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出来ない事を無理にやろうとするな

 今から12年前、私は生長の家の宇治別格本山で私の尊敬するA先生の元で研修生として修行させて頂いた事がある。その時、A先生のピアノ伴奏で研修生達が先生を囲んで、先生の指導の下、生長の家の聖歌を合唱した事があるが、その時、先生はピアノの伴奏がある所で上手く出来なくなってしまった。それは中々複雑で難しいパートの様であったが、先生はちょっと難儀していたが、程なく、「あー、止めた、止めた」と仰って、ピアノ伴奏を諦めてしまった。それで他の先生がピアノ伴奏出来る楽曲を皆で合唱した。

 私がこの時、思ったのは生長の家というのは神の子無限力を唱えているのに割合、簡単に出来ない事を諦めてしまわれるのだなと言う事である。しかし、今になって分かる事は出来ない所を心でつかんでそれを良くしようとしてもますます出来なくなるという事である。実相は我(が)の力で無理に引き出すものではないのである。生長の家の教えでも難しい所からやるのではなく、自分の出来る所から易しい所からやって行く内に難しい事も出来る様になるという教えがある。
 出来ない事を無理にやろうとする必要は無い。出来る事を十分にやって行く中、自ずと出来ない事も出来る様になる。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-31 13:02 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(4)

信仰というのはどうしても生活化されるものである

 私は今から12年前に宇治の生長の家の道場で私の尊敬するA先生に薫陶を受けてから、魂が救われ、吾々は全て、今、神に生かされているのであり、本当の全託でよいという事を悟る事が出来た。そして、それまでのああしなければならぬ、救わなくてはならぬという焦りと悩みと不安が全て解消されたのである。

 そして、それ以降の現在に至るまでの12年間はその宇治で与えられた悟りを実生活で訓練する生活をずうっとし続けているのである。宇治で自分は神に完全に生かされていると悟ってから、もう12年も経つのであるから、もういい加減、その悟りが潜在意識に浸透していて、私は大部、潜在意識が清まって、大安心が板についただろうとは思うがまだまだ現象的には不安とかそうしたものがまだ残っている事が実感される時がある。
 自分のそのままの裸のままの生命がそのままで完全円満であると心の底から思っていないと吾々は他の人に良く思われたい、格好つけたいという虚栄心が出て来るが私は大部、その傾向が強かったと思う。しかし、私は自分は今、神であるという悟りを生きる中で自ずとそうした虚栄心とか見栄とかが破壊される機会が巡って来る事が多かった。そして、そうした中、自分に今、巡ってきている課題に対して、逃げずに向かって行く中、大部、精神的にしんどい経験もしたが、それは私の中の過去の迷いの自壊作用であるのである。

 真理は生活化されなければならないと言うが、本当に真理を悟っているならば、それが行動に表れなければ本物ではないのである。言うなれば、悟りはどうしても実生活化されなければならないのである。自分は無限力であると本当に信ずるならば、何故、自分に今、与えられた課題から逃げだそうとするのであろうか?自分が今、完全円満、無限力であると自覚する者は自分に巡って来た機会に対して、絶対に目を背けないで向かって行くのである。それが即ち真理の行動化であり、実生活化である。そして、それが実相が自分で出て来るという事であり、無限生長という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-30 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

おめでとう!侍ジャパン(2)

 今回のWBC(ワールドベースボールクラシック)の日本チームの優勝は昨日の共同記者会見の王顧問の言葉によると選手一人一人の力を十分に発揮出来たからこそのものであったと言う事である。しかし、そういうチーム作りが出来たのにはもちろん、監督である原氏の功績による所は大だろう。

