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業障海を乗り越える


 私は幼少の頃から母親により生長の家を伝えられて、小学生の頃は毎日、聖経「甘露の法雨」をお守りとして携帯し、毎日、夜寝る時は母親と「私は神の子、仏の子、何でも出来ます強い子、よい子」というお祈りをして寝た。
 しかし、日頃の生活の中でそれほど真理の事は意識してはいなかったが、高校一年の夏、母親から半ば強制的に富士河口湖道場で行われた生長の家高校生練成会に参加させられた。当時は4泊5日位でみっちり練成を受けたものである。
 その時、竹岡先生という先生が練成を指導されており、その人の講話で一番印象に残ったのが「思ったら思った通りになる」という部分だった。私は練成ですっかり良い子になり、練成から帰ってからは二、三週間はその良い子状態が続いたが、それが過ぎると元の自堕落で多少悪い子に戻ってしまった。だが、それでも私は練成会で買った生長の家の本を毎日読み続けた。それは確か谷口雅春先生の「真理」という本と谷口清超先生の「こうして善を実現する」の二冊であり、それ以降、私は生長の家の真理の事ばかり考える様になってしまい、勉強が殆ど手がつけられなくなってしまったのである。それで高校二年になって成績もぐっと下がり、その時の担任の先生から心配された位である。
 私は生長の家の真理の事を毎日頭だけで考える様になり、その中で大きな悩みが出て来たのである。それは何かと言ったら、練成会の時に聞いた「思ったら思った通りになる」という心の法則の事であった。
 これは一見打ち出の小槌の様に「お金、お金」と思ったらお金が出て来るのであり、「あの大学に入る、入る」と思えば入れるのだから、それを最初聞いた時はこれは良いことを聞いた、しめしめと思ったものである。これからはこの心の力を使って、好きな女の子もゲット出来るし、何でも可能だなんて思った。
 しかし、程なく襲ってきたのは「悪い事を思ったら悪い事になる」のではという心配であった。思ったら思った通りになるなら良い事を思うなら良い事が出て来るが、同時に悪い事を思ったら悪い事が出て来るという事であり、当初はそれなら出来るだけ悪い事を思わないで良い事を思う様にしようなんて試みて見たが、これが悪い事を思うまいと思えば思うほど逆に悪い事を思ってしまうのである。そうなると「ちょっとでも悪い事を思う」、「恐怖する」という事を恐怖する様になってしまい、それでその恐怖、不安から逃れる為に私は生長の家の本を勉強そっちのけで毎日必死に読んだのである。
 そうした中、真理を自分の頭で考えて、これで分かった、もう大丈夫なんて思ってもそれが全然続かず、その私の頭で考えた分かった事が次の考えでまた、覆されるという事を繰り返した。今から考えると殆どノイローゼ状態だったと思う。

 しかし、そうこうする内に聖典「生命の実相」第20巻に出て来る谷口雅春先生の「現象はナイ。心もナイ。実相のみがある」とお悟りになられる所を拝読したり、大学に入ってから生長の家青年会に入って仲間と活動している内にそうした状態は改善されて行き、毎日神想観したり、組織で活動したりしていればそうした「恐怖する事を恐怖する」なんて悩みは無くなると思っていた。
 しかし、それは活動にかまける事で一時的に自分の心を誤魔化したに過ぎず、私はこの悩みを超えてはいなかったのである。その悩みを仏教では「業障海の海に沈む」というそうである。

  しかし、その業障海を乗り越える道がここに存在するのである。それは「今、このままでここが神の国である」と悟る事である。
 私は心を整えなくてはならない、潜在意識を清めなくてはならないという事に必死になり、その事により現象を良くしよう良くしようとしていたのである。それを私の尊敬するA先生と巡り会って、薫陶を受け、神の国は今、ここにそして、自分の内にあると実感する事が出来た。それと同時に現象もナイ、潜在意識もナイと分かり、自分が神であるとも分かり、そうなると自分の歩みが全て、百点満点であったことも分かった。
 そして、ここがそのまま神の国であると分かった。その時、私は初めて、業障海を乗り越える事が出来たのである。それは初めて生長の家の練成で心の法則の事を教えられてから20年以上経過した時であった。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-29 12:35 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

