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とらわれない(3)

 生長の家は実に多くの本が出ている。これは調べた訳ではないから正確ではないかも知れないが、何でもギネスブックで生涯最も多くの本を書いた人として谷口雅春先生の御名前が登録されているそうである。
 雅春先生は古今東西の世界宗教と言われる教えの共通した神髄を現代に生かそうとそれを日本語の現代語で実に分かり易くあらゆる角度から真理を説いて下さっている。中にはセックスのテクニックの事まで細かく書いてある本もある位である。もっともそれは雅春先生が好きこのんで書いているのではなくて人類を救わずにおれないという溢れるばかりの熱情でお書きになったのである。

 それで、若人は何を勉強したら良いかとか、女の人と二人っきりで車に乗ってはならないとか色々細かい事を先生はお書きになっている。また、最近では谷口雅宣先生が御自身のブログで「ながら主義」というのは良くないとお書きになっている。それは歩きながらアイポッドとかウォークマンとか聞いていたりすると自分の周りの環境から色々なもの、例えば風の音とか人々の声とかそうしたものを感じ取る事が出来ず、それは先生がいつも強調される、「感じ取る感性」が必要であるという事に反すると仰っている。

 この様に生長の家の教えには具体的にどう生きるべきかという事が良く説かれている。しかし、それは勿論、良き事ではあるが、それにとらわれては駄目なのである。
 私は英会話を勉強しているが、ヒアリングの訓練は実は朝の通勤の時間を利用している。自宅から駅までおよそ2キロの道のりをバスを使わず、徒歩で約30分掛けて歩くのだが、その時、ポータブルラジオでイヤホンを使って、AFNの英語放送を聴いているのである。
 私は雅宣先生が「ながら主義」は良くないと言う事をお書きになっていたのを読んでから、自分のやっている事は教えに反しているのではないかとちょっと悩んだ事がある。しかし、私は如何なる悩みも自分の頭脳ではなく、神が解決して下さると信じているので放っておいた。そうしたら、私は自分から最初の5分位はラジオは聴かないで、自分の周囲の風音などの自然の物音を味わっている自分を見出した。私は自宅を出て、5分位はラジオを聴く気がせず、その後、イヤホンを耳に付けて、英語のラジオ放送に集中しながら歩いていたのである。

 この様に生長の家の生き方を外側からこうしなくてはならぬと外形的にとらわれてやったら生命の自由を失う。生長の家の生き方は実に内側から自ずと出て来るのである。
 生長の家の生き方に拘わらず、如何なる良き事でも一つの型にとらわれては生命の自由、臨機応変さを失い、生命は窒息する他はない。

  吾々は今、完全円満の神の子であるが、自分が今、完全円満であるという事は今、何をどうすべきかという事に関して、内側から百%インスピレーションをくみ取って、どんどんやって行くという事であり、そこには一定の型は無い。一つの型にとらわれると生命の自由を失う。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-30 12:38 | 信仰 | Trackback(4) | Comments(5)

実相は自分で出て来る。(13)

 実相は自分で出て来るという事は榎本恵吾先生に教わった事であるが、これはあの生長の家の初期の谷口雅春先生の高弟である彫刻家の服部仁郎先生が仰っていたそうである。実相は我(が)が心のレンズを真っ直ぐにしようとしたり、清めようなんてあくせくしなくても、実相自らが自分の力で出て来るのである。心を清める為に行をするとかなんとか言うがそれは我(が)がやっているという事になるので「願無き行は仏の魔事なり」という事になるのである。
 そして、その実相が自分で出て来るという事が先日も触れたが「吾が業(わざ)は吾が為すに非ず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」という招神歌として生長の家の神髄がそこに表現されているのである。
 そして、それこそが谷口雅春先生が「現象はナイ、心もナイ、実相のみがある。」という実相独在の生長の家の真理をお悟りになったあのお悟りである。それまでは先生は我(が)の努力で自己の心を清めよう、善行を為そうともがいておられたのである。
{しかるに何故、現代の生長の家の信者の多くは心を清める為に行とか行おうとか徳を積む為に講習会の券をこれだけ売ろうとかという段階に何時までも留まっているのであろうか?そういう時期は信仰する初期段階としては万人が通らなくてはならないが、それは信仰の、生長の家の初期段階であって、決して、神髄ではない。)

