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オンリーワン

 生長の家の教えで「他の人の天分をうらやむな。人にはそれぞれ天分があり、それはその人でなくてはならないものである。」というのがある。また、スマップの歌でも「世界に一つだけの花」という歌があり、「NO1にならなくていい。元々特別なオンリーワン」と歌われている。

 私はこのことは分かった様な分からない様な所があった。というのは人間神の子無限力であるならば、あらゆる事を立派にやりとげる無限の才能というのが各自備わっているはずであり、私は芸術に向いてるんですから、スポーツは出来ませんなんて言うのは一種の自己限定ではないかと何となく思っていたのである。

 しかし、昨日、久しぶりに出場したテニスの試合でこの事が身にしみて分かったのである。私はここでも何回も申し上げているがテニスが趣味であり、私は無限力であるから必ず出来るし、いくらでも向上出来ると思っている。しかし、だからと言って、私より上手い人強い人は当然沢山いる。それは私はテニスの無限力を持っているが、その才能は経験を重ねる中で段階的に徐々に出て来るのであって、実際、私は昨日より今日、今日より明日という感じで、徐々にではあるが、その力を伸ばしていると思う。しかし、数年前、私と互角位の人が現在はどうも私より実力が上らしいと感じる事があって、私がこれだけ進歩生長しているのにこの人は私より早いスピードで上達をしているなと感じる事があった。そして、昨日、近所のテニススクールで開催されたテニスシングルスの大会があって、数ヶ月ぶりに出場したのだが、戦績は残念ながら余り振るわなかった。だが、私としては実は非常に自分の中では進歩が感じられて、良かったと思っている。サーブもストロークもボレーも以前の自分より数段向上した実感があったからである。対戦成績の方はこれは相手がある事だからこれで仕方ないと思っている。また、自分の課題としているメンタルの面でもそれほど消極的にならず比較的アグレッシブに出来たと思う。

 さて、その中で私と同い年位の男性が昨日出場していて、この人とは3年ほど前に対戦した事があるが、その時は私が勝っていた。私は土日は生長の家の行事がある事が多いので余り、普段は試合に出れないのである。しかし、この男性はどうもコンスタントに出場しているらしかった。私はこの男性と試合した時よりも自分の実力が向上していると分かっていたので、又、やったら又、勝つだろうと高をくくっていた。
 それで昨日は三戦目に別のある男性と私は試合したが、残念ながら、2-6のスコアで負けてしまった。それでその試合の終わった後、その以前に対戦した男性に試合の結果を聞かれたので負けた事を伝えたら、その男性は私が今、負けた相手に二連勝していると言うのである。私は意外な気がした。というのは私がその直前に負けた相手は私はアンラッキーで負けたのではなくて、相手の方が私より自力があると認めた相手であったからである。その相手にこの以前私が負かした男性が二連勝しているとは不思議な気がした。それでその後、すぐその二人、即ち、私が数年前に負かした相手と私が今、負けた相手との試合が始まった。私は内心、当然、勝利するのはその直前に私を負かした相手であると思った。私が負かした相手は私を負かした相手に二連勝しているのはその私を負かした相手がまだ未熟だったからだろうと思った。しかし、結果は私が負かした相手が私を負かした相手を殆ど、一方的に6-1のスコアで破ったのである。私はその時、正直、複雑な心境であったのである。というのは私を負かした相手を私が以前、負かした相手が破るという事はその私の方が実力が上だと思っていた私が数年前に負かした事がある男性の方が現在では私より実力が上であるという事になってしまうからである。
 私としてはその男性を負かした時よりも数段、実力が向上しているのでそれはにわかに受け入れがたいものであった。しかし、私は笑顔を作って、その今、勝利した男性を拍手で迎え、握手した。そして、その男性の奥さんに聞いたのであるが、その男性は私と数年前に対戦して私に負けた後、このテニス大会に毎月、出場しているという事で、全然勝てないという事がずうっと続いたが、それでも出場し続けている内に段々、経験を積んでやり方が分かってきて、今では大部勝てる様になったというのである。
 それでそのきっかけとなったのが私と試合した後、私がその男性に「試合は出場し続けなければいけませんよ」と言った言葉であったのだそうである。私はびっくりしたと共にこの男性とは今、やってもおそらく勝てないだろうという事を素直に受け入れる心になり、そして、その男性はもう40代後半の年齢であるにも拘わらず、いくら負け続けてもあきらめないで挑戦を続け、そして、実力を上げて、試合にも少しずつ勝てる様になって来た事を心から敬意を捧げたい気持ちになったのである。
 この男性は毎月、シングルスの試合に出てるから、シングルスの試合に慣れて、試合が勝てる様になったのであるから、私も試合に余り出なかった事を反省して、これからこの男性を見習って、毎月、試合に出る様にするかと言ったら、そんな必要は無いと思っている。
 私は今まで通りに生長の家の神様のご用事を第一にするライフスタイルを変える気は無いし、試合には出れる時に出たらいいと思っている。その範囲内で私は私のペースでテニスの腕を向上させて行ったらいいし、何も人まねする必要は無いのである。私は私で私の個性と生き方があるのであり、私は私で良いのであり、この男性の様に50歳近いのに自分の可能性を信じて、試合に挑戦し続けて行って、その実力を向上させるのも素晴らしい個性であり、それはそれで素晴らしいし、尊敬すべき事であり、だからと言って、私がその真似をする事も無い。

