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本当の愛行

 人間は自分と世界が既に救われていて、そのままでよいと分かると生命が悦び出し、他に心のこもった愛行が出来る。その悦びは安心して、自己の勉強や訓練や趣味に打ち込める事であり、それは又、他の為に自己の力で貢献したい、その為に勉強したいという心でもあるのである。
 即ち、他がまだ救われていなくて、自分は勉強とか趣味をやっている時間など無いと思っている心は実は真の愛ではないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-28 12:43 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

勝利にこだわらない

 先日、北京オリンピックが無事、終了した。日本チームは金メダル9個と前回のアテネに比べるとちょっと成績が下がったようだが、前回は出来すぎとの事で今回は水泳の北島や女子ソフトボールなどが頑張ったので良かったのじゃないかと思う。

 オリンピックは最高のスポーツイベントであり、これは四年に一回しかないので選手達はこの最高のイベントに向けて、四年間、調整をして来る。オリンピックの勝者が真のスポーツの勝者であるという見方が大きいので、各選手達はここでメダルを取る事に本当にしのぎを削る。そして、実際メダルが取れたらそれは素晴らしく悦ばしい事である事には間違いは無い。
 しかし、大事なのは実は勝敗ではない。勝敗というのはあくまで結果即ち現象に過ぎない。金メダルとか勝利とか言う良い結果は素直に悦んだら良いし、勝利した大体の選手が口を揃えて言っているが、その華々しい結果は自分の力だけではなくて、多くのそれを支えてくれた人達のお陰であり、その人達に感謝するという事は素晴らしい事である。しかし、それが如何に素晴らしいものであっても結果という現象である以上、もうそれに喜んで、協力者に感謝したら、それに何時までもこだわらないで忘れるのが良いと思う。

 女子ソフトボールで日本は常勝アメリカを破って、悲願の金メダルを手に入れた。それは素晴らしい事であるが、勝敗というものは時の運であって、たまたま運が良かったから勝てたという部分も大きいと思う。
 そんな金メダルを取ったという結果よりも私が素晴らしいと思うのは上野投手の脅威の精神力である。前の日に二試合も投げて300球以上も投げていて、かなり疲労が溜まっているだろうに翌日の決勝戦でも気迫のピッチングを続け、一番すごかったのは六回の一死満塁のピンチに心が折れず、二人の打者をフライに打ち取った所だろうが、この気迫と絶対諦めない執念と勇気に私は脱帽する。無論、他のメンバーの働きも素晴らしかったのは言うまでも無いが。
 
 金メダルとか勝利にこだわる余り、必要以上の事をするのは結果という現象を追い求める醜い行為であり、そうした事にとらわれたりするのは良くない。試合の勝敗などというものはあくまで結果であって、それにこだわらずに自分の可能性を信じて、勇気を出して、全力でぶち当たる事こそが素晴らしいと思う。上野投手はその事の大切さを良く教えてくれたと思う。

 しかし、いくら上野投手が素晴らしくて気迫のピッチングをしても相手の打者がそれよりも優れていれば、日本は負けていたのである。女子柔道の78キロ超級の塚田選手も上野選手と同様に決勝の試合をポイントで充分リードしておきながら、最後まで攻める姿勢を崩さず、それで最後の十秒で逆転の背負い投げを食らって負けたが、私は塚田選手は立派だったと思う。彼女は試合後はさばさばした表情で喜んで銀メダルを受け取っていた。
 これが本当のスポーツマンシップだと思うし、これはある意味、金メダルを取る事よりも価値ある行いだと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-26 13:02 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(2)

吾等は今、このままで完全円満、無限力である。(2)

 生長の家の信仰をしていると何か自分に問題がある場合、その信仰で自分の問題を解決しよう、良くしようと思いがちである。しかし、そこが落とし穴である。問題というのは具体的な存在ではなくて、自己の心の映しである。如何なる具体的な問題に映ろうともそれは何等具体性も無く、従って、自己を脅かす力も何も無いのである。それを大抵の人はこれが問題だ、問題だ、この問題さえ片付けば、自分は完璧になれる、その時こそ、全力を尽くしましょう、人様のお役に立たせて頂きましょうなんて悶々と思っているのである。

