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生かされている(3)

 吾々が生きているのは我(が)が頑張って、工夫して、努力して、自分で自分を支えて生きているのではない。神に生かされているのである。その神というのは全知全能である。その全知全能、無限力、完全円満である神に吾らは今、直接、つながり、生かされているのである。だから、吾らは如何なる時も乏しいという事も、困るという事も無いのである。それが歌われているのが「吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」と唱える生長の家の招神歌(かみよびうた)である。

 その生かされているというのは実相の話で現象面では中々そういう訳には行かず、その事を祈って、愛行する中、やっとその実相が出て来て、生かされる様になるというのではないのである。
 吾々は今、そのままで迷っていようが、潜在意識が清まっていようがいまいが、このままで神に生かされているのである。その迷いや紆余曲折さえも神の悟りに通じる道であるからである。だから、神の道は常楽の道であり、全託の道であり、かつそれは峻厳なものである。

 全ての経験があの時、ああいう困難な思いをしたけれども、それが却って良かった。その事により、表面的物質的な繁栄にはすぐ結びつかなかったが、結局、自己の内在の無限を自分は発見する事が出来たのだと言う事はいくらでもある。

 生かされているという事は別の言い方をすれば、実相は自分で出て来るという事である。実相は自分で出て来るから、吾々は必要な時に必要な導きを得られ、力と勇気を自ずと出す事が出来るのである。それを何とか自分の力で自分の工夫で自分の努力で実相を引き出さなくてはならないと思う所、自分の迷いとか弱気とか能力の無さとかを自分でつかみ、これを良くしなければならない、強くしなければならない、上手い方法を探し出さねばならない、考え出さなくてはならないとなる。その問題を心でつかんで良くしようという心が自らの無限力を自ら縛る行為である。それは実相が自ずと出て来るという事を知らず、神に今、生かされているという事にまだ目覚めず、問題を良くしよう、悩みを解決しようという心が問題をつかんでいる為に心の法則が働いて、今、現に吾々は無限の神に生かされ、導かれているのに自らそれに対して、目を閉じて、自分を良くしようと自分を縛り付けて、苦しい、苦しいと言っているのである。それが聖経「甘露の法雨」に示されている所の「病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を与えたるは吾らの悪夢にして、吾らが夢中に悪魔に圧えられて苦しめども覚めて観れば現実に何ら吾らを圧える力はなく、吾と吾が心にて胸を圧えいるが如し。」と言う事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-31 13:02 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

全託こそ力が出る

 生長の家の信仰では全託という事が大事であるとよく言われる。全託とは神に全託という事であり、文字通り神様に全部お任せするという事である。神こそが全ての全てであり、それは全宇宙に満ちて、完全円満、無限力、無限の智恵、愛、生命、供給、悦び、調和であるのである。
 従って、神に全託すれば、今すぐそのままで完全に全てが上手く運行する。その全託というのは思い切りが必要である。結果がどうなろうと全てを神にお任せし、自らの身を捨てる覚悟がどうしても要求される。何とか身を保とう、メンツを保とうという保身の心では駄目である。
 しかし、生長の家の入門の頃は自分の問題を何とか信仰で良くしようとこれでもか、これでもかと行をやるが、それでは駄目である。それは私の行で私の信仰で、この私の問題又は病を消すのであると懸命になっているのである。私が、自分がという事で何か対象物を心でつかみ、それを何とか良くしようとしているのは神に全託しているのではない。それは神にお任せ出来ないで、私が、自分が何とかしようという心である。

 この私がオレが何とかしよう、良くしようという心は自分の内在の神の子完全円満、無限力を自ら縛る心である。自ら縛れば、いくらそのままで完全円満であっても、その表現は自縄自縛で力を全然、発揮出来ない状態にならざるを得ない。
 吾々の不完全さ、不幸、病というのは一重に自分の中の無限力が出て来ていない事に由来する。そして、その力を縛り付けているのは自分以外に何か悪魔みたいな恐ろしいものが居て、それが外側から吾らの力を縛り付けているのではない。それは吾らが自らの心で縛り付けているのである。だから、吾らが病気他の不幸に見舞われているのは自分自ら自分自身を縛り付ける事によって起こっているのである。その縛りというものは繰り返しになるが、自分を良くしようとして、自分及び自分の問題を心できゅうっとつかむ事である。

 それを解放するのが全託である。自分のこころのつかみを自ら開き、放ち、そして、本当に神に全託するのである。そこにこそ、本来の吾らの無限力が出て、全ての不幸、病、無能力は消え、無限力がどんどん出て来る。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-28 12:33 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