突然の進歩

 先日、5月11日の「観世音菩薩のお働き」という所で私の趣味であるテニスのサービスの話を書かせて頂いたが、その後、サービスの技術的な事に関して、ちょっと私が勘違いしていたので最近、「後日談」として訂正文を加えさせて頂いたが、そういう事が文章の主旨ではないので文章は原文のまま残しておいた。

 当初は自分のボールのインパクトの位置が自分が思っていたより大部低い位置でインパクトしていたのでこれはインパクトを高い位置でしようとしていない点に問題があると思ったが、その後、試合を実際やって行く内にそういう事が問題ではない事がはっきりしてきた。それで私の欠点はトスの低さにあるのではないかと思ってそれで修正してやってはいた。しかし、本当に自分として当たりの良い改心のサービスが打ててる感じがしなかった。コーチとか上手い人のサービスに比べると大部スピードと威力に劣るし、回転も十分掛かっていないのでセカンドサービスも今ひとつ自信が無い状態であった。
そして、又、改めて息子の携帯の中にある自分のサービスの連続写真を見るにつけ、本当にひどいと思ったのである。どこがひどいかと言ったら普通、サービスを打つ場合、ラケットを振り上げるがそれが頭の後ろに一旦ラケットを持ってきて、そこから肘を使って打つのであり、プロなど上手い人は皆そうしている。息子のフォームも見事にそうなっている。しかし、私の場合はそうなっておらず、ラケットは頭の横当たりまでしか引かれておらず、肘も十分に使われていないのである。何とも格好の悪いフォームだと思った。

 そして、今週の月曜日の夜、いつもの様にテニススクールに行ったが、そこでしばらくサービス練習の時間があり、数十球サービス練習をした。そうしたら何の気無しにラケットを引いた時、思い切って自分の頭の後ろまでラケットを回してみようという気持ちになった。本当に突然そういう気持ちになったのである。そうしたら、自ずと肩も良く使えて、本当に感触の良い当たりの良いサービスが打て、その後の試合でも試合は負けたがサービスは従来の五割増しくらいのスピードと回転が加わったと思う。その打ち方にするのは自分としてはかなり思い切った境涯に踏み入る事であり、勇気の要る事であった。それまでの私は思いきりやっている積もりでやはり、おっかなびっくり打っており、それでラケットを思い切って、頭の後ろまで引いていなかった事も分かった。そして、この時、私は初めてスポーツというものを本当の意味でマスターして来たという事を実感した。一つの事を本当にマスターするという事はこの位大変な事なのだと思った。私はテニスを始めて30年近くになるのであり、それでようやくまともなフォームが出来る様になったのである。

 ところで私がその事に目覚めたのは正に突然そうなったのである。何の気無しにと言うかそんな感じである。そして、私のサービスのその課題は考えてみれば以前、クラブの上手い人から指摘されていた。しかし、その時の私はその事の意味が良く分からなかったのである。
 吾々は生長の家をやっているが、その奥義はやってすぐに分かるものではない。何十年も掛かるかも知れない。しかし、それはやっている内に突然分かるのである。自分が神であるという事、この世には一つも悪いものは無かったという事、現象はナイという事、そうなるとそれまでの悩みとか苦労というものが一気に報われる。それは何かの偶然にある書物を読んだとか誰々先生に巡り会ったとかそんな事がきっかけである。私が自分のサービスのフォームをたまたま、息子に撮影してもらったお陰で自分のやり方のまずさに気づき、自己修正する事が出来た様に。

 それは要するに吾等の実相というものが始めから完全円満であり、この人生はただそれが実相そのものが自己表現の為に自分で出て来ている道程であり、それ以上でも以下でも無いという事なのである。生長の家をやっていて、中々常楽の境地、悟りの境地に至る事が出来ないでいたが、たまたま何かに出会った事がきっかけで一気に生長の家の神髄を悟る事があるのはそれはその時がその人の実相が自分で出て来たその人に取って最も良いタイミングだったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-28 12:33 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(2)