 従って、生長の家の迦葉尊者と呼ばれる吉田國太郎先生も榎本恵吾先生も口を揃えて、仰る所の「生命の実相」第七巻生活編から生長の家に入るのは感心しないという事になるのである。
 悟りも無いのに形だけ生長の家の生き方をやろうとしてもそれは我(が)が無理矢理やっているのであるから、所詮、真の実行は不可能になり、やれないという事になる。生長の家の生き方は我(が)の頑張りで出来る事ではなくて、我が内の神が直接、出て来て為される様にならないと真には出来ないのである。

 それは実相が自分で出て来る事によってのみ可能である。吾々は長年の血の滲む様な求道の中で自己の内部に神に生かされた完全円満の生命の実相を発見する。発見するという事はそれが出て来る初期段階である。発見したら、それを使いたくなるのである。自己に無限力があると認められれば自ずとそれを使えるし、使いたくなるからである。
 しかし、そうなるまでには一筋縄では行かない。自己の内部に完全円満の生命の実相があると自覚出来ればそれが使え、使えればそれが出て来るという事になるが、その自己の生命の実相の自覚の程度も段階があって、その自覚は徐々に深まって来るのである。
 即ち自覚や悟りというものも無限生長するのであって、その自覚が深まり、生長する毎に真理の実行の仕方の段階も高く、深く、多様性に富んだものになるのである。それが実相が徐々に自分で出て来るという事である。そして、それは決して甘い道のりではない。吾等の火の出るような求道生活において、色々な経験を踏みながら出て来る。それは我(が)が頑張っているのではなく、自己の中の生命の実相が自分で出ようと欲して、その営みをしているのである。

 私は11年前に生長の家の宇治の道場で榎本先生の薫陶により、自己の内部に完全円満の生命の実相を発見する事が出来た。そしてこの11年間はそれの自覚を如何に生活化するかの訓練の連続であったが、私は生長の家の「生命の実相」生活編に書かれている生き方を無理に自分に課す様な事は一切せず、自由奔放に生きてきた。怒りたい時は怒ったし、その他、余り、とらわれずにしたい事をして来たし、したくない事はして来なかった。しかし、そうする中で内側から自ずと生長の家の生き方が徐々に出て来ているのを実感するのである。

 私は人の良い所のみを見てそれを伸ばす、それは自分を含めてであるが、この事が最近、実感として分かってきたが、それは私の幾たびの様々な経験から自ずと自覚出来たのである。それは11年前に自己の内部に生命の実相を発見してから、それが徐々に自分で出て来たその過程の中での一つの大きな生長である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-29 13:06 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

他力

 作家の五木寛之の本で「他力」という本がある。氏によるともうこれからは他力でなければ救われないと言うのである。氏は特別な宗教を信仰している訳ではないと言うが、信仰という事に対するその洞察力は誠に目を見張るものがあると私は思う。
 他力という言葉は他力本願という言葉で言われる様に余り良い印象が無いかも知れない。また、生長の家では一切の責任は我が内にありという自覚の大切さを説くから、他力本願などという考え方とは相容れない様にも見える。
 しかし、究極の真理は他力という事である。他力の反対は自力という事であるが、自力というものは我(が)の力の事であり、私が、オレが偉いのだ、オレ様がやってやるのだという心であり、そこには生かされているという感謝は無い。
 生長の家は「吾が業(わざ)は吾が為すに非ず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」という招神歌に表されている事がその神髄である。自分が生きられたり、何か出来るのは自分が偉いのでも無ければ、頑張っている訳でも無い。ただひたすら宇宙に遍満している始めから完全円満の神に生かされ、幸はえられているからであり、だからこそそこに感謝があるのであり、従って、吾々はただ感謝、ただ悦びのみの状態がそのままの状態である。それが神の子の本質というものである。

 他力というのは自他の区別がある上の他力ではなく、自力なるものは本来存在しない虚のものであって、存在するのは宇宙に遍満している実相なる神である絶対他力である。
 その絶対他力によって吾等は生かされているのであり、全ての導きも与えられる。だから、他力と言うことは真理であり、とても大切な事なのである。それは吾々の生長も真理の実践も悟りも自分の力ではなく、神の御力により為されるという事である。 

 だから、心配する事は無い。問題は神が解決して下さる。人とは神が調和させて下さる。健康は神が回復させて下さる。元気は神が下さる。吾等はただ、神なる絶対他力に委ねておれば良いのである。私は要らない。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-28 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

今、悦んでよい(3)