途中で諦めない

 この人生は人生学校である。それは何を学ぶかと言ったら、自己の内部神性を学ぶのである。吾々は人生に生まれてきて、色々な経験をする。その経験は中々困難なものが多く、そして、失敗経験も数多い。そして、その中では悩みや不安もあり、病になる事もある。しかし、それ全て、自己の内部の神の国即ち自己の神の子完全円満の実相を発見する為の学びの作業である。

 自己の内部の神の国、神の子完全円満の実相は何も付け足さなくても何も工夫しなくても何も改造しなくても何も努力しなくてもそのままで完全円満である。そのままで無限力である。聖経「甘露の法雨」に「かの天人が天界を遊行するが如く、また海魚が水中を遊泳するが如く、光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。」とあるが吾らの真の姿は正に今、そのままでそういう素晴らしい存在である。
 それなら何故、この世界にそういう状態でなくて、苦しんでいる人間が多いかと言えば、それは一重にその自らの本当の姿を発見し得ていないだけである。その発見する作業、学校がこの人生学校なのである。

 だから、吾らはこの人生学校において、自分に巡って来る事から逃げないでぶつかって行けば、必ずその常楽の自らの実相を探し当てる事が出来るのである。悩みとか迷いの実体というものは無い。それは自分の心の眼がまだ啓いていないだけである。しかし、それは人生学校を進む中で自分の不悩不苦、常楽、全知全能の生命の実相を探し当てる事で必ず目が啓き、悩みや不安や迷いは消える時が来る。
 だから、人生苦しくても訳が分からなくなっても途中で決して諦めてはならない。それは発見に至るまでの過程であり、模索の状態であり、それを過ぎれば必ず悦びの発見がある。その発見の直前が一番苦しく、もう投げ出してしまいたいと思う時なのである。正に迷いは悟りの基礎工事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-27 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

神様が全部やって下さる(2)

 吾々は何か緊張を強いられる事をやらなくてはならない事がある。そんな時に私は出来ませんからとか時期早々ですからとか言って、逃げるのでは何時まで経っても自己の実相を掘り出す事にならない。だから、吾々は何か自分に巡って来た事は逃げないで正面から受け止める積もりで体当たりするのが良い。そうして行けば、吾らは自己の完全円満の実相を発見する事が出来、無限力が出て来る。

 ところで生長の家でも講習会とか全国大会で体験談をやってくれとか、青少年練成会で講話をしてくれとか頼まれる事がある。そんな時にプレッシャーを感じて、逃げていたのでは駄目でハイやりますと素直に受けるのが良いのである。
 しかし、受けては見たものの段々その発表とか講話の時間が近づいて来るに従って、プレッシャーがつのり、逃げ出したくなる気持ちになるのも事実である。しかし、それは当然である。そうしたプレッシャーの中でも挑戦する事で初めて生長があるのである。そして、何度も発表の練習をしたり、また、その時、緊張しない為の心の持ち方とか盛んに研究したりして、何とか失敗しない様に皆の前で恥をかかないように努力するのである。

 しかし、この様な努力はやっても無駄である。吾々が生きているのは吾々が生きているのではなく、神が吾々において、生きているのである。だから、吾々のしなければならない事は百%、吾々の内なる神がやって下さるのである。それを知った時、吾々はプレッシャーから解放される。何とかあがらない様に緊張しない様に失敗しない様に懸命に努力するのではない。そういう良くなろう、神らしくなろう、上手くやろうという努力は無駄な努力である。良くなろうとか、神らしく上手くやろうと我(が)が努力するのではなく、吾々は今、そのままで神なのである。従って、登壇したらあがって、緊張して、しゃべれなくなっても良いのである。上手い事が言えなくても良いのである。失敗しても良いのである。それも全部、吾が内なる神が自分で出て来る過程である。吾らが神でなかった事は一度も無いし、これからも無いのである。
 その事を榎本恵吾先生は「そのままでよい」と仰ったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-26 13:04 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今、出来る(4)

 谷口雅春先生が生長の家を始められる時のエピソードとして、「今、立て!」のお話がある。雅春先生は長年の血の滲むような求道の末に遂に「人間神の子、完全円満、実相独在、現象ナシ、肉体ナシ、現象や肉体は心の影」という生長の家の根本真理を悟られたが、それを伝える為の実際行動を中々起こせずにおられた。それは何故かと言うと、その光明思想を伝えるには文書伝道の費用がこれだけかかる、そして、当時サラリーマンをされていた先生の肉体的負担も相当なものであるので、当時、経済的にも健康的にも自信の無かった先生は生長の家の運動を立ち上げるのを躊躇せられていたのである。

