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アイシテル

 今春から新しく始まったドラマで「アイシテル」というドラマがある。日本テレビ放送で時間帯は水曜夜10時である。主演は稲森いずみ、田中美佐子等が演じている。ストーリーは稲森演ずる主婦の長男(小学校5年生)が近所の子供(小学校1年生)を殺してしまうという所からスタートする。
 稲森演ずる主婦の一家というのは夫はエリートサラリーマンで一人息子であり、その主婦は子育ての為に専業主婦となり、一所懸命子育てに専念して、子供を塾に通わせ、中学受験も目指しており、恵まれたごく普通の幸せな家庭であった。しかし、突然、息子が殺人を犯し、警察に補導され、それがマスコミに知れ、住まいであるマンションには連日報道陣が押しかけ、近所からは窓ガラスを割られたり、人殺し等の落書きを玄関にされたりした。夫は勤務先から自宅待機する様に言われ、現在進めているプロジェクトからは外され、一家は一瞬にして絶望のどん底に突き落とされたのである。

 稲森演ずる母親は今まで、子育てにやっきになって塾とかそんな事に通わせる事ばかり考えて、自分は本当に我が子の気持ちが分かっていなかったのではと悩むのである。そして、意を決して鑑別所に収監されている息子と面会に行くが、そこで息子にすげなく、拒絶される。しかし、その一方、息子の担任の先生から息子が本当に優しい生徒であった事、そして、息子の作文からも母親の事を慕っていた事等聞かされもした。
 そうした中、その息子が田中美佐子演ずる鑑別所の調査官の女性にある告白をする。それはその殺人があった日、偶然、その被害者の子供の家の前を通った彼が、家が鍵が閉まっていて入れず、トイレにも行けないで困っていたその被害者の子を親切心から自分の家のトイレを貸してあげたという事である。そして、それから事件が起こってしまうのだが、そこから先はその加害者の子が思い出そうとすると苦しくなって頭を抱えてしまったので話はそれまでになった。

 このドラマはまだ始まったばかりで私もこの先、ストーリーがどう展開するか全く知らない。しかし、私が推測するに(この推測はまず間違いないと思う)この加害者の子供は殺そうと思って、被害者の子を殺したのではないと思う。この加害者の子供は殺人をする様な冷酷非道な子ではなくて、トイレに行けなくて困っていた子に自宅のトイレを貸そうという様な親切な愛深い子なのである。被害者の子が死んだのは何らかの事故によるものだろう。それを加害者の子は自分が殺したと何故か思いこんでいるのだと思う。

 私はこのドラマからある真理を思うのである。それはこの世界はこのままで完全円満の世界であると言う事である。生長の家の教えは実相世界即ち本当にある世界は完全円満であり、一人の罪人も悪も病気も災難も戦争も無い世界であるという事である。そして、それはどこにあり、何時の事かと言えば、今、ここ吾々が住んでいる世界がそのまま実相世界である。現象世界というのはその今、ここにある実相世界を吾々がどう認識するかの世界である。吾等が今、ここにある完全円満の世界を認めず、おのれの認識が歪んでいるならば本来、完全円満の世界が罪や殺人や病気等その他、色々の災いがある様に見えるのである。しかし、それは吾等の錯覚であり、全ての人は今、そのままで救われている完全円満の世界がここにあるばかりである。
 前述の稲森演ずる主婦は単に息子が殺人犯であるという夢を見ているだけであり、本当の世界は息子は母親思い、友達思いの良い子であるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-30 12:36 | 映画・ドラマ | Trackback(3) | Comments(2)