 しかし、それは何も具体性が無く、自己が勝手にこの世には問題アリと自己限定する心のつかみが問題を映し出し、あたかも自分を困らせ、悩ませる具体的な問題がある様に感じられているだけである。何故なら、この世界には心の法則という厳然とした法則があり、自己の認識が映っている世界であるからである。その自己が勝手に想像した問題を何とか解決いたしましょうとして、信仰するのは問題を解決するには逆効果である。何故なら、問題を解決しようとした途端、本来有りもしない問題を自己の心がつかむからである。つかんだら、心の法則が働いて、いくら努力しても問題が消えないのである。それは何かのきっかけで自分の心の対象が変わるとその問題が別のものに移行する場合がある。それで悩みは尽きないなんて本人は嘆息するが、そうした悩みが具体的に存在するのではなくて、自己が勝手に心を引っ掛からせ、問題を現象世界に映しているだけである。

 信仰で問題を解決しようとして、信仰生活や何らかの宗教的行をするものはそういう訳でいくらやっても否、逆にそうした信仰をすればするほど、問題アリの心の反映で問題は消えないのである。

 吾等はこのままで完全円満である。今、そのままで不完全な現象はナイのである。問題はナイのである。そんなものはナイとして、心を引っ掛からせず、今、自分は完全円満である神の子と自覚して、自分に出来る事、自分のやるべき事に全力で力を傾注すれば良いのである。

堀 浩二」
by koujihori | 2008-08-25 12:58 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

努力とか修行の意味

現在、北京オリンピック真っ盛りであり、各選手は自己の力を出し、メダルを取る事にしのぎを削っている。オリンピック選手でなくても、吾々は人間としてこの世に生を受けた以上は自己のフィールドで力を思う存分発揮したいし、また病気などの何らかの人生苦のさなかに居る人は無限力を発揮して、病気とかその他の問題を解決したいだろう。
 その為に吾々は努力とか訓練を熱心にする。しかし、吾々は努力とか訓練によって、不完全なでくの坊が完全な素晴らしい力を発揮するものに変化する訳ではない。自己が元々、不完全ででくの坊と思って、訓練したり、修行してもその力を発揮する事は難しい。ダイヤは磨けば光るがそれは元々素晴らしい輝きのある石であるからであり、元々輝きのないただの石ころをいくら磨いた所でダイヤの様な素晴らしい光沢は出て来ない。

 吾々が力を発揮したい、健康でありたいと切に願うのは吾々の本質がでくの坊とか病気であるからではなくて、無限力、無限健康を持った完全円満の神の生命であるからである。だから、それを発揮したいと心から思うのである。その為に色々な訓練や練習や修行をするが、その修行とか訓練というものが自己を良くする、即ち元々でくの坊であるつまらないものが素晴らしいものにしていくと思って、訓練しても、それはただの石ころをダイヤにする為に一所懸命磨いているのと同じで到底、素晴らしい力を発揮する事は出来ない。
 吾々の実相は神そのものであり、完全円満なのであるから、修行とか訓練というのは元々駄目なものを良くするものではなくて、既に完全円満である自己の実相を人生経験を通して、発見するという事である。
 人生経験の中でそれは具体的にどういう展開を取るかと言ったら、自分に何か課題が何らかの巡り合わせによって、与えられるのである。それは決して、吾々を苦しめる為に出て来るのではなくて、自己の内部の無限の可能性に気付かせてくれる為のものである。
 大抵はそれを受ける事が困難に感じ、恐怖に想い、それを受けるのに怖じ気づいて逃げ出したくなるのである。しかし、それを逃げないで立ち向かって行けば、恐いと思ったり、困難に感じた事は単なる自己の取り越し苦労に過ぎないものであり、実際にはそこに何も問題は無く、そこには神の国しか無かったという事を見出すのである。それが自己の生命の実相を発見するという事である。実際に自己の内部に無限力、完全円満を発見すれば、それが即ち、その無限力を表現する事が出来るのである。

 誠にも修行や訓練は自己を良くする事ではなくて、自己の内部に既に完全円満の神の生命を発見する人生経験の事である。だから、吾々は如何なる困難にあっても決して、諦めたらならないのである。その困難の先に天国があるとはそういう事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-20 13:15 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(1)

