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神様がやって下さる

 我々は何かをする場合、自分でやっていると思っている。しかし、それは自分でやっているのではなくて、我が内の神が百%やって下さっているのである。それを生かされていると言い、また「吾が業(わざ)は吾が為すに非ず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」という招神歌の一句ともなっているのである。

 私は先日、テニスクラブの試合でその事を如実に実感した。テニスに関してはサービスに私は昔から苦しんでいたが、その後、大部良くなり、テニスクラブでの試合でも大部上手く打てる様になっていた。しかし、またその後、この数ヶ月はそれが本当に上手く行かず、ちょっと壁にぶち当たっていた。
 しかし、色々野球のキャッチボールなどの経験をする中で自分に出来る事を全力で今に集中してやって行こうとする中でサービスの調子が良くなり、この間のクラブ内チーム対抗戦では私は二戦二勝でチームの優勝にも貢献出来た。 その辺りから気分を良くした私は先日のクラブ内での普通のダブルスの試合で貴重な体験をした。
 正式な試合でなくてもクラブ内の試合は緊張するが、私はいつも通り、サービスを打つ時、無理しないで自分の出来る技のみやって行こうと思って打っていった。しかし、そうしてやっている内にふとサービスは自分が打つのではない。我が内の神様が打って下さるのだという事を如実に実感したのである。
 そうしたらどうして打っていったら良いかという事が如実に内側からどんどん分かっていったし、自分がやるのではない、宇宙の無限につながった我が内の神がやるのであると思ったらそれこそ大船に乗った気持ちでゆったりとかつ大胆に打てる様になった。
 サービスではいつも失敗が赦されないセカンドサービスの時に緊張し、私はこれをマスターするのにそれこそ血の道を上げて研究して来たのである。しかし、神が打って下さると分かったら、どうやって打ったらいいかという事がするするとその場で分かった。それは具体的に言うと、ファーストサービスでフォルトしたとする。そうして続けてセカンドサービスを打つのだがファーストを打った時の実感が自分の身体に残っていて、セカンドを打つ時、何処をどう修正したらフォルトしないで打てるかという事が実感で分かるのである。そして、その通り打てば、ほぼダブルフォルトはしないで良いセカンドサービスが打てるという事を発見したのである。
 それまでは私はセカンドサービスはセカンドサービスでファーストとは関連させないでこれだけで考えていて、それを如何に打ったら、フォルトしないかという事を頭で考えてばかりいたから何時まで経っても上手く行かなかったのである。

 この様な事はテニスに限らない。我らは自分で生きるのではない、神に生かされるのである。何事に付け自分でやるのではない。神に内側からやって頂けるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-30 12:33 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

観世音菩薩のお働き

 以前、私はプライベートな付き合いの中で非常に憤慨した事があり、それ以来、その人とは距離を置く様になった。余り、具体的に書くと問題があるので詳細は避けるが、何故、私は憤慨したかと言えば、その人物の言動が非常に不愉快に感じたからである。
 その人を交えて、数人で話している時に、その人が私を少しも立てず、自分の主張ばかりするので非常に私は面白くない気持ちになった。 私としてはこの人物に対してはある程度、目を掛けて、世話もした積もりであったから余計、憤慨した。

 しかし、ある時、これも具体的に書くと弊害があるので詳細を避けるが、私はある他の人物をと言うより、私は誰に対してでもそういう傾向が今から考えるとあったと思うのであるが、それまで私はその相手の良い所を見ようとしないでその相手を認めず、否定し、自分の主張ばかりしていたという事をこれもその相手を交えて数人で話していた時に直感的に私の脳裏に閃いたのである。
 私は自分こそが正しい、見識が高いと思って、相手を見下していたのである。しかし、そういう先入観を捨て、その相手の言動を静かに聞いていたら、その人の言っている事はそんな頭ごなしに否定する様なものではなく、その人は充分にその事に関して、良く考えていたという事が分かったのである。

