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とらわれたらいけない

 とらわれたらいけないという事は良く言われる事である。武道でも一つの型にとらわれると一つの方向には隙が無くなるが、それ以外の部分は隙が出来るのである。武道の達人になると無構えの構えというのがあるそうである。私なんかでもテニスなどのスポーツをやっていて感じるのだが、フォームは確かに大事だが、余りにそれにとらわれると結果が良くない。自分の中に無限力、無限智があるのであるから、その時に最も適切なフォームは臨機応変に自ずと内側から出て来るのである。

 生長の家の生き方にも色々な生き方がある。今に集中せよとか朗らかに笑って生きよとか美点のみを見て、欠点を見るべからずとか色々ある。それは主に聖典「生命の実相」第7巻に出て来るのだが、ともするとこの7巻ばかりで他の部分がおろそかになっている人がたまにいる。榎本先生はよく「1巻から6巻までの信仰があって、その現れとして7巻がある。この流れを無視してはならない」と仰っていた。

 要するに生長の家の生き方は「人間神の子、そのままで完全円満、無限力」の信仰があって、初めてそれが形となって出て来たものであり、形だけフォームだけ真似て、それで良しとしていてばそれはその形にとらわれてしまい、身動きがとれなくなるのである。

 どんなに良い事でもとらわれたらいけない。とらわれるのは我(が)である。完全円満なる神が内側から自ずと出て来て、自ずと良き事が行われる。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-30 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

弱点克服?

 私は子供の頃から完璧主義の性質があり、何か足りない部分、出来ていない部分、分からない部分を完璧にしてから、それでやっと日常生活に戻れるみたいな傾向が強かったのである。
 それで今、目の前の事を十分味わいもせず、楽しみもせず、常に自分の足りない部分を良くする事ばかり考えてきた様に思う。それは大学受験の時にその性質が存分に働き、受験科目の自分の出来ていない所、弱点を克服する事が大事であると中々憶えられない英単語ばかりを集めた単語帳を作ったりして、必死に覚えた。
 それで大学に入った後は自分は元々、絵とか彫塑が好きで得意であったので美術部に入った。しかし、自分に足りないものは何かと言ったら、それはスポーツであると思ったので軟式野球同好会にも同時に所属し、それからテニスも趣味で個人的に始めた。要するに私は自分の弱点とか足りない所を見つめ、それを心で握りしめて、それを良くする事にあくせくして来たのである。しかし、先日からも再三、申し上げている通り、5月の団体参拝練成会から帰って来てからと言うもの、お陰様であらゆる面で急速に心境が進み、私が生来持ち続けて来た、悪い所、弱点を見つめ、それを良くしようとしていた事が本当に間違いであったと自覚出来る様になって来た。それはそもそも自分を良くしようという思いであり、悪い部分を見つめて、心で握って良くしようとしているのであるから、思ったら思った通りになるという心の法則が働いて、そうすればする程、却って、弱点は良くならず、落ち込んで行くのである。そして、良くしようなんて強引に行動するのは我(が)であり、決して神が内側から自分で出て来ている事にならないのである。

 悪い所を良くしようなんて思って、あくせくしても自分の不得意な所を良くする為に悪戦苦闘しているのであるから常に心にストレスが溜まり、そんな不得意な所で相手とテニスの勝負なんてしたって勝てる訳が無いのである。
 そして、自己の欠点を良くしよう良くしようなんていつも焦っているから、今、目の前の事に対する思いやりも集中力も薄れ、そうなると物覚えも悪いし、そうした悪習慣が重なって行くと脳細胞にも良い影響が無いのである。

 そういう事ではなくて、自分の今、出来ている事を生かして、それを悦び、楽しみ、その中で今、目の前の事を心を込めてやって行けば、脳細胞は活性化し、筋肉はしなやかにかつ鍛えられ、足腰も強くなり、テニスの試合なんかしても強くなるのである。それは今既に完全円満、無限力であるという信仰の発露である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-29 12:33 | 信仰 | Trackback(4) | Comments(0)

迷いは悟りの基礎工事である(4)