私の人生は私の人生ではなくて、神の人生である。

 吾々は神の子である。そして、今ここ神の国である。しかし、それは現象の事ではない。現象は存在せず、それは吾等の心の影であり映しである。要するに吾等は自分の認識の世界に住んでいるのである。そして、吾等がこの世界及び自分を如何に認識するかが自分の周囲を取り巻く現象世界が如何なるものとなるかが決まってくる。
 この世界が神の国で完全円満の世界であると吾等が認識すれば、その認識通りの世界が自分の周りに展開する。そして、それは現在だけではなくて現在過去未来全てに於いて展開するのである。それは具体的にどういう事になるかと言うと自分が神であり、今、ここが神の国であり、完全円満の世界であり、一つも矛盾も間違いも無い世界であると悟る事が出来ると自分の今まで歩んできた道が全て神に導かれた完全な歩みであって、一つも間違いが無かったという事が自ずと分かるのである。
 反対に自分の自覚が幼くて、自分は完全円満の神の子ではなくて、不完全な罪深い肉の子であるという認識しか無ければ、現在の自分や自分の運命ばかりか過去の自分の歩みが如何に間違ったものであって、多くの罪を犯して来た実に不完全なものであるかという風に感じられる。そして、後悔と罪の意識で一杯になり、心がさいなまれるのである。そういう状態を心のレンズの歪みというのである。
 即ち吾々は今、何の間違いもない完全円満の世界に生かされ、自分の過去も全て、自分が生きてきたのではなく、神に生かされていた完全円満の何の間違いもない道のりであるに拘わらずそれを認識する自分の心のレンズに歪みがあると本来完璧な人生が実に不完全な間違いだらけの人生に映るのである。

 自分の人生は自分で生きているのではない。神に生かされた神の生である。それを念ずるからそうなるのではない。吾等は一度たりとも神に生かされ、導かれなかった時などないのである。自分の人生はそのままで神の生であり、一つも間違いも罪も無い人生である。何度も言うが実相を自覚すれば自分の心のレンズが真っ直ぐになり、自己の人生がそのままで神生であった事が分かる。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-19 13:15 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

吾等は今、このままで完全円満、無限力である。

 生長の家では人間は神の子、完全円満、無限力であると教えられる。しかし、それは現象人間の事ではなくて、その奥の実相人間の事であり、現象人間というのは実相人間ではなくて、その表現体というか映しであるとも教えられる。
 又、現象世界や現象人間は不完全で力も限られているのである。それで実相の完全円満さ、無限力を現象世界や現象人間に持ち来すには吾々は念のレンズを清め、歪みを取り、実相の完全円満さや無限力を念、特に潜在意識に浸透させなければならないとも教えられる。
 その為には祈り、訓練をしなければならないと言う事にもなろうが、ここの所が肝要であるが、だからと言って、決して現在の自分、今の自分というものを不完全な肉の自分であるという事ではないのである。現象人間は不完全かも知れないがそんなものは自分の念の映しであり、実相の反映に過ぎないもので存在しないのである。ナイのである。本当に存在するものは今、ここに完全円満、無限力の実相の吾等が存在するのみである。その事を悟る事が肝要である。吾等は今、このままで完全円満、無限力なのである。これから努力してそうなるのではない。それを悟らず、この不完全な肉体とか歪んだ心のレンズがアルと思って、それを清めよう、良くしようとして、色々動き回るものはそうした事をやればやるほど、ますます駄目になって行く。それは心の法則が厳然と働いて、自分はまだ駄目だ、まだ不完全だという自分の思いとおりになるからである。

