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生長の家の信仰について(2)

 生長の家の聖典「生命の実相」第7巻・生活編には如何に生活したら良いかという事が書かれている。
 その生活というのは生長の家の真理の行動化であり、実践である。そこには「朝の時間を生かせ」に始まり、「朗らかに笑って生きよ」「日時計主義の生き方」「人の生命の実相を礼拝せよ」「取り越し苦労するな」等々の生長の家の生き方が紹介されている。
 聖典「生命の実相」全40巻の内、この「生活編」は生長の家の信徒の間で一番親しまれて、読まれている様で、これを勉強会のテキストにしている所も多い様である。
 
 しかし、宇治別格本山で長年、御指導されていた榎本恵吾先生はそれは順序が逆であると良く言われていた。要するに聖典「生命の実相」は先ず最初に生長の家の根本真理である実相独在、唯心所現の真理がきちんと根本的に書かれた1巻~6巻までがあり、その後にそれを生活に如何に応用するかという7巻があるので、1巻~6巻までの生長の家の根本真理である人間は神の子であるという無上の真理をなおざりにして、手っ取り早く、どういう風に生きるか、行うかという事に飛びつく考え方は間違っていると仰っていた。
 それは巷に氾濫している「自己啓発セミナー」と五十歩百歩であり、その様な自己啓発セミナーとかそうしたものは人間神の子なんていう事は全然説かずに、「積極的思考で行こう」とか「明るく振る舞おう」とかと言った指導を行い、それで手っ取り早く、ストレスを解消しようとか、自信をつけようとか、現世的成功とか幸福を手に入れようという考え方であるが、生長の家でも人間神の子の根本真理をなおざりにしてそうした生長の家の行動の仕方とかにばかり引っ掛かっていれば、本末転倒という事になる。そういうのを仏教では「願無き行は仏の魔事なり」と言うのである。

 吉田國太郎先生も同じ様に、最初に「生命の実相」生活編だけ読んで、それをやる事から始めるというのは感心しないと仰っている。吉田先生御生前の時の青年会全国大会では机を叩いて、熱心に青年達に向かって「今、そこに何が座っておりますか?肉体ですか?我(が)ですか?肉体とか我(が)がそこに座っているなんて思っている様では駄目ですよ!」と絶叫されている。

 要するに吾らは我(が)が行う行は駄目なのである。自分というものを肉体即ちまだ救われていないでくの坊と思って、それを良くする為に我(が)が生命の実相、生活編に書かれている生き方を無理にやっても駄目なのである。感謝のまねごとをしても駄目なのである。取り越し苦労をしまいといくら頑張っても、我(が)がやっている限りは取り越し苦労をしまいとすればするほどしてしまうのである。

 吾らは自分が何もしなくても今、このままで既に完全円満な神の生命であるのである。肉体はナイのである。今、ここがそのまま神の国であり、今、吾らはそのままで肉体ではなく、神の生命がここに立ち、かつ座っているのである。吾らは今、そのままで百%神に生かされ、導かれているのである。それを素直に受け取り、今、悦んだ時、自ずと生長の家の生き方がしたくなるのである。
 真理の実行を我(が)がやったから実相が顕現するのではなくて、実相が自分で出て来て、自ずと真理の行動化となり、それが潜在意識を変えて、その映しである現象とか肉体を良くするのである。従って、吾らはこのままで良いのであり、良くなるしか仕方の無いものである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-31 13:14 | 信仰 | Trackback(3) | Comments(4)

生長の家の信仰について

 生長の家の信仰の根本は人間は神の子であり、完全円満であるという事である。そして、それは自分の中に無限があるという事であり、又、神の国があるという事である。と言うことは自分の中にこそ真理があるという事である。

