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生長とは自己の内部の宝を発見すること

 生長とは自分の努力とか訓練とかによって、徐々に自分を良くして行くものではない。元々既に無限に良かったものを自己の中に発見して行く事である。だから、努力とか訓練というものはその自分の中に隠された無限の宝を発見して行く過程なのである。

 だから、上達というのはスロープ状に段々なだらかにされて行くものではなくて、階段状にされて行くと言われているのである。例えば、ある人が英会話とかテニスとかを真剣にやっているとして、それがいくら努力しても研究しても全然、上達しないという事があるのである。要するに努力や練習している割に力や技が向上しないのである。それどころかやればやるほど、ますます駄目になり、下手になる時期もある。それである人はそれで諦めて、自分は駄目だとか才能が無いとか思って、自分で見切りをつけて、止めてしまう。
 しかし、また別の人は自分の可能性を信じて、努力を継続するのである。そうこうして行く内にその人は自己の内部に既にそのままで完全円満の無限力を発見する。発見すれば、その力をすぐ使えるから飛躍的に力が伸びる。
 そうして、その人は上達したり、生長するが、成功する人と不成功に終わる人との違いは正にそこにある。

 だから、生長や進歩というのは徐々にスロープ状に上達するのではなく、しばらくうだつが上がらない状態が続くがそれを耐えていると突如化ける時が来ると言うか、突然、大幅に上達する瞬間が訪れるので生長や進歩は階段状に上達すると言われるのである。

 それは習い事に限らない。人生において、何か問題があって、それの解決に向けて日々努力していても、中々良くならないどころか、却って悪くなる様な時にもう駄目だと思って人生を投げてしまう様では駄目で、駄目だと思った後にそれでもまだ努力を継続する者は遂にその絶望の向こう側にある栄光や救いにたどり着くのである。

 要するに生長というのは自己の力で自分を良くして行くのではなく、既に神の力に完全に生かされ、無限力を与えられている自分の実相の宝を発見して行く事なのである。


堀 浩二
by koujihori | 2008-06-30 12:33 | 潜在能力 | Trackback | Comments(3)

最高のコーチは対戦相手

 テニスのチャンピオン、ロジャー・フェデラーは偉大な選手である。先日は全仏オープンでライバルのナダルに惨敗したが、テニスというのはコートのサーフェスが色々種類があり、ナダルは全仏のコートのクレーコートのスペシャリストであり、フェデラーの様なグラウンドストローカータイプではない選手にはちょっと、クレーコートは不得手なコートであるから、あの様な結果になっただけである。

 ところでフェデラーの素晴らしい所は身体に無駄な力が入っていない所である。柔(やわら)の境地と言うか、合気道の境地と言うか、余計な力が入っていると却って、強烈な打撃を加える事が出来ないがフェデラーは余計な力が入っていない為にサービスにしろ、ストロークにしろ、派手なフォームではないが、実に強烈である。
 そのフェデラーが以前、言っていた言葉に「最高のコーチは対戦相手である」というのがある。普通、テニスのトーナメントプロというのは例外なく、専属のコーチをつけている。しかし、フェデラーは現在はコーチをつけているようだが、以前はつけていなかった。何故、コーチをつけないのかの質問があり、それに対する答えが前述のコメントである。

 私もテニスをするから、この言葉の意味は分かる気がする。というのはスポーツは何でもそうかも知れないが、テニスはことにテクニック的に難しく、そのやり方に関して、色々悩む事がある。それを頭で考えても分からず、考えすぎるとノイローゼになってしまうので、テニスでは世界的選手でもコーチをつけ、色々相談相手になってもらったり、アドバイスを受けながら、試合をするのであるが、そのやり方をフェデラーはコーチに頼らずとも自分で分かるという事だろう。
 それは具体的に何時、分かるかと言えば、試合中なのだと思う。試合中に無我無心になって、全力でプレーする時、自ずとこうしたらいい、ああ打ったらいいと内側からインスピレーション的に分かるのだと思う。だから、彼は最高のコーチは対戦相手と言ったのだと思う。

