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谷口清超先生のご冥福をお祈りいたします。

 本日、大変、悲しいニュースを聞きました。既にご存じの方も多いと思いますが、昨日、平成20年10月28日、午後10時21分、生長の家総裁、谷口清超先生がご逝去されました。ここに生前の御遺徳を偲ばせて頂くと共に謹んで、ご冥福をお祈り致します。

私が谷口清超先生を初めて、認識させて頂いたのは高校一年の時、今から33年前の事であった。高校生練成会で使われたテキストに清超先生の「こうして善を実現する」というテキストがあった。そして、高校二年の時、横浜文化体育館に雅春先生とご一緒に御巡錫に来られた時、御講話を初めて、拝聴した。その時は余り、私に真理探究の意識が無くて、何となく聞いていたという感じであった。

 その後、私も大学生になり、青年会に入ってからの清超先生の印象は雅春先生がすごすぎるので余り、大した事無い先生という印象しか無かった。御講話も御著書も信徒の体験談中心のお話が多く、余り、深いものという感じがしなかった。
 しかし、私が青年会で教区委員長に選ばれた時、当時、青年会の関東ブロック代表をされていた現青森教区教化部長の竹村正広先生が盛んに清超先生に中心帰一する事の大事さを説かれていた。竹村先生は清超先生のテープを千回聞いたと仰っていたので、私もそれを真似て清超先生のテープを聞きまくった。二千回は聞いたと思う。
 そうしたら、その平易な語り口の中に深い真理が説かれている事を発見出来た。そして、清超先生は実に多くの著作があるが、二十代の頃に書かれた「神は生きている」という御著書には実に素晴らしい深い真理が説かれていると言う事も分かった。後年の平易な語り口の信徒の体験談中心の御著書や御講話は吾等信徒の所まで降りてきて、深い真理を分かり易く説いて下さったものであった事を後から知る事が出来た。

 私は十一年前、信仰に行き詰まって、迷いのどん底に落ち、殆ど人生終わりかと思う位、絶望の淵に立たされた事がある。夜は全然眠れず、常に強迫観念がつきまとうという状態でそういう状態が約一年間続いた。しかし、それがきっかけで宇治の生長の家宇治別格本山に導かれ、榎本恵吾先生の薫陶を受ける事が出来、そこで魂が救われ、健康を取り戻す事が出来たのであるが、私がそういう絶望的状態で一年間も頑張る事が出来たのは実は清超先生のお陰なのである。
 さんざん繰り返し拝聴した清超先生の講話の中で一番印象に残っていたのが「解決出来ない問題は無い。」という先生の教えであったのであり、その教えだけにしがみついて私は人生を投げる事無く、辛抱し続け、遂にその絶望の向こう側にあった歓喜の教えである生長の家の神髄に到達する事が出来たのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-29 13:14 | Trackback | Comments(4)

神が解決して下さる。

 我々は生きていて、色々な難局に見舞われる事がある。家庭の問題、子育ての問題、仕事の問題、そして健康の問題等々。
 そうした人生の難局が来ると我々はそれを何とかしようと必死に頑張る。そして、色々な人に相談したり、また自力で解決しようとあくせく努力する。そして、病気などにかかれば、医者にかかり、一所懸命、治療に励むが、それでも駄目な場合は宗教に頼る人もいる。

 しかし、一切の問題は神が解決して下さるのである。全ての悩み、病は神により消される。私がやらなくてはならないというのは迷いである。それを榎本恵吾先生は「神の責任において」とか「我(が)は要らない」という様なお言葉で表現されていた。我々は普通、何か問題に見舞われると自分の力で一所懸命それを解決しようとする。そして、そうなってしまった原因を探り、それを解決する為に色々画策したり、奔走したりする。そして、信仰しているなら一所懸命、色々、行をやったり、努力する。そして、自分の努力でやっとこの問題が解決した、やっとこの病気が治ったとか言って、喜んだりするが、一難去ってまた一難という事で次の瞬間、また別の問題が生じて来たりなんかする。
 しかし、問題が解決されるのに「私」は、「我(が)」は本当に要らないのである。「私の努力」も「私の信仰」も本当に要らないのである。一切は神により解決される。一切の問題は神により既に消されているのである。この世は神以外存在しないのである。