引っ掛からない

 私は生長の家総本山に団体参拝練成会に先週の金曜から週末に掛けて、行ってきたが、その時、すごい霊圧というかそういうものを行事中感じていて、けっこう心が必死になっていたのである。団参に来る時はいつもそうで、そういう時は真剣になるので気づきがいつもより沢山あった。
 私は何か生活の中で気づきを得た時はすかさず携帯しているメモ帳に書く事にしている。それはワープロで清書され「悦びの記録」という文集になっており、もう三百冊以上になる。このブログ「悦びの広場」はその文集の中からそれを元に肉付けして書いている。その気づきは殆ど毎日あるので、このブログを毎日書くのは私に取って、全然苦痛でも面倒な事でもないのである。

さて、その団参中には前述の様にいつにも増して、メモする事が多かったのでメモ帳に三ページ位びっしり、自分の気づきを記したあった。それをこちらに帰って来てから、ワープロで文集「悦びの記録」にまとめようと思っていたら、昨日の朝まであったと思ったその大事なメモ帳が昨日の昼以降、どこを探しても見つからないのである。それで家に置いてきたのかと思って、帰宅して探してみたが、やはり色々探しては見たが見つからない。それでこれはやはり、会社の机の隅か引き出しに置き忘れてきたのだろうと思って、今朝、会社に来て、探して見たがこれも無い。私はこのメモ帳を書き始めて10年位になるがこんな事は初めてである。
 私はメモしたい時、運転中とかですぐにメモ出来ない時があるが、そんな時は信号待ちとかしてる間に忘れない内にそのひらめきをメモするが、中々信号に引っ掛かる事が無くて、やっと信号待ち出来て、いざメモしようと思ってもたまにど忘れして、自分がさっきひらめいた事を忘れてしまう事がある。そんな時は実に気持ちが悪く、それを思い出すまではその事が何だったのか気になって仕方が無い位だから、メモ帳約3ページ分位をワープロで保存する前に紛失したという事はかなり、私に取って残念な事である。私に取ってはそれこそお金では変えられない位、貴重なヒントが記されているからである。

 しかし、よくよく考えて見れば、そんな事に引っ掛かって、目の前の事、本来やるべき事がおろそかになり、心ここにあらずという状態になるのは良くない事なのである。完璧主義の人というのは完璧を求めて、心を引っ掛からす事があるが、そんなのは良くない習慣である。それは今、そのままで完全円満であるという事を自覚せず、あれが足らん、これが足らんと思って、完璧を追い求めているからそういう事になるのである。そんな心を持っていれば、常に足りない部分に引っ掛かり、今与えられた事、楽しい事を満喫する事が出来ないのである。

 ものごとに引っ掛からず、足りない事を求めず、不足な部分を良くしようと思わず、今既に与えられている良き事、嬉しい事を存分に受け取り、満喫し、楽しむ事が大事である。そうした心でいれば、却って、その内、紛失物も見つかるというものである。
 
 かの井上陽水も歌っていた。「探し物は何ですか♪ 見つけにくいものですか♪ カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに♪、まだまだ探す気ですか♪ それより僕と踊りませんか♪ 夢の中へ夢の中へ行って見たいと思いませんか♪ 探すのを止めた時、見つかる事も良くある話で・・♪・。」

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-27 12:34 | 家庭生活 | Trackback | Comments(3)

相手の立場に立つ

 以前もここでちょっとご紹介したが、私の知人のある女子青年が信仰的にちょっと行き詰まり、それで宇治の生長の家別格本山で行われた練成会を受講した事がある。その時は私の尊敬するA先生が練成を指導されていたのでその女子青年は先生に自分がある人(これは当時、彼女の属していた組織で指導的な立場の人で彼女よりずっと年長の人である)が本当に良くない考えを持った困った人で赦せない、こんな人には組織の為にも辞めてもらいたいと思うという様な事を先生に吐露したのである。
 そうしたら先生は「良くない考え方を持って、良くない事をする人というものはそれは自分より年がずっと上でも魂が幼いだけなんだよ。だから、そういう人がいてもああいい子、いい子って思っていればいいんだよ」と仰ったそうである。普通なら生長の家の先生ならそんな目上の人の事を批判してはいけない。その人の実相を拝んで感謝しなさいなんて言いそうだが、先生はそんなご指導はされなかった。