 私はラケットを初めて、握ったのはもう30年近く前の事だが、本格的に始めたのは10年ほど前である。それで、やはり、やり方、打ち方に迷う事がある。先日もセカンドサービスに使うスピンサービスがどうも上手く打てず、ちょっと困っていたが、試合中に自ずと内側からこうした方がいいというやり方が浮かび上がって、上手く打てる様になったのである。
 それはサービスに限らない。あらゆる技、戦略等が試合中に自ずと内側から分かるのである。(すぐにではない。大抵、失敗経験をして一旦、挫折を経験してからである。)大抵の人はそれを習うのに必死にテニスのレッスン書をひもとき、コーチに色々質問するのであるが、私は殆どそんな事はしない。もちろんコーチに注意された時はそれもコーチを通じて神が自分に教えてくれたと思って、素直に聞く事にしている。

 要するに吾々は神の子であり、内側に神の無限の叡智が宿っていて、それが必要に応じて、その時、その場で出て来るのである。だから、取越苦労は一切、必要無く、何事もその時の自分の中から自ずと出て来る神の導き、インスピレーションのままにしておれば良い。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-27 12:42 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

思ったら思った通りになる。

 私は割合、子供の頃から神経質な性質で、デリケートであった。そして、高校一年の時に生長の家の高校生練成を受けたが、そこで一番、印象に残った事が「思ったら思った通りになる」という教えだった。

 私は練成から帰ってきたら、この事が頭からこびりついて離れなくなった。それで、良い事を思ったら良い事が来るのであるから、これは打ち出の小槌みたいなものだが、逆に悪い事を思ったら、悪い事がその通り、実現するのであるから、悪い事を思ったらいけないと分かったが、これがそう思ったら、悪い事を思うまいと思っても、ますます悪い事を思う様になってしまい、実は高校二年の頃からそれが悩みで殆ど、勉強が手につかなくなった。それで生長の家の本ばかり読んで、何とか解決法を探るべく、考えてばかりいたのである。

 そうこうする内に大学生になり、生長の家青年会に入って、仲間と活動したりしている内にそれほどの悩みは無くなったと思うが、それでも恐怖したらその恐怖した通りの事が実現すると思うと恐怖すまいと思っても、ますます恐怖してしまうという悪循環は根本的には解決はしていなかったのである。

 そうこうする内に私は昨日も書いたが、神経を壊し、それが元で宇治の生長の家の道場の榎本恵吾先生の元に導かれ、神の国は今、ここに、我が内にあるという事が分かった。

 それと共に私は自分が生きるのではなくて、神に生かされていると言う事が分かったのである。それまでは自分が生きる、自分がこの自分の心をコントロールして、それで自分の人生を造って行くと思っていたのが、自分なるものは存在せず、自分が生きているのは自分が生きているのではなくて、神がここにあって、自分を生かし、神が私の心も支え、導いて下さっているという事が分かったのである。私や私の心なんてものは存在せず、ただ、神の心がここにあり、それが万物を作り、生かし、私をも生かし、導いている事が分かったのである。それは具体的に言えば、恐怖心が出ても、神がそれを打ち消し、私の心を支えて下さり、私を生かし、私に智恵を与えてくださっていて、どんな問題も神が解決して下さるという事である。

 それが実相独在の悟りである。私は生長の家で心の法則を知ったが故に恐怖する事を恐怖する様になり、それで随分人生で不自由する事があり、能力的に他の人より劣る事も多々あった。しかし、その事がきっかけで真剣に道を求め、その恐怖してしまう自分の心などは存在せず、今、ここに神の心のみがあり、それが吾を生かしている事、別の言い方をすれば、今、自分がそのままで神であるという事を悟る事が出来たのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-26 12:59 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今、出来る(5)

 私は今から12年前に自律神経機能障害という神経障害となり、肉体的には小声で話そうと思っても大きな声が出てしまうとか、ボールが真っ直ぐ投げられないとか、極端な高所恐怖症になるとかして、精神的にはかなりの強迫観念が襲うというものであった。