 そして、自分は実相は完全円満、無限健康、無限力であるが、現象的には過去の薫習が残っていて、まだ金銭が足りない、健康も自信が無いから、生長の家の信仰を持つ事によって、徐々に経済的にも肉体的にも豊かに健康になるだろうから、そうなった暁に生長の家の運動を立ち上げようと思って、せっせと貯蓄をされていたのであるが溜まったと思ったら盗難に会われ、その多くを失ってしまう。そこでまた一からやり直そうと思って、またせっせと貯蓄して、もう大部溜まっただろうと言う時にまたもや盗難に会われて、すかんぴんになってしまうのである。その時、先生は悟られたのである。「今、立て!」と。しかし、先生は尚、内なる神にこう反論された。それは「私は実相は完全円満、無限健康、無限供給なのですが、現象的にはまだその信仰が形に現れていないのでまだ不健康で貧しいんです。」と。それに対して、先生の内なる神の声は「無限供給は既に与えてある。無限健康は既に与えてある。現象はナイ、肉体はナイ。今、無限健康であり、無限供給であり、無限力である。今、立て!」と厳かにそう述べられたのである。そして、先生はその声に素直に従われて、その日からすぐ生長の家を興す準備をされたのである。そして、今日の生長の家がこの世に存在するのである。

 この話は生長の家の信徒に取っては有名な話であろうが、吾々はこの事は自分自身に置き換えて考えなくてはならないのである。
 吾らは実相は現象と違うと教えられる。そうすると実相は完全円満であるが現象は過去の迷いの念が現在、現れているものであるから、まだ、不完全だ、不健康だと思う。そして、だが今は生長の家の信仰を持っているから、将来それが徐々に現れて来て、私も現象的に段々健康になり、経済的にも豊かになるだろうと何となくそう思っているのである。その様に健康になったら、能力が出て来たら、頑張りましょう、与えましょう、実際行動を起こしましょうと思う。

 しかし、吾らは今、そのままで完全円満で無限力であるのである。その力は今、たった今、自分がその気になりさえすれば、使えるのである。これから不完全なものが訓練によって、完全になるのではない。今、立てるのであり、今、出来るのであり、今、与えられるのである。現象はナイ、肉体はナイのである。その出来る生命が動き出して、ますます出来る様になるのであり、その自覚のある所、自ずと生長の家の生き方が出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-25 12:57 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

如何なる経験も全て善し

 吾々は神の子である。神の子完全円満である。そして、この人生はその無形なる内なる完全円満さを表現する為にある。そして、また同時にその表現の為の学びの場でもある。
 そして、その学びはどの様にされて行くかと言ったら、人生で色々な経験、特に失敗経験をする事により、自己の中の完全円満さ、無限力を発見して行くという過程を踏むのである。だから、人生とは表現の悦びの場であると同時に厳しい学びの場である。そして、吾々の全ての人生経験はこれ、その自己の生命の実相を発見し、悟る為の無くてはならない教材であるのである。   
 だてに失敗したり、厳しい人生を送っているのではない。従って、この人生は表面的に条件の良い学校に入って、有名な安定した就職先に就職して、条件の良い結婚相手と結婚して、適当に幸せな家庭を築いたらそれで良いというものではない。そんなものは吾々の肉体が滅びる時が来たら、全て、無になるのである。否、物質はナイのであるから、今そのままでそれらの表面的物質的栄華は無なのである。

 本当に素晴らしい意義ある悦びの人生というものは内に無限なる神の国を発見する人生である。そして、この人生において、吾々に巡ってくるあらゆる経験は一つ残らず、この内なる宝を発見する為に必要なものである。

 だから、どうしようもない時はどうしようもない。それはいくら努力しても祈っても愛行しても、どうしようもない時もある。私は生長の家をやっていたのに信仰に行き詰まり、強迫観念にかられて、一年間不眠状態が続いたのである。あの時は正にどうしようも無かったのである。しかし、そのどうしようもない事が大切な事を教えてくれているのである。
 そして、私はそうなったが故に榎本恵吾先生の元に導かれて、至上の生長の家の常楽の真理に触れる事が出来たのである。

