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生長の家の生き方

 生長の家には生長の家の生き方というのがある。人やものごとの光明面のみ見るとか、今に全力を尽くすとか、取り越し苦労しないとか、朗らかに笑って生きるとか、そんな事である。それらの生き方は生長の家の人は良く知っていると思うが、聖典「生命の実相」第七巻、生活編に示されている。これは具体的にどうしたらいいかという事が書かれているから、読み手に取っては取っ付き易く、「生命の実相」全40巻の中で一番、信徒の間で読まれている本である。

 しかし、以前にも述べたが、榎本恵吾先生は「人間神の子完全円満」の自覚を得る事をおざなりにして、手っ取り早く、この七巻に飛びつくというのは感心しないと仰っている。要するに人間神の子という中心自覚が無いのに、表面的なノウハウのみ知って、安易にそれをやろうとするのでは自己啓発セミナーと大差無いという事になってしまうからである。
 生長の家の生長の家たる所以は一重に「人間は神の子であって、完全円満である」という実相哲学が中心にあるという事である。そこから、副次的に生長の家の生き方が後から出て来るのである。だから、生長の家の信徒たるもの、この人間神の子の真理の探究を断じてなおざりにしてはならないのである。

 生長の家の生き方というものは人間神の子の中心自覚から自然発生的に出て来るものである。そういう中心自覚なしに表面的にテクニック的に生長の家の生き方をやろうというのはそれは吾らの中の神が行っているのではなく、表面の我(が)がやっているから、おかしな事になって来るのである。そして、光明面のみ見て、暗黒面を見るべからずという日時計主義の生き方でもこれを我(が)が表面的にやって行けば、その事にとらわれてしまって、自分の本来やるべき事であるが、なるべく触れたくない事をおざなりにして、安易な事しかしない様になったり、目の前に問題を起こしている相手が現にいるのに、それに対して、適切な注意も出来なくなったりするのである。

 臨機応変という事がなくてはならないのである。人間神の子完全円満という中心自覚のある所、自然発生的に生長の家の生き方が出て来るようであれば、一つの型にとらわれず、自由自在に臨機応変に人事処に応じて、生長の家の生き方を駆使出来るのである。
 その為には自分の中に神の国があるという事を自覚しなければならぬ。その為に真摯な求道的姿勢というものが是非とも必要である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-29 13:01 | 信仰 | Trackback | Comments(7)

自分の迷いの映しに怒る

 我々は過去に何か、侮辱とかひどい目に遭った事がある場合、それを思い出した時に憤慨するという事がある。そのひどい目に遭ったその時はそうでもなかったのが、後からそれを思い出すと、怒りが沸々と湧いて来て、憤りで一杯になるのである。そして、相手にその時、ああ言い返せば良かったとか思って、悶々とするのである。

 こういうのを持ち越し苦労と言うのであるが、そんな事は全然無いという人はいいが、私の場合はそういう事が多かった。私は去年は本当に自分の運命のケミカライゼーションの年で、人間関係的にも身体的にも不調な事がよく起こった。

 しかし、生長の家の生き方は日時計主義であり、過去のつまらない思い出をことさらに思い出して、ああだこうだ思わない生き方である。

 この現象世界というのは具体的に存在する世界では無いのである。それは生長の家の根本真理であり、それでは何かと言ったら、それは自分の心の影という事であり、そうでないものは一つもない。私は人からああ言われて憤慨したというが、それは元々自分にこの世界に対して、憤慨する思いがあったのをそれが意地悪な事を言う相手という映像として自分で映し出したに過ぎない。

 要するに人間は世界観というものが大事であって、この世界は素晴らしい神の世界で悪いもの、悪い人は一人もいないと思っていれば、その通りの世界が自分の目の前に展開して、ああ、この世界はやはりいい人ばかりだ、有り難いと思うのである。しかし、その逆であれば、自分に接してくる人は意地悪な酷い人ばかりである。

