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本当に愛するとは

 本当に相手を愛するという事はどういう事であるか。愛というのは仏教では執着に通ずるとして、否定されている。しかし、キリスト教では愛という事を盛んに説き、キリストを最高の愛の実践者であると讃えている。
 愛と言えばそれは「相手に対する思いやり」の心であるという定義もある。そして、自らを顧みず、自分を相手に捧げる事を愛であるとも言われている。
 しかし、生長の家では愛とはどういう事かという事がはっきりと明確に定義されているのである。それは愛とは「相手の完全円満なる生命の実相を直視すること」である。
 いくら、自分の子が可愛いからと言って、自分の思い通りにさせようとか心配して過保護にするとかすればそれは却って相手の自由を損ねたり、相手の可能性に蓋をする事になり、愛している積もりが相手を損なう事になるのである。愛とは智恵を伴うとはそういう事である。
 愛するという事は相手を神の生命であり、完全円満であると観る事である。そうすれば、相手を尊重する事も放つ事も出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-27 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

常に死ぬ気で生きるべし。

 生長の家の信徒行持要目に「常に自我を死にきるべし。」という言葉がある。私は分かった様な分からない様な気がしていた。

 私は以前は臆病と言うか、完璧主義者と言うか、「石橋を叩いて渡る。」どころか大丈夫かどうか確認する為に「石橋を叩きすぎて、割ってしまう。」位であった。しかし、それだと能力を使う事にならず、能力が減退し、却ってものごとが上手く行かないという事が経験から分かって来たので、現在は結果とかを気にせず、常に思い切って何事もずんずんやる事にしている。それで自己の能力と生命が解放され、能力増進、魂の解放があり、悦びがあり、それで結果もいいのである。

 その為には常に死ぬ覚悟が必要である。良くしよう、助かろう、安全になろうとして姑息にものごとを恐れ、安全策ばかり採って、確認ばかりしている様では駄目なのである。

 先日もちょっと申し上げたが、私の一人息子が現在、大学受験のさなかである。というか正確に言うと今日が最後の受験日であるが。彼が受けたのがたったの三校であり、八校も受けた私などから見ると随分、思い切った受験の仕方だと思った。でも、私は一切息子には指図はせず、息子の方針を見守っていたが、私としては実の事を言うとひやひやものだったのである。
 息子は第一志望が一校と第二志望を二校受けたのだが、私の目から見て、第二志望が必ず合格する保証も無いから正直、内心かなり気をもんだ。その度にどんな結果になろうとそれが一番良い道であると言うことを思い出し、私は大部神への全託の信仰を息子の受験を通して鍛えられたと思う。

 それで一応お陰様で昨日、第二志望の大学の合格通知が我が家に届いた。これで一安心という事になるが、それでもう神への全託の信仰を忘れて、現象である大学合格という事にしがみついても駄目であると思う。

 吾々は何時如何なる時も死ぬ気でいなくてはならない。現象無しと一刀両断しなくてはならないのである。それが真の信仰であり、生かされているという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-26 12:27 | 家庭生活 | Trackback | Comments(2)

神の国は我が内にのみあり(6)

 現象に期待していると駄目なのである。現象というのは吾等の認識が映っているに過ぎないものであり、本当の世界ではない。そして、不完全であるのである。だから、そこに理想即ち神の国があると思って、追い求めてはならないとは聖経「甘露の法雨」にある通りである。
 現象を実在する世界であると思い、そこに理想を見出そうとするならば、失望や疑問や憤りを感ぜずにはおかないのである。どんな理想的な人物が現れたとしても、そこに神を求めてはならないのである。
 アメリカの新大統領であるオバマ氏はこれから自国第一主義を脱し、諸外国と対話と協調を打ち出し、かつ環境問題に真剣に取り組むと理想的政策を掲げて、さっそうと登場したが程なくして、妊娠中絶を積極的に進める団体への補助を再開するとか受精卵を使用した医療研究に対する支援策を発表するなど胎児や受精卵を一人の人間と扱っていないとしか思えない部分もある。この様に現象的には完璧な人間というのはいないのである。
 