 榎本恵吾先生が強調されていたのは「今、悦びなさい。今、悦ばないで何時、悦ぶんですか。」という事であった。大抵の人は「この病気が治ってから」とか「自分の実力がこれだけ上がったら」とかと悦ぶのを先送りにしているのである。
 そして、現在は将来の悦びの為に一所懸命励む時、善行を積む時、又は過去の迷いの自壊作用の時であるから、今はまだ悦べないなんて思っているのである。しかし、そんな考え方では永遠に悦べる時は来ないのである。何故なら、将来などと言うものは無く、時間というのは「今」しか存在しないからである。

 吾々が完全円満であり、無限力であるという事は何時の事かと言ったら、将来の事ではなくて、「今」の事なのである。今、正に吾々は完全円満であり、無限力なのである。
 それを「いや、そうじゃない、そうは言うけど私はまだこれだけ不完全な肉体ですよ、病気ですよ、まだ自分の実力はこんなに拙いですよ」なんて言う人がいる。
 しかし、吾々はあれほど現象はナイと教えられているのである。現象はナイのである。現象は陽炎のようなものであるから、良い時もあれば悪い時もあるのである。そんなものの良し悪しで吾等は自分の存在が素晴らしいとか駄目だなんて決めつけてはならないのである。

 現象が如何なる状態であろうとも今、このままで完全円満であり、無限力である。現象などは良い時もあれば、悪い時もある。そんなものを良くしようとかその良し悪しで一喜一憂してはならない。

 それが分かれば吾々は現象が如何なる状態でも今、悦べるのである。今、無限力を発揮出来るのである。信仰によって、徐々に潜在意識を清めて行って、それからその反映である現象の肉体を徐々に良くして行って、それが良くなったら悦びましょうなんて言っていても、次の瞬間には不意の事故で死ぬかもしれないのである。通り魔にあっというまに殺されてしまうかも知れないのである。
 現象を頼みにして、それが良くなった悦びましょうなんて言っている信仰者の信仰など現象が崩れる事でもろくも崩れ去ってしまうのである。

堀 浩二 
by koujihori | 2008-07-25 12:35 | 信仰 | Trackback | Comments(8)

真理の生活化は難しい?

 吾々は生長の家の真理を頭脳的把握だけでなくその真理の行動化、生活化が大事であると教えられている。
 
 しかし、この生長の家の真理の生活化というのがこれが実際、中々難しい。何故ならば、「取り越し苦労するな」と言う教えがあるが、これは取り越し苦労は百害あって一利なしと頭では分かっているもののそれをすまいと思ってもそう思えば思う程、してしまうのである。それはこの宇宙が全知全能の神によって、完全に運行されているという事を信じる事が出来ず、それに全託し切れないからであると聖典「生命の実相」生活編には書かれている。
 また、「思い切りよく押し強く勇敢に断行せよ」という教えもいざとなると勇気が出ずにものおじしてしまうという事がある。要するに「分かっちゃいるけど止められない、又は出来ない」というのが多くの人の実感ではないだろうか?

 しかし、それは何故、出来ないかと言ったら我(が)が無理矢理やろうとしているからである。我(が)というものはその存在を神に根ざしたものではないから、何の力も無いのである。我(が)が空回りする事はあるが、実質的な事は何も出来はしない。

 真理の生活化というのは我(が)ではなくて、我が内の神が直接、内側から出て来て初めて可能である。それが吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)と言う招神歌の言葉になっているのである。

 それは具体的に言うと自分の中にそのままで完全円満で無限力なる神を発見する事が同時に神の御力が具体的に発現するという事である。自分に今、無限力があると分かれば、それをすぐに使えるからである。
 
 自分が今、完全円満であると自覚する事が同時に無限生長の道であり、悟りが更に深まる事であり、思い切り良く、勇敢に行動する事であり、全託の生き方である。即ち、生長の家の生き方は自己が今、完全円満であるという自覚のある所、自ずと出来るのである。それは我(が)が頑張ってやるのではない。我が内の神が御自分で出て来て、自ら神するのである。

 そして、吾等は皆、本質は神そのもの、悟りそのものであるから、それぞれの人生経験を通して、必ず自己の生命の実相を自ずと悟る事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-24 13:00 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

練習が自分を良くするのではない。

 吾々の能力が向上する為には訓練や練習が必要であると言われる。それは当たり前の事で反復練習をしていれば、その繰り返しが潜在意識に蓄積されて、能力は向上する。潜在意識は無意識的に自動的に発動するから、ある動作を反復練習して行けば、それは無意識的に自動的に出来る様にもなる。それは現在意識の繰り返しが潜在意識に蓄積されるからである。
 
