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今、立て!

 生長の家の教えは「今、立て!」という事である。これから心を清めてから、修行を積んでから、真理を勉強してからその後やっと潜在意識が清まって、やっと完全円満になって立てるのではなく、吾々が完全円満であり、無限力であるのは正に今の事であるから、今、立つのである。
 谷口雅春先生は自己の内なる完全円満を自覚しておられたが、それが出て来る為にはこれこれこういう手続きをしてからと思って、生長の家を立ち上げるのを遅らせておられたのである。しかし、二度の盗難に遭った事で自分が完全円満、無限の富者であるというのは未来の事ではなくて、今の事であると悟られ、そしてすぐに生長の家を始められたので今の世に生長の家の運動が展開しているのである。

 今、立て!心を清めてからとか、迷いを無くしてからではない。心が汚いままで迷いが立ちこめているままで今、そのままでそんなものはナイとして、今、無限力であると信じて、今、どんどん目の前のやるべき事をやって行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-30 12:20 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

そのままの裸のままで尊い

 他人からの評価など全く気にする必要は無いと以前、ここで書いた。それは生長の家の「使命邁進の神示」にも出て来る。「人がどう思うかも知れぬとそんなことばかり気にかけている様な事では心の苦しみは絶えぬものだ。自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかり考えるが良い。」と示されているのである。
 これは裏を返せば、吾、完全円満なりの自覚の事である。今のそのままの自分を完全円満と思わず、自分を良くしようという心が自分を他人から良く見られたい心であり、それがある為に却って、人からの評価が悪く、かつ他人に対しての嫉妬心が強かったのである。それはそのままでよいという事を知らぬ心、うわべを飾りたい心であり、実相を悟っていない心である。そのまま、裸のままの自分では恥ずかしい心、そのままの自分を不完全と観る心である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-29 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

苦手な人はいない

 私の所属しているテニスクラブの中ではメンバーの中でもテニスの腕がぬきんでている人達が何人かいる。それは県の大会等色々な大会でよく優勝しているとか昔、全日本の選手だったとかそんな人達である。この人達は自分達だけでいつもダブルスのゲームをしている様に私には見えた。
 私は常々こうした人達に対して、ちょっと気後れするというか、苦手意識があった。これらの人達からは一段も二段も上から見下ろす様な気持ちで私は見られていると思っていたのである。
 
 ところがである。先日の23日の秋分の日にクラブに行った所、その日はテニスの日とか言う事でお祭りをやっていた。勿論、テニスも出来るのだが、大層込んでいて、テニスは大部時間待ちをさせられたが、そこで私はいつもの様にホワイトボードに名前を書こうと思ったら、私の前の列まで四人組が出来ていたので私は次の列の一人目として、私の名前を書いた。それでその後、私は壁打ちをしに行って、自分の順番を待っていたのだが、自分の試合の順番が回って来たら、何と私の後に名前を書いた私以外の三人の人の中にその上手い人達のグループと私がみなしていた人が一人入っていたのである。私はちょっと驚き、かつ気後れしたが、その後、その人と私は対戦相手としてダブルスのゲームをしたが、あいにく5-6でそのゲームを落としてしまったがいいゲームであった。
 そして、その後、テラスでその人と色々話す機会があったのだが、とても気さくで話しやすい人であった。その人も市民大会で優勝した事がある人であり、それまで私はその人から余り相手にされていないと自分では思っていたのであるが、それは私の勝手な勘違いで、本当に話しやすいいい人であった。
 その後、また私は試合をしたが、その時はホワイトボードに三人の名前が書いてあって、その内の一人が過去何度か試合をした事のある女性のメンバーであったので何の気無しにここのグルーブの四人目の所に名前を書いた。そして丁度順番が来て、その他のメンバーとコートで顔を合わせたら、またもやその内の一人がさっきの男性とは違う人だが私が上手いグループのメンバーと見なしていたかなり、実力のある若手の男性メンバーであった。
 私はまたもや驚き、かつひるんだが、ともかく、その相手とは対戦相手として試合を始めた。そして、サービスはこちらのチームからで最初のサービスを私からやれとパートナーの人から言われ、私はかなり緊張したが勇気を持って、サービスをした。そうしたら何とこのゲームは4-3のスコアで勝つ事が出来たのであるが、ゲームの最中もこの相手の男性はとても気さくで礼儀正しく、その直後の組み合わせでも私の列に彼は自分の名前を書いてくれ、そして又、試合をしたが今度は0-4で負けた。
 私はこの時、思った。私がこれらの人達を一種、特権階級みたいに思って、彼らは私などを軽蔑的視線で見ているなんて思っていたが、それは勝手な私の自己限定又は被害者意識であって、実際は皆、いい人達なのであった。これは一重にお互いの意思の疎通がそれまで希薄で私が勝手に悪く誤解していただけなのである。