 吾等はここで改めて、現象はナイ、肉体はナイ、それらは全て自分の心の影に過ぎないという生長の家の神髄に立ち還らなくてはならないのである。
 現象はナイ、然らば親もナイ、師もナイのである。現象をアルと思って、そこに価値とか意義とか感謝すべき相手を見出そうとしてはならないのである。現象はナイ。繰り返すがそれは自分の認識の展開に過ぎない。現象が不完全ならば、目の前の相手に失望するならばそれは自分の認識に歪みがあるからである。
 吾が内の神の国のみある。理想の国、人は吾が内にのみあり。それが分からないと親に感謝するなんて絶対に出来ないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-24 12:28 | 信仰 | Trackback(4) | Comments(9)

吾々は今、完全円満、無限力である。(5)

 吾々は神の子である。神の子と言うことは神であるという事である。吾等は神なのである。神は完全円満であり、無限力であり、無限健康であり、無限智である。そして、それは何時の事かと言ったら、「今」の事である。「今」以外に時は無い。吾等は正にたった今、神であり、完全円満である。
 そして、現象はどこまで行っても不完全である。どんなに美しい肉体を持っていようとも完璧な肉体というのは無い。そして、それも年月が経てば朽ち果てるのである。現象は過去の吾等の念の残像であり、それはゆらゆらと良い時もあれば、悪い時もある。しかし、それらはナイのである。

 これから訓練して、祈って、少しずつ心を清めて行って、その後、その影である肉体が健康になり、故障も癒えるのではない。それは現象の話である。現象はナイのである。肉体はナイ。物質はナイ。従って、肉体の故障もナイ。今、ここに完全円満、無限力のみが息づいている。それが勇気となり、捨身となり、訓練となる。そして、結果的に想念が清められ、潜在意識が清められ、肉体や現象が後から整って来るのである。しかし、それも現象である。良くなったと思ったら、また調子悪くなる事もある。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-23 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(21)

 実相は自分で出て来るとはここで何回も言わせて頂いた事である。吾々は自分で生きるのではなくて、神に生かされているのであるとは生長の家の教えの神髄である。それをどう間違ったのか心を清めるのは私の仕事、この素晴らしい真理を伝えるのは吾々の仕事と思う様になったのが迷いである。
 例えば、人の光明面のみ観るという「日時計主義」も「私が、この私がやるのである」と、気張って、頑張って努力してそうするというのもそれはある段階の境地としてはあるだろう。しかし、そんな事をしていればその一つの事にとらわれてしまうのであり、そうなると相手に注意すべき時に注意する事も出来なくなるし、外敵が迫っているのにそれを追い払う事も出来ないのである。それ全て、私という我(が)が真理を実行しようとしているからである。それは実相独在の信仰ではない。実相の他に私という存在を認め、それを何とか良いものにしようとするのであるから、それは実相独在の宇宙遍満の完全円満の神を信じているのではなくて、私がやるのだ、私が偉いのだという考え即ち我(が)である。私はその考えで何十年と来た為にすっかり大安心の心が無くなって、神経衰弱になってしまった経験がある。

 吾々は生かされているのである。百%。それを悟る事が実相を悟るという事である。そこにこそ安楽、常楽の道がある。それは実相が出て来るのは自分で出て来るのであるという事に全託するという事なのである。無理に我(が)で真理を実行しようと頑張る事ではない。
 私は、だから、割合怒る時には怒ったし、責める時には責めた。それで周囲が不調和になった事はいくらでもあった。しかし、それで良いのである。実相が自分で出て来るのにお任せするのである。私は最近、人を愛するという事はどういう事かという事が本当に分かってきた。それは相手を責めない事、光明面を観る事であるという事が自ずと分かって来た。そして相手が理不尽な事をしているのはその人がまだ魂が幼いからかその人自身が自分が認められていなくて寂しい心を紛らすものであるという事が本当に自然に分かって来たのである。そうするとその相手を無闇に責める気持ちも無くなってきた。それが本当の善行であり、生長の家の真理の生活化だと思う。
 それが実相は自分で出て来るという事であり、その事が本当の実相顕現である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-20 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