私は生長の家の地方講師として、毎月、県下の色々な誌友会に行って、講話をするが、以前は講話をする時は事前に原稿を完璧に作って行って、それを何度も読んで、自分の頭に叩き込んで、本番の講話に臨んだものである。しかし、こうしたやり方だと話と話のつなぎの部分でちょっとしたきっかけでど忘れしたりすると頭が真っ白になってしまい、何も話せなくなったりした経験がある。
 そうした経験を積んでいる内に生長の家の講話のネタは自分の中にあるという事が段々と分かって行った。そうしたら現在は講話前にどんな話をするか、一応、骨子を考えて行き、簡単な原稿を作るが、実際の講話する時になったら、その原稿さえも私は捨ててしまう。そして、内側からのインスピレーションのままに話すのであるが、これが自分でも驚く位、スラスラと後から後から真理の言葉が出て来るのである。それは私の中に既にある生長の家の真理が自ずと出て来る事で成される事である。それは別の言い方をすれば、講話は神様がして下さるという事になるが。

 という事で私は生長の家の信徒であるが、その生長の家の真理は私の外にあるのではなく、私の中にあると自覚しているのである。それが神の子の自覚でなくて何であろう。私は生長の家の真理に限らず、仕事でも趣味のテニスでも分からない事を他人に頼って聞いて廻るという事を一切しない。 それは自分の外にではなく内に全ての真理、知識があると自覚しているからである。その様にしているとやっている内に分かって来るし、また良き指導者が現れて、色々と教えてくれる。それは私が自分の外に真理を求めたのではなく、私の中にある真理が良き指導者を通して、私に与えられるという形で自分で出て来たのである。

 さて、「無門関」の中に「仏に遭うては仏を殺し、師に遭うては師を殺し、親に遭うては親を殺し・・・」という所が出て来る。これを言葉通り受け取ってしまったら恐ろしい事になるが、これは要するに現象の師も仏も親もナイという事である。現象即ち外の世界に神とか仏をアルと思って求めるなという事である。全ては神の国即ち、実相として自分の中にあるのであって、それを本当に自覚した時、本当に心の底から親が有り難い事、師が尊い事、仏が素晴らしい事が分かり、自ずと満腔の感謝、報恩をしたくなるという事である。

 生長の家の真理を内に自覚している者は現在の教え親である生長の家の総裁・副総裁が真に尊い事が分かり、自ずと中心帰一したくなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-30 12:31 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

現象を捨てる

 聖典「生命の実相」第七巻、生活編にこういう記述がある。それは「ものごとというのは大体全体の7分位確認すれば、後は思い切って、自分の勘を信じて、どんどん決定して、やって行く必要がある。石橋を叩いて渡るということわざがあるが、余りに確認を完璧にやろうとしてやるとそれが戦争であれば、敵兵が十分に準備してしまって、攻略のチャンスが無くなるのである。」という事である。

 我々は失敗を予想して恐れるが故に余りに確認を完璧にしようとすると駄目なのである。どんどん思い切って、全体の7分位確認が取れていれば、それで後は自分の勘を頼りにどんどん打って出る事が必要なのである。
 何故、確認、確認と執着してしまうかと言えば、それは神の国を外の世界、即ち現象に求めているからである。現象に完全を求めているのである。だから、ちょっとでも何か確認出来ていないと感じる部分があると不安になって、出来るだけ完璧に確認しようなんて思うのである。しかし、それは失敗を予想する心であり、そんな事をしていれば、却って、失敗をしてしまうのである。また、それは自分の記憶とか判断とかそうしたものを信用しないからそれを使わない事になるから、自分の脳の力もどんどん減退して、そして、失敗を予想するストレスから脳細胞にストレスを溜め、更に脳の力を減退させる。

 それはとにもかくにも現象を良くしよう、現象に神を求めようという心があるから駄目なのである。現象をナシとして、現象を捨てる事が大事である。現象をアルと思って、それに執着し、完璧なものにしようという考えは間違いである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-29 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

日時計主義(3)

 今月の私の所属する教区の相愛会の誌友会のテーマは「笑いの効用、日時計主義とは何か」という事である。

 日時計主義とは今から78年前の昭和五年に谷口雅春先生が生長の家を始めれた時に雑誌「生長の家」誌で提唱された「ものごとの明るい面のみ観て、暗い面を見ない、語らない、思い出さない」という生き方である。
 それは生長の家の真理から言って、この現象世界は具体的に存在する世界ではなく、我々人類の心が映し出した映像みたいなものであるから、心を清める事が世界平和につながるという考え方が根本になっている。
 従って、今後、我々人類は一切の悪を心で観ない、語らないという事が大事であって、そうしていれば我々は悪に遭遇せずに済むのである。それが日時計主義である。そして、その生き方を全人類に広める事がそもそもの生長の家の出現の使命と意義であるのである。現在の生長の家は言わば、その原点回帰が提唱されているのだと私は思う。
 