 要するに人は誰でもその人でなければ、ならない天分と個性と使命があるのである。それは皆、元々潜在的にはあらゆる事が出来る無限の可能性があるのであるが、その人生でその人がどういう才能、力を発揮出来るかは神により定められているのである。それがそれぞれその人でなくてはならない個性なのである。だから、皆、それぞれ素晴らしいのであり、そのそれぞれのなくてはならない個性でもって、世界と人類と国に貢献するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-29 13:33 | 潜在能力 | Trackback | Comments(14)

自信

 自分で言うのも何だが私はどちらかと言うと、ナイーブで感受性が強い。別の言い方をすれば、比較的、傷つきやすいのである。でも、他の人はそう思っていないらしい。
 ところで、そういう事で私は割合、他の人のちょっとした一言に傷つくという事が多かった。

 でも、よくよく考えてみれば、自分に真の自信があれば、そんな他人の一言で傷つくなんて事はあり得ないのである。他人がどう言おうが、思おうが自分に確固としたものがあれば、どうという事はないはずである。
 では、その自信とはどこから来るかと言ったら、自分が今、そのままで完全円満で、無限力であるという自覚からしか来ないのである。
 男性の嫉妬というのは女性の嫉妬よりたちが悪いと言われるが、組織又は社会の中で誰かが自分より好成績を上げたり、又は能力が高かったりした場合、それが自分よりずっと上の立場の人であれば、問題無いが、その相手が自分と同等かそれ以下の立場の者であれば、大抵の男性はそれを素直に認めないで、くさしたり、却下したり、ひどければつぶそうとする。これは私が長年、色々な組織や社会で見てきた経験から言っているのである。 
 同輩や後輩が優れた成績、能力を発揮していれば、それを自分の事の様に賛嘆しなさいなんて事は生長の家で良く教わる事であるし、誰でもそうする事が美しい事、正しい事である事は知っている。しかし、それを実際に実行するのは至難の業である。それが出来るのは前述の様に真に自己の中に確固とした不動の自信のある者だけであろう。

 人から何か言われたり、人が自分より優れていたりしても傷ついたり、嫉妬しない為には繰り返すが自己の中に不動の自信を持つことが必須の事であり、それは自己の中に完全円満、無限力、無限智なる神の生命、即ち神の国を見いだす以外無いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-26 12:28 | 社会生活 | Trackback(1) | Comments(4)