良くしようとする必要無し

 先日、テレビ番組「アンビリバボー」でヨットの世界一周の大会に出場したあるイギリスの男性がレース中、不正に不正を重ねて、それがばれるのが怖くて、大西洋上で遂にヨットから身を投げたと思われるという実話を採り上げていた。
 今から三十年ほど前の事で何でもこの男性はヨットの羅針盤か何かの製作技師で、かつその羅針盤製作で事業を興していたのが経営不振に陥り、ヨットのレースで実績を上げれば、自社の製品が世にヒットし、事業を立て直せると思って、そのレースに出場したらしいのである。
 しかし、この人は機械技術者としては優れた力を持っていたが、ヨットに関してはどちらかと言えば素人だったので、レース中、数あるトラブルに対処し切れず、反則を繰り返し、それがいよいよ隠しおおせなくなったと見て、それで人生を投げ出したらしいのである。(現在、この男性は依然として行方不明である。)

 この人は何ヶ月も一人で大西洋を航海して、色々のトラブルに見舞われる中、精神的に追い詰められ、正常な判断が出来なくなったのではないかとはその男性の息子の感想であるが、この人はヨット製作に出資してくれた人に対する借金返済の事とか、世界のヨットファンをだました事で自分が罵られる事とか、そうした事で妻や子供達にも見限られるのではないかとかそんな事がグルグル頭に去来して、もうどうにもならなくなったのではないかと番組では伝えていた。

 吾々はこのように人生ではこれ位はというちょっとしたボタンのかけ違いから、次々に人生が狂って行き、気がついた時にはもうどうにもならない様な窮地に陥る事もあるのである。だから、人は正直である事が一番大事であるとは生長の家の教える事である。
 しかし、本当の真理を言えば、どんなに人生がおかしくなって、泥沼に陥ろうともどうという事は無いのである。大丈夫なのである。何故ならば、最初からこの世界は一度も変になったり、軌道を外したり、不調和になったりした事は無いからである。同時に自己の人生も同様である。生長の家を学び、人間本来の生き方みたいなものを学ぶと今まで適当に済ませて来た事が重大な誤りであった事に気がつき、後悔の念にくれる様な事もあるが、吾等はその本質において神の生命であるから、吾等の行動も言動も実は神の言動であり、行動であったのであり、何ら後悔する必要は無いのである。
 それなら、何故、自分の今までの半生、そして現在、自分が陥った状態が不完全な失敗だらけのものに感じられるかと言ったら、それは一重に現在の自分の心のレンズが歪んでいるからである。どんな美人でも歪んだレンズの眼鏡をかけて見れば、その人の本来の美しい顔は歪んだ醜い顔に見えるのである。吾等の心のレンズの歪みというものはそういうものである。だから、吾等の人生は本来神の生、神生であるのにそれをそうじゃない、これは自分が生きてきた人生だなんていう風に迷いで心のレンズが歪んでいると自分という我(が)は不完全極まりないから自分の今までの人生、そして自分の環境、そして周囲の人達が全部、不完全な人生、どうしようもない窮地、意地悪な心がけの良くない人達ばかりに見えるのである。

 良くする必要は無い、自分自身も周囲の人も何もかも。今、始めから完全円満の自分が今まで生きてきたのであり、始めから何も問題のない状況にいて、完全に神に生かされた人生が今、ここに展開しているのであり、最初から思いやりもあり、分別もある人達だけが今、ここにいるのである。それを信じて、その信念から行動を発すれば自ずと全ての問題は消える。

 それが神想観の世界、真の祈りの世界であり、実相直視の事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-19 12:57 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

吾々は今、完全円満、無限力である。(4)

 私は昨日、教区のある誌友会に出講して、講話を行ったが今ひとつ自分としては調子が出なかった。こういう事はたまにある事でそんな時、昔の私はよく落ち込んだものである。何故落ち込んだかと言えば、自分の講話力に幻滅し、かつ受講者に失望を与えて残念だという気持ちがあったからである。
 しかし、私は現象はともかくその実相においては何時でも良き能力を発揮しているのであり、それを妨げるのは自己自身の自己限定に過ぎない事を知っている。私は現象的には昨日の講話は余りほめられたものではなかったかも知れないがその底には確かに真理の悟りの悦びがあり、それが過去の念の残像にちょっとした歪みがあった為に十分に現象的に出て来なかったに過ぎない。
 同様に吾々は今、完全円満であり、悟っていて、無限力であっても現象的には波があり、調子の良い時も悪い時もあるのである。