 だから、あの時、あいつはオレにあんなひどい事を言った、あいつの言っている事は全く理に合わないひどい事で、今度遭ったら、それをあいつに分からせてやろうとか言い返してやろうなんて考えるのはナンセンスである。
 それは具体的に存在する悪い人、理不尽な事ではなくて、全部、自分のこの世界は悪い人がいる、憎らしいと思う自分の迷いの映しに過ぎないものである。だから、そんな本来存在しない自分の言わば、迷いの映しに対して、それをつかまえて、怒ったり、憤慨したり、分からせてやろう、ギャフンと言わせてやろうなんて考えなくていいのである。
 
 自分が変わればいいのである。自分の世界観が変わって、この世界には悪い人は一人もいないという実相の悟りが出て来れば、そうしたひどい事を言う人、理不尽な事は自消自滅する。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-28 12:31 | 社会生活 | Trackback | Comments(2)

講話は自己の生命でする。

 私は生長の家の地方講師である。月に1,2回は県内の生長の家誌友会に出講して講話をする。
 私は講師の資格を青年会時代に取得した。24歳位の時である。その後、青年会の委員長や光実議長等を拝命して、見真会や中高生練成会等で講話をさせて頂いたりした。そうした所で講話をするのは話のプロでもない者に取っては本当に大変な事であった。テキストを徹夜で読み、原稿を完璧に作っていって、それを何度も読んで、完全に自分の頭に叩き込んで講話に臨んだものである。そうでないと不安で仕方が無かったのである。

 しかし、自分の言葉で話すのではなく、原稿の丸暗記であるから、記憶が一瞬飛ぶともう訳が分からない状況になり、頭が真っ白になったりして、言葉が出て来ないなんて事もあった。その苦しさは経験した者でなければ分からないと思う。

 私はそうした経験を積む内に講話は原稿の丸暗記では駄目で、自分の言葉で話さなくてはならないという事を発見した。要するに生長の家を学ぶ内に生長の家の真理は自分の外部にあるのではなく、自分の中にあるという事を悟り、その自分の中にある真理を自分の言葉として語れば良いという事が分かった。それは別の言い方をすれば、神の国は自分の中にあると言う事である。

 さて、そうした事が分かり、私は相愛会の年齢になり、毎月、誌友会で講話する様になった。講話の前は講話の準備は一通りするが、実際の講話になれば、百%自分の中の真理に信頼して、そこから自ずと湧き出る言葉に任せて、講話する様にした。そうしたら、自分でも驚くような深い真理の言葉が自ずと出る様な事も良くあり、そんな訳で私は講話には自信があったのである。

 しかし、去年の6月位からどうも私は講話で時折、話に詰まる様になって来た。昔の最悪の時と同じ状況が出て来たのである。
 私はそもそも生来、頭で全部分かろう、分かろうとう性癖があり、仕事の事でも、何でも自分の頭脳で全部分かっていたいという性格であったので、それで四苦八苦する部分があった。
 しかし、それは間違いで、我々は何かを判断したり、発言するのに頭で全部の事を分かる必要は無く、自己の中の無限の叡智の中からその時、必要な事だけを切り出してきて、頭脳に再生すれば良いのである。
 要するに何かを分かるとか理解するのは自分の中の無限の叡智がするのであって、我々の頭脳はその時々に必要な事だけを断片的に切り出して来て、それで色々発言したり、行動すれば良いのである。それを全部、自分の頭で分かろうとか思うから所謂、考え過ぎという間違いを犯してしまうのである。

 私は昔からそういう頭脳で分かろうという考えで生きて来たから、それがいつの間にか講話をする時にもその癖が出て、自分の中の神様にお任せしている積もりが実は自分の頭脳でやろうとしていたのである。だから、神から無限のインスピレーションを受ける事が段々出来なくなり、講話中、話に詰まるという症状が出て来ていたのである。 
 講話は頭脳でするのではなく、自己の生命でするのである。それは取りも直さず、自分は神に生かされているという自覚である。神に生かされている、神に導かれていると自覚しないから頭脳という我(が)で生きようとしていたのである。
 私は神に生かされているという事を悟りはしたが、それがまだ観念的なものであり、実際の生活の中の行動ではそれが行動化されず、自分の頭脳で生きよう、話そうとしていたのである。
 だから、段々講話が下手になって来たが、私は講話で上手く、話せなくなるという失敗体験をする中で自分が神に生かされ、導かれているという真理の悟りが観念的なものからより実際的なものとして、出て来る様になったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-27 13:16 | 潜在能力 | Trackback(3) | Comments(2)

