう時は臆面もなく生長の家の名前を出すし、宣伝もする。そうする中、早朝野球で知り合った友人は今や私の地区の相愛会の副会長だし、その他の野球の仲間にもこのブログを通じて生長の家は伝わっているし、また会社の取引先の相手にもテニスの仲間にも自然と生長の家は伝わりつつある。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-21 13:01 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

問題は神が解決して下さる。和解は神がさせて下さる。

 問題は神が解決して下さる。不調和は神が調和ならしめて下さる。
実は私には数人のまだ和解出来ていない人、愛せていない人、赦せていない人が居るのである。しかし、それは必ず時期が来れば、神が和解させて下さるし、愛させて下さるのである。何故なら、愛するのは我(が)の頑張りで出来る事ではなくて、我が内の神が直接出て来て、愛するからである。その事を信じるのが真の祈りである。
 
 私は先日、ある人にある事を直接、なじろうとしていた事があった。どう考えてもその人のやっている事が変であると思ったからである。しかし、それをしようとした丁度前日、我が家で誌友会をやったら、その時のテーマは夫婦調和という事で講師の先生から「相手を真っ向から非難しようとするのではなくて、一歩下がって、相手に譲って、そして、相手の良い所を認めて、褒めて上げる事が愛情である。」という御指導を頂いた。
 私がなじろうとしていた相手は妻ではなかったが、これは丁度、現在の自分に言われている事だと私は判断した。それで翌日、その相手の至らない所をまともになじる事は止め、最低限言うべき事を言って、その他は私が黙って、フォローしたのである。そして、その相手の言う事を一々否定しないで認めて、なるべく言うとおりにした。そうしたら、何となくその相手との関係が前よりスムーズに行き、その人も私の言う事に以前より多少、耳を傾けてくれる様になったのである。

 この様に他人との和解や調和は神が自ずとさせて下さるのである。しかし、その為には森羅万象全てに神の教えが鳴り響いている事を悟り、その声に耳を傾けなければならない。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-20 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

迷いは神が消して下さる。悪は神が消して下さる。

 我々は求道していると時折、迷いに陥る事があるのである。そんな時、頭で分かろうと考えたり、又は先生に聞いて見たりして、それの答えを何とか探ろうとする。しかし、そんな風に自分の外に答えを求めても駄目である。それで仮に何とか分かっても、又、その内、他の迷いが出て来て、又、分からなくなるのである。 
これで大丈夫、悟ったと思っても又、ちょっとしたきっかけで迷いの黒雲がムクムクと出て来るのである。
 そんな時、「ああ、私は悟ったと思ったのに又、迷いの袋小路に陥ってしまった。自分は凡夫だ。」などと言って、嘆息するか焦燥感に駆られるのである。
 しかし、私が榎本恵吾先生に習った事だが、全ての迷いとか不安は自分が焦らなくても神様が消して下さるという事である。そもそも信仰というのは自分でせっせと支えるものではなくて、神により支えられているものであるとも教えて頂いた。

 私も求道生活する中でこれが真理だと思うインスピレーションがたまに出て来る事があり、いつもメモ帳を持ち歩いて、何か思いついたらそれを必ずメモする事にしている。しかし、時折、何とも訳の分からなくなる時もある。そんな時は神様が必ず解決して下さる事を信じ、そのまま放っておくのである。そうすると何かの拍子に必ず、内側から神様の解答が得られるのである。それはインスピレーション的に直感する事もあれば、誰かの何気ない言葉に教えられる事もある。出方は色々だが、それは現象はどうあれ、全て内側からの神様のお気付けである。そうすると以前より、悟りの程度が高まるのである。

 「迷いは悟りの基礎工事である」とは谷口雅春先生著の「神、真理を告げ給う」の中の言葉であるが、私の場合、迷い→悟り、迷い→悟り・・・・を繰り返して段々、悟りが深まっているのである。だから、何か迷いとか不安が出て来た時はそれは又、何か神様が大事な事を教えて下さる前兆だなと思っているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-12-19 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

生長の家の真理は自分の中にある。

 生長の家の本は素晴らしい。それは色々、有り難い真理が書かれており、生長の家の本を何の気無しに開けたら、その時の自分に取って、丁度、一番必要な事が書かれていたという経験を持っている生長の家の人はけっこういるのではないか。
 生長の家の本、所謂、聖典は沢山あり、生長の家創始者谷口雅春先生はその著作数の多さでギネスブックに載っているそうであり、それほどの聖典を生涯に渡って、著された。その生長の家の本の根幹を成すのは「生命の実相」全40巻である。これを読んだ日本人は数知れず、隠れたベストセラーと言われている。
 ところでこの「生命の実相」を始めとする生長の家の聖典だが、これは要するに「人間は神の子で完全円満である。物質はナイ。」という生長の家の根本真理をとどのつまり説いているのである。即ち、「生命の実相」全40巻はこの「人間は神の子で完全円満であって、物質はナイ」という究極の真理を説く為にありとあらゆる言葉の芸術を駆使して、書かれており、それを全40巻繰り返し精読する事により、その読み手がその生長の家の根本真理を理解出来る様に出来ているのである。色々な話、比喩、方便を駆使して、たった一つの真理「人間は神の子で完全円満であって、物質はナイ」という事を悟らせる為に書かれている。
 だから、それは真理の壮大な曼荼羅である。しかし、その「生命の実相」の本に出て来る色々な話、比喩、方便そのものにとらわれてはならないのである。生長の家の本を読んで救われる人は沢山いるが、中にはそこに書いてある事にとらわれて過去の自分を責めてみたり、落ち込んだり、又はこうしなくちゃならんと言って、家族に聖典に書いてある事を強要する人もいる。それは「生命の実相」の本に記された真理の一つの型にとらわれているのである。

 真理の一つの現れにとらわれるな。真理は無限なるが故に無限の現れ方をするのである。だから、一つの型にとらわれてはならない。即ち聖典に書かれている真理の一つの表現にもとらわれてはならないのである。
 その為には真理の表現ではなくて、真理そのものをつかまなくてはならないのである。それには自分の中に真理を見出さなくてはならないのである。自分の中に生長の家の真理がある事を自覚しなければならないのである。それが神の国は我が内にありという事である。
 
堀 浩二
by koujihori | 2007-12-18 13:05 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(4)