何にもしない

 私は大学3年の時に生長の家青年会に入った。そこで、程なく池袋単位青年会委員長という役職を頂いた。それから、翌年の全国大会の時には本当に驚いた。5月の全国大会の為に2月から連日、参加促進の為の家庭訪問が始まったのである。
 私は自宅は鎌倉で、大学は池袋であったので池袋にいる事が多かったので池袋の青年会に入ったのだが、毎日、名簿に載っている参加対象者に家庭訪問を時間帯として大体、夜7時から9時まで行った。それから家に帰るのだから、帰宅は毎日、11時過ぎである。それまでの私は大学に入って、文系の学部に入り、クラブは美術部に入り、野球同好会も兼部して、かつテニスも趣味でやっており、又、女子学生が半分以上いた大学であったので、それこそ軟派のキャンパスライフを謳歌していた。
 そんな生活が生長の家青年会に入って、単位青年会委員長になった事でそれこそ急変したのである。私は元々は生長の家の信仰があり、これはこれこそ人間を真に幸福にし、病苦その他の家庭苦に悩んでいる人もこれを知りさえすれば救われると確信していたので、この真理を伝える事はとても大事な事であると思って、青年会に入ったのであるが、三ヶ月間も殆ど毎日、伝道や参加促進しなければならないと言う事になった時は本当に辟易とした。
 しかしながら、それが生長の家を先に知ったものの義務と言うか使命と思ったし、当時の青年会の研修会でもそうした事が繰り返し、たたき込まれたので、自分の時間とか資金を犠牲にしても、この聖使命に掛けるのが当たり前であると自分を追い込んで行った。そうする中で私はいつしか趣味とかその他のプライベートな事にお金とか時間を掛ける事が罪な事であるという意識を自分に蓄積させて行った。余談だが、私は現在、両親と同じ家屋に住んでいるが、それは29歳の時に結婚した時、住居をどうしようかと考えた時、生長の家の普及誌購入代とかその他の人類光明化の為の資金の為に少しでもお金を無駄にしてはならないと思いこんで居たので他にアパート代など毎月払って、新居を構えるなんてとんでもないと思い、自宅の二階を適当に改造して、所謂二世帯住宅として妻と住み始めたからである。

 まあ、そんなこんなで私は常に人類の為にこうしなくてはならない、自分の為の時間や金を持ってはならないと極端に言えば、そうした意識で20代、30代は過ごして来た。しかし、それが最後の最後でその生き方に成り切れず、遂に破綻して、私は神経を故障し、つぶれてしまったのである。しかし、それが契機で何回もここで紹介している様にA先生の元に導かれ、そんな事をしなくても人類はそのままで救われているという究極の真理に出会い、私は救われたのである。

 現在、私の教区では私は相愛会の副連合会長で担当は壮年対策部、IT対策部であるが、それぞれ本当に立派で素晴らしい対策部長さんが現れて来てくれて、我が教区の相愛会壮年部は本当に手前味噌で申し訳無いが全国でも指折りの壮年部になっていると思う。必要な人が必要な時に必要な部署に現れてくれて、それぞれ素晴らしい働きをそれも悦びを持って生き生きとやって下さっている。我が教区の相愛会のホームページをIT対策部長さんが作成して下さり、その内容は本当に中身があり、又、掲示板は毎日、悦びの書き込みがされている。そして、壮年対策部も私の後を継いで本当に素晴らしい方が対策部長を引き継いで下さって、壮年対策部をぐいぐい引っ張って下さっている。そして、その人は5月2日の全国幹部研鑽会で体験発表もする事になっている。

 私は何をしたかと言えば、実は大した事はしていない。当たり前の事を当たり前に毎月の壮年勉強会をきちんと定例開催し、当たり前にメンバーに声を掛け、当たり前に月一回会議をして、その後、いつも皆で飲みに行く位である。そうした中、その集いに悦んで参加してくれる仲間がどんどん出て来て、それが悦んで色々なアイデアを出してくれて様々な企画が壮年対策部の中で持ち上がり、活況を呈しているのである。

 そのままで良いのである。家庭訪問しなくてはならぬとか、参加促進しなくてはならぬとかそんな事は一切無い。全ては既に神により成就されている。全ての人類は既に救われ済みである。その悦びから真の人類光明化は出発する。当たり前に当たり前の事を内側から催すままにやっておれば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-29 10:14 | Trackback | Comments(3)