 要するに良くない事を考えて変な事をする人、悪い事をする人、陰謀めいた事をする人というのは根っから悪い訳ではなくて、まだ魂が幼くて、真理に目覚めていないからである。真理に目覚めていない人間は神の子であっても悪い事をするのである。それはそうしないと自分が冒されると思っているからである。宇宙に満ちた神の無限の善なるお計らいを信じる事が出来ないから姑息な手段を使って、自分とか自分の身内を守ろうとしたり、そのまま放っておいても無限供給があると信じられないから人の物を奪って、自分が肥え太ろうとするのである。そして、自分は物質であり、宇宙も物質で出来ていると思うものだから、悪い事をして人から奪って一時的に自分が満たされようとその報いは何ら来る事が無いと思ってしまうのである。
 これらは全て、真理を知らない所から来るのである。言わば魂が真理に目覚めていない幼い状態なのである。そういう相手に対して自分とか自分の属する組織において、その人が変な事をしたり、悪事を働いたり、嘘をついて誤魔化したりしているのを腹を立てても仕方が無いのである。谷口雅春先生はそういう人は心の病気であると仰っている。病人に腹を立てても仕方がないと仰っている。そういう相手は相手の欠点を徒に指摘せずに相手の実相を拝んで上げる事が大事であると雅春先生は仰っている。それが愛の道であると。

 変な事をする人、悪い事をする人は元々悪人ではなくて、魂がまだ幼く、自分が霊的な存在で既に無限に富んでいるという事に目覚めていないのである。だから、そういう人が自分や自分の属する組織に取って、為にならない事をしたとしても、それに徒に激高する事無く、そうした相手の立場に立って、考えてあげる事が大事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-26 12:34 | 社会生活 | Trackback(1) | Comments(3)

総本山団体参拝練成会

 先週の金曜日から2泊3日、長崎の生長の家総本山の団体参拝練成会に行ってきた。私は今回で5回目である。

 生長の家総本山には龍宮住吉本宮があり、御斎神は住吉大神である。これは政治運動他、人的努力ではもう日本国は救う事は出来ないとお気付きになった谷口雅春先生が昭和52年にこの地に龍宮住吉本宮を建立され、雅春先生御自ら、住吉大神の御出座を給わり、出龍宮顕斎殿にて顕斎の儀が行われた。それでこれからは人力ではなくて、住吉大神の御力により、直接、日本国の実相顕現が為され、かつ個人の先祖代々の因縁も中々個人の修行だけではそれを破砕出来なかったのをここに住吉大神が直接、御働きになって、たちどころにそうした家々の因縁や悪業を消尽せられるのである。

 これはすごい事である。宇治別格本山の入龍宮幽斎殿の場合は修行者が龍宮即ち実相世界に入って行くのであるが、総本山の出龍宮顕斎殿の方は龍宮即ち実相世界から住吉大神の方から直接、この現象界に御出座遊ばされるのであり、あの龍宮住吉本宮の境内地に至る不老橋を渡れば、そこはもう実相世界であり、そこに行くだけで住吉大神の御力により、吾等の実相が直接顕現するのである。
 だから、生長の家の人はこの団体参拝練成会に参加する事を是非、お勧めする。私などは毎回、清められるし、素晴らしい自覚も頂くが、それは誰々講師のこの講話に教えられて云々ではなくて、そこに行くだけそうなるのである。そして、驚いた事にこれから長崎に出発する羽田空港に居る時からそれは始まる。総本山の力というのはすごいものである。

 ところでその清めというものは実際どういう実感があるかと言うとそれは自壊作用が一気に来る感じである。ある人は総本山に行くと頭痛がひどくなるとも言うし、過去に団参参加者で行事中に問題を起こしたなんて事は私の知る限り数件ある。それをそんな人を連れて行くのじゃなかったなんて言った関係者もいたがそんな事は無い。それは清めの自壊作用である。
 
堀 浩二
by koujihori | 2009-05-25 12:31 | Trackback(1) | Comments(10)