 我々の人生は神が生き、神が前進している神生であるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-28 12:23 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(12)

そのままでよい(14)

 昔から柔道では「勝つと思うな。思えば負けよ。」という言葉があるが、スポーツや武道では結果を良くしようとして、勝とうとすると却って、それが自分の本来の力を縛って、実力が発揮出来ないで、負けてしまう事が多い。

 テニスなどでもサービスを入れようという事にとらわれると弱い威力のないサービスしか打てず、結局、試合に負けてしまう。その他、力が発揮出来ないのは全て、結果を良くしようと本来の自分の力を縛り付ける事によるのである。 
 力が発揮出来るかどうかというのは如何に自己を捨て得るかにかかっている。良くしようという心を如何に捨て、神に全託し得るかにかかっている。自分で良くしようという心を捨てて、神に全託し得た時、そのままで完全円満、無限力の本来の自分が出て来る。
 力が出るとは駄目なものが我(が)の努力で少しずつ良くなって行くのではなくて、良くしようという我(が)を如何に取って、そのままの自分になれるかに掛かっている。そのままの自分とは無限力であるが故にそのままであれば、どんどん無限生長するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-27 12:36 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

現象はナイと悟ると現象が良くなる。

 我らはともすると自己の信仰によって、病気を治そうと思ったり、商売を繁栄させようとしたり、その他、色々、現象を良くしようとする。しかし、そうしたスケベ根性、御利益信仰であれば、必ず失敗するのである。良くしよう、良くしようとすると却って、良くならないのである。信仰とは現象や肉体を良くする為にするのではなく、現象や肉体はナイと悟る事である。

 結果や現象はどうでも良いのである。今、神であると信じて全力を尽すべし。しかし、現象は心の影であるから、現象はどうでもよい、今、神であると悟れば現象はどんどん良くなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-24 12:22 | 信仰 | Trackback | Comments(11)

実相が顕現する時(2)

 実相は完全円満で素晴らしいがそれを顕現させるのが問題であるとよく言われる。従って、実相を顕現させる為には我々は真理を頭で理解するだけではなくて、それを実行しなくてはならないと教えられる。確かにその通りであり、真理を生活に生きた時、それが善業となって、潜在意識に蓄積され、良い結果が出て来て、病気も治ったりする。

 しかし、そうだからと言って、それを我(が)が一所懸命励んでも駄目である。自己の中に本当に神を発見するという事が大事である。自己の中に神を発見すれば、自ずとそれを使う様になる。そうやって、段々潜在意識に真理が浸透して行って、実相が顕現するのである。しかし、その発見も自ずと自分の中から神が自分で出て来る事により発見出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-23 12:18 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

何をしてもしなくてもそのままで神である

 私は自分の行動とか言動を律しないと駄目であると思っていた。それは自分は実相は神の子かも知れないが現象は自分の心の影であるから、その心を良いものにしないと駄目だから、それを良くしようとしていたからである。それでこういう悪い事をしたら、神の子でなくなる、神想観しなかったら、仏の子でなくなる、こういう間違った事をしたら、完全円満でなくなると何となく思っていた。しかし、それは間違いであった、我々は神であるから、何もしても何をしなくてもそのままで神であった。神想観しなくても神であり、女と戯れても仏の子である。それが分かれば自ずと神らしい行動をする様になるのである。

 真理を実行するから神になるのではない。神であるから真理を実行するのである。その結果、良き念が潜在意識に集積されて行き、結果的にどんどん自己の健康も運命も良い方向に行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-22 12:22 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