 今でも私はたまに迷いが出て、心が乱れる事もある。そうなると如何なる人生教訓も生長の家の生き方や心の持ち方を工夫して見ても、その状態を根本的に解決する事は出来ない。しかし、現在の私はそういう時でも神が自ずとそうした迷いや心の乱れを消して下さる事を知っている。そうして、「そのまま」でいると自ずと悟りが出て来て、心が晴れるが、その時、以前よりまた真理の理解と悟りが進んでいる事が分かる。その悟りの基礎工事になっていたのがその直前の迷いであり、心の乱れであるのである。
 だから、如何なる困難や迷いや失敗経験もこれ全て、貴重な価値ある悟りの基礎工事であると言う事が分かるのである。それが分かったら吾々にもう恐いものはひとつも無くなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-24 12:30 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

これで分かったなんて言うのは分かっていない

 かつて、谷口清超先生が講習会で仰っていたが、「私は悟りました」なんて言っている人は悟ってないと言う事であった。また、榎本恵吾先生も「私は無限を体験しました」なんて言っても、それを体験した時点でそれは無限で無くなってしまうと仰っておられた。 
 
 私はテニスの打ち方、特にサービスでこのやり方が分かったと思う事が何回かあって、それでその通り打つと素晴らしいサービスが打てるので、自分はもうサービスは極めた、もう悩む事は無いなんて有頂天になるが、次にその通りやって見ても一向に上手く打てず、また落ち込むなんて事を良く繰り返した。その内、分かって来た事はこれでもう分かったなんて思う事自体が迷いなんだと言う事である。これが真理だ、この事がコツだなんて思うとその事だけにとらわれてしまって、他の動きがおろそかになって、結局フォームがバラバラになって上手く打てなくなってしまうのである。
 一つの事が分かるのは良いが、それだけにとらわれてしまうと駄目で常にその時、その場に応じて臨機応変にあらゆる技を使って行かなくてはテニスは上手く出来ないのである。

 これで分かったとか、悟ったとか言うのは迷いである。何故なら、吾々はそのままで今、既に無限に悟っているからである。私はこの事を悟ったなんていう悟りは相対的悟りであって、本当の悟りではない。そんな悟りを悟りだと思って、それを得たと言っては喜び、失ったと言ってはそれを追い求めるのは迷いである。
 吾々は今、悟りであり、無限である。従って、それは同時に無限の発展であり、常に進歩、生長し続けているのである。これで分かった、もう極めたなんて思う事はその無限の悟りを自ら限定しているのである。そして、天狗は芸の行き止まりという事でそれ以上、進歩生長しなくなってしまうのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2008-03-21 12:26 | 信仰 | Trackback(3) | Comments(0)

一番大事な事

 世の中には色々な宗教があり、また多くのセラピスト、心理カウンセラーがいる。そして、色々な人生上の困難、悩みに対して、こうしたらいい、ああしたらいいと色々アドバイスをくれる。生長の家も色々な先生が居て、信徒はそうした先生にこういう時はどうしたらいいか、どういう心の持ち方をしたらいいかという事を相談する。 
生長の家の本では聖典「生命の実相」第七巻「生活編」にそうした事が事細かに書いてあり、信徒の人はそれをバイブルとして、生活する上でどういう事をしたらいいかという指針をこの本から得ている。

 難しい教義よりもこうした具体的生活指針の方が取っ付きやすいし、また、実際どうしていいか分からなくなった時にこうすべしと書かれているから、信徒に取っては有り難い本である。

 しかし、それだけでは根本的救いにならない。どういう時にどうすべきかと言う事を本とか自分以外の先生に習った所で、自分が何をすべきかと言うことはその時、その場、又は相手、状況によって、色々変わるからである。
 例えば、人の良いところを観るというのでも、その事は大切な事だが、余り、それにとらわれると注意すべき時にきちんと部下とか子供に注意する事も出来なくなる。また、祈りが大事だと教われば、暴漢が今、正に自分の大事な人を襲おうとしているのに、「あなたは神の子でございます」なんていう事でその場に座って、ただ祈っているだけで何もしない事だってあり得る。

 要するに我々は善をなすのに、真理の実行をするのに人事処に応じ、自由自在にその時何をすべきかを瞬時に判断して、やって行かなくてならないのである。その為には自分の外の先生とか本ではなくて、自分の中の神に相談しなくてはならないのである。そして、その為には自分の中に神を直接、発見しなくてはならないのである。
 我々の人生はその自分の中にある神を発見する為の道程であり、学校である。それは人生において、自分に巡って来る課題を真剣に受け止めて、その中で全力を尽くす事により、必ず発見する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-18 13:05 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