悦ぶということ

 我々は生長の家の信徒として、自分が生長の家の真理を知らされて救われたなら、それを自分だけのものにしないで他の人に伝えよと教わる。それは谷口雅春先生の御文章でも再三出てくる。利己主義の信仰ではいけないと。そして、真の生長の家の信仰は挺身、到心、献資の心になった時、初めて分かるのであるとも指導される。全くその通りである。挺身、到心、献資の心こそが神の愛の心と波動が合うのであり、そうした生き方をするのが生長の家の聖使命というのである。そして、それが聖使命会員になる意義である。これは先日、吾が教区での誌友会の講話のテーマになったから、講師である私はその事をまた勉強したばかりである。

 しかし、本質を言えば、本当の伝道というものは何かと言ったら、自分の生命が悦ぶ事である。自分がこんなに生長の家の真理に目覚めて嬉しい、悦ばしいという歓喜を素直に表現する事である。それが真の伝道である。暗い顔をして、これを広めなければ人類の危機だなんて言う事で伝道しても、お前が救われるのが先だろと言われてしまうのが落ちである。

 伝道とは重ねて言うが真理の悟りの悦びの表明である。ああ、これが真理だ、有り難いという思い、悦びこそが伝道の基本である。それは人を救おうという事ではなくて、既に全ての人が神により救われていて有り難い、安心だ、ああ、嬉しいという悦びの表明である。それこそが人を救うのである。私はその悦びを毎日、このブログで嬉しくて発信しているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-21 21:09 | Trackback | Comments(11)

良い話をしよう?

 私は昨日の夜、仕事を終えてから、ある地区の相愛会誌友会に出講して、講話をした。テーマは「聖使命会の意義」という事で約一時間、話をした。私は講話に臨む時はもちろん、準備をする。テキストにざっと目を通し、使えそうな所は熟読し、それを元に自分なりに何をどう話すかをノートを使って組み立てて行く。大体一時間位で準備は終わる。そして、いよいよ講話に臨むが、講話が始まれば、原稿とかを離れて、割合、自由に内側からのインスピレーションに従って、話す様にしている。青年会の時、女子見真会で講話した時、あがってしまって講話の途中で言葉が出て来なくなったりした経験があるので、講話をする時はそうならないように一時間、言葉に詰まらないで話す事が出来るかどうか今でも不安になる事がある。そして、それが一時間持つだけでなくて、聞き手を本当に感動させ、悟りに導く様な素晴らしい講話が出来るかどうかもかなり気になる所である。
 それで私はそのように良い講話、聞き手を感動させられる様な良い話をしようとあくせくする事が昔は良くあった。しかし、そうすればするほど良い話は逆に出来ないものである。そのまま、自分のそのままに任せて、良い話をしようと力まない事が講話をする上で大事な事である。

 しかしながら、そういう事が分かっても私は今まで講話の最中にこれで一時間持つかどうか不安な面もあったし、何を次に話すかどうかも不安な面もあった。それでどうにか話が終わって、内側からインスピレーションが出て来て、良い話をする事が出来た、それで聞き手も感動させる事が出来たと実感出来る事も良くあった。しかし、それに反して、どうにも頭が回転せずに割合、失敗だなと思う事もあった。そういう時は後で落ち込むし、そうならない様に上手い良い話をしたいという気持ちは正直まだあったと思う。

 しかし、昨日の講話ではどちらかと言うと講話を終わった時点で余り満足の行くものであると言う実感がしなかった。肝心な事を言うのを忘れた様な気がしていた。しかし、私はそれでいいと思った。何故ならそのままの私が神であり、私のそのままの講話は神の講話であるからである。良い話をしようとか、良い話が出来なくて落ち込むなんてのは我(が)が外側から巧んで、自分というでくの坊の声帯を使って、何とか良い話をしてやろう、聞き手を感動させ、悟らせてやろうとあくせくしているに過ぎないのである。

