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そのままで完全円満である。

 私はかつて、生長の家で人を救わなくてはならないという事が強迫観念になって、夜も眠れなくなった事がある。それはそれは苦しかった。その状態は約一年続いたが、それは正にフライパンの上で炒り豆を炒められている様な苦しさであった。
 しかし、それも私の中の常楽の悟りが出て来る為の初期段階であり、散々その事で苦しんだお陰で榎本恵吾先生の元に導かれ、全ての人が既に救われているという生長の家の神髄を悟る事が出来たのである。

 さて、私は榎本先生に救われる前に他のある生長の家の先生の指導を受けたが、その先生は「君は我(が)が強いんだよ。」と私に仰った。私はそんなものかとその時、聞いていたが、今になってその言葉の意味が良く分かるのである。即ち、私は完全円満なのは実相世界だけであるが、その完全円満さをこの現象世界に持ち来すには私がしっかり心を清め、そして、他の人に生長の家の真理を伝え、その事により他の人を救わなくてはならないと固く固く信じていたものであるから、常に自分の心のコントロールに気をつけ、自分の行動が愛他的になっているかに神経をとがらし、かつ、他の人を救わなくてはならないと思っていたのである。それ、即ち、ひどい我(が)である。そして、それが出来ない自分を責め、そして、ついにつぶれてしまい、神経を壊してしまったのである。

 しかし、それは私の迷いであった。正に我(が)が強く、私が救わなくてはならない、私が良くしなければならないとして、一切、神に全託するという事を知らなかったのである。本当に真理を自覚するということは今、ここが神の国であり、現象はナイと悟り、そして神に本当に全託する事であったのである。私はそれを榎本先生に教えて頂き、目が覚め、そして、今、自分が神であり、同時に全ての人が今、神である事を悟る事が出来たのである。それは私がじたばたしなくても今、そのままで全ての存在が完全円満であったという悟りである。そこに救わなくてはならないとか良くしなくてはならないなんていう焦りは一切消えたのである。

 救わなくてはならないなんて言って、自分で自分を責めるのは自分が今、そのままで神が全ての存在、生きとし生けるものを完全に生かしているという実相を観ていなかったからである。

 そのままでよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-28 12:33 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(33)

我が儘の反対そのまま

 榎本恵吾先生は講話の中でよく「我が儘の反対そのまま」と仰っていた。吾々は自分の人生はこうありたいと思う、これこれこうなってああなって欲しいと思う。地位も欲しいし、お金も欲しいし、名誉も、成功も欲しいし、また悟りも、能力も、健康も欲しいと思う。
 しかし、それは自分の勝手な「こうでなくてはならない」という規定を自分で作り、自分にそれをお仕着せしている場合が多い。生長の家の人で割合陥りがちなのがこれだけ信仰し、愛行しているのだから私の病気とかその他の問題が何時治るか、良くなるのかと気をもんだりする事がある。しかし、それ全て「ねばならぬ」という我が儘に陥っているのである。

 二三日前にテレビを観ていたら、お金で失敗した芸能人の特集をやっていて、その中でこれだけの事業に手を出したら、失敗してこれだけの負債を抱えたとかそんな話が出て来たが、最後に何とあのヤオハンの和田一夫さんが奥さんを伴って出て来た。ヤオハンの負債総額は1600億円だそうで、それまで散々失敗談を話していた芸能人達の負債額とは桁が全然違った。それをタレントの爆笑問題とか大竹まことなどが茶化して、観ていた私は腹立たしい気持ちがしたが、和田氏は一言「借金は人を成長させる。」と仰った。そして、誰かが「そんな借金してどうしようと思いましたか?」と聞いたら、氏は「それ(借金を抱えた自分の運命)は全て受け入れればいいんです。」とも言った。
 私は氏は素晴らしい心境に到達されたのだなと思った。また、こんな、人を小馬鹿にして喜ぶ低俗なワイドショーに何故、わざわざ自らの恥部をさらしに出て来るかと言えばそれはこれを観ている人に人はどんなに借金しても大丈夫だ、それが成長の糧になるんだと言うことを言いたかったからではないかと私は思う。

 ともかく、吾々は信仰で何とか自分を良くしよう、自分の思い通りの人生にしようという傾向があるが、そんなのは勝手な自分の規定であり、我が儘である。「そのまま」で良いのである。そのままの人生が最も良い人生であり、それが神の流れである。そして、それこそが神に生かされているという生長の家の信仰である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-27 12:29 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(3)

生長の家は誰がやるのか?