 アメリカでの2次ラウンドでの韓国戦で日本のピッチャーが韓国のバッターの頭にデッドボールをぶつけ、バッターがもんどり打って倒れるシーンがあった。こういうボールを投げると日本のルールでは危険球という事でそのまま退場になるのだが、ここはそうではなかった。その時、日本の山田ピッチングコーチがピッチャーを代えようとしたのを原監督が制止したのだそうである。というのはここで変えるとピッチャーに心の傷が残り後を引く恐れがあったからだそうである。報道によるとこうした選手一人一人の心情に心遣いする原監督の采配が選手達に伸び伸びとしたプレーを可能にさせたそうである。だからこそ、冒頭の王顧問の言った様に一人一人の力を十分に発揮出来たのだろう。
 私は野球は余り詳しくないので余り専門的な事に関しては言及は出来ないが原監督というのはこのように人の気持ちを思いやれる人であり、又、感謝と愛という事を大切にしている様である。原氏が平成14年に初めてジャイアンツの監督に就任した年は就任一年目でいきなり日本一の偉業を達成したが、その時、原氏が掲げていたキャッチフレーズがジャイアンツ愛という事でチームを愛する気持ちを持って全力でプレイしようという方針の下に選手を指導した。又、その年のシーズン後半の時はスコアラーとかバッティングピッチャーとかチームの裏方の人達に対する感謝の気持ちを表すという事で当時の松井秀喜とか清原和博等の主力選手にワインを一本ずつもってレストランに集合させ、そこでそうした裏方の人達に対する感謝の集いなどを催したりした。
 しかし、二年目にリーグ優勝を逃した事で読売新聞社主の渡辺恒夫に更迭されてしまったが、その年は主砲の松井が抜け、かつ主力選手が次々と故障する中でも二位になったのだから、この年も良くやったと思う。
 今回のWBCの日本チームの一人一人のレベルは本当に素晴らしく、その力を当たり前に引き出し、かつ試合の指揮やチーム作り、選手の起用の仕方において、当たり前の事を当たり前にして行けば、十分、戦力は発揮出来るのであり、それが出来たから優勝出来たと思うが、この当たり前の事を当たり前にやるというのが組織においては中々難しい。それは指導者に人格と徳とやるべき事は断じてやるという決断力と実行力が無ければ出来ないと思う。そのようにやるべき事をきちんと組織の中でやる事で選手からも信頼されるし、チームも一つになって行くのだと思う。
 報道によると監督としての試合の采配の技量は韓国の監督の方が上という声もある。しかし、原監督の素晴らしい所は選手一人一人の力を発揮させ、その為にチームを一つにまとめて行き、そして、チーム作り、選手の起用法、試合での指揮において、当たり前の事を当たり前にやるべきことをきちんと出来た事にあると思う。

 私は原監督とは同い年であり、同じ学年である。また、出身地も同じ神奈川県で原監督は高校一年の頃から甲子園で東海大相模の4番サードとして活躍しており、私はその活躍をテレビで観ていた。私は当時、鎌倉学園という高校に通っていて、そこもけっこう野球が強く、私が高校三年の時、夏の甲子園大会予選である神奈川県大会でけっこう勝ち進んでいて、3回戦あたりまで進出した時、原氏のいた東海大相模と対戦した。
 その時は確か保土ヶ谷球場だったと思うが私も母校の野球部の応援に球場まで行ったが、試合は最初、内野中央に審判をはさんで両チーム整列して挨拶して、始まるのだが、当時、私の母校の野球部と言ったら悪ガキぞろいでそれは相手の東海大相模も同様であり、その挨拶の時、お互い、ものずごい眼(がん)の飛ばし合い(にらみあいの不良っぽいやつである)を殆どの選手がしていた。
 しかし、原氏だけは好青年でそんな事はしないできちんと挨拶していた。そして、これは後で野球部の友人から聞いた話だが、その友人が守備で好プレーをするとチェンジの時、原氏とすれ違った時、原氏から「ナイスプレー!」と声を掛けられたそうである。
 原監督はこの頃から好感的で思いやりある良い青年であったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-26 13:16 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(6)