 しかし、それは私の信仰がより本物になる為の基礎工事みたいなものであって、そうなったが故に私は宇治の生長の家の道場に神縁としか思えない様な縁で導かれ、当時私の最大の心の悩みや疑問に答えてくれる人はこの世でおそらく、この人しかいないだろうと思われる榎本恵吾先生と巡り会い、そこで魂が救われ、私の心に平和と大安心が生まれ、その後、会社に復帰し、現在に至っている。あれからもう11年の歳月になるが、私はお陰様で常楽の境涯に住まわせて頂いているのである。
 しかし、宇治から帰ってきたこの11年は決して、安穏とした道では無かった。私は悦びに打ち震え、仕事に生長の家の活動に地元の付き合いに、そして、趣味であるスポーツや英会話に真剣に打ち込んだが、その中では色々ときつい事もあった。
 それは特にテニスと野球での経験であるが、特に野球で私はまとめ役をやっているので、毎回試合とか練習に行かなくてはならないのであるが、そこで必ず、ボールを投げる機会があり、それを出来ませんとは言えないので投げるのだが、12年前にボールが真っ直ぐ投げられないという状態が治っておらず、それで随分苦労した。
 しかし、私は決して諦めなかった。そうしたら、テニスの方はまあまあ出来るのであるが、そのテニスの方で比較的楽だと思っていた友人同士のダブルスの試合でも負けが込んできたのである。そうしたら口の悪い友人がその事でしつこく私に嫌みを言うのである。私は表面的には笑っていたが、内心、引きつっていたし、自分でも何故、勝てないのかと忸怩たるものがあった。
 そうしたら、私はある事に気がついたのである。それは私は神経を壊したが、心は悟ったのでその内、肉体の神経も良くなるだろうと何となく思っていたので、現在の肉体はまだ以前の迷いの後遺症が残っていて、今はまだ完全に健康でない、だから、テニスなんかしてても疲れやすい、早く動けないと自分で自分を自己限定している事に気がついたのである。
 そんなだから、何時まで経っても、本当には力を発揮出来ず、テニスも勝てなくなったし、野球のボールも何時まで経っても真っ直ぐ投げられない状態が続いていたのであった。
 自分の身体とか神経はまだ不完全だと何となく思い、その不完全な肉体や神経を訓練によって良くするのだと何となく思って、ボールを投げる練習をしていたのだが、その今、自分はまだ駄目だ、不完全だという思いがあるから、その心が映って、どんなに練習しても依然として、ボールが真っ直ぐ投げられないというかやればやるほど却って、下手になっていくのであると分かった。

 そうではなくて、自分は今、出来る、今、完全円満であると言う事がその事をきっかけとして、本当に実感された。それが出来なかったのはまだ駄目だ、まだ今は自壊作用の時期だなんて思っていたから、その今、出来る無限力を使う事をしていなかったからそれが錆び付いていたからであったのである。
 その事が分かってから、今、与えられている無限力を使えばいいのであるから、私はその力をすぐ使う事が出来た。それで、どんどんやって行ったら、ボールも以前より遙かに真っ直ぐ投げられる様になり、テニスでも大部、動きが良くなったのである。

 吾々は今、出来るのである。今、無限力であり、それが分かれば、今すぐその力を使えるのである。これから訓練して良くなろうというものではない。その事が分かれば、今すぐ出来る。それは至福の宝である。

私がその事に気がついたのは困難を避けなかったからであると思う。至上の宝は意地悪な人とか困難の向こう側に隠れているのである。そうした人やものを嫌だからと言って、避け、逃げていたのでは私もこうした最高の真理に気がつかなかったと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-25 12:46 | 潜在能力 | Trackback | Comments(4)

今のままで良い

 私は仕事の他にテニスとか英会話とか野球とか色々やっている。もちろん、生長の家もやっている。それで仕事はもちろんだが、テニスと英会話はけっこう気を入れてやっている。それでこれが以前の自分に比べれば、自分の中では遙かに進歩、生長しているとは思うが、他人と比較したり、テストや試合に出てみると全然、結果が出ない事もある。それどころかに表面的な成績は以前より悪くなったりする事もある。
 要するにテニスや英会話では私より実力のある人が沢山いるのである。そうするとテニスも英会話も自分の天分とか使命なのだろうかと思う事がある。私は子供の頃からスポーツよりも芸術的な事に秀でていたと思う。それで粘土細工など毎日やっていて、大学の時は美術部に入り、彫塑で後輩の女子学生の胸像を造った事があり、それを芸大の彫刻科に通っている友人に見せたら、自分より上手いと言われた事もある。しかし、私は何故か絵とか彫塑はその後、やらず、趣味と言ったら前述の様にテニスとか野球などのスポーツをやる様になったのである。しかし、こっちの方は繰り返すが私より秀でた人が沢山いるのである。