 吾々は内に無限の可能性を秘めている。それは神の生命そのものであり、完全円満で無限力であり、そして全知全能である。しかし、現象はそうではない。いくらでも不完全さや欠点がある。その違いを分かる事が重要である。

 吾々が神の子完全円満というのはその内に秘めたる実相の事であり、現象の事ではない。それならば吾等はその内なる神の生命の完全円満さを完全に現象に表現した時になって、初めて悦べるのであろうか?否々そうではない。吾等は今、完全円満であり、無限力であって、全知全能であって、今、悦べるのである。
 でも現象はまだこんなに不完全で能力も発揮してないじゃないかと言うかも知れない。しかし、現象はナイと吾等は教えられているのであり、それではそれは何なのかと言えば、それは吾等の過去の認識の残像に過ぎないのである。
 認識というのは吾等がこの自分自身をそしてこの世界をどう観るかの認識である。吾等の実相がまだ余り出て来ていない状態では吾等の認識自覚というものがまだ幼いのであり、それで自己の生命の実相の完全円満さを悟らず、自己をただの物質の塊と観たり、不完全な無能なものとしてしか認識出来ないのである。
 その認識というものは長い間掛かって、吾等の潜在意識に沈殿して、それが現象として投影されるまではある程度の時間が掛かる。従って、現在相当に自己認識のレベルが上がり、自己が今、そのままで神の完全円満の生命であると認識出来ていても、現象的にはずっと以前の自分が悟る前の不完全な弱い自覚の時代のその念の残像が今頃出て来る事があるのである。
 だから、現象というのは過去の念の残像に過ぎないのであって、それは一種の波動であるからゆらゆらと陽炎の様に良い時もあれば悪い時もあるという事になって来るのである。

 だから、そんなものの良し悪しに吾等は一喜一憂してはならないのである。力が発揮出来なくても良いのである。調子が悪くても良いのである。そんなものは過去の念の残像に過ぎないのであるから放っておくべし。無理にそんなものを今すぐ良くしようなんて思わないで今、自分が完全円満であり、神に完全に生かされて導かれて、無限力であるのであるから、その事を悦ぶべし。実相は実相して、完全円満は完全円満して自ら出て来るのであるから、それを楽しみに待つべし。そうであるならば、今、そのままで悦べるのである。

 それが実相独在、完全円満、物質はナイ、心もナイの生長の家の神髄である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-18 12:34 | 潜在能力 | Trackback | Comments(6)

生かされている(8)

 吾々は生かされているのである。それが生長の家の神髄である。吾々は自分の力で一秒たりとも生きる事は出来ないのである。呼吸をするのも心臓を動かすのも自分でやっている人はいない。この世に生まれてくるのも自分で生まれようと思って生まれる人はいない。吾々は誠にも自分で生きているのではなくて、神に生かされているのである。
 それは例えば、星が宇宙に浮かんでいるがそれは自分で力んでしがみついて浮かんでいるのではなく、神により支えられて浮かんでいるのであり、そして、その星が惑星だったら恒星の周りを一定の速度で公転するがそれもその惑星が力んで、恒星との距離をきちんと測って、どの位のスピードで公転し、かつ自転するかなんて考えながらやってはいないのと同じである。その惑星は神の御力により、宇宙に浮かび、丁度上手い具合に公転し、かつ自転しているのである。
 そのように吾等は自分で力んで生きようとして生きているのではなくて、生かされているのである。それは何に生かされているかと言ったら、全知全能、完全円満、無限力で宇宙の隅々までも遍満している神にである。だから、吾々は安心して、感謝して、悦んでおれば良いのである。
 