中心帰一

 一昨日は終日雨であったので、私の所属するテニスクラブはクレーコートの為、昨日はコンディションが悪く朝から使えなかった。それで私は別のテニススクールに行き、そこでスクールのレッスンを受けた。そこは全天候型のコートであったのでその時、雨さえ降っていなければ、出来るからである。
 さて、そこで最初、ひとしきりフォアとバックのストロークをやった後、コーチが他の生徒の前で私のフォアハンドストロークがこういう点が良くないと言ったのである。その時、私はムッとした。何故なら、正直、その時の生徒の中では私がレベル的に一番上だと思ったいたからである。しかし、そのコーチが具体的に私のどこが悪いかという説明を聞いている内に私はなるほどと思った。と言うのは私はフォアハンドストロークを打つ時は一応、肩を回しては打つがラケットの使い方としてはラケットのヘッド即ちボールに当たるガットの部分を強引にボールにぶつけて行く打ち方であったがコーチに言わせるとそうういう打ち方は効果的ではなく、肩の回転が肘からラケットのグリップ部分即ちラケットの根本へ伝わり、最後にラケットヘッドが出て、ボールを打つ様にするのが無理の無い効果的な打ち方であると言う事であったからである。
 それまでの私の打ち方は強引なラケットのヘッドをボールに当てて行く打ち方であり、だから、私は右腕を常に酷使している割に効果的な伸びのあるボールが打てず、ボールが割合、短くなるので相手から攻め込まれる事が多かったのである。その上、右腕に無理な力をかけ続けているが為に右腕全体が慢性的に筋肉が硬くなっており、野球などのボールが真っ直ぐ投げられないのも右腕の筋肉の硬さに原因があると自分でも分かっていたので、その筋肉を硬くさせていた原因もその時、自分で分かったのである。

 中心帰一と言うのが宇宙の大真理である。中心帰一というのはものごとには何でも中心があるという事であり、その中心に全ては支えられ、そして、全ては中心に対してハイと従うのが中心帰一である。
 それはものごとをちょっと観察すれば、明らかである。国には元首と言う中心があるし、人体も頭脳と言う中心がある。そして、大きくは太陽系には太陽という中心があり、ミクロの世界を見れば、原子には原子核という中心がある。そして、家庭の中心と言ったら、それは父親である。そして夫婦も夫が中心であり、だから、生長の家の教えでは妻は夫にハイと従うのが宇宙の真理にかなうのである。余談だが我が家においてはやはり父親である私が中心である。家内とは色々楽しく毎日やりとりしていて、家内は生長の家の教えに全然とらわれていないで私を時に叱りつける事がある。でも、肝心な所は完全に私にハイである。

 それは神に対し、真理に対しての全面的なハイの心である。だから、純粋な信仰心を生活に生きようと思う人はこの中心帰一の生き方を自ずとする様になる。即ち、宇宙の真理を探究し、それに対して心を空しくして、素直に従う清らかな心がハイの心、中心帰一の心である。
 その中心帰一の心はものごとの展開、真理の顕現、価値あるものの表現においても貫かれる。例えば、野球のバッティングでは腰の回転が下から螺旋状に上半身に伝わり、そこからバットのグリップ部分にその回転が伝わり、最後にバットのヘッドが出て、効果的なバッティングが行われるが、前述の様にテニスのフォアハンドストロークも全く同様である。テニスの場合は背骨を中心に肩が回転して行って、それがラケットのグリップ部分にその回転による力が伝わり、そして、最後にラケットヘッドがぴゅっと出て、ボールを飛ばす。この様に野球もテニスも背骨を中心とした回転運動が身体の内側から外側に連動して行って、それで最後にボールにパワーを与える。
 それをそうではなくて、バットやラケットの先の部分、いわゆる、ヘッドを力で強引にボールにぶつけて行っても、筋肉に不要な負荷が掛かり、酷使する割に威力のある打撃を加える事が出来ない。それは中心からの自然な動きではなくて、腕が勝手に強引にボールを力で打ちに行っているのである。それを我(が)と言うのである。そして、そういうのが人体に出て来たのがガン細胞の勝手な増殖作用であり、いわゆる癌と呼ばれる病気である。

 そのようにおのれの我(が)を張らず、中心に対してひたすら中心帰一するものは中心即ち神に完全に生かされ、無理なく楽しく悦びの中で素晴らしい力を発揮する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-27 12:32 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(2)

スマップ草なぎ剛の事件について

 昨日、スマップの草なぎ剛が公然わいせつ罪で逮捕というニュースが日本中に駆けめぐり、大臣までも非難のコメントを出した。でも、これってそんなに悪い事なんだろうか?人を傷つけた訳でも迷惑を掛けた訳でもなく、酔っぱらって、訳も分からず公園で裸になって騒いでいただけだろう。ましてや覚醒剤なんて事じゃなくて、単なる酒ではないか。芸能人は酔っぱらうとよく裸になるみたいでナインティナインの岡村なんてしらふで全裸になってテレビで女子プロとプロレスしてるではないか。