 迷いは悟りの基礎工事と言う事が谷口雅春先生の御著書「神、真理を告げ給う」に書かれてある。
 生長の家では「実相と現象」という教えがあり、実相が本当の存在であって、それは完全円満なのだが、その現れである現象は不完全であり、その実相と現象の間にあるのが吾等の心であり、それがレンズとなっていて、心が実相の完全円満を悟って、真っ直ぐなものになれば実相の完全円満さが現象世界に現れるのであると説かれている。
 だから、現象に病気とかの不完全さが現れているのはその本人の心のレンズに歪みがあるから、そうなっているのであり、従って、その人が病気その他の不幸が現象世界に現れているならば、その本人が実相を観て、感謝すれば治るとされている。それでその心のレンズを歪みのない真っ直ぐなものにする為に心を入れ替えて、感謝する事が大事であり、それが中々一人の力では出来ないので練成会などに行って、色々な行をやる中で心のレンズの歪みが真っ直ぐになったら病気が治るとかそんな事があるのである。
 だから、その様に現象に不完全が現れているのはその本人が迷っていて、心のレンズの歪みがあるからそうなるのであり、だから、その人の不幸とか病気はその人に責任があって、歪んだ迷った心だから、そうなるという事になる。だから、ちゃんとした、愛深い、行いの良い人は心のレンズを真っ直ぐする事を心掛け、きちんと神想観もし、先祖供養もし、愛行もちゃんとやって心を迷いの状態にしないようにいつも心掛けている人であるが、駄目な人は人を恨み、そして、我(が)が強く、利己的で光明化運動なんかでも利己主義を捨てきれないでいるから脱落して、駄目になって行くなんて事にもなる。
 そうなると人間は実相は完全円満の神の子であるが、それをきちんと見つめ、その通りに行動し、決して悪を思わず、迷わない人だけがきちんと心のレンズを調整出来る人であり、そうした人だけが現象世界に歪みのない健康な立派な幸福な現象を現す事が出来ると言うことになってしまう。
 
 しかし、そうなると実相は皆、完全円満だが、それを現象界に持ち来す事が出来るのは心のレンズの調整の仕方の上手い人、組織運動をやれば、一切利己的感情や自分の趣味とかそんな事を犠牲にして、光明化運動をやり切れる人であるとかそんな心のエリートだけと言う事になってしまう。しかし、それはそもそも谷口雅春先生が疑問にもたれた所の現象世界を幸福に暮らせる人は悍馬の様に暴れる心を上手く乗りこなす事の出来る名人だけであり、自分(雅春先生)はとてもそんな事は出来ないとお嘆きになったのが心もナイ、現象もナイ、実相のみがあると言う聖典「生命の実相」で説かれた所の雅春先生のお悟り、生長の家の根本真理と全く反するという事になるのである。

 即ち生長の家は心もナイという教えであるが、迷いもナイとも教えられているのである。吾等は迷いを取り除いて心のレンズを真っ直ぐな曇りのないものにしようとしてやっきになり、それが出来た人だけが病気が治ったり、幸福になれるなんて何となく思っているが、そんな心の扱いの上手い人と下手な人がいるなんて考え方自体が「生命の実相」で説かれた雅春先生の実相独在のお悟り、生長の家の神髄と矛盾するのである。

 それなら「迷い」とは何なのか、という事になると冒頭で申し上げた様に「迷いは悟りの基礎工事である」という事になるのである。吾等の人生は吾等の実相である完全円満の神の生命の表現の世界である。初期段階では上手く表現出来ないで稚拙なまずい表現になるが、その段階が迷いの段階であり、それは私を例に取れば、私は「神に生かされている」という事を悟らないで「私がやらなくてはならない、救わなくてはならない、生きなければならない」と思って、安心立命の心が全くなくなり、夜も眠れなくなってしまったのであるが、それだけの悩み即ち迷いの時代があったればこそ、「そのままでよい」という悟りが出て来て、「生かされている」という大安心の悟りが出て来たのである。従って、迷いが出て来たならば、それはいよいよ悟りが出て来る時期が近づいたという事なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-26 12:36 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(7)