 私は生長の家を大学生の時からやっている。やっているというのは生長の家青年会に入って、組織活動をする様になった事を指している。現在はそこを卒業し、相愛会という40歳以上の男性だけの会に入って活動させて頂いている。
 ところでその時から、26年の歳月が流れているが、私は実に多くの会員が入って来ては辞め、入って来ては辞めというのをこの目で見て来た。生長の家の会員が減ったとか何とかという話はよく聞くが、私は今まで見てきた辞めて行った会員達が現在も残っていたらどんなに生長の家ももっと栄え、活気があっただろうと思う。
 生長の家を辞める人の言い分として、昔の生長の家ではなくなったからとか言うものがあるが、私が実際、見る限りにおいて、そうした理由で辞める会員というのはいない。概ね、苦しくなって辞めるのである。それは運動目標を突破しなくてならないとか光明化しなくてはならない、等々の各種のプレッシャーに負けて、抜け落ちて行くのである。
 実際問題、運動目標を達成する為には人を救うには家庭訪問しなくてはならない、祈らなくてならない、聖経を何回も誦げなくてはならない、会議とか行事に出なくてはならないとかと様々な義務があり、それが使命であるとして会員に無言のプレッシャーを与えるのである。そして、家庭生活は犠牲となり、自分の時間も犠牲とし、運動の幹部となれば、悲壮感を持っている人は沢山いたのである。
 そうした中で様々な辞める具体的な理由が出て来て辞めるのであるが、これ全て、元はと言えば、そうした本来の悦びでない運動をして来たからである。言うなれば、生長の家の愛行が神に生かされたものであるとしてやるのではなく、我(が)がやっているのである。我(が)など何の力も無い、偽りの存在であるから、こんなものが生長の家をやっていれば、続くはずがないのである。

 生長の家の迦葉尊者と呼ばれた吉田國太郎先生はその事を強調されていた。「今、そこに座っている者は何か、それが肉体であると思っている人は何時かは生長の家を辞める時が来ますよ!」とある講演で絶叫されている。

 生長の家の運動もしくは生長の家は自分がやるのではない、神がおやりになるのである。光明化は神がおやりになるのである。聖経は神がお読みになるのである。家庭訪問又は電話での参加促進は神がおやりになるのである。それが吾等が神に生かされているという事である。

 生長の家の会員はただ、そこに存在するだけでよいのである。人を救う、光明化するのは大層な覚悟と犠牲が強いられるなんて力むから長続きしないのである。
 生長の家が良いと思ったら、普及誌を購読すれば良いのである。それでこの運動に共鳴したら聖使命会員になったら良いのである。そうした中、地元の誌友会に誘われたら、素直に毎月参加したら良いのである。参加するだけでどれだけその会場に光を与える、即ち光明化運動を担う事になるか分からないのである。そして、この役をやって下さいと言われたら素直にやったら良いのである。そのお役の中で必須の会議があったら、素直に参加又は主催すれば良いのである。
 そして、講習会などの目標が与えられたら、それを当たり前に家庭訪問すべき相手には訪問したら良いし、電話で済ませられる人には電話での参加促進すれば良いのである。そして、自分の身近に講習会に誘いたいな、行ってくれそうだなと思う相手に声を掛ければ良いのである。 何ら無理な事、自己の家庭や趣味や勉強の時間を犠牲にする必要なく当たり前の事を当たり前にしていれば良いのである。しかし、それ全て、自分は神に完全に生かされているという自覚が根底にあってこそである。そこから、光明化運動も自分ではない神に全託出来る様になるのである。

 私は教区で壮年部の活動の担当をさせて頂いているがそれの活動が盛り上がって、会員が増えて行く事が将来の教区の教勢に重大な影響がある様に言われる。
 しかし、私は生長の家を栄えさせる為に何も特別な事をする必要は無いと思っている。それは神に全託している。私はただ存在するだけでよいのだと思っている。そして、当たり前の事を当たり前にして行けば良いと思っている。そして、生かされている悦びで自分のしたい事もどんどんして行こうと思っている。その生かされている悦びがどんどん紘かって、生長の家が栄えるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-26 13:38 | Trackback(5) | Comments(12)