今、無限力であるということ

 先日、実相は無限力だが、現象は不完全であり、現象に無限力を発揮せしめる為には訓練が必要であると書いた。それはそれで間違いは無い。
 だが、それだけだと自分は実相は完全円満であるかも知れないが、現象はまだ訓練が足りていないから実力が発揮出来ません、まだ健康になれません、まだ欠点がありますという自己限定観念が出て来るのである。

 吾々はやはり、今、完全円満、無限力なのである。決して、出来ないとか不完全とか言う事は無いのである。
 生長の家の教えに「神様は決して、解決出来ない問題はお与えにならない」というものがある。問題というのはそもそも存在しないのであり、自己の心が勝手に作り出したものである。従って、問題を作った自分というのは神という事になる。何故なら、前述の様に「神様は決して、解決出来ない問題はお与えにならない」のであるから、問題をお与えになったのは神であり、別の言い方をすれば、そもそも問題を作ったのは自分であるから、自分即ち神という事になる。ちょっと、話がややこしくなって来たが、そもそも実相は自分で出て来るのであり、吾々が迷って、その迷った心で作り出した問題によって、自分が鍛えられるから、その過程を「実相は自分で出て来る」と言うのである。

 話が大部、横道に逸れてしまったが、要するに自分に巡ってきた問題や課題は必ず解決出来るのであるが、それは何故かと言ったら、吾々は無限力であるからである。それもたった今である。実相の方から見れば、吾々は現象はどうあろうと今、無限力であり、何ら出来ない事は無い。それではその表現というのはどうやってされるかと言ったら、今、自分に巡ってきた事を全力でぶち当たって、解決して行く、成し遂げて行くという事であり、それは必ず出来るのである。それが今、無限力であると言う事であり、その無限力、無限智を発揮して、今、目の前の事が必ず出来るのである。出来ないのはやる前から勝手に自己限定して、出来ないと思って、やらないで逃げているからである。
 吾々が今、無限力であるという事はそういう事であり、今、無限力であるから、その無限が無限して、今、目の前に与えられた課題をどんどん、達成して行くのである。そうやって、段階を踏んで、無限がさらに無限して無限生長してどんどん吾等のレベルは日々向上するのである。それが吾、今、完全円満であり、無限力、無限智恵という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-25 12:27 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

本当の訓練とは

 前回、吾々の無限力、完全円満さが顕現する為には訓練が不可欠であると書かせて頂いたが、訓練というものは悪い、不完全なものを良くしようとしてするのではますます、悪くなるのである。
 私はこれが欠点だ、これを良くしたら、私は完全になるなんて思って、訓練するのは内からの神が神する訓練ではなくて、我(が)が悪や不完全をアリと認めて、それを心でつかんで良くしよう良くしようというものであるから、やればやる程、下手になり、悪くなる。
 ミュンヘンオリンピックで金メダルを獲った男子バレーの松平監督は当時のエースアタッカーである大古選手がレシーブ力に難点ありと判断し、それを良くしようとレシーブの練習ばかりさせていたそうである。そうしたら、得意のスパイクまで悪くなってしまったそうである。
 生長の家の信徒の人でも時折、そういう人が見受けられる。この私のこの部分の病気を良くしよう、良くしようと思って、やれ神想観だ、やれ先祖供養だ、やれ愛行だ、やれ祈りだとやっている人は我(が)が病気をつかんでいるのであるから、いくらやっても却って、悪くなる。

 本当の訓練とは悪いもの、不完全なものを良くする為にするのではなくて、内なる完全円満なる神が完全円満するものではなくてはならない。それは日々の生活の中で自分に巡って来る事を逃げずに全力でぶち当たって行く事である。その事が自ずと現在の自分に最もふさわしい訓練となるのであり、今、完全円満であり、今、出来る自分の無限の力、無限の智恵が自ずと発動する事であり、それは無限であるが故に段階を追って、いくらでも無限生長すると言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-24 12:20 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