おめでとう!侍ジャパン

 昨日、野球世界一を決めるWBC(ワールドベースボールクラシック)の決勝戦で吾が日本チームはライバル韓国チームを5-3で破り、見事二大会連続優勝を成し遂げた。本当に素晴らしくかつおめでたい事だと思う。

 私はこの大会は東京ラウンドから注目していたが、そこを勝ち進み、アメリカにおける2次ラウンドに入ってから、キューバと対戦した時はちょっとハラハラした。キューバは前回、決勝戦でかろうじて勝利した相手であり、勝てるかなと思っていたが、割合、ワンサイドの試合で勝利した。そして、準決勝戦進出を掛けて、韓国と対戦したら、これが相手投手を打てず、試合を落とし、それから、敗者復活戦で再びキューバと対戦して、勝利し、準決勝進出の切符を手に入れた。前回、準優勝のキューバを二回に渡って、破ったがこれは現在の実力は日本の方が上だと言う事だろうと思う。そして、準決勝でアメリカを破り、そして、昨日の決勝で韓国を破った。
 全体の印象として、世界のレベル的に日本や韓国の方がアメリカとかキューバとかヴェネズウェラ などの野球の本場の国々より実力が上になったのだなと思った。(まあ、アメリカの本当のベストの選手が出て来たら又、ちょっと事情は変わって来るとは思うが)
 又、野球解説者の高橋直樹氏によると日本が優勝出来るような強いチームになったのはライバル韓国がいたお陰であると言っていた。前回のWBCから北京オリンピックに至るまで日韓のライバル関係がお互いのチームを強くして行って、もはやアメリカ、ラテンアメリカのパワーに頼る大味な野球を凌駕していったのだろう。

 ところで昨日の試合はもちろん、日韓両チームとも全員頑張ったし、死力を尽くして本当に素晴らしかったと思う。だが、何と言っても殊勲者はイチローだと思う。イチローは今回、東京ラウンドから極度の不振で心配されたが、何、彼の事だ、アメリカに行ったら打ち出すよなんて、解説者も言っていたが、アメリカに行ってもその不振は回復せず、敗者復活戦のキューバ戦でも序盤はことごとく攻撃のブレーキとなり、送りバントを失敗したに至ってはイチロー自身、折れかけた心があそこでほぼ折れたと言っていた。でも、その後、三塁打を放ち、何とかそこで気持ちをつなぎ止めたと言っていたが、彼自身、昨日の試合の後で肉体では感じられない心の痛みを感じ続けていたと言っていた。専門家によるとイチローの不振の原因はタイミングが早くなっているからだそうで、それはやはり、打たなくてはいけないという心の焦りから来ていたのだろう。そして、散々苦しんだイチローだが、昨日延長10回表、二死1,3塁のチャンスではあるが絶体絶命の究極の舞台で見事な二塁打を放って、2点勝ち越し、それが決勝点となって、日本が優勝したのだった。本当にすごいとしか言いようが無い。又、これは本当に他のスポーツ選手とかだけではなく、多くの人に「あきらめてはいけない」という大なる教訓と勇気を与えたと思う。私も何回もここで言っているし、生長の家の教えでも良く言われているが、本当に良くなる直前と言うのは一番状態が悪くなるのである。そうした中、あきらめないで頑張り続けた人がこうして最後に最高の栄光を手にするのである。

 日本が昨日の栄光を手に出来たのは前述の様に韓国というライバルがいたお陰であるし、イチローが最後の最後一番大事な場面で打てたのはそれまでの極度のスランプがあったればこそである。こうして考えると吾々が人生において、色々な課題や問題を抱えているのもそれはただただ吾等の完全円満の実相を輝き出させる為の練習道具であり、決してあきらめなければ必ず歓喜の実相顕現の瞬間がやって来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-25 12:38 | スポーツ | Trackback | Comments(4)

問題はナイ(8)

