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神の栄光が顕れんが為

 フジテレビの番組「アンビリバボー」は本当に素晴らしい番組である。前半は事件性のあるものだが後半は感動を呼ぶエピソードが採り上げられており、本当に人間の無限の可能性を描いた素晴らしいエピソードをよく採り上げてくれている。

 昨夜のエピソードも本当に素晴らしかった。主人公は韓国の男性のオペラ歌手ベー・チョチョルさんで彼は百年に一度の天才テノール歌手と言われる程の人だったそうである。
 2004年には世界一のソプラノ女性歌手とも日本で共演し、正にこれから世界一のテノール歌手として、羽ばたこうとしていた矢先、喉に異変を感じるのである。医者の診断は甲状腺ガンと言う事で今すぐ手術が必要と言う事で手術を受けるが、それが元で喉の神経を切断し、声が出なくなり、医者からは二度とオペラを歌えないだろうと宣告されてしまうのである。

 チョチョルさんは神を恨み、神に対して「どうして、自分を(ガンにすべく)選んだのか!」と慟哭する。しかし、そうした絶望の中、かつて日本に彼を招いた日本人プロデューサー輪島東太郎氏の紹介で音声外科手術の世界的権威の医者の執刀を受ける事になる。そうする事でかすかに声が出る様にはなった。しかし、片肺の機能がやはり、最初の手術の際、そこの神経が切られていた関係で殆ど機能せず、声を長く出し続ける事が出来なかったので、歌を人前で歌う事は出来なかった。
 しかし、発声訓練は欠かさず頑張っていたが、そうこうする内にチョチョルさんは自分の身体に変化を感じ、どうも肺の機能が戻っている様だと言うのである。レントゲンで調べて見ると確かに駄目になっていた片肺の機能がほぼ回復していた。これは肺を使う訓練をしていた時に神経が修復されたと考えられるそうである。

 現在はチョチョルさんはかつての歌声をほぼ取り戻し、後進の指導にも当たっている。彼は「自分は病気になって良かった。それまでは人に勝つ事ばかり考えて歌っていたが、現在は自分を助け、支えてくれた人達がいる事に目覚め、その人達に捧げるつもりで歌える様になった」と言っている。

 この様にこの人が病気になって、声を失ったのは正に「神の栄光の顕れんが為」だったのである。それまではこの人は歌が生まれつき上手いというだけで野心を持って、人に打ち勝ち、世界一のテノール歌手になる事を目指して来た。しかし、それは本当に相手を感動させ、心を打つ本物の歌にはなっていなかったのである。しかし、病気になり、声を失った事で周りの人の温かさや励ましに触れ、本当にその人達の為に歌いたいという願いの元、無限力が出て、肉体を内側から修復し、歌声を取り戻し、それは病気になる前のものより更に深い味わいのある人の心を打つ歌声になっていたのである。
 これと同様の例があのベートーヴェンであろう。彼は病気により聴覚が全然駄目になった後の方が後生、名曲と言われた数々の作曲を成しており、ジャズ歌手の綾戸智恵も声をつぶして、一回再起不能を言われていたのを復活した後、現在の味のある歌を歌える様になったのである。

 キリストはある人が盲目になっているのを誰かが「この者が盲目になっているのは本人の罪か?親の罪か?」と尋ねた所、「それは神の栄光の顕れんが為である。」と仰った。この様に吾等に何か人生において障害が出て来るのはもちろん、吾等自身の心によりそうなるのであるが、それは自己の実相顕現を願った自分自身が自ら作った問題であり、そうした中で必死に生きる中で神の栄光が顕れるのである。そして、それが価値あるものであればある程、奥深く埋めてある。だから、それを諦めないで掘り進んで行く事が大事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-31 13:00 | 潜在能力 | Trackback(2) | Comments(5)