 しかし、良くなろうと思って、練習とか行を繰り返し行い、それで潜在意識に蓄積させて行こうとしても、それが却って、悪化したり、下手になる事がある。それはどうしてかと言うとその訓練は自分の中から出て来た神の働きによるものではなくて、我(が)によるものであるからである。
 それは我(が)という偽物の自分が自分を不完全と認め、それを良くしようとする為に行う反復練習であるから、やればやる程、自分は不完全だ、自分は不完全だと言う思いがますます強くなって、最後にはつぶれてしまうのである。
 我(が)という偽物、非実在のものが一人であがいて、空回りして、それで最後にはその非実在の本性を明らかにして自消自滅するのである。
 
 不眠症の人が睡眠する練習で眠れる様になるであろうか?病気で食事が摂れない人が食べる練習をする事で食べられる様になるであろうか?インポテンツになった人が練習で男性が機能する様になるであろうか?答えはノーである。
 練習するから良くなるのではない。既に自分の中に完全円満の無限力の神を発見するから、自ずとその力を使えて、結果的に練習になるのである。
 自分が今、無限力であると分かれば、それを使える。それは我(が)の努力ではなくて、自ずと出来るのである。肉体の健康も実現するし、能力も自ずと出て来る。

 吾々の本質は正に神であり、悟りであるから、それを必ず自己発見するのである。吾々の人生はその内なる無限、完全円満を自己発見して行く道程である。全ての経験はその為にある。そして、その道程と過程が実相が自分で出て来ている過程である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-23 12:32 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(12)

 私はテニスは長年やっているが、この所、どうも負けが込んでいた。自分としてはサービスは研究の余地があるが、グラウンドストロークに関しては自分はもうほぼ完璧であると思っていて、ボレーも得意ではないが、問題も別段無いと思っていて、これは何故勝てないかと言ったら、オーバーウェイト気味なのとダブルスのパートナーに恵まれないから位に思っていた。
 
 しかし、先日、二試合連続で0-6のスコアで負けた時、さすがに考えた。これはどうもまずい所が自分のテニスにあるのではないかと。
 というのは一試合目が終わった後、対戦相手の内の一人の方が私にボレーの仕方でアドバイスを下さったのであるが、その時はそんなものかと思って聞いていて、大して気にも留めていなかったが、その後、また次の試合で0-6で一つもゲームが取れないで負けた時、これはどうも自分の技術に問題があるのではないかと思い始めて来た。具体的に言うと私はボレーが下手なのではないかとその時、初めて気付いたのである。ダブルスというのはボレーを多用するのでボレーの良し悪しが非常に試合の勝ち負けに影響するのである。
 そして、そのアドバイスは私のボレーの課題点を見事についていて、それと同時に今まで見てきたボレーの上手い人の打ち方を何となく、思い出したりなんかしている内に私はボレーの正しい打ち方という事が内側から直感的に分かって来た。
 
 そんな事があってから私は段々、得点出来る様になり、試合も勝てる様になって来たのである。要するにそれまでの自分はグラウンドストロークやボレーは問題無いと高をくくっていたが、余りにも試合に勝てないという結果を刈り取り、反省せざるを得ない状況になり、そこに丁度、良いタイミングで上手い人からアドバイスをもらった事により、自分の打ち方やり方に問題があった事が心の底から分かったのである。そしてすぐさま、正しいやり方、打ち方を自分で内側から分かって、それが同時に身に付き、そして、試合も段々勝てる様になって来たのである。

 実相は自分で出て来る。テニスではコツや法則を身につけていないと勝つ事は出来ないが、それは外側から取って付けた様にやっても真には身に付かない。経験の中から本当にこうやったら良いと内側から分かった時のみそれが身に付く。言うなれば、内側に既にある技が自分で出て来た時のみそれが身に付いたと言えるのである。
 その様に実相は外側から生長の家の生き方を付け足して行って出て来るのではなく、自分で内側から出て来るのである。それは経験を積み、そしてその時に丁度良い導きや救いを神様が誰かを通して、吾等に下さるという形を取って、出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-22 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

信仰が必要

 10年前の学園ドラマでGTOというドラマがある。主演は反町隆史で反町扮する型破りの教師の活躍を描いたものである。ストーリーはある高校に赴任して来た新米教師が問題児の多いクラスの担任を任され、そこで生徒と衝突しながらも体を張った教育で徐々に生徒の心をつかみ、その可能性を開かせて行くというものである。