 ところで、私は生長の家の地方講師であるので教区が毎月定めたテーマに沿って、県内各地にある相愛会の誌友会に派遣されて出講に行く。その為には当然、講話をする為の準備をするのだが、その中で改めて、この日時計主義について学ばせて頂いた。
 私は講話の準備の為の原稿を作成していて、日時計主義とはどういう事かと思索して行き、それは前述の様にこの世界は我々の想念、コトバで出来ているのであるから、それを清める事のみが平和をこの世界にもたらす道であり、また現象は具体的存在でななく、我々の想念の映しに過ぎないものであるから、我々が心で悪を認めない限り、悪は存在し得ないという事を改めて、勉強した。
 余談になるが、生長の家の地方講師になるという事は講師自身がかけがえのない真理の勉強をする機会になるのであるから生長の家の人は講師になる事を心の底からお勧めする。
 
 ところで私は最近、趣味のテニスにおいてある経験をしたのである。私が所属しているテニスクラブで私に取っては非常にこわいというか苦手な人がいた。その人はテニスの腕は素晴らしいものがあり、私より十歳位年上の人だが、その人には私も随分、為になるテニスのテクニックを教えてもらったが、一緒にダブルスのパートナーとして組んで試合をするとよく怒られるので、ちょっとその点は苦手であったのである。
 しかし、ここ最近は良く褒めてくれるし、同じ教えてくれるのでも以前の様にきつい感じではなく、丁寧に優しく教えてくれる様になった。これは私自身が変わって、他人の非を咎める事が殆ど無くなったからであると思うのである。
 その時、私はやはり、世の中には恐いものとか悪というのは存在せず、全て自分の心の姿を映しているものに過ぎないという真理を改めて、自覚したのである。去年は私は他にも人間関係で我慢ならない思い、憤りを感じる事が多かったが、それ全て、自分の姿を相手に映していただけであったのである。悪い人、悪は本当に存在しないのである。
 世の中にはこういう巨大陰謀組織があるから、こういう悪巧みを考える人間がいるから、それを警戒し、かつやっつけなくてはならないなんて言う人もいるが、悪人とか巨悪組織なんて本当の存在ではないのである。
 
 だからと言って、私は何もしないかと言ったらそうではない。この世界には善しかないという真理に基づいて、自ずとやるべき事、したくなってする事を内側からの導きに従って、どんどんやって行くのである。それが世界平和を地上に持ち来す道である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-28 13:18 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

やっている内に自ずと分かる

 私はテニスをやっているが、テニスというのは技術的に難しく、たまにその事で悩む事がある。サービスがことに難しく、良く悩んだ。テニスというのは技術的な事はいくらやってもこれでいいという事が無い。だから、どんな強いプロでもコーチというのがついていて、指導を受けながらやっているのである。

 私はもう大部長いことテニスをしているので大部、技術的な事は分かったつもりである。しかし、それでも、いまだに分からなくなる事や課題が後から後から出て来る。そんな時は以前は頭で解決しようとよく悩んだものである。以前の私はテニスのやり方が分からなくなるとテニスが終わった後も悶々とその事について考え込むという事があった。しかし、そんな事をしていると頭が痛くなって来たし、ストレスが溜まって、ますます分からなくなった。
 
 真理というのは自分の中にあるものであり、それは自分の外に求めるものではない。テニスのやり方でも、それを自分の外に解答を求めようとするから頭で考え込んでしまうのである。そうではなくて、自分の中に全ての真理があるのであるから、それが内側から自ずと全てを教えてくれるのを静かに待つのが良い。
 テニスはやっていれば、分からない事や課題というのは永遠に出続けるのである。そんな時にそれを無理に頭で分かろうとするから悩みになるのである。吾らは完全円満の神の子であり、それは今、このままで内に無限智が存在している。従って、内側に全てのスポーツに関する、いやスポーツに限らない全ての知識と知恵が既に与えられているのである。従って、当たり前にテニスをして行けば、やっている内に自ずと内側からどうしたらいいかという事が湧き上がって来る。もしくはコーチとか上手い人に教えてもらって分かるという事もある。それは自他一体であるから自分の中の無限の智恵が他の人を通して、自分に与えられるという形で出て来たのである。

