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今、悦んでよい(2)

 榎本恵吾先生が強調されていた事は「今、神に生かされている事を悦びなさい。将来、潜在意識が清まってからとか潜在意識が清まった事で自分の病気が治ってからとかそういう事でなく、今、神に生かされている事を素直に悦びなさい。」という事であった。

 吾々は生長の家などの信仰をするに知らず知らずの内に御利益信仰になってしまっていて、私がこれだけ信仰したら、そのご褒美として、将来幸せになるだろうから、その時、悦ぼうと何となく思ってしまう事がある。

これこれこういう事をやったら、良い業が積まれ、将来、健康になり、幸せになるだろうなんて考えるのが迷いである。それは現在、ここがこのまま神の国であるという事を分かっていないのである。そして、現象をありと思っているのである。
 どういう現象であろうが今、ここが神の国であり、今、自分に神の完全円満の生命が生きているのである。それを悦ぶべし。
 吾々はこれこれこういう事をやったら、将来良くなるのではない。今、完全円満であり、無限力であり、今、ここに私をして神が息づいているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-30 12:26 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(9)

利己主義

 利己主義というものが良くないものであるという事には誰も異論が無いだろう。そして、自分は利己主義者だなんて思っている人も先ず居ないと思う。やはり、誰でも自分は利己主義者でなく、善人で全体の事を考えていると思っているのである。あのアメリカのギャングの大ボス、アル・カポネでさえ、自分ほどいい人は居ないと思っていたという逸話がある。

 従って、誰でも「お前は利己主義者だ」なんて言われれば腹が立つのである。それは誰でも神の子であり、その本質は神の愛だからだ。しかし、現実には利己主義者はいくらでもいる。本人はその事を自覚していないだけである。逆に真に愛他的な実相が顕現した人は過去の自分は利己主義者であったと反省するものである。利己主義者であったと気がつくというのはもうその人は利己主義者の段階を超えたと言う事だからである。
 
 聖典「生命の実相」にある逸話だが、ある人が谷口雅春先生に「私は不眠症で、どうにも困っています。」と相談した所、先生はすかさず「ああ、不眠症とかノイローゼって言うのは利己主義の人がなる病気だ。愛他的になったら治るよ」とピシャッと仰ったと言う事である。

 要するに不眠症とかノイローゼって言うのは不安だから、なるのである。では何故、不安になるかと言ったら、自分の事が心配だからである。要するに自分の事ばかり考えている、即ち利己主義という事になるのである。

 では、何故、自分の事ばかり考える様になるかと言ったら、実相とか完全円満を現象の世界に求めるからである。人間は実相は神の子であり、完全円満であるから、それを現象に表現したいのである。従って、それを強く求めて、実現したい願望があるのである。しかし、その完全円満即ち神の国を現象に求めると間違うのである。完全円満さ、神の国を現象即ち自分の外に求める心が完全主義であり、それが常に自分の心配をしている即ち利己主義につながるのである。
 現象に完全や神を求める心が迷いの正体である。誠にも神の国は我が内にありである。それは別の言い方をすれば、今、ここそのままでここが神の国、実相世界であり、そのままでよいという事である。真に愛他的になるにはもう自分の事は一切考えない要するに心配しない境地にならないと出来ないのである。その境地とは今、このままで自分が完全円満であり、今、ここがそのままで神の国であり、自分も含めて誰も救う必要が無いと自覚する境地である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-29 12:57 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

選り好み

 世の中には選り好みの激しい人、特に男性がいる様でそれで婚期を逃す様である。また、いつかテレビでやっていたが、海外の確かヨーロッパの男性で結婚を25回も繰り返した人というのがいるらしい。何故、そんなに結婚を繰り返すのかと言ったら、それは理想の相手を捜し当てる為という事であった。