 私はテニスをやっているがこれを本気でやってみるとその奥の深さを思い知らされる。そのやり方に関してはあまたのテニスレッスン書が巷に溢れており、そのテクニックに関しては書いても書いても書ききれない程である。
 それで理屈を頭で考えたり、テニスのレッスン書に書かれた通りを頭に叩き込んでやろうとしても実際の試合中で使える事は殆ど無い。そのテクニックに関しては内側から自ずと出て来るのである。
 テニスのやり方とかテクニックに関しては事前に頭で考えたり、テニスのレッスン書をひもといてみても到底、分かる事は無い。しかし、実際に試合をしている内に内側から自ずとこうしたら良いという事が浮かび上がって分かるのである。それは頭の理屈ではなくて、私の内側にある無限力、無限智の中から試合経験を積む中で自ずとその智恵と力が出て来るのである。その出て来た時、初めてその技というかテクニックが私の身に付いたのである。
 それは以前、コーチや上手い人からこうやって打ったら良いと教わった事が殆どであるが、その時はただそんなものかと思っていたが試合経験を実際にする中で本当にそれが有効だなと心の底から分かるのである。それは理屈ではなく、本当にインスピレーション的にそうだと分かるのである。正に私の中から無限力、無限智が自分で出て来たのである。
 それは私が自分をテニスが下手で、打ち方やり方も分からないと思ってそれを良くしよう、分かろうとして、頭で考えたり、それを良くする為の練習をしていては到底、分かったり、出来たりするものではない。私は今、完全円満で無限力であると信じ、それだからこそ勇気を出して、どんどん試合をする中で自ずと後から後からテニスのやり方、テクニックが自分で分かり、無限力が出て来るのである。要するに今、完全円満、無限力という事はそれでもう進歩が終わりという事ではなくて、ますます無限生長するという事なのである。
 要するに自己が今、完全円満であると自覚するものはますますそれが完全円満して、無限生長するのである。それを自分はまだ駄目だ、まだ不完全だ、だから、それを良くしましょう、やり方を分かるように致しましょうなんて思って、頭で考えたり、テニスのレッスン書をひもといたり、徒に良くする為の練習をしても駄目なのである。
 そのままで完全円満である。そして、その完全円満がますます完全円満して、無限生長するのである。

これはテニスに限らない。自分にはこれこれこういう障害がある、又は病気があると思って、それを是非、生長の家の信仰とか行で治しましょうなんて考えたら、到底治るものではない。よく生長の家で自分の病気を治そうと一所懸命、練成に通ったり、祈ったり、行をしても一向に良くならなかったのが、もう自分は良くなろうとか生きようとかなんて言う事は止めにしよう、どうせ死ぬなら人様の為、人類の為に何か役に立たせて頂こうと思って、自分の問題は棚上げにして、ひたすら生長の家の光明化運動に挺身したら、気が付いたら病などの自分の問題が消えていたなんてのも良くなろうという気持ちを捨て、従って、自分の不完全を心でつかまなくなり、ひたすら神様の御使命を一所懸命やったからである。

 要するに自分が今、完全円満であると自覚する事が大事である。その中でどんどん自分に与えられた課題をやって行く中で病気などの自分の問題は気が付いたら消えているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-18 13:50 | 潜在能力 | Trackback(3) | Comments(0)

セックスについて

 私は実を言うと女性が大好きである。私の行っていた立教大学という大学は半数以上が女性であり、私は入学したら彼女を是非作るぞとそんな事ばかり考えている様な典型的な軟派大学生であった。

 しかし、その後、生長の家を深く勉強し、男女の恋愛というのは本来一つの魂の半身同士がこの世で再び巡り会って一緒になる結婚の為にあるのであって、決して肉欲の為にあるのではないと思う様になり、29歳の時に現在の妻と結婚し、お陰様で今年、結婚20年である。

 ちょっと前までは私は生長の家の信仰通り、本当の男女の深い愛は夫婦間にのみにおいて存在するのであり、セックスというものはその夫婦間においてのみ赦されるのであり、夫婦でない男女のセックスというものは間違った行為であるという単純な思考で生きてきた。
 しかし、私はこの歳になって、自分の周りの社会を見るにつけ、実際の世間とか社会というものはそんな単純なものではないなと思う様になって来た。実際の社会では夫婦は結婚何十年も経てば、お互い何となく空気の様な存在になって来て、それぞれの興味の対象が異なって来て、意識のすれ違いも出てきたりして、そのそれぞれのつきあいの中でお互いまたそれぞれ気のあった異性のパートナーが出てきたりすると実際、心が揺らぐ事は事実上あるのではないかと思う様になった。
 私自身も生長の家以外にも実に多くのつきあいがあり、そうした中で色々な女性と知り合う事が多いが、本音を言うと浮気とか不倫をしてみたいと思う事がたまに頭をかすめる事があるし、世間で騒がれているタレントの山本モナとジャイアンツの二岡の不倫騒動など見るに付け、あんな事は世間ではザラにある事で彼らはたまたま有名人でフライデーされてしまったに過ぎないなあーなんて思ったりもした。
 私の友人は私が夫婦の操を立てる事が大事だなんて言うと鼻で笑って、そんな事は実際の世間では通用しないなんて言うし、前述の様に私自身は人一倍女性が好きなので余り理屈っぽい事は抜きにして世間の人がやっている様に適当に楽しむ事もありかなとかちらちら思う様になっていたのも事実である。