 そんな事を考えているから良い話が出来ないのである。自分をでくの坊であると思っているならば、その通り、力は出てこないからである。講話をするなら、自分がそのままで完璧に真理の講話をする事が出来るのであると自覚する事が大事である。その中から神が内側から講話中も導きを下さり、次、何を話したら良いかという事も講話中に自ずと分かって行く。今、既に完全円満、無限力であると悟れば、そこから無限生長がある。内側からその場でどんどんインスピレーションが働いて、次に何を話すかどういう話の展開が良いかを自ずと導いてくれるのである。良い講話をしようと焦る必要は無い。それは丁度、テニスで自分がそのままで無限力であると自覚すれば、試合中に自分がどうプレイするか、もっと上手く効果的なサービスが打てる様になるにはどうしたら良いか自ずと分かって、試合中に自分で修正して行く様なものである。
 良い話をしようとするのは我(が)である。そのままの自分の話す話が神の話である。そのままでよいのである。

 ところで昨日の講話であるが誌友会が終わって、参加者の女性から本当に素晴らしいお話でしたと感謝された。私も嬉しかった。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-21 12:34 | Trackback(7) | Comments(1)

何をどうしたらよいのか?

 吾々は何か事を決めるのに迷う事がある。受ける学校はどこにしようとか就職先はどうしようとか、はたまた結婚相手を決めるのも迷う人もいるだろう。
 
 人生というのは様々な岐路というものがあり、右に行くのがいいのか左に行くのがいいのか迷う事があるのである。しかし、確か、「無門関」に出て来た話と記憶しているがある人が旅をしていて左右別れた岐路に来た時、どちらに行ったらいいか迷った時、近くにいるお婆さんに「お婆さん、どこそこに行くにはどっちの道に行ったらいいでしょうか?」と訪ねると、お婆さんは何と答えたかと言うと「真っ直ぐ行け」と答えたそうである。

 これはどういう事かと言えば、自分の進路が二つとか三つあって、それをどれに行ったらいいかなんて迷う事が間違いであると言うのである。道は真ん中、真っ直ぐにたった一つしかないのであって、その道を真っ直ぐ行けば良いのである。

 吾々は我(が)が生きていると思うとあれこれ迷うのである。これこれこういう時はどうしたらよいか、どう進むべきか、どちらを選んだら良いかと。しかし、自分は神であり、自分の人生は神の人生であり、自分の進路は神の進路であると自覚すればもう迷う必要は無い。その時、何をどうすれば良いかはその時の自分が決めてくれる。そして、真実とか自分の進路とか進退というのをどうすべきかなんて言う正解を求めて、迷ったり、考えたりする必要は無い。自分が神であり、悟りであり、正解であるのだから、今、そのままで自分の歩みのままでよいのである。

私はある人に対してどういう態度とか対処をしたら良いかという事に多少、迷った事がある。差し障りがあるので詳しい事はここでは述べないが、色々としがらみとかあって、自分の態度とか進退が決まらなかったのである。しかし、機会が巡ってきて、その時になったら、自ずと答えは出ていた。要するにそんなものなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-20 12:32 | 社会生活 | Trackback | Comments(12)

ゆっくり歩く

 先日、誌友会で聞いた話だが、幸福と自分というものは自分が幸福を追い求めて、急いで歩くと幸福はますます逃げていって、幸福になれないというのである。幸福は自分を追い求めていて、幸福にしてやろうと思うのだが、幸福が自分に近づこうとすると自分は何故か逃げていって、幸福は自分をつかまえる事が出来ないと言うのである。

それはどうしてそういう事になるかと言うと、幸福と自分は全く同じ円周上に位置していて、自分が幸福を追い求めて急いで歩くと幸福の方も自分を追い求めて動いているものだから、自分が急いで動くと幸福の方からは自分が逃げていってつかまえられないと言うのである。

 だから、幸福になろうとか、良くなろうとかがつがつすると却って幸福にもなれずに良くもなれないという事であり、それは全くその通りである。それならどうしたら良いかと言ったら、それは誌友会の講師の先生によると「ゆっくり歩く」と言う事が大事なのだそうである。自分がゆっくり歩けば、幸福は自分に追いつく事が出来、自分は幸福になれるという事になる。
 それはがつがつ良くなろう、幸福になろうとする心を捨て、当たり前に当たり前の事をやって行く事が大事であるという事である。生長の家の運動でも数を伸ばそう、人を救おうとかと言う事に余りがつがつしないで当たり前の事、例えば会議とか誌友会を当たり前に普通にやっていれば神様が自ずとその地域を栄えさせて下さり、沢山の良い人も集まって来て、多くの人も救われるという事になり、もちろん自分もますます幸福になるのである。