 その時である。私は冒頭に書いたある人物の事を思い出したのは。その人物の私に対する言動や行動は正に私そのものであった事にありありと気がついたのである。
 生長の家では自分以外全て師、先生であるという教えがある。要するに相対する人は自分の心を映して自分に見せてくれる観世音菩薩であって、全て有り難いのである。私はその事を如実に思い出したのである。その時、ああ私はあなたを恨んで悪かったと心の底から思った。あなたは私の性格の欠点をただ私に示してくれていた観世音菩薩様であったと心の底から感謝の思いで一杯になったのである。生長の家では悪い人はこの世に居ないという教えである。その時、正に私はその事を実感したのだった。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-28 12:32 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

そのままでよい(12)

 そのままでよいというのが榎本恵吾先生の最大の教えである。そのままでよいというのは聖典「生命の実相」の中に出て来る「自己の生命が自性円満完全(そのままでえんまんかんぜん)という事を悟れば、内側から自ずと治す力が働いてメタフィジカルヒーリング(物質的医療を超えた癒し)となる。」という事と全く同じである。

 要するに我らの生命の実相は円満完全無限力であって、潜在意識を清めなくちゃならんとか先祖供養を完璧に漏れなくしなくちゃならんとか親に感謝が大事だから、何としても親に感謝しなくちゃならんとかそして、祈らなきゃならんとか愛行しなくちゃならんとかまた、心のレンズを歪みの無いものにする為に常に注意を払わなくちゃならんとか、また激高してはならん、平静さを保たなくちゃならんとかそんな事ではなくて、そのままで何をしても、又しなくても円満完全であるという事である。

 それが分かれば、我らは本当の意味で心を乱しようがないのである。嬉しくて悦ばずにおれないのである。親に感謝せずにおれないのである。妻や夫を大事にせずにおれないのである。先祖や地元の神様のお祭りをないがしろにするはずが無いのである。目の前の事に背を向けて逃げるはずが無いのである。目の前の不憫な人を放っておくはずが無いのである。
 そして、神想観せずにおれないのである。聖典を読まずにおれないのである。我らは何の工夫も何の力みも何の自ら注意する事無くそのままで円満完全、無限力の神であり、そして、無限智恵であり、大胆であり、勇気であり、思いやりである。だから、病気になりようが無いのである。能力を発揮出来ないはずがないのである。

 我らはそのままでよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-23 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

現象はナイ

 現象はナイというのが生長の家の神髄である。我々は信仰していて、色々お陰を受ける事もある。病気が治ったとか、家庭苦が消えたとか、事業が繁栄したとか、入学試験に合格したとか、そんな事である。しかし、それで良かった、良かったなんて言っていては足をすくわれるのである。
 何故ならば、それは現象にとらわれているからである。そんな事ではその反対に病気になったり、事業に失敗したり、図らずも罪を犯したり、人を傷付けたりなんて事になれば、その信仰はガラガラと音を立てて、崩れるのである。

 本当の信仰は現象はナイと言う事を悟る事である。現象はナイという事は現象のあらゆる幸福もナイ、それは夢幻であると言う事である。そういう事であるならば我らの肉親もナイ、また師もナイのである。全て、自分の心の反映である。ここの所は「無門関」に出て来る。

 要するに真の信仰というものは信仰で現象を良くして悦びましょうというものでなくて、今このまま現象ナシという事に目覚める事である。そして、真に存在するものは今、ここ神の子完全円満、無限力であると言う事そして、全ての悪も罪も病気も自分の心が勝手に作り上げた自分の心の反映であるのであるという事を悟る事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-22 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

自分の行動が神の行動である。

 私はかつて、榎本恵吾先生に「私は自分の言葉が他の人をミスリードするのではないかと心配になる事があります。」と申し上げた事がある。そうしたら、先生はすかさず「人間神の子という事は自分が神であるという事だ。それは自分の言動、行動が全て神の言動、行動であるという事だ」とズバッと諭された。

 さて、話は変わるが先日、私はテニスのシングルスの試合に出た。その時、内側からのインスピレーションのままに打って行こうと決めていた。そして、その打ち方即ち技術的にどうするかという事は百%内側からのインスピレーションのままにやれば良いという事は分かっていた。