 「問題はナイ」と私の尊敬するA先生は良く仰っていた。「問題はナイ」とはこのケースは大丈夫だ、問題が無いとかそういう事ではなくて、問題なるものは存在しないという哲学的意味である。問題みたいに見えるのは具体的存在ではなくて、吾等の心の影である。何となればこの世界は唯心所現の法則が厳然と働いており、自分の目の前に展開するものは具体的存在ではなくて、全てそれは吾等の心が映し出したもの、言うなれば吾等の認識そのものなのである。

 実相完全円満を悟らず、悪とか不調和とか病気とかその他色々の悩みなどの人生上の問題というものがアルと思っていれば、それを何とかしようと自己の心がつかむ。その問題をつかむ心が問題を人生上に映し出すのである。だから、具体的に吾等を困らす問題というのは存在しないのであって、その問題なるものが何らかのきっかけで解決されれば、問題をつかむ心がまた、別の問題を生み出して、悩みはつきないという事になるのである。
 
 しかしながら、問題はナイ、ここに神の国があり、全ての問題は神の責任において消されているという真理が吾等に自覚されれば、問題なるものは自ずと消える。その自覚は自ずと出て来る。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-19 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(13)

改心しないままで救われる神が欲しい

 先日、私はある会合で内心、非常に激高した。相手の言っている事がナンセンスで無理な事に思えたのである。それでちょっと相手に反発した。(かなりかも知れない)
 生長の家の教えは相手と和解し感謝する事が大事であると教わっているから、その時の私の態度と心境は教えに反しているかも知れない。しかし、私は多くの場合、余り「こうでなくてはならない」と自分を規定する事は無い。比較的、そのままの感情に任せる事が多いのである。
 こんな事を書いては本当に僭越なのだが、谷口雅春先生も怒る時はかなり怒ったそうである。それも割合、他愛のない事でである。扇風機の設定が悪いとか講演の時のマイクの調整が良くないとかそんな事である。私が察するに雅春先生御自身、余り生長の家の教えに縛られていなかったのではないかと思う。

 吾々の人生は吾々の心で創られる。従って、心のコントロールというものが非常に重大な事とされる。特に吾々の中の完全円満の実相を現象世界に反映させる為には実相と言うフィルムから発せられる実相の光線が現象世界というスクリーンに投影される際、その光が通るレンズが吾等の心であると言うのが生長の家の教えであるから、吾等は常にこの心のレンズを歪み無く、曇り無いものにしなくてはならないのであるから、常に自己の心を良い状態に保たなくてはならないと思うのである。
 しかし、その心が思うようにコントロール出来ないのが人間なのである。だから、大抵、激高したり、恐れたり、卑怯な事を考えてそれを実行したりすると自分をその後、責めて落ち込むのである。

 しかし、谷口雅春先生の願いは「改心しないままで救われる神が欲しい!」という事であったのである。それは私の尊敬するA先生が御講話で再三、仰っていた事である。その事は聖典「生命の実相」の自伝遍を読めば良く分かる。谷口雅春先生は綾部の大本教におられた時、世界立て替え説というのが大本教にあり、それでは正しい行い、清い心を持ったもの以外は全て、最後の審判の日に焼き滅ぼされるという事であり、であるから大本教の修行者達は助かる方に入りたい一心で全てを捨てて、綾部に来て、そこで清貧の生活をして、修行していたそうであるが、雅春先生御自身は御自分の事を鑑みるにとてもではないが、そんな心が清くて、行いが正しかった訳ではないので、その助かる人々に入る資格が自分には全然無いと思って、恐れるばかりであったそうである。
 その後、先生は修行を重ね、遂に悟られ、生長の家の神を見出したのであるが、それは全ての人類が既に救われている神の子であるという真理をお悟りになり、遂に先生は神罰を恐れず、そのままで救われている自己の完全円満の生命の実相を見出したのである。

 生長の家は現象はナイ、心もナイ、実相のみあるという教えである。従って、自己の心のコントロールの良し悪しで自分が救われるか救われないかが決まるなんてそんな教えではないのである。吾々は神の責任において、今、無条件に救われるのであり、相手とも調和出来るし、感謝も出来る。(この表現も榎本先生が良く仰っていた)