 ドラマは誠に痛快であり、ユーモアもありで当時、私は夢中になって観ていた。最近、今、人気絶頂の小栗旬が当時、GTOにいじめられっ子役で出ていたと週刊誌に書いてあり、私はそのいじめられっ子というのは良く憶えていたが、それがあの小栗旬とは夢にも思わず、びっくりして、その事を確認すべくレンタルビデオ屋でこのGTOのビデオを借りてきてもう一度、見てみた。そうしたら当時、彼は中学生だったそうであどけない顔をしていたが、確かに小栗旬その人であった。

 ところでこのGTO(これはグレートティーチャー鬼塚の略である)なる鬼塚栄吉という教師は常識にとらわれず、全てが型破りでそして、一切の悪に妥協しないのである。そして、彼自身はけっこう女性にもてるタイプでもあるから、女子高生とか教え子の母親とかと不適切な関係になろうと思えばなれるのに25歳という役の設定だがまだ女性を知らないのである。要するに彼がドラマで言うには自分は本当に愛した女としかしないと言うのである。そして、型破りで乱暴な所があるが生徒の事を真に思いやり、体当たりであらゆる事に立ち向かい、生徒の可能性を開いて行く。私はこのGTOという人物は役所は単なる教師だが、やっている事、考えている事はキリストなどの聖者と匹敵すると思う。
 要するに一人一人の個性と可能性を信じ、それを育て、そして、そうした子供の可能性をつぶそうとする汚い大人に対しては敢然と立ち向かい、そして、決して、肉欲だけの恋愛には走らず、最後は最愛の女性(この相手役を演じるのは後に反町の奥さんとなる松嶋菜々子である)と結ばれるのである。
 テレビドラマとか映画とかは本当に感動を誘うのはこのGTOの様に人間の本来の姿、神の子としてのあるべき姿、即ち真理というものが一本筋が通っているかいないかが非常に重要な要素を占めるのである。

 現在、マスコミを騒がしているのは例のタレントの山本モナとプロ野球選手の二岡智宏との不倫騒動やそれと教員試験の不正採用事件などであろう。これらの人々は社会的には一応の常識人だったのであろうが、正しい信仰が無い為に目の前の肉欲とか名誉欲に負けたのである。
 人間は単なる常識人とかそんな事ではぎりぎりの所で道を踏み外すのである。正しい信仰の無い人間というのはぎりぎりの所で、肉欲や名誉欲、金銭欲に負けるのである。それは自分の中に絶対に不動の核となる信仰、信念が無いからである。

 現在、環境問題が話題になって久しいが、これも単に地球が危ないとかなんとか漠然と考えているだけでは具体的な行動を起こす事は出来ない。本当に全ての生命が神において自他一体であり、それは物質ではなくて神の尊い生命であるという信仰が根本に無ければ、絶対にこの地球環境問題を人類は乗り切る事が出来ないのである。

 正しい信仰というのは是非とも必要である。事業家も政治家も教師もそして全人類一人一人にである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-18 13:08 | 映画・ドラマ | Trackback(3) | Comments(4)

恩返し病

 榎本恵吾先生の御講話である癌の治った婦人の話が出て来る。それはある婦人が癌になて、生長の家で指導されて、一所懸命信仰したら、癌が治ったというのである。
 そして、この婦人は生長の家の真理で救われたのだから、恩返しをしなければならないという事で光明化運動しなくてはならないと思ったそうである。しかし、その婦人の夫はある商売をやっているが(何屋だか、失念した)、店は殆ど妻であるその婦人に任せて、ゴルフだなんだと遊びほうけていたのだそうである。
 そうしたら、その婦人が店を一人で切り盛りしなくてはならないという事になり、光明化運動をしようにも物理的に出来ないという事になったのである。そうして、自分は生長の家で救われていながら、恩返しが出来ないと悶々としていたら、ある時、癌が再発したと言うのである。
 それで自分は一旦は生長の家で癌を治してもらったのにその恩返しが出来ないから癌が再発したのであり、どうにもこうにも恩返しが出来ないから、もう自分は助からないと思って絶望したそうである。そして、宇治の生長の家の道場に最後の望みを託して、練成を受けに来て、そこで榎本先生の薫陶を受ける事が出来たのである。
 そして、生長の家に救われたも何も無い、そんなものは所詮、現象であって、自分は最初から、神に救われ、生かされている生命であったと悟る事が出来たのである。
 