 他人からの被害者意識があると相手に対して恐怖心が生まれ、これを攻撃したくなるのである。他人とわかり合って、認め合えている自覚があれば、同じ事を言われたり、されたりしてもこちらに被害者意識が芽生える事は無く、相手と仲良くやっていける。
 実際はこちらが思うほど相手はこちらに敵愾心とか軽蔑心など持っていないものである。こちらが勝手に相手を悪と見て、被害者意識や敵愾心を持っているだけである。それはどうしてそうなるかと言うと、相手との意思の疎通が無いからである。だから、相手はこちらに敵対心など無いのに勝手にこちらが創造力をたくましくして、相手はこちらを嫌っているとか悪く思っているとか思っているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-26 13:10 | 社会生活 | Trackback | Comments(5)

他人からの評価

 良く世間一般では自分の自分に対する評価というものは独りよがりなものであって、他人からの評価という事が客観的で正しいと言う事が言われている。
 従って、自分の本当の姿というのは自分では分からず、他人からどう映るかという事が本当の自分の姿であるという考えが一般的であろうと思う。私もずうっとその考えで来ていた。だから、他人の自分に対する評価というものが非常に気に掛かるのである。特に私などは異性からの評価は一層、気になる所であった。男同士では社会的な成功とかが気になる所だろう。
 
 誰でもそうであろうが人から侮辱されたり、低く見られると屈辱を感じたり、憤りを感じるものである。前回の記事でも書いたが私は先日、テニススクールで若いコーチからかなりの侮辱を受けた気がした。というのは丁度、その時は生徒が六人いたのだが、そのコーチは動きのいいグループ、普通のグループ、悪いグループを分けてレッスンするとあからさまに言い、六人は二人ずつの三つのグループに分けられて、レッスンを行ったが、私は動きの悪いグループに入れられたのである。
 私ははっきり言って、メタボ体型であるので確かに体は重いが、それでも非常に嫌な想いをした。

 それでその晩は幾分、やけ酒気味の酒を飲んで寝たが、寝覚めは悪かった。私はメタボ体型の上、以前、自律神経を多少故障していた為、運動機能や持久力が完全に戻っては居ないと思う。しかし、私はそんな事は問題にしないで全力を尽くしているので最近の私のテニスの実力の向上ぶりはテニスクラブではある程度、認められて来ており、自分でも自信があった。
 私は半年ほど前、腰痛で満足にレッスンが出来なかった事があり、それ以来、このコーチは私に対してだけ甘い球を出す様になったのだが、その後、私は腰痛は治り、かつテニスの実力も大部向上していると思うが、テニススクールでは試合は数ゲームしかしないので、このコーチは私の変わり方に気が付いていないのだと思う。

 要するに自分の事は自分が一番分かるのである。他人というのは以前持った先入観とかその人の個人的偏見とか色々な心のレンズで持って、人を見ているからである。だから、他人から自分がどう思われているかなど全く問題にしなくて良いのである。
 他人からどう思われようと自分の中に完全円満の神を自覚し、それが全力で現れて来ていれば良いのであり、その事が一番分かるのは自分自身である。その事が分かれば、他人からどう思われようと何を言われようと全く問題にしなくて良いのである。 