 私は先日の会合で途中、激高して、相手と不調和になりかけたが、神様が最終的には話し合いをまとめて下さり、私の心にも調和が戻った。正に実相顕現に我(が)は要らないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-18 13:12 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

神に全託するということ

 私の尊敬するA先生は御講話の中で「皆さん!全託と言ったら、本当に全託ですよ!」と仰っていた。吾々が完全円満、無限健康の自己の実相を顕現させて、現象の色々な問題や病気を治して、幸福になる為には先ず、吾々が自己の心を清めて、その為に色々の行をやり、生長の家の生き方の実行の訓練をやり、その後にようやく神様に全託するというのが生長の家で言う全託であると何となく思っている人が多いのである。

 しかし、全託と言ったら本当の全託であって、一切の我(が)の励みは要らないという事なのである。それが吾々が神に生かされているという事であり、無限の神が全宇宙に遍満している事、実相独在という事である。実相の他に私が潜在意識を清めなくてはならない領域とか、私が生長の家の真理を実行しなくてはならない範囲なんて無いのである。そんなものの存在を認めるならば、実相独在の真理に反する。

 神は無限の生かしであり、その無限の完全円満なる神から全ての善きもの、幸福が来るのであって、その事が明確に歌われているのが生長の家の招神歌(かみよびうた)である。
 そして、その事が「実相は自分で出て来る」という事であり、その事を悟るのが実相を悟るという事であり、その悟りのある所、実相の顕現、展開があるのである。

 私は生長の家の生き方は捨身即ち自己の保身を止め、肉体を良くしよう、保とうという心を捨てる事が真理の実行において非常に大事だと思っている。そこから勇気も生まれ、能力も出て来るからである。しかしながら本当に怖い時にはそれを我(が)の力でいくら実行しようとしても駄目な時がある。そんな時、「ああ、自分には勇気がない。真理を実行する力が無い」と思いがちであるが、それは我(が)の力で無理に捨身を実行しようとしているからである。そのままであればそんな時でも内側から神様が自ずと出て来て、捨身を実行して下さる。私はその事が実相独在であると悟ったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-17 12:41 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

今、出来る(6)

 キリストが足萎えの人や盲(めしい)の人をまたたくまに治したという奇跡が聖書に載っており、弟子達が病人を治せないで帰って来た時、「汝、信仰薄き者よ」と言って嘆いたりした記述もある。キリストは又「汝、芥子粒ほどの信仰があれば、この山を動かして海に入らせる事も可能だ。」とも仰っている。
 こんな話を聞くと、こんな事は聖書におおげさに書いてある事であり、現実にはあり得ないのだと吾々は思いがちである。しかしながら、この事は正に真理なのである。

 よく火事場の馬鹿力なんて言葉があるが、普段、力の無い人もいざとなれば、普段、到底想像もつかないような力を不意に出すと言われているが、こういう事があるのである。
 私の姉がいつか言っていたが、学生時代に友人達とどこか温泉か何かの旅行に言って、お酒を呑んで、べろべろに酔っぱらっている時、偶然、家から親が電話を掛けて来たりするとその酔いが一挙に醒めてしまったなんて事を言っていた。
 要するに人間は心次第なのである。出来なかったり、病気であるのは何らかのきっかけで自分は出来ないと思うようになったり、又は病気であると思う様になっているだけなのである。生長の家では人間、本来神の子でその実相は完全円満、無限力、無限健康であると説き、それを自覚して、訓練して行けば、その信念が潜在意識に蓄積して行き、その後にやっと現象的に健康になり、力も発揮出来るという風に説かれる。しかしながら、本当の事を言えば、吾々が無限健康、無限力であるのは今の事なのである。だから、今、出来るのであり、立てるのである。それを「いやそれは実相の話で現象はこれから潜在意識を信仰でぼちぼち清めて行って、その後にやっとどうにか良くなるのだよ」と言うかも知れない。しかし、そんな事は無い。そんな事を考えるのは自分は今、まだ完全円満、無限健康ではないが自分の心と行いを良くする事でこれから徐々に良くして行こうという考えであり、それは決して、今、無限力、無限健康であるという自覚ではない。