 私は結婚は決していい加減な気持ちで決断してはならないと思うが、選り好みが激しいのも駄目だと思う。要するにその相手が本当に自分の真の半身かと真剣に見極めて結婚するのが良いのであり、単に相手の肉体が好きだからと言う理由で結婚してはならないと思う。

 冒頭に取り上げた男性ではないが、そういう結婚を繰り返す男性は純粋な人だそうである。即ち、妥協を許さず、自分の理想の相手を求める性格だからである。 要するに完璧を現象に求めているのである。
 同様に選り好みが激しいというのは完全主義だからである。それでせっかく良い相手が近づいて来ても、ああだこうだ欠点を見て、結婚のふんぎりがつかない訳である。
 それは良い所を見ないで悪い所に引っ掛かって、それを良くしよう、良くしようという心である。そんな心でいる限り、永遠に現象に理想の相手は出て来ないのである。やはり、恋愛も結婚も日時計主義で相手の良い所を見て、感謝し、悦ぶという事が大事な訳である。
 そして、結婚した後も相手の良い面のみを見て、感謝しておれば良い。そうすれば今すぐ悦べる。そして、理想の相手を捜し求めるなんて事をしないで良いと分かるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-28 12:26 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

復讐

 よく誰かに馬鹿にされたとか侮辱されたとか苛められたとかして、「このやろー!あいつに今度会ったら、こんな風にやっつけてやるー!」なんて言ってブルブル震えて悔しがっている人が居る。でも、その言葉には威厳も迫力も無く、弱い者が力んでいるだけに聞こえるものである。

 誰かに侮辱や非礼を受けたからと言って、復讐してやろうなんて思わない事である。そんなものはちっぽけな我(が)の考える事である。非礼な事をする様な輩はこちらが報復せずとも自ずと自らの悪業を刈り取って、報いを受ける事になるのである。自分は心静かに今、やるべき事に全力を傾注しておれば良い。そこに自ずと実力と人格の向上があり、結果的に周囲からの尊敬を集める事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-27 12:28 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

悩み

 昔から「悩みは尽きない」とか「一難去ってまた一難」とか言う言葉がある。要するにある悩みを抱えて生きて来たとして、それが何かのきっかけで解消したりするとまた次の悩みが発生して、悩み続けるという事である。

 テレビの美容整形外科のコマーシャルで言っていたが「私のこの鼻がもう少し高かったら」とか「私のこの目がもうちょっと大きかったら」とかと現在の自分の容姿がもう少しこうなったら私は完璧になるのに自分の容姿のこの部分が良くないからと悶々とその自分の容姿の欠点に引っ掛かり、悩み続けるのである。実際、美容整形をする人は自分の気に入らない容姿を手術により、治す。それで一時的にそれまでの悩みは解消されるが暫くすると又、別の部分に引っ掛かり、悩む様になり、そして、又整形するのである。この様にして美容整形する人はそれを繰り返すらしい。

 ようするに悩む対象というのは具体的な存在ではなく、自分の悩む心がそこに投影されて、それが自分に取って、欠点とか問題と感じられているに過ぎないのである。即ち、悩みというものは問題をつかむ心である。問題をつかむ心とは問題をありとして、自分でそれを良くしようという心である。問題をありとして心でつかむ心が問題を大きく映し出し、そして悩む事になるのである。何故ならこの現象世界は自己の心が造り出すものであるからである。
 従って、その現象を手術とかその他の外科手術的処置で何とかしても、心が治っていなければ、又、別の問題や悩みが生じて来るのである。その心というものはこの世に悪とか問題があると思う心即ちこの世界が今、このままで何も問題もナイ、悪もナイ、神に作られた完全円満の世界であると言う実相を悟らない心である。このままでは駄目だ、悪もある、問題もあると言う神の完全円満さを信じない心が何かしらの問題や悪現象を現象世界に投影し、そして、それに引っ掛かり、引っ掛かる事でますますそれが大きな問題に自分に感じられ、そして悩み続けるのである。