 それが家宅捜査なんて事にもなり、芸能界中、大騒ぎになっている様だが冷静に考えれば、大した事ではないのは分かるはずだろう。まあ、事の主人公が日本のトップアイドルだっただけにマスコミが格好の餌食とばかりによってたかって大騒ぎしているだけだと思う。
 本人は現在は反省しているなんて報道は伝えているが別に意識して悪い事をした訳でもないから反省もくそも無いと思う。私だって酔っぱらって記憶が無くなる事はしょっちゅうだし、そんな時の事をこれから気をつけますなんてナンセンスだと思う。
 ただ、私だったら酔っぱらって記憶が無くなっても全裸にはならないと思うが、その乱れ方は十人十色なんじゃないかと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-24 14:48 | Trackback | Comments(4)

今、悦んでよい(6)

 聖経「続々甘露の法雨」に「今、生きてあるその今を悦ぶべし。」とある。私の尊敬するA先生は「今、生かされている事を悦びなさい」と仰った。
 吾々は信仰生活をしていながらもともすれば、現象の良し悪しに一喜一憂する事がある。それでこういう心でいたら、心が清まり、やがて、健康も運命も良くなるだろう、そうしたらその時に悦ぼうなんて言う考えになりがちである。

 私も息子の受験の時はけっこう気をもんだし、それで信仰も鍛えられた。それは如何なる運命でも受け入れる信仰を鍛えられたのである。お陰様で結果が大変良かったので有り難いが、そうすると知らない内にその良い現象を心でつかんで、それを保とうとかしている自分に気がつくのである。
 良い事をするから、神になるのではなくて、神であるから、良い事、真理の実行をするのである。その、今、神である事を悦ぶべし。
 物質を良くする為に信仰するのではない。物質ナシを悟るのが信仰である。全てを神の流れとして受け入れるべし。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-24 12:36 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

セックスしたけりゃすればいいじゃないか?

 セックスの問題は人間に取って、とりわけ求道者に取って、永遠のテーマではないだろうか?
 この問題を解決する為に昔から多くの求道者がそれこそ血の道を上げて努力して来たのである。また、ある女性の修行者などは自分の美貌が求道の妨げになると自ら顔を火で焼いて、仏門に入り、求道したそうである。その真剣さには頭が下がる。
 私の知人で中々個性ある方がいて、その人は信仰的な事に関して、中々鋭い言説をするが、その人がある時、「セックスしたけりゃすればいいじゃないか!」と多少、お酒の酔いに任せて、言った事がある。何でも、その人に言わせると「セックスの欲望を不自然に抑えるから却って、その欲望が強くなるんだ。だから、80歳になってもまだ、その事を処理出来ないでいる人もいる位だ。セックスしたかったら、いくらでもやればいいんで、そうなったら、その内、あほらしくなって、自分から止めるよ!」と言う事であった。

 私はそれを聞いていた時、納得した様なしない様な複雑な気持ちであった。確かに欲望を抑えていれば、それが歪んだ形になって吹き出てくるのであり、それは年を取っても変わらないと思う。だから、80歳になってもまだ、その事で悩んでいる人もいるのだろう。しかしながら、私はその意見には半分賛成だが、半分反対である。というのは確かに歪んだ、過剰な性欲などの欲望は人間本来持っている願いとか欲望を変に抑えようとするから、それが却って、歪んだ欲望になって出て来るのだとは思う。しかし、だからと言って、セックスしたい時にやりまくるなんて事は実際、そんな事をしたら大変な事になるし、それで根本的解決になるかと言ったら私はそうは思わない。

 正しい信仰をしていれば、性欲も食欲も正しく制御されるのである。それはどういう事かと言えば人間本来持っている願いとかそうしたものを素直に表現していれば、それが歪んだ形で抑圧される事が無いからである。それは自分の本来の願い、即ち、自分が本当にしたい仕事や趣味をやるとか、その他、本当に自分が悦べる事をそのまま出来るという事である。
 異常な性欲に魅せられるのは自分の魂が完全に解放されておらず、抑圧されているからである。こうでなくてはならぬという我(が)の縛りがほどけ、自己本来持っている無限の可能性をいかんなく解放した時、そこに法悦が生まれ、性欲なども歪んだ形で表現される事無く、適当に制御されるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-23 12:32 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(3)