正しいフォームは自分の中にある。

 テニスではフォームとか打ち方が大事であり、それは技の部分である。サービスなんかでも理にかなったフォーム、打ち方であれば非力な女性でも時速150kmくらいのサービスが打てる。中にはビーナス・ウィリアムスという選手は女性なのに190km近いサービスを打つ選手もいる。ちなみに大リーグの松坂投手とか日本ハムのダルビッシュ投手の投げる球の最速が150km位であるから、その速さというものが想像出来ると思う。
 
 ところでサービスのフォームや打ち方は時代と共に進歩している。大体は昔も今も変わらないが、以前のサービスは①一旦ラケットを引いて、②それからトスと同時にラケットを上げて、③打つという三拍子で打つやり方であり、ジョン・マッケンローやボリス・ベッカーなどの20年位前の一流選手は皆そうやって打っていた。
 しかし、現在は①のラケットを引くという動作が省略されて①いきなりラケットを上げて、②打つという二拍子になっている。伊達公子もロジャー・フェデラーも現在トップで活躍している選手は皆そうである。
 
 この方がトスも比較的低く出来るし、スピードも出るのだが、それなら昔の選手であるマッケンローとかベッカーが今、この打ち方にしているかと言えばそんな事はまず無いと思う。素人考えではより効果的で進歩した打ち方の方が良いのだから、昔の選手もこの最新式の打ち方にした方が良いだろうなんてお節介な事を考えるが、テニスというかスポーツは決してそういうものではないのである。

 要するにスポーツのフォームとか技というのは外側から取ってつけた様にしても駄目なのである。それは元々その選手の中に既にあり、それが色々な経験を通して、自分で出て来るのである。私の中学校の時の校長先生がこういう良い話を朝礼の時に仰っていたのを思い出す。それは彫刻というものは彫刻家が作るのではなくて、彫刻の材料となる木材の中にもともと既に素晴らしい像があるのを彫刻家は彫刻刀で周りの余計な木屑をそぎ落として行くのだというのである。
 正にその通りである。吾等の実相は完全円満なものとして既に吾等の中にあるのである。それは外側から良くしようとかするものではないのである。まだ駄目だ、自分又は相手は駄目だなんて思って、それを良くしてやろうなんて思って、相手に生長の家を伝えても駄目である。既に自分又は相手の中にある完全円満の生命の実相を拝み、それが経験に応じて自分で出て来る事を待つのである。それは外からどうこういじくり回さなくても完全円満で無限力であるからそれは同時に無限生長であるから、待っていれば自分で経験を通して出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-25 12:39 | 潜在能力 | Trackback(4) | Comments(9)

求めるから得られない。

 「求めよ。さらば与えられん。」という言葉があるが、その求めるものが自分の外部にあると思って、それを求めようとすると却って得られないのである。

 私は先月の団体参拝練成会から帰って来てから、自分の中に変化を感じる。それはすぐに能力も体調も完璧なコンディションになるという事ではない。たまにそう感じる事があるが、以前よりも自分の心の習慣性の問題点が浮き彫りになって来て、その問題点がよりあらわになっている感じがある。それはどういう事かと言えば、先日より私のブログで紹介させて頂いている通り、私の心の習慣性として、「上手くやろう」とか「完璧に分かろう」とか「言いたいことを完璧に喋ろう」とかと言う完璧を求める心が非常に強くて、それが為に却って、上手く喋れなかったり、頭が回転しなかったり、その他の能力が発揮出来ていないという事が如実にここ数週間で感じるのである。
 それはとりもなおさず、我(が)がやろう、分かろう、上手くやろうとやっきになっているのであり、私はその傾向が子供の頃から強く、それで生長の家をやっても、先祖供養を完璧にしなくてはならない、生長の家の真理でそれを知らないで苦しんでいる人を救わなくてはならない、その他の色々な手続き、仕事に関しても絶対に間違いのない様にしなければならないという事でそのストレスがついに破綻してつぶれてしまったのである。それが今から十三年前の事であるが、その後、宇治の練成に行って、榎本先生の薫陶の元、魂が救われたのである。だが、人間の生まれついての心の習慣というものはそれはおそらく前世から持ち越したものであろうから、それはそれは抜き差し難いものとして潜在意識に染みついているのだろう。私は宇治で救われた後もすぐには心の習慣性が完璧(即ち神)を外に求める傾向から完全には抜け出せていない部分が大きかった様である。