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-25 13:43 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

良くなる直前というのは一番悪くなる時である。

 私はテニスをやっているが、ここの所、サービスもグラウンドストロークも以前より大部、やり方が分かってきて、威力も正確さも増してきたという実感があり、試合でも少しずつ、勝てる様になって来ていた。
 しかし、一昨日の月曜日の夜、テニススクールで最後に練習試合をしたら、サービスが非常に調子が悪くて、威力も無く、正確さも欠き、ダブルフォルトを二回も犯してしまった。そのレッスンの時にコーチからちょっと侮辱を受けた様な気がしていたので、練習試合で見返してやろうと思ったのだが、あいにくサービスの調子が悪く、見返す事が出来なかった。
 私はテニススクールの他にテニスクラブに入っていて、そこで上手い人からもらうアドバイスの方がテニススクールのコーチのレッスンより遙かに効果的な事が多いので、現在、行っているテニススクールを辞めようかとも思っていたがそこで若いコーチの心ない言葉(私の動きが悪い)に屈辱を感じた私はこのテニススクールを辞める事を本気で考えたのである。
 しかし、それはものごとから逃げないという自分のポリシーに反するし、辞めたら、そのコーチも悲しがるだろうとも思っていた。
 そして、翌日の昨日、いつものようにテニスクラブに行って、ダブルスの試合をしたが、やはり、サービスの調子が良くないのである。これはテニススクールでコーチの言葉によって自信を失ったのが原因ではないかと思い、やはり、そんな良くないコーチの居るテニススクールなど辞めてしまおうかという想いを相当強くした。

 しかし、自分の試合の待ち時間にクラブの仲間が試合をしているのをぼんやり眺めていた私はその人のサービスがトスをした腕が良く伸びて、トスした後もそのまま上げたボールを指す様に残っているのを発見した。サービスではトスした後にトスした腕をすぐに引っ込めないで暫くそのまま残す様にするのがトスの安定の為に良いのである。そういう動作が良く出来ている事をその人に後で私は言ったのである。そうしたら、その人は「そういう風にトスした腕をそのまま残すと肩が良く入り、その上、横ではなくて、縦に肩を使う事になるから良いサービスが打てるんだ。コウチャン(私の事である。)のサービスはそれが出来てないから野球のピッチングみたいになっているよ。」と教えてくれた。
 私ははっとした。私のサービスの不調の原因は正にそこにあったのである。トスした手をそのまま残して、天を指すようにしていると肩が入り、それはちょうど矢を射る時、一旦、弓を引くがその弓を引く動作の様に力を貯める動作になるのである。それまでの私はそれが出来ていなかった。だから、良いサービスを打てなかったのである。それに気が付いた私はその後の試合でそれを試して、さっそく、とても良い感じのサービスをどんどん打てる様になった。
 私のサービスの不調がテニススクールのコーチにくさされたせいではなかった事に気がつけたのも幸運だったと思う。

 良くなる直前は一旦、今までよりも悪くなるものである。それは長年の間違いが蓄積して来て、それが表面化して来たからであるが、それにより、本当の事を思い知って、良くなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-24 12:33 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(0)

今、吾、神なり

 私は11年前、宇治の生長の家宇治別格本山で榎本恵吾先生の薫陶により、吾、神なり、神の国は吾が内にありと悟る事が出来てから、全ての事において、悦びと情熱を持って、取り組む事が出来る様になった。
 それは今、自分の中に無限があると分かったからである。そして、仕事に光明化運動に趣味にと積極的に取り組んで行ったが、現象的には不完全な部分はもちろん沢山残っていた。私は宇治で救われるまで約一年間不眠で苦しんでいたのであり、それは自律神経の故障から来ていたのである。それは不眠の他、運動神経や記憶力などにも障害が出たり、また精神的に不安定な部分もあった。だから、今、吾神なりと悟ってもその自覚がすぐ、現象の肉体に反映するという訳ではなくて、当時の私はそうした現象の肉体の故障、不完全さが大部残っていたのである。