吾等は今、このままで神である。

 「人間は神の子である」というのが生長の家の根本の教えである。神の子というのは神の事である。神とは完全円満、無限力の事であり、それは無限であるから永遠不滅であり、又、それは宇宙全体に普遍している。要するに吾等の本質は神であり、現象としての吾等は一人一人がその完全円満、無限なる、普遍なる神の無くてはならない表出口である。そして、それは個性ある個生命として、その無限生長を何回も何十回も繰り返し、この世に生まれてきて、人生という学校の中でその無限の可能性をその人でなくてはならない形で花開かせて行き、その個々の生命も個性として不滅であるのである。
 この様に生長の家の教えは途轍もなく素晴らしいものであり、これを知れば、手の舞い足の踏むところを知らずという位、悦びに満たされるのである。そして、その生長の家の教えこそが宇宙の真理であり、そのように吾等は今、そのままで途轍もない素晴らしい世界に完全円満なる神の子として神に生かされているのである。

 しかし、その真理を吾等の心が悟れば、その素晴らしさが現象に顕現するのだが、それを如何に信じられるか、悟れるかが最後の問題になって来るのですねというお話をする人も生長の家の中にはいる。確かにそうだろう、人間は神の子で完全円満で悩み無く、罪無く、病無く、死無しというのが生長の家の真理だが、分かっちゃいるけど止められないという事で中々それが信じられないとかそれが中々実行出来ないと言って悩む人は多いと思う。それは生長の家に限らず、真理の探究の道を志す人が道の通りに生きようと思っても、煩悩が出て来て、「悪性更に止み難し」とか言って、嘆く話は良くある。

 しかし、吾等はそんな心配は本当は要らないのである。吾等は神の子であるという事は今、そのままで神であるという事であり、これから修行して神になるのではない。今、神であるという事は神は悟りであり、信念そのものであるから、神の子完全円満を吾等が信じようとか悟ろうなんてしなくても今、吾等の本質そのものが「吾、神の子完全円満なり」の悟りそのものなのである。しかし、こんな事を言うと、「それなら何故、こんなに世の中が乱れて、不幸な人が存在するのか?」と反論する人がいるだろう。しかし、「迷いは悟りの基礎工事である」と生長の家で教えられているのである。それを仏教では煩悩即菩提とも言われている。

 即ち、吾等は今、このままで神であり、完全円満であり、悟りそのものなのである。その完全円満さ、悟りをこの現象世界に表現する為に自ら、心の法則を駆使して、様々な問題を人生に作り出し、その中で苦労して、修行して、自ずとその完全円満さを現しだして行くのである。だから、この世界を人生学校と生長の家で教えているのである。

 この人生はおのれの中の宝を発見して行く人生である。そして、それは表面的には色々の失敗体験となっている。だから、迷いは悟りの基礎工事であるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-22 12:27 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(2)

今、このままで神の道である

 吾々は普通、生きているのは自分で生きていると思っている。朝、何時に起きて、何を食べて、何時に会社又は学校に行き、どんな仕事又は勉強をして、その後、何時に帰って、どこかに仲間と飲みに行くとかそのまま真っ直ぐ家に帰るとかそうした事は全て、自分で決めて、自分で行動していると思っている。

 しかしながら、実は吾々は自分で生きているのではなくて、生かされているのである。吾々は神の生かし無しでは一秒たりとも生きてはいられないのである。生まれてくるのも呼吸するのも心臓を動かすのもそうした生理作用はもちろん、実は自分の意志で行動して色々決めていると思ってはいるが実はそれは自分ではなくて、神が行動し、生きているのである。それを生長の家の招神歌では「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命、吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」と歌われているのである。

 その事は別の表現をすれば、吾々は常に神と供にあるという事なのである。吾々は如何なる時も神から離れる事は無いのである。だから、感謝があるのである。感謝とは「私が生きている、私がやってやっている」という心からは絶対に生まれないのである。生かされているという感情が即ち感謝である。