日本熊森協会

 昨日、私の父の家に自然保護団体「日本熊森協会」の会長の森山まり子氏が来訪された。私もこの会の会員であり、同会の活動には大いに注目し、期待しているのでその席に同席させてもらい、色々お話を聞かせて頂いた。
 日本熊森協会というのは今から12年前に兵庫のある中学の理科の教諭である森山氏が発起人になって、発会した自然保護団体である。最初のきっかけは1992年11月にある「月の輪熊」ががりがりにやせて、山から降りてきた所をハンターに射殺されたという新聞記事を女子生徒が学校に持ってきて、氏に見せた事であり、それがきっかけで如何に現在の日本の奥山の森が荒れ果てて、熊などの動植物が棲めない環境になって来ているかという事を氏と生徒達が知る様になり、それが人間の経済第一主義のエゴによるものと気づいて、これは何とかしなくてはならないと実際活動を始める様になったのである。
 氏は日本の山地の原生的な本来の森というものが如何に動植物の生存を保証し、それが引いては日本の農業、漁業を支えて来たかという事を認識されたのである。
 そして、この日本の本来の原生的な森を破壊から守り、熊を初めとする動植物からなる生態系を維持して行かなければ、人類自体の存続も危ういと気づき、その為に精力的に実際の森林保護、そして熊をシンボルとした動植物の保護に取り組まれている。

 森山氏は中学校の教諭であったので自分は自然保護が大切であると気づいたもののそんな自然保護活動を自らやって行くなんて事は出来ればやりたくないと最初思っていたそうである。しかしながら、調べて行けば行くほど日本にはこのような問題に取り組む自然保護団体などというものが存在しないという事が分かり、それならば自ら立ち上がるしかないという事で「日本熊森協会」を設立し、現在は教職も辞めて、その活動に専念しているのである。
 そして、同会は現在は爆発的に入会者も増えて、会員は二万人を超えて、ますますその活動は活発になって来ているそうである。

 氏によると日本には実践活動を伴う全国組織的な自然保護団体というものが存在しないそうで、だからこそ、当時、一教諭であった森山氏が自ら立ち上がって、日本熊森協会を発足させたのであり、又、市や県などの行政が森林破壊(これは単なる開発による森林伐採だけではなく、シイ、ブナ、クヌギなどの広葉樹の原生林を伐採し、経済的目的の為に杉などの針葉樹をどんどん増やしていくという事である。)という事に対して、止めるどころかこれを積極的に進めているという事である。
 又、氏がある有名なエンジニアリング会社で自然保護について講演して欲しいと頼まれた時もそこの会社の幹部の言い分は自分たちはそんな自然保護など何ら関心が無いがヨーロッパの会社と貿易して行く中でこうした講演会、勉強会を年に何回かしなくてはならないから仕方なくてしてるんだと言ったそうである。

 氏の話を伺っていると今までの12年間の活動で分かった事は日本はだいたいにおいて、ヨーロッパなどに比べて、自然保護の意識が薄く、やっている者も自然保護活動と称して、その実、金儲けであったり、又、学者達も真の自然保護活動に取り組む者など皆無に近く、行政とか企業の単なるお抱え学者になって、研究費をもらったり、保身を図っているに過ぎない例が多いそうである。

 私は氏に「自分は実は生長の家というのをやっているが、生長の家が現在、一番力をいれているのが環境保護活動です。」と申し上げたら、氏はびっくりして、何で宗教団体がそんな事をしてるんですかと質問して来たので、私は「それは人類の危機だからです。」とお答えした。

 氏にしてみれば、12年間の活動の中で実にたくさんの心ない人間即ち環境保護、森林保護が如何に大事かという事を認識しようともせず、目先の金儲けばかり考える人間もしくは自然保護活動に乗じてそれを利用して自己の私服を肥やそうという人間を多く見てきたのだから、そんな一宗教法人が何の利害関係も無いのにそのような環境保護活動に一番力を入れるという事が理解出来なかったのだと思う。
 恐らく氏の今まで見てきた人間達の常識であるならば、そんな一文の得にもならない事に一所懸命取り組むという事が驚きだったのだろう。

 ともかく、生長の家が現在取り組んでいる環境保護活動というものが氏と話して見て、改めて大事な事であると認識出来た。
 そして、昨日は最後に京都の森の写真を見せてもらったが、その中で奥山の本来の原生林、即ちミズナラやシバグリなどの広葉樹が温暖化によって亜熱帯性のカシノナガキクイムシが広がった事によって、一気に枯れてきているという事、さらに、日本人が戦後、国策の中で植えて言った杉、檜などの針葉樹の青々とした人工林の内部が手入れもされず、実は大荒廃している様子を見る事が出来た。そして、その現象が日本全国で見られると言う。断っておくが、杉などの人間が戦後、植えた単一針葉樹は生態系を維持する機能は一切無いそうである。