 しかし、自分が今、神であり、全ては自分ではなくて、神が内側から無限力を与え、その場、その場に応じた導きを下さる事が分かっていたので、色々と肉体的に不自由を感じながらもあらゆる事に積極的に挑んで行ったのである。それは決して、自己限定的な逃げる生き方ではなくて、自分に巡って来た事に対しては今、出来ると思ってまっこうから取り組んだのである。
 その中で多々なる失敗とか恥をかいたりとする事があった。七年前に地元の野球のまとめ役を引き受ける様になってから早朝野球の審判をやった時など頭が真っ白になり、とんでもない誤審をして、大恥をかいてしまった。野球の審判の中でも比較的簡単な塁審のジャッジも当時の私の頭脳神経の状態では満足に出来なかったのである。
 そして、その他にも数多くの失敗経験を重ねたが、私はそれでもめげず、諦めず、積極的に色々な事に挑んで行った。そして、そうした挑戦を繰り返して行く内に段々と肉体の方が機能を回復し、健康になって行き、テニスや英会話などでも大部、実力がついて来たと思う。
 そして、昨日の早朝野球ではあの苦手であった審判を一番、要である主審まできちんと勤め上げられる様にまでになったのである。

吾々は今、神である。今、無限力である。心が清まってからとか、肉体が治ってからとかそんな事ではない。現象はナイのである。それが分かれば、現象的に満足な結果ではないとしてもどんどん自分に与えられた課題にぶち当たって行く事が出来るのである。そして、現象や肉体は今、無限力であるという事を信じて、全力を尽くして行く中で徐々に良くなる。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-22 12:36 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(4)

ものごとから逃げない

 ものごとから逃げないというのが生長のコツである。吾々は日常毎日生活していて、色々な機会が巡って来て、自分に取って、試練みたいなものが来る事があるのである。何故ならこの人生というのは一つの大きな学校になっており、毎日出て来る課題というのはその人生学校の一つ一つのカリキュラムになっているからである。そして、そういう試練みたいな事が巡って来ると大抵は逃げ出したいと思うのが人情であるが、そこでどうするかがその後のその人の生長に大きく関わって来るのである。

 私は中学の時に卓球部に入ったが、それが単調な筋トレの繰り返しだったので嫌気がさして入部二ヶ月位で退部した経験があるが、そんな風に自分が嫌だと思う事から逃げ出していたのでは何にもならないという事を身にしみて感じたので、その後の私の人生の教訓はものごとから逃げないという事であった。

 私はテニスをやっているが、時折シングルスの試合に出るが、数ヶ月前に出た時、総当たり戦でやっと一勝しかする事が出来なかった。どうにもストロークの打ち合いで攻め込まれてしまうのである。私はこのシングルスの試合は機会があれば出来るだけ出たいと思っているのだが、先週の土曜の夜、相愛会の会議があると思っていたら、無くなったので丁度この時間が空いて、その夜はそのシングルスの試合があったので前日の金曜日にエントリー申し込みの電話を会場にかけたら、何と滑り込みセーフでエントリー出来てしまった。
 私の気持ちは実は複雑で前日にエントリーなんか出来ないだろう、もう人数が一杯でエントリー出来ませんという返事を会場のフロントの人から出来れば聞きたいと期待していたのだが、あいにくエントリー可能という事でエントリー出来てしまったのである。
 何故、そんな風にエントリー出来ない事を期待したかと言えば、ちょっとエントリーするのが恐かったからである。何故なら前回の試合の時にストローク戦で攻め込まれて、また負けるのではないかと不安だったからである。
 しかし、私はここ数週間でグラウンドストロークとサービスが進歩していて、ボールに伸びと威力が加わったという実感があったから、試合に出てもけっこう行けるのではないかとも思っていた。
 