 私は以前、私の尊敬するA先生とお話させて頂いている時、ふと「私は私の言葉で他の人を間違ってリードしたのではないかと不安になる時がたまにあります。」と申し上げたら、先生は強い語調で「人間神の子という事は自分が神であるという事だ」と仰った。私はその御言葉は今でも深く心の底に残っている。吾等の不安とかの感情は全て、元を正せば「自分が生きている」という心に行き着くのである。自分という我(が)が生きていると思うから、あの時、ああ言ったのは良かったのか悪かったのかとかあの時、ああ言わなければ良かったとかあれこれ後悔したりし、また将来の事も取り越し苦労が出て来るのである。 今、このままで自分が生きている様で実は神が生きているのである。神に常に生かされているのである。それが実相である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-21 12:32 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)

実相は自分で出て来る(22)

 実相は自分で出て来るというのはここでも何回も述べさせて頂いた事である。吾々は実相顕現させるには実相の実行と言うか真理の実行が不可欠である。それは生長の家の真理の生活化という事であり、その事に関しては聖典「生命の実相」第七巻・生活遍に事細かく書かれている。即ち、自分が神の子完全円満であると分かったら、それを生活に実行しなければならないのである。人間は神の子、完全円満であると言う事が「生命の実相」の本に書いてあると知っているという事と人間は神の子、完全円満であるという事を如実に知る事、即ち、吾、神の子完全円満なりの自覚を持つという事は全然、別であり、吾、神の子、完全円満なりと真に自覚すれば、それは必ず行動に表れて来るのである。何故なら、自分が今、完全円満、無限力であると知ったら、どうして目前の課題とか物事に対して、背を向けて逃げるのであろうか、どうして、自分と同様、神である相手をつまらないものとして蔑んだり、憎んだり出来るであろうか?
 
 そのように本当にその事を信ずるというのはそれはどうしても行動に表れるものなのである。それは取りも直さず、実相は自分で出て来るという事にもなって来るのである。そこに神の悟りがあるならば、神の悟り即ち神であり、神はそのままで無限生長であるから、悟りのある所、自ずと行動がある。それが実相が自分で出て来るという事であり、実相を実現させたり、真理を行動化するという事に我(が)の頑張りとかやせ我慢は要らないという事になる。即ち、あの人は素晴らしい強い心を持っているから真理の実行、即ち人に施したり、勇気ある捨て身の行動が出来るが私はどんなに頑張っても心が弱くてだらしないので努力も出来ないし、勇気も出せないので実相を顕現する事、真理の生活化が出来ませんなんて事は無いのである。それを私の尊敬するA先生はよく「神の責任において」と言う表現を使われ、実相は神様が顕現させて下さる、実相は自分で出て来る、我(が)は要らないとよく言われていた。

 この所、野球のボール投げの事を再三書かせて頂いているが、昨日は早朝7時から野球チームの練習があった。私は最近、このチームのまとめ役を後任者に譲り、もう、練習とか試合に出なくても良い立場になった。しかし、それだからと言って、野球から足を洗うのも後継者に対して、無責任な気がするので出来るだけ協力しようと思っている。
 という事で昨日、野球の練習に出たが、先週の試合前のキャッチボールが上手く出来なかったので実を言うと昨日は練習に出たくなかった。ソフトボール投げならほぼ問題無く、出来る様になったが、ソフトボールより小さくて軽い野球のボールだとまだ、左に行ってしまう癖が完全に抜けておらず、それで上手く投げられず、ちょっと自分の中で野球の練習に行くのがトラウマみたいになって来ていたのである。
 しかし、「解決出来ない問題は無い」と教えられているので、私は当たって砕けろと思い、練習に行き、練習の最初のメニューであるキャッチボールをチームの一人と始めた。近い距離だと問題なく投げられるのだが段々、お互い距離を離して、やって行くとやはり、上手く投げられず、ワンバウンドの球しか投げられなかった。バッティングセンターのピッチングコーナーで機械相手に投げる時は野球のボールでもまっすぐ上手く投げられる様になって来たのだが、人間相手だと暴投する恐怖がどうしても出て来て、それを避ける為にワンバウンドの球しか投げられないのだが、昨日、やっている内に内側から「出来る!」という声無き声が自ずと湧き上がって来たのである。それで、もう理屈抜きに勇気が自ずと出て来て、相手に思い切りダイレクトに投げられる様になり、そして、その後、フリーバッティングでサードの守備についた時もサードゴロを捕って、ファーストまで矢のような球を投げ、走者をアウトにする事が出来た。私の普段の状態を知っている仲間からはその時、歓声が上がったのである。