背伸びをしない

 吾々は神の子であり、無限力であると生長の家で教えられる。無限力であるのは何時の事かと言えば、今、正にたった今の事である。
それならば、百メートル、10秒で走ってみろ、今、無限力なら出来るはずだと言われるかも知れない。しかし、とてもではないが百メートルを10秒で走る事は私は出来ない。しかし、それでも、私は今、無限力なのである。
 それはどういう事かと言えば、やはり実相と現象が違うからである。実相は今、完全円満で無限力であるが、それの表現である現象とか肉体は完全円満であるとはとても言い難い。それは有限の内に無限を表現するからである。無限が無限そのままだったら、誰もそれを感じる事も見ることも鑑賞する事も出来ない。無限は自らを局限して、有限とした時、初めて、その表現が出来る。
 それと共に今、ここに吾をして、無限が息づいてはいるが、それを表現して行くにはやはり、訓練が必要なのである。無限は無限であるからこそ、無限生長がある。今、無限であるという事はもうこれで良いという事ではなくて、更にいくらでも向上、生長しつつあるという事である。そして、それは現象世界に展開する時、段階を追って、その無限力の無限向上が為されていく。その中で徐々に潜在意識にも訓練が刻印され、そして、それが肉体の上にも段々現れてくる。
 そういう訳で吾々は今、無限力で完全円満であっても、それで誰もが今すぐ、百メートル、10秒で走れる訳ではなくて、神から今生でそうした訓練と能力発揮の使命を受けている人達がきちんとした段階的訓練を重ねて行く中で百メートル、10秒かそれ以上のスピードで走る事が出来るのである。

 さて、前置きが大部、長くなってしまったが、今、無限力で完全円満ではあるが、その表現としては各人様々な段階にあるので、自分の現在の実力以上の実力を持っている人は自分の他にいくらでもいる。従って、そうした人達と自分を見比べて、変にうらやんだり、背伸びして、それに何とか追いつこうとあくせくする必要も無いのである。
 元巨人の桑田真澄選手が子供達に野球の指導をしていた時に言っていた言葉が「他人と比較するんじゃなくて、昨日の自分より現在どれだけ上手くなっているかという事を喜びなさい。」と言うものであった。さすが、一流選手であると思う。

 私もテニスをやっていて、自分と他人を比較して、落ち込んだりした事もあった。自分より上手い人達に伍して行こうと背伸びしていた事もあった。しかし、そんな必要は無いのである。人と比較しないで自分の中でどれだけ生長が行われているかを見て、それを悦び、そして自分としてベストを尽くして行けば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-22 12:30 | 潜在能力 | Trackback | Comments(4)

罪を憎んで人を憎まず

 吾々は生長の家で人間は神の子で完全円満で、表面はどうあろうとも皆、本当はいい人であると教えられる。表面の不完全な姿はその人がまだ自己の完全円満さを悟らず、ただの物質だと自分を見なしている場合、いくらその実相は素晴らしい善であっても、それを発揮する事が出来ないので不完全な、悪い、ずるい、そして不健全な状態を現すのである。

 だから、どんな極悪人でも本当に悪い人はこの世に一人もいないのであり、極悪人に見える人は皆、まだ自己の善なる、完全円満なる生命の実相を悟っていない幼い魂であると言える。
 榎本恵吾先生は「仕方のない人、悪い人がそばにいても、それをいたずらに批判するのではなくて、(まだ、その相手の魂が幼児的段階なので)ああ、いい子、いい子と思っていなさい。」と仰っていたそうである。