自己がこの世界がこのままで神に造られた完全円満の世界であるという悟りに目覚めれば、問題をありとしてそれを良くしようとする心即ち問題に引っ掛かる心が消えるから、連動的に何かに悩む心も消え、不悩不苦の世界を体験する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-26 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生かされているということ

 私は神の子無限力という事を生長の家で教わって、この世界は自分の心が思ったら、思った通りになるという事も同時に教わり、それならば、自分の無限力を開発する為に必死に努力しなければならないと思う様になった。
 そして、人間の心というものは現在意識は表面の5%だけで殆どがその下の潜在意識であるから、それを是非、清めようと思い、せっせと聖経読誦や神想観に励む様になった。そして、自分の心が自分の肉体の健康不健康や自分の運命の良し悪しを決めるのであるから、それを一所懸命、良い状態にしようとし、そして、その信仰も必死に自分で支えようとした。要するに自分に無限力があって、それを自分の力で掘って、開発する為に自分の心や行動を訓練によって、高め上げ、そして力を増そうと思っていたのである。そして、自己の無限力を発揮する為に自分が出来ない事、不得意な事にことさら、挑戦する様にして、色々努力した。


 しかし、それでは不安が増すばかりであった。何故なら、自分の心の持ちようで自分の肉体の状態とか運命が決まるのであるなら、それを常に戦々恐々として、支えなくてはならない事になるからである。

 しかし、私はその後、榎本恵吾先生のお導きにより、生長の家の奥義を授けられた。即ち、私の心なるもの、現在意識や潜在意識なるものは存在せず、従って、それを清めるも良くするも無かったのである。
 ただここに神の生命のみがあり、それにより吾々は生かされているのである。全ての力は神に与えられ、全ての問題も神が解決して下さり、全ての導きも神が下さる。私は要らなかったのである。それが分かった時、私は実相の世界が今、ここにあり、何も心配が要らないという事が分かったのである。吾々が何か心配だとか不安だとか感じるのは自分で生きなければならない、自分で問題を解決しなければならない、自分で人を救わなくてはならないと思うからである。

堀 浩二

 
by koujihori | 2008-05-23 12:20 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

生長の家とは何か(9)

 私は生長の家は母親によって、幼い頃に伝えられた。私は母が仏壇に毎日、聖経「甘露の法雨」を誦げるのを母の膝枕で聞いていたし、母は私の就寝前に生長の家のお祈りを毎晩してくれた。それによってか私は生長の家が当たり前と言うか、身体に染みついていたと思う。それらの母親が私にしてくれた事で私の一生が決まったのである。それを思い返すに母には本当に感謝の思いで一杯である。

 その後、高校生になったら、母から半ば、強制的に河口湖道場で開催された生長の家夏季高校生練成会に行かされ、そして、その後の飛田給での冬の練成会も参加した。その後、私は生長の家高校生連盟の仲間に活動に誘われたが、私はそういう事が嫌であったので一人で生長の家を勉強する様になった。しかし、それでは駄目だと大学生の時に悟り、自分から生長の家青年会に入り、そして、現在はお陰様で生長の家相愛会で悦びの活動をさせて頂いている。

 さて、長々と私の経歴を書いたが、私は以前、どうして自分は生長の家など知ってしまったんだろう、こんなものを知ったばっかりに心の苦しみをしなくてはならないと思って、生長の家を知ってしまった自分の運命を呪っていた時期もある。他の人はこんな事で悩まずに適当におもしろおかしく暮らしてるじゃないかと思っていたのである。同じ様な思いを持っている人ももしかしているのではないか?
 その心の苦しみの最大のものは何かと言ったら、心の法則というものを知った為に「思ったら思った通りになる」のだから、自分の心のコントロールに苦しんだのである。要するに思ったら思った通りになるのなら、恐怖したらその恐怖した事が実現するのであるから、恐怖しまいと思う。でも、そう思えばそう思うほど恐怖心が出て来て、終いには恐怖することを恐怖するなんて事になって来て、心が悶々とするのである。それでそんな心を治す為に、積極的に愛行するとか、祈るとか明るく振る舞うとかして、努力はした。要するに一人でうじうじ考えずに積極的に人と仲間と交わり、活動する事によって、そうした心の苦しみも幾分、軽減した。でも、それでは一時的にごまかしただけで根本的な解決にはなっていないのである。