 そうすると自分の才能とか使命はどうなっているのだろうと思う。余り、目のでないスポーツとか英会話を止めて、どちらかと言うと自信のある芸術関係の趣味を持とうかとか思う事もある。

 しかし、私の人生は現在のそのままでよいと思うのである。英会話やテニスを真剣にやる事で他の人に中々勝てないまでも人間の潜在能力を研究し、それで私の信仰も進み、悟りもある。それをこうしたブログで発表したり、誌友会の講話で講話のネタに出来るからである。

 そのままでよい。この自分の人生そのままでよいのである。もっとこうであったら良いのになどと思わなくて良いのである。この人生そのままで自分でなくてはならない人生であり、その中で自分を馬鹿にする人間も出て来るかも知れないが、自分の人生そのものが自分でなくてはならない人生であるから馬鹿にされてもそれで良いのである。そう思えばこそ、馬鹿にしてきた相手を赦せるというものである。

 そして、その自分ならではの人生がそのまま他の人の為、国の為、世界の為になるのである。こうでなくてはならない、こうであったらいいのになんて自分の丈に合わない人生を模索する必要は無いのである。

 自分は今、そのままで神であり、自分の歩み、選択して来た人生はそのまま神が歩み、選択して来た人生なのである。それを人生は人生ではなく、神の生、即ち神生と言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-24 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

赦し

 私は正義感の強い人間で、理想も高い。組織とは人とは社会とはこうあるべきだという理想があり、それの実現に向けて、毎日、邁進している積もりである。そうなると組織の身近な人間とか地域の知り合いでその私の理想や正義感に合わない人間はこれを審き、嫌い、軽蔑し、憎む様にまでなるのである。

 私は人間は神の子で素晴らしく、どの人も皆、そのままで完全円満であるという信仰がある。だから、その信仰が現実の自分の目の前の人に適用出来て、相手を愛し、赦せる様になるのは皆、内なる神に全託している。

 ところでその赦せる瞬間というのがいよいよ出て来たのである。私の自宅で先日、誌友会があって、講師の先生がいらっしゃって、講話をして頂いた。私はノートにその日の誌友会の記録をその場でする事にしていて、日時やテーマ、そして講師の名前、参加者の名前をノートに書いて行く。そうしたら、講師の名字は分かったが名前の漢字が一瞬、分からなくて、ひらがなで書いたのだが、その後、講師の持っている出講依頼の葉書をチラッと見て、その講師の名前の漢字が分かり、その漢字名を講師のひらがなの名前の上に書いたのだが、それがうっかり、かなり上の方に書いてしまった。それでその名前だけが他の名字とかと離れて、目立つ所に記されたのである。私は自分だけのノートにも講師の名前には必ず、~先生と書き、決して名前だけ呼び捨てに書く事はしないが、心ならずも講師の名前だけが敬称抜きで目立つ所に書かれる様になった。
 それで私は司会だから、私のノートは講師がちょっと目をやれば、容易に見えるのである。その時、私はその名前の所にまた改めて先生という敬称を書こうかとも思った。私はその講師に「お前は口では私の事を先生と呼んでいるがノートには呼び捨てに書くのか」と疑われるのを恐れたのである。しかし、それは元々フルネームで講師の名前を書いていて、それには勿論、~先生と敬称を付けていたのが、後から名前の漢字をそのそばに書こうとしたら、うっかり、ちょっと離れた上に書いてしまったから、名前を呼び捨てに書いたみたいだが、実際はそんな呼び捨てに書いていないから、改めて、講師の名前の漢字の所に敬称を書く必要は無いとも思った。
 私はどうしようかちょっと一瞬、葛藤したが、結局、後から書いた講師の漢字の名前に敬称をつける事をしなかった。というのは私はそれを本当に講師に敬意を表して、敬称をつけようとしたのではなく、講師に誤解されて、憎まれる事を恐れたから敬称を書こうとしていると自分で判断したからである。私は恐怖心を元に行動する事はしないのである。そして、その恐怖に打ち勝ち、講師の名前に敬称をつけなかった。これは何でもない小さな事の様だが、これが途轍もない真理を私に教えてくれた。