 よく自分は生長の家に救われたから恩返しの為に光明化運動を頑張るとか講習会の受講券をこれだけ売るなんて決意発表している人がいるが、事情により、そうする事が出来ない人もいるのである。
 そうしたら、その人はもう恩知らずの裏切り者だから救われないなんて事になってしまうが、そんな事は決して無い。何故なら、自分が病気になったとかそれが生長の家に救われたとかなんて言うのは現象であって、神の世界から見れば、そんなものはナイ!からである。
 そんな本来無い現象をアルと思うから、恩返し出来ない自分に苦しむのである。それを榎本先生は「恩返し病」と表現されていた。それは本来無い現象に引っ掛かっているのであり、そんなものに引っ掛かっている限り、実相の神の本当の生かしを忘れているのであるから、本当の感謝もそして、本当の恩返しも出来ないのである。
 
 光明化運動が出来ないと嘆く必要は無い。光明化運動は神が既に完成して下さっている。恩返しは既に全宇宙に行き渡っているのである。その悦びを表現したくて、伝えたくて、活動するのが真の光明化運動である。

さて、その婦人であるが、榎本先生に既に自分が始めから救われている生命であると諭されてから、再発した癌が消滅し、そして、現在は喜々として、白鳩会で人類光明化運動に邁進しているそうである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-17 12:34 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

出来ないのは力を使っていないから

 ここでも再三、申し上げたが吾々が神の子無限力であるという事は今の事なのである。生長の家をちょっと勉強すれば、人間は神の子で実相は完全円満、無限力であると言う事を教えられる。そして、現象にそれを持ち来すには自己の潜在意識を清め、心のレンズを真っ直ぐにして、そして、訓練をして行き、それをやはり潜在意識に浸透させて、その後、初めて肉体にも健康とか無限力が出て来ると言う事を知る。
 しかし、確かに手続き的にはその通りかもしれないがそれをその言葉通り、受け取っては実相の神の子無限力、完全円満という事と現実の今の実際の自分とはちょっと隔たりがある様な感じがするのである。
 
 本当の真理から言えば、現象はナイのであり、今、ここそのままが実相世界であり、その世界の住人である自分はたった今、完全円満、無限力であり、無限力であるから今その力を使えるのである。潜在意識を清めてからとか行を沢山やってから良くなったりするのではない。今、そのままで既に良いのであり、完全円満なのである。

 私はその事が分かってから、今すぐあらゆる力を使える様になったのである。以前は実相は完全円満無限力であるが、実際の肉体や現象にそれを持ち来すには訓練をして、自分を良くして行かなくてはならないと実相の他に現象や肉体を認める二元論に陥っていたのである。そうではなくて、今、そのままで完全円満、無限力である。それが分かれば、今すぐその力を使える。
 英語も今、分かると思えば、アメリカ人やイギリス人が普通に話す早い英語も聴き取る事が出来るのである。今まで分からなかったのは始めから自分にはこんな早くて発音も聴き取りにくい本場の英語を分からないと勝手に自己限定していたから、本気でそれを注意して聴こうとしていなかったからであり、長年そうしていれば、力は錆び付くからますます分からなかっただけである。

 今、出来る、今、分かると分かれば、その自分の無限力をどんどん使う事になるから、それが本当の訓練になって、めきめき力が出て来るのである。
 私は12年前に神経を壊して、野球のボールがまっすぐ投げられなくなったが、その後、健康を取り戻したが、このボールがまっすぐ投げられないという状態だけは良くならなかった。しかし、それは自分は実相は神の子無限力かも知れないが肉体の神経は壊したから、肉体的にはまだ投げられないが、訓練を地道にやって行けば、その内、投げられる様になるだろうと漠然に考えていたから駄目だったのである。
 それは実相の完全円満な自分の他に肉体の不完全な自分を認める二元論にいつの間にか陥っていたのである。要するに現実の今の自分は不完全な肉体であると端的に言えば、考えていたのであり、だから、既に今、完全円満な無限力の自分であり、力があるのにそれを使う事が出来ず、従って、その部分の筋肉や神経が錆び付いたままであったので何時まで経っても真っ直ぐ投げられなかったのである。

 私はその事に如実に気付き、今、自分は完全円満で無限力であると信じて、思い切って、ボールを投げる様にしたら、かなり真っ直ぐ力のあるボールが投げられる様になって来たのである。
 そして、今までまだ出来ないと思っていた為に使っていなかった筋肉や神経がどんどん使われていって、その結果、活性化して来ている事を如実に実感する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-16 12:28 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)