 しかし、その後、私は榎本恵吾先生に巡り会う事により、自分が今、神であると言う事を実感する事が出来る様になった。そして、自己の心を自己が一所懸命、努力して、良くする事により、実相顕現させるのだと頑張っていたそれまでの考え方が消え、今、このままでここが神の国であり、自分は自分の心が支えなくても今、そのままで神に生かされていると分かった。要するに自分の心が自分の運命とか健康状態とかを造ると思って、それを良く保とうとそれまでガチガチであったものが自分の心なるものは無く、今、ここに神の心があり、それにより自分そして万物は完全に生かされているという事が分かったのである。

 本当に生長の家というのは今、ここに神が息づき、それにより吾等が完全に生かされ、支えれているという事に他ならないのである。それの悟りが出て来る為にそれまでの心の苦しみ、即ち心をコントロールしなければならないという迷いの段階があった訳である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-22 13:01 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

真理の実行という事

 吾々は生長の家を学んで、人間は神の子で無限力であるという事を教えられる。そして、それを知識ではなく、実感する為には神想観によって、直接、その完全円満の自己の生命の実相を見つめ、かつ、それと同時にその無限力を生活に実行しなくてはならないとも教えられる。

 即ち、人間神の子無限力というのは生活に実践しないと本当にその事が分かっているとは言えず、又、実践しないとその力が出て来ないのである。だから、人間は神の子無限力で病ナシ、無限健康であると言う真理を知ったら、それは今すぐ、行動に移さなくては本物ではないとは聖典「生命の実相」生活編に記された通りである。実際、この本のはしがきで紹介されているN氏は色々な病に伏せっていたが、今、自分の病床をあげよ、今、立ての教えに従って、まだ現象的には健康が回復していないのにその日を境に立ち上がって、普通人と同じ生活をする様にして以来、風邪一つ引かない様な健康体でバリバリ生活する様になったとある。

 しかしながらその真理の実行というものは実際には非常に難しいのである。自分としては腹を立てまいと思っても腹が立ってしまう事もあるし、この悪癖は良くないと分かっていながらも、そう思えば思うほどその悪癖に惹かれ、それを犯してしまうという事もある。また、真理の実行には勇気が必要であり、その勇気もどうしても出ない事もある。また、取り越し苦労するなと言われても、どうしても取り越し苦労してしまう事もある。
 
 これはどうしてそうなるかと言えば、我(が)が無理して、自分に出来ない事をやろうとしているからである。真理の実行に我(が)が無理して力む必要は全然無いのである。と言うか、我(が)に力は全くない。我(が)は虚そのものであるからだ。
 吾等は今、そのままで完全円満の神の子であるのである。それは勿論、現象の事ではない。現象は不完全だらけである。しかし現象は今、そのままナイのであり、今、ここにそのまま神の完全円満の生命が息づいている。
 そして、その真理の実行即ち神の子完全円満の生命を発揮するのは我(が)が力んで行うのではなく、そのままであれば、自ずと内側から、無限力が出て来て、力が発揮されるのである。

 真理の実行は神様が全面的にやって下さる。我(が)は要らない。本当に全託で良いのである。それが本当に分かった時、自ずと真理の実行が神により為されるのを実感するであろう。
 強調すべき事は神以外に力は一切ナイという事であり、完全円満、無限力の神が今、ここ吾に於いて、無限力を発揮されるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-21 12:37 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(0)