 吾らは今、完全円満であり、無限力、無限智、無限供給である。しかし、それは事前や事後にあれこれ頭で考えたり、悩んだり、取り越し苦労しても、決して出て来ない。それは今を生かして、目の前の事に集中して、全力を尽くす所から出て来る。
 また逆に今、自分の中に無限の智恵と力が存在すると自覚するとそれを得ようと考え込んだりしないものである。あれこれ頭だけで考えるというのは自己の内側の無限智を信じない者のする事であるからだ。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-25 13:09 | 潜在能力 | Trackback(32) | Comments(0)

吾らは今、完全円満、無限力である。

 物質はナイ。現象はナイ。今、ここに神の国があり、完全円満の神の生命が自分をして生きているというだけである。現象にどれだけ実相が出ているかなんて問題ではないのである。
 今、ここが神の国であり、自分が神に今、生かされて、導かれて、幸はへられている事を悦ぶのが生長の家である。その自覚のある所、その映しである現象は後から整う。しかし、整う事が問題なのではない。今、生かされている事を、無限の能力を与えられている事を悦ぶべし。それが生長の家である。

 現象はナイ、肉体はナイという事を悟り、自分が今、神に生かされ、無限の能力を与えられているという事を悟れば、それを今、すぐ使う様になるから、今、立つのである。
 肉体の病気とか障害などそんなものは単なる過去の自分の念の残像であるとして、断固として立つのである。それが所謂真理の行動化であるが、それは自分が今、完全円満の生命を与えられ、生かされていると自覚するからこそ出来る事である。
 そして、そうした真理の行動化が積み重なって行くと、そこから結果的に潜在意識に吾、完全円満なり、無限力なりという想念が蓄積され、そして、肉体はその想念の波動であるから、肉体もどんどん修復、健全化し、他のあらゆる能力もどんどん出て来る。しかし、繰り返すが、それも念の残像、波動に過ぎないのであり、そんなものを問題にしてはならないのである。

 今、正に今、我々は完全円満であり、無限力であるのである。机上の空論でも何でもなく、夢物語でも無い。正に事実である。それを悦び、かつどんどん使うべし。そうしたら、自分は過去の迷いの念の自壊作用が残っていて、まだ調子が出ません、力は出ません、だから出来るかどうか分かりませんなんて弱音を吐いたり、心配しなくていいのである。如何なる状況であろうが、今、吾らは無限力そのものであるのである。それが分かったら今すぐ、悦べるのである。今すぐ、それを使えるのである。それが全力の生き方という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-24 12:28 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

人生百点満点

 榎本恵吾先生はよく「あなたの人生はそのままで百点満点の人生ですよ。」と色々な人に仰っていた。
 私が生長の家で最初に学んだ事で一番印象的だったのは「思ったら思った通りになる。」という心の法則であった。それが高校一年の練成会での事であったが、私はそれを知った後、自分の心のコントロールをちゃんとしないといけないと思う様になったのである。思ったら思った通りになるのであるなら、良い事を思ったら、良い事が出て来るのであるが、逆に悪い事を思ったらその通り、悪い事になるという事であるから、間違っても悪い事を思ったらいけないと思う様になった。それは誰でもそうなるはずである。
 それから、私は一種ノイローゼの様になった。何故かと言ったら、悪い事を思ったらいけないと思えば思うほど、悪い事を思ってしまい、それが実現するかと思ったら、恐ろしくなってしまったからである。それで勉強が余り手につかない様になってしまった。しかし、その後、丁度、谷口雅春先生も同じ様な悩みを持たれていた事を聖典「生命の実相・自伝編」で知り、現象はナイ、心もナイ、実相のみがあるという例の先生のお悟りになった部分を拝読させて頂いて、一応は私の悩みも消えた。