迷いは悟りの基礎工事である。(2)

 「神、真理を告げ給う」という御本がある。これは生長の家聖典「生命の実相」より後に谷口雅春先生により書かれた御本である。これは生長の家の神様が谷口雅春先生を通して、真理を説かれた書であり、御本の中で「私」というのは雅春先生の事ではなくて、神様の事である。

 この御本は私が思うに真理の精髄が書かれており、その中で「これだけ生命の実相などの本が世に出て、久しく、真理を理解する人達が多くなって来たから、究極の真理をそろそろ説いてもいいだろうと判断して、谷口雅春を通して、これからそれを説くのである。」という記述があり、それだけ深い真理が説かれているという事である。

 その中で「迷い」というものがどういうものかという疑問に神が答える所がある。神曰く「迷いは悟りの基礎工事である。」という事である。これは仏教用語で「煩悩即菩提」という言葉に相当する。
 要するに生長の家では「迷い」はナイと説く。ナイとカタカナで表現されているのはそれは実相世界、本当の世界には無いという意味であり、単純な有る、無いの無いではなく、本質的に無いという事である。だから、現象的には迷いも有るという事である。

 そのナイ迷いであるが、それをこの「神、真理を告げ給う」では「迷いは悟りの基礎工事である」と書かれている。
 生長の家で迷いナシ、病ナシと言われ、迷ったり、病気になっているのはお前の心掛けが悪いんだ、みたいに言われる事もあり、自分でもこんな迷いがあり、利己主義な自分は仕方のないものだと自分に絶望する事もあるだろう。
 しかし、それでは何故、元々完全円満の神の子である人間がそんな心掛けが悪くなって、迷いとか病に苦しむのかと言う疑問を皆、持っていると思う。その疑問に直接明瞭に解答したのが、「迷いは悟りの基礎工事」という答えである。

 この我々の人生では色々な経験をするが、その中で失敗経験が大多数を占めるのであるが、これは全て、その失敗経験から学ぶ為である。学んだら、そこに悟りが出て来るのである。我々の人生は一つの学校になっており、そこで様々な失敗経験、即ち迷う事により、大事な事を学ぶ、即ち生命の実相を悟る事にその目的がある。
 全ての失敗は本当の失敗ではなく、それは学びであるのである。

 実相は悟りしかない。迷いはナイ。その悟りとは実相そのものである。吾らは神の子である。神の子であるという事は吾らの本体は悟りそのものであるのである。今、このままで。そして、この人生というのは我々の中にある悟り、即ち実相が自分で出て来る過程である。それを現象的に見れば、先ず、迷いというものが出て来て、失敗して、色々病とかに苦しむという形で現れる。しかし、その中からその問題について真剣に考え、全力で人生を生きる様になり、必死に道を求める様になる。その中で、良き教えや師に出会い、そのお陰で人生の真理を知り、その中から悟りが出て来る。それが「迷いは悟りの基礎工事である。」という事である。

 私は生長の家を幼い時から学んでいたが、私は一旦、その求道生活に行き詰まり、ひどい迷いの中で苦しんだ。しかし、その迷いがあったからこそ、必死で真理を求め、榎本恵吾先生にも導かれ、現在の「一切の生命は今、そのままで救われている。そのままで良い。」という大安心の悟りが出て来たのである。私の人生は私の中に既にあった悟りが自分で出て来た過程である。
 だから、我々の人生は如何なるものであっても、それは我々の中の実相が自分で出て来るかけがえのない人生なのである。それを榎本恵吾先生はいつも「あなたの人生は百点満点です。」という言葉でそれを表現されていたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-26 13:45 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(2)