愛するということ

 愛するという事は実相を観るという事である。親は子を愛しているが、そこに実相と現象が違うという真理の知恵が無いと親は子を愛しているつもりで却って、子を駄目にしてしまうのである。例えば、子が実際にていたらくであったり、いじめなどの悪い事をしていても、親が現象の子しかないと思っている以上は子の間違った本来でない姿というものを認める事が出来ず、それをそのままに放置しておいて、その子が更に堕落して悪くなるのをどうにも出来ないのである。
 実相の素晴らしさを知っている親は子が本来でない事をしたら、それを素直に認めて、その本来でない姿に鉄槌を下す事が出来るのである。そうする事によって、子は却ってその実相を現す事が出来るのである。
  
 日本国を愛するというのも同様である。日本国を本当に愛するとは現象の日本国を否定し(誤解の無い様に言うが、それは真理の目から現象無しと否定するという事である。)、そして、実相の日本国を肯定し、観なくてはならない。そこを認め、それを現し出す為には過去の過ちは素直に認めて、それを修正する努力をしなくてはならないのである。それが本当に日本国を愛するという事である。

堀 浩二

by koujihori | 2008-10-21 11:59 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

実相を観るということ

 よく、いじめっ子の親などがその子が学校などでいじめをしていても、「私はこの子を信じます」とか言って、自分の子供がいじめをしている事を認めようとも謝ろうともしないケースがある。それは自分の子供を盲信しているのである。悪い現象に目を閉じ、その子を盲信する様ではその子の悪はますますのさばってしまって、収拾がつかなくなるのである。
 
 私はある人物を組織内で登用しようとしていた事がある。それは私の目から見て、登用するに値すると思ったからである。しかし、それをしようとした直前にその人物に関する悪評を聞く事になったのである。その悪評は非常に信頼出来る者からのもので、私は直ちに私の腹づもりを変えた。その後、同様の悪評をやはり私の信頼できる他の人物からも聞く事になり、私の判断が間違っていなかった事を再確認したのである。
 
 人間は皆、神の子で無限の善であるが、それは現象を盲目的にそれでよいと認める事ではない。実相の完全円満さを観て、それを育てようという気持ちがあるからこそ、現象の本来でない部分に対して鉄槌を振るうのである。
 その本来でない部分を鋭敏にかぎ取り、それに対して、毅然とした処置を施すのは神からの智恵であり、それは結局実相直視の信仰から来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-16 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家とは何か(10)

 生長の家が最近、国の事とか天皇の事を言わなくなったとして、生長の家は愛国運動や日本国実相顕現の運動を止めてしまったと言って、批判する人がいる。それで生長の家から離れる人もいるが、そもそもこれは生長の家及び日本国の本質の見極めが浅いからこういう事になるのである。
   
 生長の家の運動は大和の国の運動と一致する。それは自らを主張せず、全ての存在の実相を拝み、これを生かす運動である。それは吾が日本国の使命と一致する。日本国の使命とは自らを主張せず、空っぽの心で全民族、全国家、全宗教を調和せしめ、かつそれぞれの個性を発揮出来る様に生かす働きであり、それを大和の精神と言う。そして、それが具体的に出て来たのが生長の家の運動である。

 であるから谷口雅宣先生は講習会の御講話やその運動の主軸において愛国とか天皇という言葉は表だっては使っては居ないがその運動そのものが大和の国の理念の展開であるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-15 12:20 | Trackback | Comments(10)

生長の家の信仰について(3)

 生長の家の信仰は実相は完全円満無限力であっても、それが出て来る迄は一所懸命、心を清め、行動を良くし、潜在意識に善業を積み、その後やっと肉体とか現象に実相が出て来たら悦びましょうというものではないのである。

 谷口雅春先生が生長の家の信仰を悟られたのは心もナイ、物質もナイと悟られ、実相が今、ここにあると悟られ、それから程なくして、「今立て」の啓示を受けられ、実相完全円満無限力というのは今の事であって、不完全な現象も肉体も今、ナイのであるとお悟りになられたのである。そして、ずんずん今、行動して生長の家を始められたのである。

 肉体の調子が如何なるものでも今、完全円満であり、無限力である。それが分かれば。今、どんどん力を発揮出来る。そして、今どんどん悦べるのである。それが生長の家であり、生命の実相である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-10-14 12:22 | 信仰 | Trackback | Comments(3)