最初に出だしでサービスを打った時、非常に緊張しているのが自分で分かった。緊張でトスが上手く上がらないのである。実はこの所、私はちょっと体調不良で特に胃腸の調子が悪かった。
 それで体調が万全でなかったが試合は既にエントリーしていたので、仕方なく出たのである。そうした体調不良もあってか、私は自信が無かった。そして、試合の最初だから、緊張していた事もあり、トスが上手く上がらなかったのである。その時、どうしようかと思った。トスが上手く上がらないという事はサービスが上手く打てないという事につながるからである。
 しかし、それでもやって行く内に私は段々気分が乗って来て、トスも安定する様になって来た。また、緊張していてサービスに不安があったので、最初は無理しないで弱くてもいいから入れていく事に専念していたが、やがて、自ずと気分が乗ってきて、思い切り打てるぞという気持ちになって、ファーストサーブは勿論、セカンドサーブも思い切り振って、回転を掛けて打つ様になった。
 
 その試合は惜しくも4-6で落としたが、大部、状態が良くなり、次の試合には大部乗って来て、行けると思ったがこちらも惜しくも5-6で落としてしまった。何だか結果が出ていないみたいだが、以前の私だったら0-6とか良くても2-6位のスコアで負けていたからこれは進歩だと思って悦んだ。次はもっと良くなると思う。

 ところでこの時、思ったのはテニスの試合で技術的な事、どう作戦を立てて行ったらいいかという事は内側からの我が内の実相生命から来るインスピレーションに百%任せて良いという事以外に、勇気とか大胆とかと言った精神的なものも我(が)で無理に自分に強いなくても内側から自ずと出て来るという事が分かったのである。
 よく、スポーツの試合で緊張したら力が発揮出来ないから、恐怖心を振り払う為にあれこれ工夫するという事を聞いているが、本当はそんな事をしなくても、弱気だったものもやって行く内に自ずと強気とか勇気が内側から出て来て、私の場合はサービスを始めとした様々なショットも思い切り強気で打てる様になったのである。

 要するに実相は自分で出て来るのであって、我(が)が力んで工夫する必要は無いのである。そのままでよいのである。そして、弱気なものが自ずと強気になって行くのであり、そこに我(が)の工夫が要らないのであるから、弱気であったものも実は本当に弱気であったのではなくて、神がまだそこに顕在していなかっただけでそこには確かに神のうねりがあったのである。
 要するに我らは今、そのままで神であるのである。我々の一挙手一投足がそのまま神の一挙手一投足であるのである。信仰とは自分の行動を注意して神らしくして、その結果、幸福になり、成功しようというものではなくて、自分の行動全てがそのまま神の行動であったと悟る事である。それがそう見えないという事が自分の観の歪みであるという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-21 12:33 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(0)

そのままでよい(11)

 我らは神の子である。神の子無限力である。従って、そのままでよいのである。それを良くしようとかする必要は無い。我らは神の子完全円満であり、内に無限の智恵、愛、生命、供給、悦び、調和が満ちていて、それに生かされ、導かれているのである。だから、そのままでよいのである。

 それを何とか力を出そう、智恵を得よう、この問題を解決しよう、心を清めよう、病気を治そう、性格を治そうなどともがく必要は一切無い。我らは神の子完全円満であり、今、そのままで素晴らしいのであり、内に全宇宙に拡がり充ち満ちている所の神の国があるのである。だから、そのままでよいのである。

 それなのに何とか幸せになろう、幸せになる為の方法を知ろう、この問題の解決法を知ろうとして外にそして自分以外の人やものに頼る必要は一切無いのである。それを他に頼ろうとか現在の自分を良くしようとしてあれこれ画策したり、走り回るのは今、そのままで自分が完全円満であり、全ての智恵や力や供給や愛や悦びに満たされているという事を悟らないからである。悟らないから他にそれを求めて探し回る。そして、これでもか、これでもかと行をやったりする。しかし、この現象世界は唯心所現の世界であるから、そういう不足、欠乏の心でいる限り、いくら努力してもその心の通りの不足、欠乏が出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-18 12:40 | 信仰 | Trackback(3) | Comments(4)

問題は神が消して下さる

 私は子供の頃から生長の家を知っていて、甘露の法雨を聞きながら、育った。そして、大学生の時から青年会に入って、活動もして来た。しかし、信仰に行き詰まり、宇治の練成道場に導かれた。そこで、私は生涯の師である榎本恵吾先生に巡り会う事が出来、生長の家の神髄を授けてもらう事が出来た。