 そして、結果と言えば、当日は二勝する事が出来た。一勝は自分より格上ではないかと思う相手であり、もう一勝の方は最初に3-0とリードしてこれは楽勝と思ったが、その後、相手が突如ミスをしなくなり、3-3のタイにされてしまった。
 今回は4ゲーム先取ルールだったので最後の4ゲームを取れば勝ちであるが3ゲーム連続で取られ、何ともゲームが取れなくなってしまったのである。しかし、私はここで負けられるかと必死で頑張った。決して心が折れてはならないと踏ん張ったのである。そうしたら、最後のゲームは40-40のジュースとなり、ノーアドというルールでジュースになったら一本勝負で勝敗が決まるのであるがその一本を相手がミスしてこの試合に勝つ事が出来た。
 本当にきつかったが嬉しかった。私は最後のゲームで30-40とされて、こちらがマッチポイントを握られた時、渾身の力と勇気を振り絞って、フォアの逆クロスを相手コートに決めた。これはもうちょっと低かったらネットしていた位のボールであった。そして、ここが勝負所であったと思う。
 そして、この試合で又、大きな技術的収穫があり、私のテニスはまた一段レベルが上がったと思う。

 そして、翌々日の15日の敬老の日、いつもの様にテニスクラブに行った。私の所属しているテニスクラブではホワイトボードにどんどん自分で名前を書いて行って、四人埋まったら又、その次に名前をそれぞれ書いて行って、どんどん四人のグループを作って行き、そのそれぞれ四人でダブルスの試合をするのだが、私がクラブハウスに行った時、ホワイトボードに書かれた名前の最後の列には三人の名前しか書いていなかった。そして、そのメンバーはテニススクールのコーチクラスの人が名前を連ねていて、私がその人達と混じって試合をするのはちょっと勇気が要った。それでためらっていたら、他のメンバーが「堀さんは最近腕が上がったから充分、その人達と混じって試合が出来るよ」と背中を押され、思い切って、四人目の所に自分の名前を書いた。それでその四人でダブルスの試合をした。かなり最初は緊張したが私は殆どミス無く、6-3のスコアで勝つ事が出来た。

 この様に吾等は逃げないで自分に巡って来た事にぶつかって行けば、何とか道は拓けるものである。そして、そうする中で初めて吾等の生長と進歩があるのである。だから、自分はまだ駄目だ、実力が足らないなんて自己限定しないでどんどんチャンスに挑戦すべきである。その為には吾、神の子、無限力なりの信仰を欠かす事は出来ないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-19 13:06 | 潜在能力 | Trackback(2) | Comments(4)

真の善行とは

 私は割合、子供の頃から真面目な所があり、自分の行動は善いものでなくてはならないという考えが強かった。それで善を為そう、人を救おう、真面目に生きようと心掛け、異性と戯れたりする事は罪悪であると思って来た。
 しかし、反面、そうした真面目な部分が崩れると極端に乱れる事もあり、自分の行動というのは両極端だなと感じる事が多かった。しかし、それは我(が)で善を為そうとしていたからであった。
 
 善行とは一定の道徳的基準により、自分に外側から強いて、させるものではないのである。内側からの神の催しにより、嬉しくて自ずと出て来るものであり、それが本当の善行である。だから、我(が)で自己の行動を良くしようとするのではなく、神に全託するのである。それは自分で善行しよう、良い念を保とうとして、頑張る事ではなくて、善行は神にお任せして、自由奔放に生きる事である。我(が)で無理に善行を行おうとするから、固い、くそまじめな人間になってしまうのである。そして、それから外れる事が途轍もない罪の様な気がして、そうしたがんじがらめのくそまじめな生活に縛られてしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-18 12:30 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(4)