 人間は皆、神の子でいい人ではあるが、実際、目の前で感心できない行動をする人がいる場合、私はそれが、放っておけるものは放っておくが、事、その事が組織を駄目にする要因になったりしているとそのまま放置する事はどうしても出来ない。それでその相手の間違った行動に対して、それを正す行動にかなり強く出る事が多い。
 それは当たり前だと思う。人間が神の子で完全円満であったら、強盗が入ってきたら、ただ「有り難うございます。」なんて言って、拝んで、その強盗のなすがまま、犯されるままにするのが和解であろうか?そんな事は断じて無いのである。間違った事をしている相手に対してはそれが自分、又は自分の大切な人に対して危害が及ぶ場合はそれに対して、戦わなければならないし、その相手の行動とか考え方を非難しなければならない。
 その事が相手を清める事になるのである。間違った事をしている相手をその人の光明面のみ見ますとか言って、放置していれば、その相手の間違いはどんどん増長して、その組織、又は社会に致命傷を与える事にもなりかねないし、相手も反省する機会が与えられないから清まる機会が無いのである。

 それで私はそうした相手にはそれなりの阻止する行動に出るし、又、批判もする。その相手が組織又は地域の役員の地位に立候補しようとするならば、私はその相手を支持しないし、自分が適任と思う相手を支持する。当然の事である。
 しかし、私が批判又は阻止しようとするのはその人の間違った行動即ち罪の部分であって、その人の本質の神の生命まで憎んだり、嫌ったりしているのではない。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-19 12:32 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

神になる必要無し。

 吾々は現在のそのままの自分を不完全であると思い、その為に色々の手段を駆使して、完全に、健康に、幸せになろうとする。信仰をしていない人は物質的手段で完全になろうとし、組織内で自分又は自分の子飼いの人間の地位を向上させる為に色々策を弄したり、又、医者や薬に頼って、自分の身体を健康にしようとする。(誤解があると困るので断っておくが、生長の家は決して、医者とか医薬を否定していない。生命の流れの中でそれの処置を受けた方がいい場合、緊急処置が必要な場合は医者や薬はもちろん必要である。)
 また、医者や薬に見放された人は色々の宗教とか霊能者に頼って、病気を治そうとするし、又、その他、カウンセラーなどに頼って、自分がこの問題をどうしたら良いかなんて、考えたりする。
 要するにそれらはどうして、そうした外部のものに頼る様になるかと言ったら、吾々が今、自性完全円満(そのままで完全円満)であると言うことを知らないからそうするのである。
 吾々は神の子であり、神の子は神と言う事であり、今、このままで神であり、完全円満なのである。何も外部の物質的手段に頼る事はもちろんの事、自分の心や行動を整える事、又は訓練する事により、自分を良くしよう、即ち神になろうとしなくて良いのである。
 吾々は元々このままで出来るし、大安心だし、勇気だし、捨身だし、完全円満であったのである。それは神によりそうなのである。吾々は今、そのままで神である。完全円満である。何も神になろうとする必要は無いのである。出来ないのはやりもしないで始めからあきらめてやろうとしないからである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-18 12:29 | 潜在能力 | Trackback | Comments(9)

実相は自分で出て来る(18)

 吾等は生きている。そして、色々な事を自分の意志と判断でやって、生活又は仕事をしている。従って、生きているのは自分が生きていると思いがちである。だから、生長の家の生き方を実行するのも祈るのも自分がやって、自分が心を清めて、実相を顕現させるのだと思ってしまうのである。そこに、我(が)が生じる。要するに実相は完全円満であるが、この世界は自分達の念が作っているのであるから、大事なのはなんだかんだ言っても、この現象世界で幸せに健康になる事であるから、私が何としても心を清め、生長の家の行に励み、頑張らなくてはならないと思うのである。そこには最早、神に生かされている、幸はへられているという観念は消失している。即ち感謝は無いのである。

 そういう風に考えるのは生長の家の初期段階である。榎本恵吾先生は「皆さん、全託と言ったら本当に全託ですよ!」と強くご指導下さった。

 全て、神がやって下さる。自分がやっている様でも神がやっておられるのである。自分がやっていると思う事が迷いなのである。仕事をするのも、人とのつきあいも、スポーツも、そして生理作用も全て、私なるものは無くて、神がここに生き、活動し、それにより吾等は生かされ、幸はへられているのである。吾等は何も心配は要らないのである。