 子供の頃から生長の家を知っていて色々、活動や行もして来た私であったが、榎本先生の教えは革命的であった。それまでの私の生長の家に対するイメージと言うか、考え方が根底から覆ったのである。
 それまでは現象を信仰で良くする事ばかり考えていた。それで神想観しなくちゃならん、聖経を読まなくちゃならん、先祖供養も水子供養も漏れなくしなくちゃならん、他の人を生長の家で救わなくちゃならんともう全身ガチガチになっていた。しかし、それは間違った信仰だから、何時か破綻するのである。そして、私は破綻したが、それが実は神様からの大いなる導きであった。それがきっかけで私は宇治の道場の榎本先生の元に導かれたからである。

 私が榎本先生から教わった数々の教えの中に問題や悩みは神様が消して下さるというのがある。そして、全託と言ったら、本当に全託だよと言うものもある。
 要するに生長の家では実相と現象は違うと言って、分けるがそれは良いのだが、何となく実相の他に現象がある様に思って、これを信仰で良くしよう、良くしようと心で現象の問題をつかむ様な傾向がある期間の生長の家をやっている人にはあると思う。私はその典型であった。
 しかし、真理は実相独在であり、現象はナイのであるから、現象を良くしようとするなんてナンセンスなのである。それは単に我(が)が迷って、空回りしているだけである。本当は実相独在で現象や肉体はナイのであり、実相円満完全は今、ここにあるのであるから、神に全託で良いのである。
 そして、問題や悩みみたいに見えるものも単に我(が)がアルアルと思って、握っているのが映っているだけであるから、そんなものはナイのであり、それは具体的には神様が消して下さるという形で現象的には解決する。

 要するに現象ナシ、肉体ナシ、実相円満完全、実相独在という事は我々の悩みも問題も神が消して下さるという事であり、我々が過去に犯した罪、子供を何人堕ろしたとか、人を傷付けたとかそんな事も神様が無条件で消して下さるという事である。

 それをいやそうじゃない、自分が心を清め、罪滅ぼししなくしゃならんと思って、その罪とか問題とか悩みを心でつかむから、問題が消えないのであり、また、心に罪を握っているから、また同じ罪を犯してしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-17 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

天下無敵になるコツ

 この人生は人生学校である。我々の実相は神の子無限力であり、この人生はその素晴らしさを自己表現する場であり、同時にその為の学習及び訓練の場である。従って、我らの全ての経験が我らの生長に無くてはならぬ栄養になり、教材になるのである。
 だから、我らはどんな経験も恐れる必要は無いのである。この人生は実は我らが生きているのではない。我が内の神が生きているのである。だから、我らの人生は人生ではなくて、神生である。それがどんなに表面的に失敗があろうと挫折があろうと情けないものであっても、それは現象の面から見て、勝手に人間がそう思うだけであって、実相、神の面から見れば、ただ実相、神が自分で出て来ている人生なのである。繰り返すがこれを神生と言う。
 従って、まだ神の心が表面に出て来ていない人に真理を語ってもそれをすぐには受け取る事は無い。解する事が出来ないのである。でも、そういう人であっても紛れもなく神の子即ち神であり、表面はどんなに無理解であっても、それはその奥に神の叡智が息づいており、その素晴らしさが自分で出て来ている最中である。しかし、それがまだ表面化していないだけである。

 それをこの世に実在するものは「神と神より出でたるもののみなり。」と言うのである。どんなに愚かでかつ苦しい人生であっても、それはその人の実相が自己表現しようとして、自分に問題を課しているのである。その中で自分の業が引き起こした事を自ら引き受ける事により、その人は魂の進歩、生長があるのである。だから、我々は如何なる経験も困難も恐れる必要は無い。この事で失敗した、自分は不幸だなんて思ってもそれで却って、心境が進み、運命が開け、実相顕現につながる事が沢山ある。だから、我らは全ての運命を恐れずに引き受ける事が大事である。信仰で何とか運命を良くしよう、苦難を避けようなどと思わない事である。それが分かれば、我らはこのままで天下無敵になる事が出来るのであり、そこに真の心の平和がある。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-16 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家とは何か(8)

生長の家は信仰で現象を良くする為のものではなくて、このままで我々が神であり、無限であるという事を発見する信仰である。ここの所は本当に大事な部分である。前者は所謂御利益信仰と言い、後者を本物の信仰と言う。