 しかし、それはやはり違うのである。セックスの欲望というのは肉につくものであって、実相の悦びそのものではない。非実在のものである。だから、それに引きずられる者は肉の支配下にあるのであって、霊の主権を放棄した者である。
 しかし、セックスの欲望や能力は神から来るのである。神の生命力がその表現体である肉体が何代も存続する様に与えた生命力の一種の現れが性欲であり、性の能力である。しかし、それはあくまで現れであって、神そのものではない。現れの方の肉欲や性欲や肉体がアルと思って、それに執着したり、引きずられるのは迷いというものである。

 そして、その性欲や肉体は神の知恵の働きによって、あるべき場所で本来の相手と満たす様であれば、それは汚い行いではなく、神の生みの働きの具象化という事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-14 13:00 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(2)

恐怖心の強い人

 生長の家で人間の実相は神の子、完全円満、無限力であると教えられ、その実相を現象世界や現象人間に持ち来す為には心のレンズを真っ直ぐなものにし、実相を悟らなくてはならないと教えられる。その為に生長の家の人は自分の心を清め、歪みを取り、実相の完全円満な世界を観ようとする。
しかし、そうして自分の心を大安心の状態にし、恐怖心を無くし、実相を悟り、心のレンズを真っ直ぐにすれば良いのは分かっているのだが、中々それが一筋縄では行かないのである。恐怖するな、恐怖心が一番良くないと言われても頭では分かっているが、そう思えば思うほど恐怖してしまうのである。これこれこういう行をしなくてはならないと分かってはいても、どうしてもそれが出来ないのである。要するに実相を観て、大安心の状態に達すれば、実相が顕現すると分かっていても、どうしてもその鍵となる自分の心が迷ったり、恐怖してしまうのを抑える事が出来ないのである。

 そうなると自分は元々恐怖心の強い人間、迷いの強い人間であるから、実相円満完全を悟れない、他の人は順調に生長の家を信仰し、自分が完全円満の神の子であると分かり、心の平和が得られ、そして、生長の家の行も活動もきちんと出来るが自分は煩悩が強くて心も弱いから生長の家をする才能が無い、自分は駄目だ、落伍者だなんて思うのである。その典型が正に昔の私であったのである。
 私は聖典「生命の実相」生活編に出ていた「取り越し苦労するなかれ」の部分がどうしても実行出来ず、取り越し苦労は一番悪いなんて分かってはいたが、そう思えば思うほど取り越し苦労してしまうのであった。
 私は自分を元々恐怖心の強い駄目な人間であると思わざるを得なかった。しかし、そうではなかった。私は素晴らしい大安心の光の子であったのである。

 元々、恐怖心の強い、不完全な人間なんて居ないのである。そんな不完全な人間は神様がお造りになってはいないのである。
 恐怖心が強いのは大安心が出て来る為である。私は非常に素晴らしい明るく強い心の持ち主であったればこそ人一倍恐怖心、取り越し苦労の強い人間であったのである。そこから、立ち上がって、それを克服して、大安心の悟りを表現する為にその基礎工事として一時、恐怖心が強いという状態であったのである。誠にも「迷いは悟りの基礎工事」である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-12 12:41 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)

実相は自分で出て来る(15)

 実相は自分で出て来るという事はここでも随分と述べてきた。何回も申し上げるがこれは私が信仰的に行き詰まった時、榎本恵吾先生に薫陶を頂いて、「実相は自分で出て来る」という事を教えて頂いたのだった。それまでの私は何とかして私が、自分が実相を引き出さなくてはならんのだと心がガチガチになっていて、神様に全託の心を完全に忘れていたから、神への無条件の感謝などなく、その結果、心の平和が無かったのである。
 