 それこそが生長の家の神髄即ち、「現象はナイ、心もナイ、実相のみが今、ここにある。」の実相独在の信仰である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-17 12:22 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

恐怖症などと言うものはナイ

 恐怖症という言葉がある。高所恐怖症、閉所恐怖症、男性恐怖症、女性恐怖症様々である。私はハッキリ言って、高所恐怖症である。又、多少、女性恐怖症の気もある。

 恐怖症の人はどうしようも無いのである。私などはバンジージャンプやスカイダイビングなどはもちろん、観覧車に乗るのも命がけである。それはどうしてそうなっているかと言ったら、長年の自分の心の向き方の蓄積の結果であり、今すぐどうこう出来るものでもない。
 そうなると自分は恐怖症だから、勇気が出ないから、心が弱いからという事で自分の弱い心というものはどうしようもない生まれつきのものだとか、親の育て方が悪かったからどうしようもないなんて思いがちであるが、そんな事は決して無いのである。

 ノイローゼとか恐怖症というのはそもそもその人の元の心が弱いからではなくて、本人の考え方に何か重大な間違い、考え違いがあるからである。その考え違いに基づいて長年、行動して来た事が潜在意識に溜まって、恐怖症になっているのである。考え違いとは即ち生きているのは神に生かされているのではなくて自分が生きているという我(が)、心のつかみである。
 神に生かされているという事を悟らず、自分が生きていると思っている人は不安となり、その為に自分の心をマスターベーションなどで慰めようとする。そうした事を繰り返せば、段々、自分の潜在意識に不安の心が刻印され、脳髄にもそれが刻印され、本物の恐怖症になってしまう。しかし、今、自分が神に生かされている事が分かり、心のつかみを放ち、その習慣で生活していけば、恐怖症は自ずと消えるのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2008-12-16 12:44 | 健康 | Trackback | Comments(4)

坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い

 先月、当教区で御講習会があり、その時、谷口雅宣先生は「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という言葉を引用して、人間は一度に別々の事を考える事は出来ないというお話をされた。私はその時、そんなものかと思って拝聴していたが、最近その事で身につまされる思いをしたので、ここにご紹介する。

 私は家内からも言われたのだが、他の人物に対して、最初はすごく高く評価し、こういう人が出て来たのは有り難いとか何とか言うのだが、段々、その人物とつきあいを深めて行く内にその人物の欠点、あらが見えてきて、それまでその人物を高く評価していたのを「あいつは駄目だ」とそれまでの評価を裏返して、徹底的にこき下ろす様な傾向があったのである。家内は私のそうした性向を「致命的だ」と言った事もあるが、私は大して気にしていなかった。

 しかし、私は最近、自分のそうした性向が真に間違っていたものであり、反省すべきものである事を思い知ったのである。というのは私はある人物と二人っきりで話す機会があったのだが、その人物というのはそれまで私が歯牙にも掛けない様な全く、評価していない人物であったのである。私がその人物に対して、何故その様な評価を下したのかはそれなりの理由があったからだが、ともかく、その人物と割合深く色々話す機会が偶然あったのである。そうしたら、この人物は私が思っているほど駄目な人物ではなく、それどころか中々、良いしっかりした考え方をしていたのだという事を発見出来た。私はそれでそれまでその人物の一面、暗黒面だけ見て、それでその人物全体が良くない評価出来ない人物であったと勝手に、一方的に決めつけていたのであると分かった。
 要するにその人物の欠点だけ見て、その人物全体を否定していた訳である。これが「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」の真理であると分かった。
 同じような事をそれまでの私は他の色々な人物に対して、無意識の内にやっていたのである。生長の家は日時計主義を掲げ、他人の暗黒面を見ずに光明面を見るべしといつも唱えているが、今回その事の重要性を心から思い知った次第である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-15 12:26 | 社会生活 | Trackback | Comments(7)