 それは言うなれば「そのままでよい」と言う事である。そのままで神に全託して、その中から自分の中から神の催しが出て来たらそのままそれを実行するのである。かと言って、それは自分がやっているのではない。あくまで自分を通して神がやっておられるのである。だから、自分がやっていても楽ちんこの上ないという事になる。それは悦びでやりたい事をやるという事になるのである。

 そのままでよいのである。そのままで神の流れであり、実相顕現の流れである。それを認めて、そのままにしておけば良いものを「いや、そのままじゃいかん。何とか悪くなるのを阻止する為にこれこれこういう手段を講じなければならない」なんて思って、余計な事をするとそのままでどんどん良い方向に行っていたものを自らせき止めて、台無しにしてしまう事があるのである。それを「幸福を求めて急いで歩いて却って、幸福が逃げていく」という表現で表しているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-19 12:42 | 信仰 | Trackback | Comments(5)

パートナーが悪い?

 私はテニスを毎週やっているが試合はダブルスの試合をする事が多い。友人達と貸しコートでやる時もテニスクラブでクラブの人達とやる時も9割方はダブルスの試合である。私は最近、余り勝率が良く無かった。特に先々週の土曜日はひどいもので私は1-6位のスコアで二試合、連続で負けた時は本当に自分でも身体の動きも悪く、精神的にも自信が無かった。しかし、それ以上に気になったのは自分のパートナーの出来が私と組んだ時は特に悪いと感じていた。友人達とやる時は大体4、5人で順繰りにパートナーをお互い変えて行き、次々と試合をするのだが、さっき対戦相手だった相手がその時は大部、調子が良くて、ウィナーを何度も決められたのにその人が私とペアを組むと、さっきとは打って変わって、ミスばかりするのである。
 それで試合にも勝てないのだが、どうして同じ人でも自分と対戦する時は調子が良くて、自分とペアを組むとミスばかりするのだろうかと思っていた。だから、勝てないんだと思っていたのである。又、そうでなくてもテニスクラブなどはホワイトボードにどんどん名前を書いていって、四人のグループを作って行って、それでダブルスの試合をするのだが、自分とペアになった人より相手の方が上手いと感じる時は「これで負けても自分の責任ではない。パートナーが下手だから勝てないんだ」なんて漠然と思っていたのである。
 そんなこんなで私は最近ダブルスの試合成績は振るわなかった。しかし、先ほども述べた様に確かにそんな時は自分も調子が出ず、自信も無い時なのである。

 それで先日の土曜日、それまでサービスの調子が悪かったのを何か吹っ切れた感じがして、また何となく精神的にも自信が出て来て、プレイ出来る様になった。そうしたら、それまでの私はちょっと精神的にスランプだったみたいで全てのショットをおっかなびっくり打っていたのが自信を持って思い切ってプレイ出来る様になって来たのである。そうしたら、球も伸びが出て来て、深くなるから相手の足下にボールが行く事が多くなり、そうなると相手はミスするか返してきても短いボールになってこちらのチャンスボールになるのでパートナーもウィナーを取りやすくなり、試合のスコアもどんどん良くなり、試合にも勝てる様になり、負けても前の様に1-6とかのスコアでなく、5-6位の競ったスコアになって来た。

 要するに試合に勝てなかったのはパートナーが悪かったのではなくて私に自信が無かったからミスも出るし、弱くて短い球になるから相手から決められ、また相手がその私の弱くて短い球を深く強く返して来るからパートナーもミスが多くなる訳でパートナーがミスするのは大方、私に原因がある事も分かったのである。

 「一切の責任は吾が内にあり。」とは生長の家の教えであるが、自分の属するチームとか組織が悪かったり、力を発揮出来ないのは他の人とか上司とかパートナーが悪いのではなくて、自分に原因があったのである。それは裏を返せば、自分さえしっかりしていれば如何なるチームに属していようと何も心配は要らず、自分が作り出す良い波が連鎖反応を起こして全体的にも良い状態になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-18 12:30 | スポーツ | Trackback(2) | Comments(18)