 正に今、吾々は本当に無限力であり、無限健康であり、完全円満なのである。それが分かれば今すぐ立てるし、今すぐ出来るのである。それがキリストの奇跡を今、蘇らせるという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-16 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

この世に何も本当に恐いものも悪いものも無い

 実相世界は完全円満であるが、この現象世界は人間の心が創造する第二創造の世界であるから、吾々は注意して自分の心のありようを正しい方向に保ち、それにより、実相世界の完全円満さを現象世界に投影させ、それで自分自身も健康に幸福になり、又、そのお陰を独り占めしてはならないのでそういう風に自分がなったら、あなたも幸せになれますよという事で一人でも多くの人をこの生長の家の真理で救いなさいという風に大方の生長の家の人は考えていると思う。
 これはこれで一つの段階として、良いと思う。しかし、これは本当の究極の真理ではない。吾々は一度たりとも迷った事も無ければ、病気だった事は無いのである。そんな事を言うと「いや、それは実相世界ではそうかも知れないがこの実際、吾々の生活している現象世界ではいくらでも迷いはあるし、間違いもあるし、汚れもあるのだから、それを注意して心を不断に清めなくてはならないのだよ」という声が聞こえてきそうである。しかし、生長の家の真理は現象はナイという事であり、そして、迷いも悪もナイというのが本当である。要するに悪はナイ、病はナイ、迷いはナイ、不完全はナイと言ったら、ナイのであって、それは宇宙の始まった時からそうなのである。
 聖経「甘露の法雨」に「全ての真実の存在は神と神よりいでたるもののみなり」という一節があるが、正にその通りであり、吾等は一度として迷った事も、病に陥った事も、悪くなった事も無いのである。迷ったりなんかのように見えるのはそれはひたすら吾等の実相が自分で出て来る為のものである。宇宙には無限の領域に完全円満の神のみがおわしますのであり、それが自ずと自己表現するのである。そして、その自己表現として、実相が自分で出て来るという事になり、無限の実相世界からその表現として有限の現象世界が出て来て、無限の実相世界、実相生命の表現が行われるのであり、それは神みずから自分で行うのであり、その表現の過程において、迷った状態から悟った状態になるという表現を通して、実相の無限生命の表現が行われるのである。
 従って、この世界は聖経「甘露の法雨」にある様に「全ての真実の存在は神と神よりいでたるもののみなり」という事になるのであって、吾等の過去に如何なる不完全な状態が自分に感じられていようとそれは本当に不完全なのではなくて吾等の内なる無限生命の実相生命が自ら自己表現、自己顕現する過程における必要な基礎工事期間というか初期段階なのである。
 その事が分かれば、吾等は何一つ恐れる事も恥じ入る事も後悔する事も無いのであり、歓喜勇躍して人生を渡って行く事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-13 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

今、そのままで完全円満である、

 今、このままで完全円満であるのである。不完全なのは現象である。現象は吾等の過去の念の残像に過ぎないもので本来ナイのでえある。
 何か吾々が工夫するから完全円満になるのではないのである。だから、今、それを悦んでいいのである。

 本当の真理はここがこのまま神の国であるという事である。自分の一挙手一投足がそのまま神の一挙手一投足であるという事である。自分の想念とか行動というものが神の他に別にあって、それによって、自分が神になったり、不完全な凡夫になったり、健康になったり、病気になったりするのではなかったのである。その事に気がつき、目覚めるのが実相を悟るという事であったのである。その実相を悟れば、ここに完全円満の神の国が展開している事が実感され、心の法則が厳然と働いて、現象として完全円満の世界が投影されるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-12 12:18 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(3)