 皆さんも記憶にあるかも知れないが四年前からやたらと月の輪熊が里に下りてきて、色々な被害を及ぼすので猟友会の人が射殺した云々という記事が目立つ様になって来たが、それは森に最近、以前よりも重大な変化が出て来て、森の木に実がならなくなり、それでえさが無くなった熊などが里に下りて来ているのである。
 そのようにそうした動物のえさになる実をつける広葉樹が何らかの原因で枯れてきているというのは私は地球温暖化による異常気象の一つであると思う。そして、そうした広葉樹の本来の森が破壊されて無くなって行く事は生態系の破壊を意味し、それが結局は山からの豊かな湧き水を失う事になり、人類滅亡の危機が迫って来ているという事なのだと思う。

 生長の家はその事にいち早く気付き、地球環境保護の大切さを十年以上前から訴えているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-25 13:37 | 環境問題 | Trackback | Comments(9)

死にきる

 「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という言葉があるが、吾々は本当は何時でも死ぬ覚悟が必要なのである。死ぬというのは実際に自殺するという事ではない。自分の肉体を投げ出す事、投げ出すと言っても実際にビルから飛び降りたりする事ではなくて、心で身体を捨てるという事である。
 それは具体的に言えば、結果を良くしようとしない心、結果を求めない心である。仕事を完璧にしよう、スポーツの試合を必ず勝とう、その他の表現、行動を絶対成功させようとやっきになるのではなくて、結果は神様にお任せして、今の自分の中の神の声に従って、全力を尽くす事である。
 それが死にきるという事である。良くしよう、結果を出そうとすると体はすくみ、腕は縮み、およそ全力を出す事など出来ないのである。結果を良くしようという心を捨て、自らの身体を心で捨て、常に死にきる覚悟で全力を尽くすべし。結果の善し悪しは神様が与えて下さると知れ。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-21 12:39 | 信仰 | Trackback | Comments(26)

祈りとは実感である。

 生長の家には実に多くの祈りがある。「真理の吟唱」や「私はこうして祈る」とか多数の祈りの本が出ている。近年では谷口雅宣先生御著書の「日々の祈り」も出ている。
 余談だが、私はこの「日々の祈り」を最初に先生のホームページで発見した時、とても驚いた。先生はどちらかと言うとその言葉の使い方がいわゆる宗教的な感じがせず、理論的な一種デジタル的なお話をされる印象を持っていたので、この祈りの御文章を拝読して、とても驚いたのである。大変失礼な言い方だが、「先生もこういう宗教的な表現のお言葉を発せられるのか」と思った。もちろん、その内容はとても素晴らしい。正に真理そのものである。

 ところで私は生長の家を知ってからしばらくの間、ずうっとこの祈りというものはこの様に祈れば、それが繰り返し毎日される事で潜在意識に印象され、その結果、病気が治り、運命が良くなり、富も入って来るものであると思っていた。しかし、それだと祈りは現象の富を得る為の一種の取引という事になるのである。別の言い方をすれば、自分は今、幸せでは無いし、無限供給も無いし、悦びも無いがこの祈りをする事により、幸せになり、病気も治り、富も得られると思っているのである。しかし、それでは本当の悦びの祈りにはならないだろう。

 本当の悦びの祈りとは今、生かされている事に悦び、それを素直に感謝する祈りである。そして、谷口雅春先生や谷口雅宣先生がその生かされている悦びを素直に御文章にせられたのが色々な生長の家の祈りになっているのである。

 この世界は神の国である。このままで神に生かされ、導かれ、幸はへられている。(誤解の無い様に言っておくがこの世界というのは自分の認識が映っている現象世界の事ではない。正に今、ここにある実相世界の事である。)生長の家の祈りはそれを実感出来る悟りを開いた方がただ、それを悦んでいるだけなのである。それを悦んだ時、現象世界は吾等の認識が映っている世界であるから、それが反映される事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-19 12:32 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

そのままでよい(16)

 1999年に公開された映画「マトリックス」は私の中でもベストの作品の一つである。余談だが、続編の「マトリックスリローデッド」「マトリックスレボリューション」は一作目の素晴らしい哲学性がどうした訳だか抜けてしまっていて、やたらとCGを駆使しただけの駄作になっていると思う。

 さて、その「マトリックス」の中で主人公ネオの師匠であるモーフィアスがネオにカンフーのトレーニングをしているシーンがあるが、その中で「早く動こうとするな。早いと知れ」という教えを説く所がある。「早く動こうとする。」という事と「早い」というのは言葉の上では似ているが両者の間には天と地ほどの開きがある。