 その時、私は悪気はなく、また、仮にこの講師に誤解されて憎まれる事になった事を想定すると人を憎む心の波動というものは如何に恐ろしいものであるかという事が体感された。そして、同時に私は人を赦す事の大切さをそれこそ、理屈抜きで思い知ったのである。そして、私は今まで人を憎み、軽蔑して来た自分を内心、懺悔した。

 人を赦す事が大切である。人が過ちを犯すのは悪気がある訳ではなくて、まだ魂が幼いか、仕方が無くて、そうしたのである。人を赦した時、自分も赦される。人を赦すという事は実相の罪を犯した事の無い姿を直視する事である。そうする時、対人恐怖は消える。人が恐いのは相手をこちらが憎み、相手からもこちらが赦されていないという心から来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-23 13:01 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

愛の流刑地

 先日、「愛の流刑地」というドラマのビデオを観た。これは映画にもなり、と言うか映画の方が先で後からドラマが出て来たのだが、私はドラマの方を観た。

 このドラマの原作は渡辺純一でこれは数年前の映画「失楽園」の原作者でもある。「失楽園」も私は観たが、これは一言で言って、不倫のドラマで、今回の「愛の流刑地」も同じく不倫のドラマである。「失楽園」の方は双方、連れ合いが居る同志の不倫カップルが最後には情死するというストーリーであり、この「愛の流刑地」は離婚した中年の元売れっ子作家と人妻の不倫の話しであり、情事中に男が女を絞め殺してしまうという話である。

 どうして絞め殺してしまったかと言えば、女が男に殺して欲しいと何回も懇願したからである。それで夢中になって殺してしまったのである。

 私の感想は一言で言って、これは究極の情欲の話であり、男女の恋愛物語の感動などはあまりないと言う事である。
 女性は性交中にエクスタシーに達するとこのまま殺して欲しいと思うそうである。情欲というものはそれほどのものでそれは死の誘惑にも通ずるらしいのである。そして、主人公はそれを成し遂げるのであるが、私はこれは本当の愛情ではないと思う。何故ならこの女は夫を裏切り、子を捨て、情欲に走り、それで自分の究極の欲望は達成出来たかも知れないが結果的には相手の男を殺人者にし、相手の男の元家族を殺人者の家族にし、そして、自分の娘には情欲の果てに殺された女の娘というレッテルを貼らせる事になってしまったからである。

 こんなものが本当の愛情であるはずがない。作家の渡辺純一氏は究極の愛情を描いたつもりならそれはとんだ見当違いである。本当の男女の愛というのは夫婦愛の中にこそある。それは相手を生かし、支え、相手の幸福のために尽くす事である。そして、その中から人格の陶冶があるのであって、そこにこそ人生という舞台での愛の究極の実現があるのである。それが結婚の目的であり、そこから全てのよきものが生み出されるのである。

 こうした情欲が男女の愛などと思うのはそれは全て、人間は物質であるという一大迷妄から来ているのである。それで男女の粘膜のふれ合いの快感こそが究極の人間としての悦びだなんてとんだ勘違いをするのである。そんなだから、人間は自己の肉体的欲望の為にどんどん自然破壊が進み、現在、地球環境の危機がせまっているのである。

 私が夫婦の操を守る事が大切だなんて言うと、友人の中にはせせら笑う者も居る。それは真理を知らないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-20 12:33 | 映画・ドラマ | Trackback(1) | Comments(0)

神を実感する。

 榎本恵吾先生が仰っておられた事だが、谷口雅春先生が求めた神は「自分の心が救われないままで業が清まりきらないままで無条件に救われる神が欲しい!」という事であったそうである。雅春先生は大本教に居らっしゃた頃、最後の審判の時には心の清いもののみが生き残れるという教えを信じて、修行されていたが、それなら自分は最も救われる資格が無いと悩み、恐れおののいておられたのである。そして、その後の血の滲むような求道の末、遂に無条件の救い、今、ここそのままで一切の罪ナシ、悪ナシの神を発見された。