アシュリー

 先週の土曜日、テレビでアシュリーというカナダ人の少女のドキュメンタリーがやっていた。その少女は染色体の突然変異により、老化が通常の10倍のスピードで進んでしまうプロジェリアという、世界に50人位しか居ない奇病であるという事であった。番組前にテレビコマーシャルで度々、やっていたから、知っている人も多いと思う。

 私はそういう病気があるのは何となくテレビ等で知っていたが、正直言って、私はそういう人達に対してはちょっと奇異な目で見る位の意識しか無かった。テレビはそういう珍しい病気の子を取り上げる事によって、視聴率を上げようとしている位の認識しかなかった。
 しかし、その番組のコマーシャルでアシュリーちゃんが「神様が私にこういう病気をお与えになったのは何か意味があると思う」と発言しているのを聞いて、ちょっと興味を覚えた。しかし、同時に生長の家で良く言われる事だが、病気は神様はお造りになっていないから、この子の言っている事は間違いだと言う気持ちも何となくあった。

 数日後、書店に行ってみると、例のアシュリーちゃんが書いたという本が平積みされていた。私は何となくそれを手に取ってパラパラと数ページめくって、読んでみた。そうしたら、すぐにこれをレジに持って行って購入している私がいた。

 私は感動した。この子は本当に素晴らしい子である。この子はプロジェリアという病気で無ければ良かったなんて一度も思った事が無いという。これは前述した様に、神様がこういう病気でも力一杯与えられた人生を生きるって言うことが如何に大事かという事を自分を通して、みんなに伝える為にこういう役割を自分に与えたんだと書いてあった。

 その後、その番組を観たが、重ねて言うが、本当に素晴らしい子である。現在、高校生だが、体力的に皆と同じペースでは授業は受けられないが、その中でも出来る限り力一杯、勉強していて、ペットショップでアルバイトもしているそうである。この子はペットの扱いが上手く、そこで重宝がられていた。
 小さくて細い折れそうな体で一所懸命、ペットの世話をしている姿は本当に全力で生きるんだという気概が感じられた。また、性格がとても明るく、一見すると老婆の様な風貌なのだが、友達も多く、ことある毎に良く笑うし、おしゃれもする。そして、将来は獣医になりたいという夢まである。

 この病気は大体、平均年齢13歳だそうだが、アシュリーは16歳であり、ここまで生きられたのが有り難いと母親は言っていた。
 現在、アシュリーは体力がどんどん弱っており、食事も以前より取れなくなって来ているという事で時折、激しい胸と背中の痛みが襲う。そういう時はじっとして痛みに耐えている。その痛みは十数分位続くそうだが、じっとししていればその内、痛みは無くなるから、どうという事は無いと言う。そして、その痛みがそれでも治まらない時は天に召される時だとアシュリーは言っている。

 アシュリーちゃんは自分の生命が死んでも死なない永遠のものであり、自分がこういう体に生まれたのは前述した様に短い人生でも、障害があっても力一杯生きる事が如何に尊いかと言うことを人々に示す使命を神様に与えられているから、自分は全然不幸じゃないと言うのである。そして、一切愚痴や不満を言わず、あらゆる事に悦びを見出し、家族みんなに感謝して生きている。この子は本当に素晴らしい高級霊である。

 私は実は先週の土曜日の夜、誌友会で講話したが、この日はちょっとこけてしまった。私は講話には自信があったから、それだけにショックは大きかった。でも、その日の昼にこのアシュリーちゃんの本を丁度、買っていて、誌友会前から何となくパラパラと読んでいて、誌友会から帰って、家で丁度、アシュリーちゃんのテレビを観たのである。
 それでどれだけ勇気を与えられたか分からない。どんなに現象が不完全でも失敗してもそんな事に負けないで全力で生きる姿に私はすっかり元気をもらったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-25 13:08 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

審く心

 先日、ビューティー・コロシアムというテレビ番組を観た。それは容姿に悩みを持つ一般女性が登場し、散々、その容姿がどれだけ酷いか、そして、その為に今までどれだけ周囲から虐げられてきたかという事を再現フィルムでありありと再現して、これでもか、これでもかとその人の容姿の酷さを視聴者にアッピールし、その本人はそれでどれだけ悩んで来たか、悲しんで来たかという事を切々とスタジオで吐露するのである。
 