 吾等は実相は神の子かも知れないが現象的にはまだ不完全であると思って、その為には心とか行を清めなくてはならないと思う。その為には既に本当の姿では完全円満、無限力であるのにかかわらず、まだ駄目だ、まだ不完全だと思って、それを良くしよう、病気を治そうとして、色々動き回る。しかし、この世界は吾々の認識が映っている世界であるから、そう思えば思うほど「自分はまだ駄目だ」の念の認識が自分に感じられ、不完全なまま、病気のまま、弱いままなのである。

神になろうとするのではなく、今、このままで神であると知れ。そこに自分の念の認識であるこの現象世界が360度展開して、神の子無限力が顕現するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-18 12:20 | 潜在能力 | Trackback | Comments(3)

生長の家の本に書いてある事にとらわれるな。

 生長の家の人はともすれば、生長の家の本に書いてある事にとらわれる事がある。それは無理もない。何故ならば生長の家は基本的には文書伝道であり、聖典「生命の実相」を始めとする実に多くの聖典が生長の家創始者谷口雅春先生、二代目の谷口清超先生の御著書により出ていて、生長の家の信徒はその聖典を熱心に読み、そして、その書いてある通りに生きようとするからである。

 しかし、谷口雅宣先生は過去の生長の家の教典に書いてある言葉にとらわれるのは良くないと仰っている。そして、教典解釈に一番大事なのは自らの良心であると言われている。いくら良いお言葉でもそれ自体が真理そのものであると思うとつまづくのである。本当の真理、即ち神の国は吾等の中のみにある。吾等は如何に生きるべきか、本当の真理というものはどういうものであるかは自分の中にある真理からそのヒントをくみ出す以外に無いのである。

 生長の家の本に書いてある事にとらわれるな。真理は吾が内にあり。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-17 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(46)

生長の家は神に生かされている事を悦んでいれば自ずと伝わる

 先週の日曜は当教区で生長の家大講習会が開催され、一万人以上の参加者があった。私の姉夫婦が今回、初めて参加してくれ、最初から最後まで熱心に聴講してくれ、後でとても良い話だったと悦んでいた。

ところで講習会の参加促進の運動を相愛会、白鳩会、青年会でやるのだが、今回の参加者数は相白共に前回を若干、下回ったが青年会は見事に前回に比べてブラスに転じ、それどころか参加目標数330の所、参加者数332と見事に目標を突破した。

 さて、私が会長をしている単位相愛会の目標は今回15名であった。前回の参加実績は7名であったのでちょっと高すぎる目標数だと思っていたが、一応、目標突破に向けて頑張った。そして、結果はお陰様で目標突破の17名であった。私はもちろん、とても嬉しいがこれは私の努力によるものとは到底、思えない。私は生長の家の運動は神様の運動であるからそれに関して、神様に本当に全託しているのである。そして、その全託の結果がこうして目標突破につながった。本当に全託と言ってもそれは何もしないという事ではない。神様の流れに乗って、内側からの催しに従って、あの人を誘ったらいいとかこの人に声をかけたらいいとか何となく、感じる事をそのまま素直に実行に移しただけである。そして、私は何より生長の家を伝える事で相手を救おうなんて全然思っていないのである。私はただ神に生かされている事を悦んでいるだけなのである。それで自然に地元の仲間とかにその他、縁ある人に生長の家が少しずつではあるが伝わっているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-14 12:57 | Trackback | Comments(7)

そのままでよい(15)

 人はとかく、良くなる為には上達する為には自分の力で精一杯、繰り返し繰り返し訓練、練習、研究努力しなければならないと思う。そして、その通り、一所懸命色々と努力したり、研究したりする。しかし、実は我々は今、そのままで完全円満、無限力なのである。力を発揮するには良くしようという心を捨てて、そのままの自分を解放すれば良いのである。

 そのままの自分は完全円満であるのにかかわらず、それを良くしようという心はそのままの自分の無限力を自ら縛る事になるのである。
 自分を良くしようとして自分の肉体をつかむ事を止め、自分の肉体を心で捨てる、すなわち捨身するが良いのである。そこにそのままの自分の解放があり、その時、あらゆる能力が自ずと発揮される。
 そのままでよい。そのままであれば、自ずと能力が発揮され、それが自ずと訓練になる。何故ならば我々は今、このままで完全円満であると同時に無限生長であるから、絶えず活動し、伸び続けるからである。
 自分を良くしようとしてあれこれ、努力、訓練するのではなくて、神に全託して、自らを捨身していけば、そのままで完全円満な自分の生命の実相が解放され、そこに自ずと能力が出て来る。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-13 12:22 | 潜在能力 | Trackback | Comments(1)