 日本人が一番嫌うのは恥という事であると言われている。恥知らずなんて言葉もあり、これは相手を軽蔑する言葉である。特に江戸時代以前は武士というものは恥というものを一番忌み嫌ったとされ、恥をかかされたとか恥辱にまみえたという場合はそれを晴らす為にそれこそ命懸けになった様である。それはプライドを大事にしろという事であるが、吾神の子という自覚であるプライドを持つのは良いが、見栄や世間体を気にするのは良くない。

 宗教的な德の一つに忍辱(にんにく)というものがある。屈辱に耐える事が一つの大きな德とされているのである。それから、生長の家の神示の一つの「使命邁進の神示」に「人がどう思うかも知れぬと、そんなことばかり気に掛けている様な事では心の苦しみは絶えぬものだ。」というくだりもある。
 大抵の人はは世間体というものを気にして、中にはこの年になって、妊娠したなんて恥ずかしいという事で堕胎してしまう人もいるらしい。要するに人間は大体の傾向において、自分が他人からどう思われているかという事をとても気にする所があるのである。
 しかし、神示にある様に、それでは心の苦しみは去らないのである。

 私はテニスをやっているが、この二週間位、どうも調子が良くなかった。具体的に言うとそれはサービスである。サービスはある程度、極めた積もりであったが、それがどうにも調子が悪かったのである。
 それは友人同士の気軽なテニスの時には余り露呈しないのだが、テニスクラブでやる緊張を強いられるゲームの時にそれがもろに出てしまうのであった。調子が悪くて、スピードも出ないし、回転もかからないわで思うようにコントロール出来なかった。そういう試合を先々週の日曜日から、数試合重ねて来たが、その間、一緒にプレイした人達から、ちょっとあきれられた様な感じを受けた。要するに恥をかいたのである。

 しかし、昨日、一試合目を終わった時点で、自分のサービスの技術的問題点がパッとひらめいた。それはとても単純な事で私はサービスをこれから打とうという時、ラケットを引き上げて、頭の後にセットしていなかったのである。サービスはそもそも肘を使って打つのであるが、きちんとラケットが引き上げられて、頭の後にセットされていないとその動きが出来ない。そうなるとラケットを充分振る事が出来ないから、スピードも回転も十分に掛けられなかったのである。
 それが分かったら、それ以降はずんずんいいサービスが打て、試合にも勝つ事が出来る様になった。こんな事はテニスのレッスン書ではごくごく当たり前に書いてある事であるが、それが私の実際の技としてはやっと昨日、出て来たという訳である。しかし、それが実際に出来る様になるまではその前の最悪の失敗体験というものが私には必要であったのである。

 要するに我々が進歩向上するのは失敗体験をする事が不可欠であり、そうなると当然、人前で恥をかくという事が出て来る。だから、他人からどう思われるかなんて気にしたり、考えたりなんかしていたら我々はとてもこの世界では生きて行く事は出来ないのである。 
 また、そうした体験は自分が気にするほど、他人は後々まで覚えていないものである。要するに神様がそんな事も払拭してくれるのである。それを何時までも気にするのは自分が心でつかんでいるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-17 13:20 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

本当の宝

 「先ず神の国と神の国の義を求めよ。その余のものは汝らに加えられるべし。」というキリストのお言葉がある。即ち、「現世的な色々な御利益とか、幸福を求めないで、自分の内側の神の国を求める事をしなさい。そうしたら、現世的な御利益は自ずと後からついて来ますよ。」という事である。

 宗教や信仰の道に入る場合、大抵はこの御利益を求めて、入るのである。最初から、神の国の義を求めるなんて人は先ず居ない。そこで神様は現世的御利益というおもちゃでもって、人々を導くのである。それはそれを求めなければ死んでしまうというぎりぎりの局地に立たされる事によって、そうした救い、御利益を必死で求めるという形で始まるのである。 
 そして、必死に信仰し、救われる。しかし、それは単に信仰の入口であって、信仰の本道に入ったのではない。信仰の本道とは現世的御利益ではなくて、その奥の神の国本体を求め、それを得るという事である。

 神の国は無限であるから、それを得たものは無限者になる事が出来るのである。そして、現世というのは我々の自覚の反映であるから、吾、無限を得たりと自覚するものは現世の御利益は後からいくらでもついて来る。

 神の国と神の国の義を求める事はこの様に大事な事であるが、求める事は第一歩であり、それを実際に発見する事が本当に大事な事である。それではどうしたらそれを発見出来るかと言ったら、それは何も心配する事は要らない。何故なら、それ(神の国)は我々の中に既に元々存在しているからである。従って、それを発見するのは当然の事であると言わなくてはならない。その発見の道程が我々一人一人の人生経験である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-03-14 13:06 | 信仰 | Trackback | Comments(0)