 そして、それを聞いた司会の和田アキ子がその悩みを解決すべく、選りすぐりの美容のプロフェッショナル達にそれを託し、彼らの控えている部屋にその女性の座っている椅子が自動的に移動し、そこで美容師のプロ、エステのプロ、ファッションのプロ、そして美容整形のプロ達が寄ってたかって、あなたの髪やファッションはこうした方がいい、あなたはこういう整形手術をしたらいいとアドバイスし、その後、女性は彼らの手により、手を施され、その後、またスタジオに登場し、その女性がどれだけ以前より美しくなったかを披露する。そして、司会の和田アキ子始め芸能人のゲスト達がその変身ぶりに感嘆の声を上げるのである。

 美容整形を施された女性は皆、一様に美しくなり、表情も整形前よりずっと明るくなり、これから恋をしますとか何とかそうした女性としての希望に輝いた決意をして、皆で良かった、良かったと言って、番組は終わるのである。

 それを妻と一緒に観ていたが、妻は良かったんじゃないかと言ったが、私は反対意見を言った。 そんな肉体を表面的に治した位で根本的な救い、解決にはならないと言うのが私の意見である。

 本来、この肉体というのは本人の心の影であるから、その人の心が変われば、容姿も変わるのである。その人の心が内側から美しくなれば、整形なんてしなくても段々、その美しさが内側から出て来るものである。

 肉体などという具体的な存在があるのではなく、それは自分の心、自覚の反映に過ぎない。従って、自分の容姿の欠点に引っ掛かれば、それが肥大化して自分に感じられ、それを肉体という映像に投影して、醜い、醜いと思うのである。そして、他人は自分の心の影であるから、自分で自分の肉体のここが醜いと思っていれば、他人もそれを指摘して来る。
 自分の容姿が醜いと思っている人は自分の実相の美しさに気付いていないのである。だから、そういう人が整形して、自分の顔の気に入らない部分を治した所で心が変わっていないから、また他の部分が気に入らなくなって来て、また、整形するのである。
 
 要するにそれは根本的に理想像を自分の中ではなくて、自分の外に求めているのである。理想像とは神の国である。神の国即ち実相を自分の中に既にあると自覚しないで、自分の外、即ち、肉体という現象に求めているのである。
 「物質に神の国を求める者は永遠に神の国を得る事あたわず」とは聖経「甘露の法雨」にある通りである。そういう人は理想の顔を求めて、これでもかこれでもかと整形を繰り返す。
 しかし、自分の生命の実相の美しさ、素晴らしさを自覚している人は自分の自覚の反映である、肉体は美しくなるのである。
 
 同様に他の人に完璧を求める心があると相手の欠点に引っ掛かり、それを自分の心の中で肥大化させて、自分にそれを見せるのである。そして、いつも相手を審き、責め続けるのである。自分の周囲に嫌な人、困った人が絶えないのはそういう自分の心が原因である。そういう心はまた自分自身にも向けられる。

 現象即ち、外の世界に完璧は無い、理想は無い。そんな所に理想を求めず、自己の中にある完全円満の生命の実相に目覚めるべし。そうしたら、その自覚の反映として、自分自身も素晴らしく感じられるし、相手も素晴らしく感じられる。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-21 12:49 | 社会生活 | Trackback(3) | Comments(0)

生かされている。

 人間はパニックになったり、慌てる時というのはどういう時かと言えば、喫緊の問題が出て来た時、どうしたら良いか分からなくなる時である。それはどうしてそうなるかと言えば、自分でこの問題を何とかしなくてはならないと思うからである。しかし、自己の我(が)の力などたかが知れている。また、常に自分で気を張って、悪くならない様にしなければならないというのは途轍もない不安である。

 以前もここでご紹介したエピソードであるが、宇治の練成会にある男性が練成を受けに来た時の事である。その男性は悲惨な運命に打ち砕かれ、人生がほとほと嫌になっていたそうで、座談会の時、もう自分はほとほと生きるのが嫌になったと吐露したそうである。その時、その練成で指導をされていた榎本恵吾先生は「僕も嫌だよ」と仰ったのである。