 そんな生活を続けていて、挙げ句の果て、夜は全く眠れない、常に精神的に強迫観念がつきまとうというさながら生き地獄の様になったのだが、その時、病院でつけられた病名が自律神経機能障害というものであった。
 即ち自律神経という人間を内側から自動的に生かしている神経の機能に障害があるという事であるが、その病名の表す所は今から考えてみると中々、面白いし、興味深い。
 それは何故かと言うと自律神経というのは音読みだとジリツシンケイと読むが訓読みだと「自ずから律する神の径(みち)」という風に読む事が出来る。即ち自律神経とは内側から自ずから律する神の全宇宙に満ちている所の働きという事である。それが機能障害を起こしているという事はそれまでの私の長年の迷いを如実に表しているのである。

 即ち、私は私の中に存在する自ずから生かす、律する所の全宇宙に満ち満ちている神の働きを信用せず、観ようとせず、私が生きるのだ、私がやるのだ、私が救うのだとガチガチになっていたからである。そうした「私が」という神の生かしを観ようともしない、感謝しようともしない心が長年蓄積して、ついに私の肉体に自律神経の機能に障害が現れるという自律神経機能障害という症状が現れたのである。

 しかし、長い目で見ると人生、何が起ころうと全て良き事であって、当時は私はそれこそ生き地獄の様な状態で約一年間過ごしたが、その事がきっかけで私は宇治の生長の家の道場の榎本先生の元に導かれ、それこそ「自ずから律する神の径(みち)」、即ち「実相(神)は自分で出て来る(自ずから律する)」という生長の家の神髄を学ぶ事が出来たのである。
 そして、それから現在に至るまで色々の紆余曲折や試練はあるが、根本的には常楽の状態が続いているのである。
 だから、私は最初は苦しかったが、それこそが私の中の実相が自分で出て来た、その過程である。即ち、この人生は実相が自分で出て来る事しか無いのである。

 ちょっと前置きが長くなってしまったが、この様に吾々は何かをする、生きる等々の全ての活動が私が頑張ってやれているのではなく、内側から神により百%やらせて頂いているのであり、生かされているのである。人とのコミュニケーションも何かの能力を発揮するのも、今何をどうしたら良いかという事が分かるのも全て神に生かされ、導かれ、力を与えられて初めて可能である。
 それが実相(神)は自分で出て来るという事であり、それが信じられないという迷いが全ての恐怖や不安の元である。宇宙に満ちた神に全面的に生かされ、導かれ、守られ、全ての力を与えられているという事を信じられず、自分がやらなくてはならない、自分が生きなくてはならないという迷いほど、苦しいものは無い。

 実相は自分で出て来るという事はこれから出て来ますという事も言えるが厳密に言うとそうではなく、実相は今、正に自分で出て来て、吾等を生かし、導き、力を与えて下さっているのである。そして、それは無限生長であるが故に今より更にもっと無限生長して、実相がより出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-11 12:36 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

無功徳

 昔、中国の王朝である梁の武帝は仏教を篤く信仰していた。ある時、天竺(印度)から禅宗の開祖、達磨禅師を迎え入れた時、武帝は達磨にこう問うた。「私は多くの寺院を建立し、写経もし、多くの僧の面倒を見て来た。私ほど仏の教えに貢献したものは無いと思うが、私はどの位の功徳を積んだであろうか。大部積んだだろう。」と。そうしたら達磨は「無功徳!」と一喝したのである。

 武帝は信仰心が篤いのは良いのだが、そのままの本当の自分を不完全な存在と考えていて、それを完全にする為には沢山の献金とか行をしなくてはならないと考えていたので、多くの事をやったが、それは本当の悟りから来る愛行ではなく、自分を不完全と認め、それを良くする為に行う取引的な行いであったので、いくらやっても達磨から「無功徳!」と一喝されてしまったのである。
 
 これこれこういう行を積んだから、幸せになるのではない。神の子になるのではない。そんな行など所謂、無功徳である。即ち、無駄という事である。吾等は今、何もせずともそのままで完全円満である。その事を悟らなくてはならないのである。何々の行を積んだからとかそんな条件付きでは無いのである。そのままで完全円満、無限力の神である。そのそのままで完全円満の神の生命が発動して、祈りとなり、愛行となり、德積みとなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-08 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(4)