 私は幼い頃から生長の家に触れていて、高校生練成を受け、その後、青年会に入って活動をしてきた。そして、自分ほど生長の家をやれているものはいないと傲慢になっていた。しかし、それは我(が)の間違った信仰であったから、破綻する時が来て、私は会社の仕事が続けられなくなった。私は光明化運動をやりながら、完全に人のためという心になれず、利己主義に負け、それで自分の心を清める事、保つ事に失敗し、神の道から転落したとその時はそう思っていた。要するに生長の家をやるにはきちんと行をやって、愛行をやり、自分の心を清め、神らしく保たなくてはならないが、私はそれに失敗し、後一歩の所で利己主義に負け、神の道から墜落した生長の家の落伍者であると思っていたのである。
 それで、私は宇治の生長の家の道場に行く事になり、そこで一般練成を受けた後、道場に残り、長期生、即ち研修生をやる事になったのである。その時、私は既に37歳で妻子も仕事もあったが、それらを家に残し、宇治で研修生をやる事になった。その時の私の気持ちと言ったら、これは表現のしようが無い。私は今まで生長の家の優等生で居た積もりで社会的地位や立場もそれなりにあると思っていたから、道場の研修生の古びた寮に入る事になった時、本当に自分は奈落の底に落ちたと思った。
 しかし、そこで練成会のテキストである「あなたは無限能力者」という雅春先生の御本を何気なく手に取って見ると、そこには「種というのは一度、地面に落とされてからでないと発芽する事が出来ない。箱に入れられて、高い棚の上に置かれたままであれば何時まで経っても発芽する事は無い。だから、自分が奈落の底に落ちたと思った時はそれはこれから芽が出て、飛躍するチャンスである。」と書いてあった。正にその時の自分にピッタリの御文章であった。その時、私は自分の心に関係無く無条件に神は直接、導きを下さり、救って下さるという事を実感したのである。
 その時が私が神を観念的にではなく、実際的に自覚し出した始めである。「ああ、自分は利己主義に負け、心のコントロールに失敗しても神はそんな事に関係なく、自分を現に直接、導いて下さっている」と自覚したのである。その後、私は榎本恵吾先生に導かれ、完全に魂が救われ、社会復帰し、現在に至っているのである。

 神を実感する事が大事である。それは自分がした事によって、どうなるという神ではなく、自分の心が整わないままで救って下さる神である。それを実感した時、悟りが始まる。

 自分のした事でどうこうなる様な神なら、それは本当の神ではない。自分が心を清めたら自分を生かしてくれる神で心を清める事に失敗したら見放す様な神であると思う事が迷いなのである。自分が何をしてもしなくても今、このままで無条件に救ってくれ、生かしてくれる神が本当の神であり、それを悟る事が実相独在の悟りであり、今、ここそのままで神の国、実相世界である事を観ずる事であり、それが神想観の神髄である。それはイメージトレーニング的に念ずるからその印象が段々深まる様な観念的なものではなくて、現に自分を今、完全に生かして、守って下さる神を実感する事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-19 13:25 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

神の国は我が内にあり(3)

 生長の家では中心帰一が大事であると言われる。具体的には生長の家の運動の中心は「生長の家の大神―生長の家総裁・副総裁―み教え」であり、生長の家の信徒はこの三つを貫く縦の流れが生長の家の運動の不動の中心であるという事を肝に銘じなければならないとある。全く、その通りである。昨日の文章でも書いたが、それが神意であるからである。

 しかし、その神意というものは本当はどこにあるかという事が問題である。生長の家は総裁・副総裁に中心帰一しなければならないから何が何でも両先生の言葉を盲信しなくてはならないなんてのも全く馬鹿げた事である。そんなのは全体主義の独裁者の言葉に何の疑いも持たないで盲信している愚民と同じである。

 本当の中心帰一というものは形ではなくて、心からなるものではなくてはならないのである。私は清超先生や雅宣先生の仰る事が分からない、自己の考えと違うと感じる時は批判は勿論しないが、考え込むという事もしない。そんな時は私はひたすら生長の家のお勤め、例えば誌友会のお誘いやその他のお世話活動や出講などをそれまで以上に一所懸命やる事にしている。そんな中で後から、両先生の仰っている事が分かったという事が殆どである。