人生は神生である。

 生長の家では実相独在の真理と唯心所現の真理を教えられる。そして、本当の世界では完全円満の神の生命の実相のみが存在しているのであり、それを吾々の心がどの程度、認識するかによって、吾等の現象生活が違って来る。即ち、実相円満完全の生命の実相が今、ここにあると自覚した者はその認識通りの世界を自分の周囲に現し、そこで幸せに生き生きと暮らす事が出来るが、その完全円満の世界を認識していなければ、現に始めから完全円満の神の世界に完全に生かされ、導かれているのに拘わらず、「暗い、不幸だ、自分はどうしたら良いか分からない、苦しい」と思って、自分で自分の首を絞め、苦しみ続ける。 
 それは当たり前の事である。自分が素晴らしい、今、ここが神の国であったと自覚すればその認識通りにそこに神の国を見出し、自分も完全円満であった、自分の人生も神に導かれた、神の生であったと分かるのは当然である。しかし、その目覚めが来るまでは神に完全に生かされ、導かれた人生であっても気がつかないから不満ばかり言う様になる。

 そうした心の思い通りになるのを唯心所現と言うのである。ただ、生命の実相を悟るか悟らないかで自分の周囲の環境、現象が変わって来るという事であるのに、生長の家の初期の人はこの現象世界は自分が作るのだと思って、それを良くしよう、良くしようとして力んで神に生かされている人生であるという事を忘れるのである。即ちこの現象世界は神のお作りになった第一創造の世界ではなくて人間の念が作った第二創造の世界であるから、それを築いていくのは自分の責任だと思って、自分が良くしよう、良い事を思って、良い世界を実現させようとするのである。それが我(が)である。そこには神に生かされているという感謝の念は無いのである。
 そうではなくて第二創造の現象世界というものは本来無い事、それを創造する原型の人間の心というものは本来無い事、ここに神に生かされた完全円満の自分しか無い事、そして、神の心しか無い事、それが自分の心であったと言う事、自分の人生は自分の心で作ったものだと思っていたのがそうではなくて、それは存在せず、全て神に生かされた、神に導かれた、神が決めてきた人生即ち神生であったと言う事、これらに目覚め、悟った時、その心を反映して、自分の周囲の全てが神の現れであったと気づき、そこに天国浄土の現成があるのである。

 自分で生きてきた、決めて来たというのは我(が)であり、迷いである。自分で決めてきたと思うからその判断に自信が無いし、不完全なものに感じられるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-30 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

今、無限力であるという自覚はがつがつしない事

 全託とは今、このままで神に生かされているという自覚であり、それはすぐに結果を求める心ではないのである。すぐに良くしよう、分かろうというのは我(が)である。それは実相、神の国を自分の外に求める行為である。今、このままで神に生かされ無限力、完全円満という自覚であれば、すぐに結果を出そうとか実力を出そうとか良くなろうなんて考えず、神が丁度良い時期に結果を出して下さる事を待てるのである。自分に何が出来て、何が分かる様になるかは神に全託しているからである。

 今既にこのままで完全円満、無限力であるという自覚は却って、神が一番良い時期に結果を出して下さるという事を待てる心である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-29 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

完全な全託こそが信仰である。

 信仰では「全託」と言う事が大事なのである。全託とは神への全託である。それには正しい信仰を持つ必要がある。それは神というものはどういうものかと言う知的理解が先ず必要である。先日もある方が「真理を理論的に分かる」事が大事であるという旨のコメントをされていたが、正にその通りであって、信仰するには先ず、神というものを正しく知的に理解する事が大事である。

 神とは完全円満であり、無限力であり、同時に無限の智恵であり、無限の愛であり、無限の調和であり、無限の供給であり、無限の悦びである。およそ、この世界の事を指す言葉では表現しきれない程の無限に素晴らしい御存在が神である。そして、それは無限であるから形が無い。無限であるから、全宇宙の隅々まで行き渡っていて、限りがない。神のいらっしゃらない所などどこにも無いのである。

 だから、吾等は常に神に生かされ、神に守られているのであり、全ての事は自ずと成就し、運行するのである。その辺りの事を先ず知的に理解し、そして、その神への全託の心になる事が大事である。そうなる為の修行として、生長の家を勉強し、行ずるという事が必要になって来る。