 そもそも人間は生きるのではなくて、生かされるのである。その事に目覚める事が悟りの道、常楽の道である。それが生長の家の神髄である。生長の家の招神歌にはこの事が明確に歌われている。「吾が生くるは吾が力ならず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神の生命、吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」と。

 自分で生きると思うから焦るのである。どうしていいか分からなくなるのである。全ては神によって生かされているのである。問題も神によって消されているのである。吾れの信仰も神により支えられているのである。私は要らないのである。それが全託という事であり、実相独在という事であり、そこに感謝がある。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-20 12:43 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

やりたい事をやる

 生長の家副総裁、谷口雅宣先生は山梨県に山荘を持っていらっしゃって、たまのお休みの時に奥様の純子先生と一緒に自然を満喫に行かれるそうである。
 純子先生は純粋な方でそうした事にいささか、懸念があったそうである。要するにそんな事をしている暇があったら光明化運動しなくてはならないのではないかという懸念である。そうしたら、雅宣先生はその純子先生の懸念を察し、「人間はやりたいと思う事を素直にやっていいんだよ」と仰ったと言う。

 私は生長の家を学び、活動とかする様になってから、自分の時間も資金も全て、光明化運動に捧げなくてはならない、そうするのが本当だろうという気持ちでいた。それは私の青年会時代であったが、私が青年会に入った頃は所謂、理想世界誌百万運動という運動の名残が残っていて、青年会の研修会に行くと、皆、そこで千部一括を決意したものである。私は当時、学生だったので300部一括をしたが、その為にせっせとアルバイトしたものである。
 私は人間神の子無限力の生長の家の教えを知ってから、自分の無限力を開発したくてしたくて仕方がなかった。だから、英会話とかテニスとか野球を本当にしたかった。しかし、それをやろうとすると「そんな暇と金があったら、光明化運動に使わなくてはならないのではないか」と言う声が耳元でした。しかし、相変わらず、ちょこちょこやっている内に私は自分を責める気持ちから、ストレスが溜まり、挙げ句の果てはノイローゼになってしまった。しかし、それが縁で私は宇治の榎本恵吾先生の元に導かれる事になり、救われ、生長の家の神髄という常楽に到達する事になるのであるが。

 先生は私の願い、テニスとかそうした趣味を大いにやりなさいと仰った。私は生長の家の先生にお墨付きをもらったと思って、大いに悦んだし、また心がどんどん軽くなっていった。それまではテニスとかその他の趣味の事を考えたり、やったりするとそれだけで自分を責める心、罪の意識がつきまとったからである。

 先生は「今の自分の願いをそのまま実行しなさい。それは神の願いだよ。自分の今のそのままの願いは我(が)の願いではないか、神の願いは愛他的な事だけなはずだから、自分がこうなりたい、これをやりたいなんて、しかも趣味的な事を願うなんてまだ私の潜在意識は清まっていない、神想観して愛行して、自分の心を清めて、神の願いが自分の願いになる様に努力しなくちゃならないなんて事は無い。今、そのままの自分の願いは自分の中の神の願いだよ。」と仰った。

 今の自分の判断、願いが神の判断、願いである。今、自分が完全円満であるという事はそういう事である。今はまだ、祈りで潜在意識が清まっておりませんので私の願いは我(が)の願いに違いないなんて事は無いのである。

 私の自分のそのままの願い、希望をずんずんやって行く事でどれだけ、真理を深く勉強し、その展開が出来、かつ色々な人に真理を伝えられているか分からない。このブログは正にそうした私の悦びの発露の場なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-19 12:37 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(2)

悪はナイ(5)

 生長の家の教えは「人間は神の子であって、完全円満である。」という事と「この現象世界は本当に存在するものではなくて、我々人間の認識が映っているものである。」という事である。