 しかし、前述の様に団体参拝練成会から帰って来てから、自分のそうした我(が)の心の習慣性が如実に自分に感じられる位に表面に浮かび上がってきたと見えて、それを捨て去り、そして、私が宇治で榎本先生から薫陶を受けた「そのままでよい」という心のままに神に全託するという心と行動の訓練を仕事とか講話とか趣味のテニスとかという具体的な人生学校の教材においてさせて頂いている。それ即ち、私の潜在意識の悪業が総本山の龍宮住吉本宮に鎮座ましましている住吉大神の御力により、剥落して行っているのと同時に私の中の実相がいよいよ自分で出て来ているのだと思う。

 完璧即ち神を自分の外に求めるから得られないのである。それは既に自分の中にあるのである。それはとりもなおさず、吾等は今、そのままで完全円満であるという事であり、それが「そのままでよい」という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-24 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(5)

間違ったものは続かない。

 谷口清超先生の御講話の中に説かれている事であるが、「不完全なものは長持ちしない」と言うのである。先生はその中で「癌になって、その苦しみの中で永遠に生き通すって言うのもつらいでしょうね。(これは裏をを返せばそんな不完全は永続しないという事である)」とお話になっている。

 私はテニスをやっているがサービスの打ち方で間違った打ち方をしていると最初は良くても段々、良いサービスが打てなくなって行くのである。何かのきっかけでこういう打ち方をして見ようと思って、打っているとそれが間違ったやり方でも最初は良い威力のあるサービスが打てたりする事がある。しかし、それを続けていると段々とその理にかなわない打ち方故にコントロールも威力もないサービスになり、それで初めて、自分の打ち方の間違いに気付く。

 その様に不完全で間違ったものは長続きしないのである。組織の中でも割合、最初は大言壮語して、人当たりが良くて、元気の良い人物が彗星のごとく現れる事がある。しかし、その人物が本物であるか否かはその人物が長続きするかどうかで自ずと明らかになる。その人物がうわべだけの偽物であれば、その内、そのメッキがはがれる時が必ず来るのである。

 と言うわけでそのものが本物であるか偽物であるかは長続きするかどうかで分かるのであるが、何故、偽物が長続きしないかと言うと不完全だからである。不完全なものは長続きしないのである。だから、病気とか不幸とかも不完全だから、長続きしないのである。それは必ず自壊する時が来る。そして、その自壊する時がその裏側から本物、真理が出て来る時である。そして、今までの苦悩が歓喜しかも永続する悦びに変わるのである。それが吉田國太郎先生の御著書にもある「常楽への道」である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-22 12:32 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

良くしようとしなくてよい(4)

 私は生長の家の地方講師であるので月に一回位、教区各地の相愛会の誌友会に行って、出講する。その際、講話時間一時間どう持たせようかとか思うし、それのみならず、聴き手に良い話をして、感動してもらいたいと思うのである。
 講話はもちろん、事前に準備をするのだが、余りに良い話をしようと力むとああでもないこうでもないと考えすぎる事がある。そうすると却って、言葉が出て来ないのである。

 どうしてそういう事になるかと言ったら、やはり、そのままの自分を信用しておらず、それを良くしよう良くしようとするからである。
 
 ものごとを良くしようとするな。ものごとを分かろうとするな。そのままでよい。そのままで完全円満である。それなのに良くしようとやっきになるから、却って、良くならないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-19 12:18 | 潜在能力 | Trackback | Comments(4)

心の法則とは

 私は生長の家をやり始めた当初は心の法則の事で随分悩んだ。思ったら思った通りになるのならば、それは余程、自分の心をコントロールしないと大変な事になると思ったからである。しかし、谷口雅春先生が言われている様に心をコントロールする事はとても出来ないのである。しかし、先生は心はナイ、実相のみがここにあると悟られた事によって、心をコントロールしなくてはならないという段階を乗り越えられた。