 それは現象は、肉体はナイという事であり、今、ここに、そして我々一人一人の中に神の国があり、今、自分は神の子無限力であるという事である。だから、今、悦べるし、悦んでいいのである。それを何を勘違いしたのか、大抵の人は現象ナシ、肉体ナシの生長の家の教えを受けながら、信仰で現象を良くしよう、肉体を良くしようと躍起になっているのである。そして、これでもか、これでもかと言う事で神想観したり、祈ったり、聖経を誦げたりする。しかし、それは我(が)が良くなろうとして、やっているのに過ぎない。本当の神想観や祈りや聖経読誦は我(が)がやるのではなく、我らの中の既に完全円満の神が出て来て、悦びでやるのである。

 それが神が神するという事である。そして、物質は現象はナイのであって、我々の心の影であるから、本当の信仰のある所、必ず現象は整うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-15 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

無限生長

 以前の文章で現在の自分に出来ない難しい事からやるのではなくて、現在の自分に出来る事を一所懸命、ゆっくり全力でやって行く事で心の余裕が生まれ、そこから自ずと徐々にレベルが上がって行くという事を書かせて頂いた。

 それでは人間神の子無限力という事は何時の事であろうか?考えるに人間は神の子無限力なのであり、それは実相世界では既に与えられているのであるから、現象即ちまだ不完全な肉体とかは本来存在しないのであるから、如何に不完全な状態を肉体その他の現象が現していてもそれはナイ!と一刀両断にして、今、断じて無限力であり、無限供給であるとして、今、立つべし!というのが生長の家の信仰であると思うだろう。

 しかし、それなら今、無限力であるならば、現在の自分に出来ない事からやるのではなくて、自分に出来る事からやって行くというのはそれは一種の自己限定であり、今、無限力であるという生長の家の信仰と矛盾するじゃないかと思うかも知れない。
 しかし、そうではない。人間神の子無限力という事は正に現在の自分に出来る事をゆったり一所懸命に今に集中してやって行く事なのである。その中から自ずと更にその力がどんどん伸びて行って素晴らしい事になるのである。

 私はテニスをやっているが、ここでも何回か書かせて頂いたがテニスというものは(テニスに限らず、スポーツや武道というものは何でも)フォームとか型とか構えというものがあるのである。それで最初はどういう風に打ったら良いかという事をコーチなどに習う。それはフォアハンドストロークなら、肩を回すとかサーブだったらひざを曲げるとか肘を使うとか実に色々なコツというかフォームがある。それを意識して一つ一つ気をつけて、やるのは素振りなら出来るだろうが実際の試合の時にそんな事を気にしては駄目なのである。試合では教科書には無い予想もつかない様な状況になり、色々な癖玉に対処しなければならないからである。

 そして、そのやり方だとフォームのここを気をつけて良くしたら、また別の所がお留守になるとか次から次へと課題が出て来て、何時まで経ってもそれでは力を発揮する事は出来ない。それは今の自分を不完全なでくの坊と見なして、それを外側から形を付け加える事により、良くしよう、完全にしようという発想だからである。

 そうではなくて、我々は今、神であり、無限力であり、自由自在であるから今、出来るのである。自分の中に自ずから効果的に動く所の技があり、力があるのである。
 テニスだろうが英会話だろうが、その事に気がついた時、我らは今すぐ出来る。それは内に無限を発見する事であり、その通り、行っていけば良いのである。
 そして、それの具体的展開としては自分に出来る事、技からゆっくりとかつ集中してやって行くのである。その中から無限の智恵が内側から出て来て、こうしてやった方がよりいい球が打てるという事が自ずと分かるのである。そして、その導きのままにやって行く事で自ずと無限生長がある。

 即ち、我らは今、無限力であり、自分を良くしようとあれこれ外側からのああしなくてはならない、こうしなくてはならないという型など取り外して、内側に既に完全に動く所の無限の技があり、そこから来るインスピレーションのままに自由にやって行けば良いのである。
 その中から、更にこうしたらもっと上手く出来る、効果的な事が出来ると内側からの自ずからなる導きがあり、それによって、更に生長または向上する。それを我らは神の子無限力というのであり、それは無限力であるから、無限生長し続けるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-04-14 12:36 | 潜在能力 | Trackback | Comments(4)