 こういう風に心の法則を知って、自分の心のコントロールに悩み、苦しむのを仏教用語で「業障海に沈む」と言うそうである。これは宗教的真理を探究する求道者に取っては一度は通らないといけない関門の様である。
 私は「生命の実相・自伝編」を読んで一応は納得したが、求道とはそんな本をちらっと読んだ位で分かる様な甘いものではない。私はその後、この生長の家の真理の神髄を会得するのに何十年と掛かったのである。
 
 私は心はナイ、実相独在であると一応は納得したもののやはり神が支配しているのは実相世界のみでこの現象世界は自分の心が造り、コントロールしなければならないと思っていたのである。だから、心を清めよう、行動を良くしよう、徳を積もうという考えで来たのである。実際、そういう事を指導する生長の家の指導者は沢山いる。
 しかし、それは実相独在の生長の家の神髄とは違う、言わば、初心者向け指導である。現象はナイ、心はナイという事は潜在意識もナイという事であり、我々の現象の人生も過去もナイという事である。そして、自分が生きていたのは自分が生きていたのではなく、神がここに生きていたという事である。
 
 即ち我々の人生というのは実は自分で生きてきた、自分で自分の心をコントロールして、生きてきたと思っていたが、それは自分の間違い、錯覚であって、自分の人生は神が生きてきたのである。現象はナイ、心はナイという事はそういう事である。
 自分の過去に罪とか間違いとか悪とか不完全がある様に見えているのはそれは現在の自分の心のレンズに歪みがあるからそう自分に感じられているに過ぎないのであって、自分の心が実相を悟り、目覚めれば自分の人生が短期的に見れば、如何に紆余曲折的なものであったとしても大局的に見れば、それは吾らの内なる神が御自分で出て来る実相顕現の歩みであった事が達観されるのである。
 ここに業障海は消え、実相独在の世界が開ける。自分が生きていたのは自分が生きていたのではない。神が自分において生きていたのである。だから、榎本先生の仰られた様に全ての人の人生は百点満点であるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-23 13:08 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

現象の中に居て、実相を思う生き方

 生長の家の神示の「心の法則と平和への道の神示」にこういう言葉がある。それは「『治にゐて乱を忘れず』と云うのが古き人類の道徳であったが、『生長の家』の生き方は乱にゐて治を忘れざる生活である。・・・」という事である。

 現象というのは過去の我々の念の波動がある時間の経過後に表面に出て来たものである。それを生長の家創始者谷口雅春先生は星の中でも地球と非常に離れている星でその光が地球に届くのに何年もかかるような場合は一年以上前にその星が爆発して既にこの宇宙から消滅している様な場合でもその星の光が今頃、地球の我々に届いて来て、我々に取ってはその既に消滅した星の光がまだ見えていて、あたかもまだその星が存在するかの様に見えているが、それと同じで数ヶ月かそれ以上の数年前に我々が想念した事が今頃になって、我々の目に見える形、現象として現れて来ていて、それが今、あるかの様に感じられるが実はそんなものは過去の想念の残像に過ぎないのであって、実際は存在しないのであると説かれている。
 従って、何か病気とか他の悪い事が起こって来ても、それは現在の自分が悪いのではなくて、過去に想念した事が今頃になって出て来て、消える姿だから、放っておくべし、そして、現在の今の自分、本当の自分、実相の自分は完全円満であると自覚して、悦ぶべし、そして、その無限力の自覚の元に今、正に今、立ち上がるべしと教えている。

 この様に本当の我々は今、たった今、そのままで既に完全円満、無限力の神の生命なのである。これからそうなるのではない。だから、それを自覚したならば、たった今、立ち上がって、その力をどんどん使って、勇気を出して、目の前の課題にぶち当たっていかなくてはならないのである。
 そんな時に過去の迷いの念の現れで現在の現象の自分が調子が悪かったり、力が出なかったりする事があるのである。しかし、吾らは「乱にゐて治を忘れざる」生活をしなくてはならないのである。現象に過去の迷いの念の波動の具象化である不完全な肉体とか能力が出ないとか色々、不如意な事が現れていても、そんなものは過去の念の波動の残像に過ぎないのであって、実際今、存在もしない、正に消え行く姿として、そして断固として現在の自分の完全円満、無限力を信じて、諦めず、前進するのである。そこにこそ実相顕現の道がある。
 だから、現象が不完全でも不如意でもそんな中にあっても、今、自分の完全円満、無限力を信じて行動する生活が生長の家の生活である。そうであれば、吾らは今、既に幸福であり、無限力であり、成功者である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-22 14:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