 実相は自分で出て来る。実相を実行する勇気も自ずと時期が来れば出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-20 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

一切の責任は我が内にあり。

 「一切の責任は我が内にあり。」というのが生長の家の教えである。谷口雅春先生はそれが本当に徹底してらして、話によるとナチスドイツのヒトラーがあんな事(ヨーロッパ中に戦禍を拡げ、ユダヤ人を虐殺したりした事)をしたのも自分の責任であると仰ったそうである。

 ところで雅春先生が何かの本に書かれていたが、人のせいにする心持ちであると悪霊と波長が合って、取り憑かれやすいなどと書いてあった。そうなると病気になる事も多いわけで、そうした他に依存した考えであると駄目なのである。

 一切の責任は我が内にありという自覚は絶対者の自覚であり、吾、完全円満なる神なりの自覚である。一切は吾より出でて、吾に還るの自覚である。何か自分に取って、不都合な事、力が発揮出来ない事、病気であったり、その他災難が自分の責任ではなくて、自分の力の及ばない、どうにもならない自分以外の悪とか障害がある為に自分は力を発揮出来ない、健康になれないというのであれば、自分以外に悪とか不完全という存在があると認める事になり、とても自分が完全円満で無限力の神そのものであるという自覚とはほど遠い。そんな心持ちであるからこそ、悪霊にも祟られ、それで色々な障害、病気、不幸が次々と出て来る訳である。

 ここでも何回も紹介したが私は十年以上前から野球などのボールが真っ直ぐ相手に投げられないという状態になってしまった。まともに投げようとするとどうしても左側に行ってしまうのである。それでそうならないようにすると今度は右側に行ってしまい、立場上、野球チームで練習の時、キャッチボールをしなくてはならなかったのでそれはそれは苦労した。私はそうなる前はボール投げは得意でかなり離れた距離でも伸びのあるボールを正確に相手の胸元に投げる事が出来たのである。それでバッティングなどは割合、良いし、テニスでも力が比較的発揮出来ていたので、本当にこの事(ボール投げが上手く出来ない事)さえなければ仲間にも馬鹿にされずに大きな顔が出来るのにと思っていた。
 その心の底には自分は悪くない、この状態は自分の責任ではない、たまたま襲った不幸なアクシデントにより神経に故障を起こしたから、たまたまそうなっているだけでこれさえ無ければ、自分はすごいんだという思いがあった。
 
 私はこの様に苦労しながらも決して、目前の課題から逃げる事は無かった。それで段々分かって来た事はこれは何も神経の故障なんかによるものではない、これは自分の筋肉が全体的に特に右側が硬くなっているからだと気がつく様になって来た。何故なら二日酔いでお酒がまだ残っている状態でボールを投げると不思議と上手く投げられた事があり、そんなこんなでこれは自分の身体の固さに原因があると分かったのである。そして、その身体の固さはどこから来るかと言ったら、それは以前、紹介したが、自分が神に本当に全託出来ておらず、従って、「私が、オレが」という力みがあり、それが為に硬くなっていた事が分かったのである。それは実際、ボール投げ以外の部分でも私は自分で自分の能力を縛り、それが十分な力を発揮させていなかった事に自ずと気がついた。それだから、英会話も進歩が遅いし、テニスもあまり勝率が上がらなかったのである。
 私はそういう訳で野球のボールが上手く投げられないのは神経の故障という自分ではどうにもならない外的要因ではなく、全て、自分の心に原因というか責任がある事が分かったのである。そして、その事は私の生まれついてのこの人生における課題であった。その事が分かったからこそ、私はこの人生で大いに学ぶ事が出来たのである。これはこの事が出来ないのは自分の責任ではない。自分ではどうにもならない外的要因である神経の故障によるものだなんて考えていれば、何時まで経っても自分のこの人生での課題は分からなかったであろうし、又、自分以外に何かどうにもならない故障とか病気とか肉体とかの存在を認める事になり、それは実相独在の自覚、完全円満の神の自覚になり得なかったであろう。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-17 13:01 | 信仰 | Trackback(7) | Comments(4)