 吾々が生かされているという事は具体的にどういう事かと言えば、神により悩みも問題も消して頂けるという事であり、自分の進路も必ず神に完全に導かれ、歩ませて頂いているという事である。
 吾々は何か問題とか悩みが生じるとそれを何とか自分で解決しなくてはならないとか事に生長の家を学んでいる人は一切の責任は吾が内にありと教えられていて、全ては自分の心が創ると思うものだから、自分で問題を解決しなくてはならないとか心とか行動を清めなくてはならないとか思って、神様に生かされている事を忘れる傾向がある。
 そうなると自分で悩みとか問題を心でつかみ、それを何とか信仰の力で解決しようなんてするものだから、ますます大安心の全託の心は失われ、にっちもさっちも行かなくなるのである。そして、真理が実行出来ない自分、心を正念に保てない自分を嘆き、悩むという事になるが、これ全て吾々は神に生かされており、その迷いも問題も全て神に解決してもらえ、信仰も神に支えてもらえるという事が分からない所から来ている。

 要するに実相独在が生長の家の神髄であるが、それは神に生かされているという事であり、全ての問題、悩みは神に解決してもらえるという事である。それをそう思わないで自分が心を清めなくてはならぬ、自分が真理を実行しなくてはならぬ、自分が行をしなくてはならぬと力み、それにより、問題を解決しなくてはならないと思う心は実相の他に私という我(が)を認めている事になるのである。

 特別、我(が)が無理に勇気を出さなくても、吾等は今、そのままで完全円満であるという実相が自ずと明らかになって行く過程において、自ずと勇気と自信が出て来て、捨身も出来るし、力も発揮出来るのである。それが生かされているという事であり、それこそが実相独在という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-17 13:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

我らは今、このままで完全円満、無限力、全知全能の神である。

 私は実はある大学に一旦入ったがそれを辞めて、それから又、勉強し直して別の大学を受け直して入ったのである。そんな訳で私は若い頃はかなり紆余曲折した人生を送った。でも、人生、若い内に色々な経験を積んで、紆余曲折して、苦労した方が人生経験が深くなっていいと思う。だから、現在、受験シーズンであるが目標としている大学に入れなくてもそんなに落ち込む事は無いと思う。もう一年頑張って、来年チャレンジするなりすれば良いのであって、若い内はその位、苦労した方が良いと思う。

 さて、前置きが長くなってしまったが、その最初に入った大学で一般教養で哲学の授業を選択した私はその時の教授の「神は考えない。」という言葉が今でも印象に残っている。その教授が言うには「何故なら神は全知全能であるからである。」という事であった。その時は分かった様な分からない様な気がした。

 さて、私はテニスが趣味であるが、テニスは悩む事が多い。何故なら、そのやり方が実に難しく、時々どうしたら良いか分からなくなるからである。それはテニスに限らず、スポーツや武道なら何でもそうかと思うが、スポーツは心技体揃って、十分な力を発揮出来るのであり、事にテニスはテクニック的にけっこうデリケートな部分があり、人によってはそのやり方についてナーヴァスになって、考え込む人もいる。そういう時の為にテニスコーチという人がいるのであって、それは世界的トッププロと呼ばれる様な選手でも皆、専属コーチがついていて、その技術的かつメンタル的な指導とアドバイスを受け続けてプレイを続けているのである。しかしながら現在のトッププレイヤーであるロジャー・フェデラーは専属コーチというものを以前、一切持たなかった。それは彼が言うには対戦相手こそが最高のコーチであるという事であり、要するに試合のやり方や効果的なテクニックに関しては試合中に対戦相手としのぎと削る中で自ずと分かるという事を言っているのである。要するに彼ほどの天才となれば自分で自分のコーチも出来るという事であろう。
 
 私もけっこう入れ込むたちであり、割合完全を求めるタイプであるのでテニスをやっている時、時々やり方が分からなくて悩む事がある。それはボールを見ろという一つのテニスのテクニックにしてもあまりにそれにこだわりすぎるとその事にとらわれてしまって、フォームの事がおろそかになったりするが、そのようにテニスで言われているこれが正しいとされているテクニックでもそれをただ盲目的に守っているだけでは到底駄目で自分で自分なりの最も効果的なやり方を分からなくてはならないのである。

 さて、テニスの最も効果的な打ち方とか戦術というのはこれでもう完全に分かったとか極めたという事は無い。ここまで来たら、また常に次の課題というものが出て来て、またどうしたら良いかという事が問題になって来る。それは吾々の中に無限が宿っているから、どこまで行ってもその向上の仕方には限りがないからである。