 我々は学校とか会社とかその他の団体組織に属して、社会生活を営むが、その中で「こいつだけは赦せん。こいつが居るお陰で組織がおかしくなる。その為に自分を含めた心ある人達が被害を受けるのである。」と感じる事があるのである。しかし、現在の自分の現象の状態が自分の過去の念の残像であるのと同様に自分を取り巻く他の人達の状態も自分の過去の念の残像であって、消え行く存在しないものである。
 
 それなのにここにこういう悪人が居て、こういう悪さをしているからこれを何とかしなくてはならぬと悪を心でつかむと又、将来、悪人が我々の周りに出て来て、収拾がつかなくなるのである。

 だから「悪に刃向かうな」という言葉、教えがあるのである。悪人、悪は存在しないのである。自分の過去の念が現れているだけである。だから、放っておいて、自分の為すべき事をずんずんやって行けば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-18 12:42 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

無限力

 生長の家の根本真理は人間神の子完全円満という事である。そして、それを自覚すれば、我々の自覚の映しであるこの現象世界とか肉体にもそれが出て来るというのである。

 そして、生長の家を学んだ人は実相は神の子で完全円満であるかも知れないが現象の肉体にそれが反映されるのは神想観して自分の潜在意識を清め、その神の子の自覚を実生活に行動化するという手続きの後にようやく、自分の心の反映である肉体に実相の完全円満さが出て来た時であると思うのである。そして、大抵はその時に悦ぼうと思って、今はその時の為にせっせと毎日、祈ったり、愛行したり、訓練したりしているというのが実状だと思う。要するに悦ぶのは先の話で今はその為の準備期間であるという考えである。しかし、そんな事では何時まで経っても永遠に悦べる時など来ない。何故なら、今の他に時は存在しないからである。

 榎本恵吾先生は「今、自分が神様に生かされている事を悦びなさい。今、悦ばなくて何時、悦ぶんですか。」と強く説かれていた。大抵は今はまだ自壊作用の時だから、今はまだ自分の潜在意識が清まっていないからと言うことで今はまだ幸せでない、まだ悦べない、でもせっせと行に励んで将来、悦べる様にせいぜい努力致しましょうと思っている人が多いと思う。

 生長の家は感謝の教えである。感謝というのは今、自分が完全円満、無限なる神に生かされているという事の悦びの表明に他ならない。そして、生長の家は「今」の教えである。我々が完全円満、無限力であるというのは潜在意識を清め、その映しが現象に出て来る未来の事ではなくて、今、正に今の事なのである。それを「久遠の今」という。現象の過去、現在、未来を超えた実相の「久遠の今」である。

 谷口雅春先生が生長の家を始められたのはその「久遠の今」に目覚められて、「今、立て!」の啓示をお受けになったからである。その時までは先生も自分は実相は完全円満、無限健康であるが、現象はまだ貧しくて、健康にも自信が無いと思っておられたのである。しかし、それでは永遠に生長の家を始める事など出来なかったのである。神により、「今、既に無限力は与えてある。無限の資材は与えてある。今、立て!」という事でその通り、すぐ立って、生長の家を始められたから現在の生長の家が地上に存在するのである。

 我々は現象的には色々ある。肉体が調子が悪いことも。力がどうしても出ない事も。体に障害のある人などはそれは切実であろう。しかし、現象はナイ。それは自分の過去の念の残像に過ぎない。その奥の理念なる神の生命なる実相しかない。そしてそれは遠い未来ではなく、今の事なのである。
 我々は今、無限力なのである。今、完全円満なのである。現象の肉体など過去の自分の念の残像に過ぎないもので今、それは存在しないのである。そんなものにとらわれずに今、自分が完全円満、無限健康であると信じて、立ち上がるべし。全力を尽くすべし。
 現象的に力が思うように発揮出来なくてもいいのである。それは時期が来れば、必ず出来る様になる。現象に実相が出て来るのは時間的経過の中で段階を追って出て来るからである。そんなものにとらわれずに現象ナシとして、今、自分が生かされているという事を信じて、自分の出来る所から全力を出して、立ち上がるべし。それが今、自分が神の子完全円満であるという自覚である。そして、それが今、生かされているという事を悦ぶという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-02-15 12:58 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)