 心の法則とは心をコントロールする事で人生を運転しようというものではなくて、自己の自覚を映してくれる働きであり、その人の自覚、認識をその人自身に包み隠さず体験させて下さる有り難い働きなのである。
 自己が今、このままで完全円満であると自覚すれば、それが自分の周囲の環境として出て来て、それがありありと実感される。それは心の法則に則って行われるのであり、それが悟りである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-18 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

問題は神が消して下さる(5)

 吾々は生活とか仕事をしていて、たまにどうしようもない問題にぶち当たる事がある。そんな時、神様を信じない人は「さあ、これは困った。どうしよう。」とその問題をどうにか解決しようと色々画策したり、じたばたするが、そうすればする程、問題は複雑化し、こんがらがって訳が分からなくなり、どうしようもない状態になるのである。
 しかし、問題というのは自ずと解決するのである。解決しないのはこの問題を自分が解決しようと心でつかむからである。心でつかむから心の法則が働いて、何時までも問題が解決しないのである。

 吾々はどんなに困った状態、問題が出て来ても恐いもの無しである。問題は神様が解決して下さるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-17 17:40 | 社会生活 | Trackback | Comments(8)

美点凝視

 私はテニスをやっているが、その中で良く思うのはダブルスなどで試合をしている時に組んでいるパートナーでたまに口うるさい人がいて、私がミスすると一々いやな顔をしたり、何だかんだと口うるさく注意して来る人がいる。誰でもそうだと思うがそんな事を試合中にされたらうんざりであり、ミスしたらまた何か言われるかと思って、硬くなり、それがまた、ミスを誘う事になる。
 こんな相手とは二度とパートナーを組みたくないと思うが相手は何も意地悪で言っているのではなく、こちらを良くしようと思っていっているのであるが、言われた方はとても嫌なのである。かくいう私もそんなあからさまに相手に対して不満な態度は表現する事は無いが、自分が苦労してせっかく作ったチャンスボールをパートナーがミスしたり、それを相手に緩く返して、却って相手のチャンスボールにされたりすると心中穏やかではない。「どうしてもっとこうやらないんですか!」と思わず言いたくなるのを私の場合は我慢しているだけであり、結局、私にも他の人の非をとがめる心があるから私もとがめられるのである。

 ところで話は変わるが、私は今度、鎌倉トーナメントという割合レベルの高いテニス大会に挑戦する事になった。試合は来月に行われるが先日の土曜日、ある草テニス大会に出て練習試合をして来た。しかし、結果は惨憺たるもので、四戦全敗であった。相手の内の一人は数ヶ月前に試合して私が勝っていたのだが、この日は私が負けたが、私はしなくて良いミスを散々繰り返して自滅して負けたのである。その原因はその日自分でも良く分かった。それは私は下半身の力がとても弱いという事である。技術的に相手に劣ると思わなくても下半身の力が弱くおまけに体重が重い(87キロ)のでシングルスの試合ではとてもきつく、かつしっかり腰を入れて打てないのでミスも多くなるのである。何故、こんなミスをするんだと思う場面が何度もあった。スポーツは良く心技体が大事と言うが今までは私は心と技の事ばかり考えていて、身体の所まで余り考えた事がなかったが、レベルの高い大会に出場するという目標を持ったお陰で私は自分の体の部分をもっと強化しなくてはならないと心底思った。そうしたら翌日の友人達との練習試合ではその教訓がさっそく生きて、前よりしっかり足腰を使ったテニスが幾分出来る様になり、戦績も悪くなかった。それでこれから毎日、ランニングなど下半身を鍛える事をしっかりやろうと思うが、こういうのは私の中から実相が自分で出て来た事であり、私が自分の欠点を良くしようとやっきになった結果ではないのである。

 要するに吾々は自分とか他人の悪い所を見て、それを良くしようとやっきになると結果が良くないのである。人間には完璧な人間はおらず、皆長所短所があるのである。その短所ではなくて、長所を見つめて、それを言葉で讃嘆し、かつ伸ばす様にしていれば良いのである。そこに相手との調和が生まれ、そうしたら、相手に適切なアドバイスもやんわりと出来る機会も巡って来る。そうして行く中、自ずと他の人の、そして自分自身の短所も良くなっているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-16 12:31 | 潜在能力 | Trackback | Comments(4)