 また、雅春先生がこう仰ってる、清超先生がああ仰ってる、雅宣先生がこう仰ってるという事でそれが真理の事よりも生活規範的な事を仰る事がたまにある。例えば、女性と二人きりで車に乗ってはならないとかお酒を呑んではならないとかけっこうそういう御文章もあるのである。そうなると谷口先生の仰る事が絶対だと思っていると先生がしてはならないと仰っている事をやるのは非常に悪い事の様な気がして来る事もある。
 しかし、そんなのは本当の信仰ではない。それは先生の言葉に縛られているのである。如何なる偉大な方と言えどもそれが自分の外にある存在であると認めるならば、その方のお言葉に縛られる事になるのである。そんな事では如何に表面的に善行しても真の善行とは言えぬ。真の善行とは自己の中に最高の価値を認め、そこから自ずと願いとして、本当にそうしたい、そうする事が悦びであると言う動機でなくては本当の善行とは言えないのである。

 吾等は信仰者として、生長の家の信徒して、例えそれが生長の家総裁・副総裁のお言葉であってもそれを外部からの指示であるとするならば、その言葉に断じて縛られてはならないのである。真理は自分の中にのみある。それに従ってさえおれば良いのである。自分の中の真理が自分で出て来る事によって、後から生長の家総裁・副総裁の仰っている事が分かるのである。生長の家総裁・副総裁に中心帰一するのは心からするのであって、外形的に縛られる事ではない。如何なる素晴らしいお言葉でもそれが自分の外にあるものと思っていれば駄目なのである。

 真理は我が内にのみあり、それがキリストが言われた「汝らの内にのみ神の国はあるなり」のお言葉である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-18 12:34 | 信仰 | Trackback | Comments(5)

生長の家は生きている

 現在の生長の家が昔と運動の展開が変わったと行って、非難したり、それで辞める人がいる。しかし、本当に優れた教えというものはその時の人類を救う為に時代に応じて、変幻自在にその展開の仕方が変わってしかるべきである。

 そもそも団体や組織というものは創始者が非常に独創的で優れていても、後年になって、組織が大きくなり、それを受け継ぐ後継者が創始者の独創性を忘れてしまって、組織維持の為のみに汲々として、その為、形骸化する事が多い。イエスが生誕した頃のユダヤでは当時のユダヤ教の教えがあったが、それは形骸化してしまっていて、聖書にこう書いてあるから、こうしなければならないとそうした多くの戒律が一人歩きしてしまって、その形の戒律にその頃のユダヤの人達は縛られていたのである。
 それをイエスが出現して、そんな形骸的戒律に縛られるのではなくて、内なる神から直接来る自由なインスピレーションに従って、多くの人達の魂を解放し、病を癒して行ったのである。それに対して、当時のユダヤ教の長老みたいな存在がパリサイ人(びと)という人達でこれがユダヤ教の戒律を厳格に守っていて、例えば、日曜日は安息日だから、決して労働をしてはいけないという事に凝り固まってしまっていて、イエスが日曜日に病人を癒したのを見ると「あいつは安息日に人を癒すという労働をした」と言って、イエスを激しく非難したそうである。

 そういう風に宗教やその他の組織でもそれが年月を経て、代替わりするに従って、段々形骸化して来て、その本質の生命が失われていくのが普通である。しかしながら、生長の家はそんな事は無く、その時代に応じて、変幻自在に必要な働き、運動の展開の仕方をして行くのである。生長の家は代を重ねてもそれは決して、形骸化する事無く、正に生きた教え、運動であると言えるのである。
 組織の中心者である総裁・副総裁先生が最も純粋で柔軟な心をお持ちになって、神の御心を聞き、その通りに具体的運動が展開されるので、生長の家は時代に応じて、どんどん形態や方針を変えるのである。だから、生長の家では生長の家の大神―総裁・副総裁―御教えという流れが大切であると言われるのである
 
堀 浩二
by koujihori | 2008-06-17 13:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)