真理は我が内にあり

 吾々は毎日、生きていてたまに迷う事がある。仕事とかの判断とかその他の人生上の重大な分岐点において、自分がどうすべきか迷ったり、又は求道者とか生長の家をやっている人などは真理の事で迷ったり、分からなくなったりする事があるだろう。
 しかし、迷った時、どうしたらいいか、どう考えるべきか、真理とはどういうものかなどと言う事は頭で考えても、一向に本当の事は分からないのである。私などは高校生の時、生長の家の高校生練成を受けて、生長の家の教義をある程度、勉強した後、生高連の仲間達と交わらず、自分一人で生長の家を勉強しようとした為に毎日、生長の家の真理について、頭で考える様になった。そして、考えて、ああそうかと思っても、すぐにそれが崩れて、又、分からなくなるなんて経験をよくした。
 それはどうして分からないかと言うと、生長の家の真理を自己の外に求めて、それを得よう、分かろうとするからである。分かろうとするから頭で考える。しかし、元々、その真理は自分の外にあると思っているから、頭で理屈で分かったつもりで又、分からなくなるのである。

 本当の真理は自分の外にあるのではなくて、自分の中にあるのである。自分の中と言うか、自分自身が真理そのものである。答えを求めると言うが、自分が答えそのものである。それなのに真理とか答えが外にあると思って、追い求めるから分からないのである。

 頭で考えなくても、何をどうしたら良いかはその時の自分が教えてくれるのである。吾々の本体が真理そのものであるからだ。そして分かった所の真理の実行は我が内の神が行う。我(が)が工夫して行うのではない。誠にも実相は自分で出て来るのであり、そのままでよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-20 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

師の大事さ

 かつて、服部仁郎先生が榎本恵吾先生にこう言われたと言う。それは「生長の家を本当に学びたければ、これと言う生涯の師を作る事だ。」という事である。服部仁郎先生というのは生長の家に詳しい人なら誰でも知っていると思うが、本部会館にある御神像の作者で彫刻家であり、雅春先生の高弟の一人である。

 榎本先生は偉大な悟りを啓いた方だが、奥様のお話によると先生は生長の家の迦葉尊者と言われる吉田國太郎先生の影響を受け、かつ服部仁郎先生の誌友会に通っている内にその悟りが啓けたという事である。

 吾々は生長の家の信徒であれば、無論、谷口雅春先生の御存在というものはもう特別なものがある。そして、生長の家の教えは生長の家の大神-生長の家総裁・副総裁-み教えの流れで展開されるのであり、生長の家の信徒たるものこの流れが生長の家の運動の不動の中心であるという事を肝に銘じなければならないとされている。確かにその通りである。だから、吾々は信仰をするのに人についてはいけないとも言われる。つくなら内なる神にである。

 しかしながら、吾々が実際に信仰して行く為には直接に指導して下さる具体的な師が絶対に必要である。それは神が自分の為に遣わして下さったお導きである。私の場合はそれは榎本恵吾先生である。確かに私は他にも色々な先生のお世話や導きを得られ、現在の自分があるが、生涯の師と呼べるのは榎本恵吾先生である。私は先生を師と戴いた事でどれだけ、導かれたか計り知れない。私は先生にそれこそ無限のご恩を感じている。私は先生がいらっしゃらなければ、今頃、この世に居ないのである。そればかりか先生のお陰で無上の宝、生長の家の真理の奥義を授けて頂き、それからというものは私は常楽の世界に住んでいるのである。

 私は他の人を色々今まで見てきて、不幸にして、間違った師につく事でその人がどんどん以前の良さ、純粋さを失って行くのも見てきた。かと言って、その人が永遠に救われないというのではないが。
 いずれにしろ、人は具体的な師が誰であるかという事でその人の一生の幸不幸が左右されてしまうと言っても過言ではない。誠に良き師につくという事は本当に大事な事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-05-19 12:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)