 そういう事でより高度なテニスのやり方、テクニックの事について私も頭を悩ませる事があるが、そんな事で悩むのは不完全な者のする事である。即ち、冒頭で紹介した大学教授の言葉ではないが、自分が今、全知全能の神であるならば、あらゆる事の答えが既に自分の中にあるのであるから、その神である自分が答えを模索して考えるなんて事はあり得ないのである。考えるというのは自ら自分を全知全能、無限力の神であるという事を認めていない事であるのである。要するに自分をこのままで完全円満、無限力の神であると認めるならばテニスのやり方について何ら考える事はないから、何も悩む事も無いのである。 今、私は自分を完全円満、無限力の神であると思っているから、これからもっと上手くなったり、上達しようとする必要は無いと思っている。このまま完全円満、無限力の神である自分が完全円満する中で自ずと無限生長して行き、対戦相手と真剣にプレイする中で自ずとより高度なテクニックが段階を経て、どんどん分かって行き、どんどんそのままで無限生長、無限向上して行くのである。

 上手くなろう、分かろうとする必要は無い。吾々は今、このままで分かっているのであり、上手いのである。その無限力はそのままにしておれば必要に応じて自ずと段階を追って出て来る。
 従って、吾等は人生上のあらゆる問題に処するも何も悩む必要も考える必要も無いのである。吾等は今、完全円満の神であるから、人生においてどうしたら良いかという事はその時々の吾等の中から自ずと湧き出て来るのである。その為には吾等は自らの実相は物質の塊ではなくて完全円満の神の生命であるという事を是非とも悟らなくてはならないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-16 13:20 | 潜在能力 | Trackback(3) | Comments(4)

放つ愛

 私は映画「スターウォーズ」が大好きである。その特撮技術とかアクションシーンの格好良さ、痛快さもあるが一番惹かれるのは物語を貫く哲学性である。一番の哲学というのは映画の中で度々出て来るフォースという言葉で表現されているものでこれは主人公達ジェダイ(騎士)の中に潜在的にある所の潜在能力の事でこれを駆使して、敵と戦い、活躍するのであるがこれは生長の家の観点から観れば、人間神の子無限力の事であると思う。

 さて、そのフォースだが物語によるとそのフォースには本来のものと暗黒面のものと両方あるそうである。物語の最大の敵役であるダース・ヴェイダーは最初は正義感溢れるアナキン・スカイウォーカーと呼ばれるジェダイであったが、悪の皇帝にそそのかされ、フォースの暗黒面に落ち、それから血も涙もない強大な敵となって、主人公達の前に立ちはだかる様になるが、そもそもこのアナキン・スカイウォーカーという若者は当初は非常に正義感が強く又、大変愛情に溢れた人であったのである。
 それは特に母親に対して強く、その後、自分の恋人に対してもその愛情は非常に強いものであったのである。しかしながら、その愛情が執愛となり、そしてそれが執着となり、それが元でフォースの暗黒面に落ちてしまったのである。

 私は息子が一人いるが、もちろんとても愛している。一人っ子なだけにその思いは強いと思う。その息子が実は今、大学受験の最中である。これからが本番なのであるが、私は受験生を抱えた親の気持ちというものが自分が親になって初めて分かった。
 息子は一所懸命勉強しているのでその点は有り難いが全然気をもむ事が無いかと言ったら嘘になる。その度に私は結果はどんなになっても神様が良い様にしてくれるからと神様に全託しているが、そもそも気をもむのはやはり私の中に「こうでなくてはならぬ」という気持ちがあったからである。

 我が子を放つ覚悟が吾等は必要なのである。執愛は執着となり、それが心配と恐怖になるのである。そうした執愛のある所、それは相手を愛している様で相手を縛り、伸ばす事は出来ないのである。
 世に親バカと言われる親は沢山ある。それは子供可愛さのあまり、子供に執着して、それを離すまいとか何とかこうした学校に入れたいとかこうした会社に入れたいとかして、却って相手の可能性を損なってしまうのである。放つ事が大事である。子供を心から放って、どこへなりとも行かせる事である。それが放つ愛であり、相手を活かす真の愛情である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-13 12:57 | 家庭生活 | Trackback | Comments(4)