期待していた事が裏切られた時

 我々は生長の家の信仰を持ち、毎日の生活の中で色々の体験をするが、その体験が我々の信仰を深めてくれるのである。
 生長の家の信仰を持っていると人間は神の子であり、肉体を超えた完全円満、永遠不滅の神の生命であると教えられる。そして、現象は単なる我々の心、自覚の映しであり、存在しないと教えられる。しかし、我々は毎日生活しているとともすれば現象にとらわれてしまうのである。それは信仰する事によって、現象即ち自分の事業も家庭生活も育児も光明化運動も上手く行っていると、ともすれば、それらの現象をアルと思って、執着する様になってしまうのである。
 
 そんな時、自分が当てにしていたその現象の良さとかが崩れたり、当てが外れたりすると一旦、我々は悲嘆する。しかし、そういう時こそが正念場なのである。その時こそが、現象ナシ、実相独在の信仰が本当に深まる時なのである。

 生長の家の神示「無相圓相一切相の神示」にも「吾が臨れるは物のためではない。生命のためである。肉のためではない。霊のためである。」と示されているが、この事が分からなければ生長の家をやっている意味は無いのである。
 本当の信仰は自分が信仰した事により現象が良くなったと言って喜ぶ事ではなくて、現象がナイと悟り、現象が如何なる状態であっても今、神に生かされている事、今、無限力であり、完全円満の生命を神に幸はへられている事を悦ぶ事である。

 現象とは過去の自分の認識、念が今になって、波動として表面に出て来たものであって、それは現在の自分とは無関係なものである。自分の周りの現象だけではなくて、現在の自分がどうしても力が出なくて出来ないという現象も現在の自分に勇気が無いからではなくて、過去の念が今頃になって出て来ているのである。
 だから、如何なる現象が出て来ても勇気が出なくて出来なくてもそれで落ち込む事は要らないのであって、そんなものは単なる過去の念の残像であるとして、それをナシ!と一刀両断にして、今の自分が完全円満、無限力であるとして立ち上がれば良いのである。そして、その結果をすぐに期待してはならないのである。それは自分に取って、最も良い時期に出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-21 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

問題

 榎本恵吾先生はよく「ナイ!」という事を仰っていた。「潜在意識はナイ!」という一喝もあったが、これも生長の家の真理からすれば、本当の事である。それから「問題はナイ!」という一喝もあった。皆、何となく潜在意識を清めなくては、問題を解決しなければという事でそれを握っているのであるが、それはナイのであって、そうするとそれをつかむ心が消えるからその問題にとらわれてあくせくしたり、悩んだりする事が無くなるのである。

 生長の家の生き方は問題とか迷いが見えていても、問題や迷いにとらわれない生き方である。生長の家に入れば、あらゆる問題が消えて、のらくら暮らせるというものではないのである。 
 現象は良い時もあり、悪い時もある。しかし、生長の家の生き方は問題が見えていても、心でつかまず、神に全託するのである。それは問題というのはアルように見えて、実は存在せず、神が消して下さると悟る事である。それを問題が出て来た時に自分が何とかこの問題を解決しなければならない、その為には自分がこれこれこれだけの行や手続きをしなくてはならないとする。それが、問題に心を引っ掛からせる事であり、それでは問題にとらわれてしまうのである。そして、心は焦りで一杯になるのである。
 そうなると如何に祈ろうが、努力しようが、問題を心でつかんでいるからますますその問題がどうにもならない具体性を帯びて、自己を縛るのである。
 
 しかし、問題はある様に見えていても、実はナイのであって、必ず神が消して下さるのである。その事を悟り、神に全託するその時、吾らは全くの他力の信仰に入り、自信と安心に満たされ、見えている問題は自己の力を訓練する練習台となり、迷いや悩みも悟りへの基礎工事となり、我らは力をつけ、悟りに至るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-01-18 12:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)