自壊作用に引っ掛かるな

 以前、ここでもご紹介した事があるが、私が宇治の生長の家宇治別格本山に一般練成を受けに行った時、初めて、そこで榎本恵吾先生にお会いしたのである。それは練成の第一日目であり、第一回目の斑別座談会であったが、私は幸運にも榎本先生の班に入れて頂いた。そこである老婦人が「私は今、これこれこういう病気があり、その症状で苦しんでいますが、これは私の過去の迷いの念の自壊作用でございます。」と発言したら、先生はすかさず「余り自壊作用に引っ掛からない方がいいですよ。」と仰った。

 吾々は生長の家を学び、現象とか肉体とかは吾々の心の影であると学ぶ。そして、その影はすぐに出て来るものではなくて、長い間の心の習慣が潜在意識に蓄積して、その後、暫くしてようやく肉体にその心の状態が現れるので、今、人間神の子の信仰を持ってもそれがすぐに肉体に反映されるのではなくて、現在の肉体の不調和は過去の自分の長年の迷いの自壊作用であるから、私は人間神の子完全円満の信仰を持ってはいるが、現在の私は過去の迷いの自壊作用でまだ力が発揮出来ません、病気ですと思いがちである。しかし、先生はそれをも「自壊作用に引っ掛かるな」と一喝されたのである。

 吾々は信仰によって、こういう風な良い心の習慣、行動の習慣を現在持っていれば、将来それが肉体や現象に出て来て、じきに自分の病気の症状も和らぐであろう、また力も発揮出来る様に将来なるであろうと何となく漠然に思っている事がある。しかし、それは全部、間違いである。吾々は現象が如何なるものであろうと今、何も問題も無く、完全円満なのである。それが分かったら今すぐその力を行使出来るのである。そうした行使する事が結果的に訓練になり、結果的にどんどん潜在意識が清まり、ますます現象的に力が出て来るのである。それを生長と言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-17 12:30 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(3)

実相は自分で出て来る(16)

 実相は自分で出て来るという事は榎本恵吾先生に教えて頂いた事である。この事はそれまでの私の生長の家の教えに対する考え方を根本から変革するものであった。私はそれまで自分の実相は完全円満で無限力であるとう事は頭で分かってはいたが、それが現象世界に持ち来す為には自分の心を清めなくてはならない、その為には普段の行動と心の向け方を良くしなければならないとガチガチになっていたのである。
そして、遂にそれに失敗して、私は奈落の底に落ちたのであった。しかし、その落ちた事が良かった。そこは私に取って、奈落の底ではなくて、宇治の別格本山の榎本恵吾先生のお膝元であった。そこで、私は先生により、生長の家の神髄を授けられ、今、ここそのままが実相世界であるという事を悟る事が出来たのである。
 「実相は自分で出て来る」という事は生かされているという事であり、今、ここ実相世界の常楽の世界にただ生かされ、幸はへられているという生長の家の正に神髄であったのである。そして、その事を悟る事が頭ではなくて、本当に今、ここ実相世界であり、自分が今、神であるという自覚の事であった。

 生長の家の神髄が正に「実相は自分で出て来る。」という事であるという事は聖典「生命の実相」自伝編に出て来る谷口雅春先生の求道の経緯を拝察させて頂くとそれが良く分かる。
 大本教で修行をされていた頃の先生というのは自分の過去が罪に満ちていて、それが分かっていながらも現在もまた罪を重ねて行く自分をどうする事も出来ない、罪を悔い改めたものだけが救われるという当時の大本教の教義が本当であるならば、自分は到底、救われる側に入る事は出来ないと戦々恐々とされていたのである。
 自分で自分の心とか行動を良くする事は出来ない。それが谷口雅春先生が嘆かれた事であり、先生は自分の心が自分で良くする事が出来ないままで、無条件で神が自分の心を良くし、行動も良くして下さる神をお求めになった。そして、それこそが生長の家の神であったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-09-16 12:10 | 信仰 | Trackback | Comments(11)