 神に全託するとは本当に全託するという事である。この部分は私がやらなくてはならないとかそういうものではないのである。全託とは本当の全託である。
 神に生かされていると言う事は自分の人生全て神に生かされた、守られた、導かれたものであるという事である。私は要らないと言う事である。生理作用は始め、自分の仕事、生長の家の活動、趣味、家庭生活、結婚等々全部、神に導かれ、生かされているのである。神に全託するという事は我(が)が全託しよう、全託しようとしても仕方の無い事である。神に全託するという事は自分の人生全て、このままで神の生即ち神生であったと悟る事である。今まで自分で生きてきた、決めてきたと思っていた自分の人生がそうではなくて、全部神に生かされ、決められ、導かれた生であったと目覚める事である。要するに「そのままでよい」と言う事に目覚める事である。
 神に生かされていたという事に目覚める事が全託であり、その時、大安心の心が生まれ、全身の余計な力が抜けて、神に生かされていた気持ちよさに全身包まれ、そして、文字通り全託の心で安心して夜もぐっすり眠れるというものである。それに引き替え、自分で生きているという思い、即ち「自分が、オレが」という思いが我(が)であり、それが不安の心である。

 そして、その全託の心はどこから出て来るかと言ったら、吾々の中から自分で出て来るのである。全託の心こそは悟りであり、悟りこそは実相顕現の事である。即ち既にそのままで完全円満の吾等の実相生命は自己表現の為に自分で出て来る。その自分で出て来た事が悟りであり、全託の心の目覚めであり、その過程が吾等の実相顕現の過程であり、その初期においては我(が)の心で散々苦しみ、悩み、病気になったりする事もある。しかし、そうした中で生長の家を諦めないで一所懸命やる事により、突如自ずと全託の心に目覚め、そして、先日の私の様に失敗を恐れないで思い切ってやるという心が自ずと出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-28 12:58 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

良くなる直前というのは一番悪くなる時である。(2)

 実の事を言うと、私はテニスのダブルスの試合がこの一年位、大部勝率が悪かったのである。特にこの一ヶ月は殆ど勝てない状態が続いていた。先日、このブログで私がシングルスの大会に挑戦し、大部手応えがあった旨の事を書いたので皆さんは「あれ?どういう事?」とお思いになると思うが、本当にダブルスの試合は勝てなかった。

 ダブルスの方は正式な大会に出ての成績ではなくて、普段の友人同士やクラブでの日常的なゲームでの戦績であるが、これが本当に勝てなかったのである。私は一時、これだけ勝てないのは自分ではなくてパートナーが悪いのだと、そこまで思った事がある。気のせいか、私のダブルスのパートナーになる人はどうした訳だか、私と組むとミスばかりする様に感じていて、これだから勝てないなんて思った事もある。人間、調子が悪い時はこんなものである。
 私は先日のシングルスの大会に出た時、自分の課題はサービスだと思ったので、大部その技を研究し、鍛えた。その中でああでもない、こうでもないという試行錯誤を繰り返し、結局、ああだこうだ考えるのではなくて、自分の中に完全なフォームがあるのだからその閃きに従って、本能のままに打てば良いと気付いた。それでシングルスの大会の時はサービスも良くはないが悪くもないという状態で試合自体はけっこう善戦出来たと思う。しかし、その後、クラブの人達とダブルスの試合をするにこれが本当に勝てないのである。自分としてはレベルの高い大会でシングルスの試合で結構、手応えがあったのにクラブの人達はこう言っては失礼だが、私がシングルスの試合で対戦した相手よりも年配だし、腕も落ちると思っているのにこうした人達を相手にしてダブルスの試合は一向に勝てないのはどういう訳かと思ったのである。
 それで一時、パートナーのせいにもしていた訳であるが、パートナーというのは一定の人ではないので特定の人が悪い訳ではなくて、どの人も私と組む時は何故かミスばかりするなどと被害妄想的にもなっていたのである。

 その中でクラブのある女性とストロークの練習をクラブのコートでしている時、どうも最初の送り出しの球が上手く出せなかった。私はフォアハンドは回転過多のトップスピンで打つのだが、それがストローク練習の時の球の送り出しの時もその癖が抜けず、山なりの回転過多の球を送る事が多い。それは余り上手くない事なので出来るだけフラットの無回転の球を出そうとするのだがそれが上手く行かず、又、相手の女性がけっこう上手い人であったので変な球は出せないと意識し、萎縮してしまって、送り出しの球がネットを超えない事が何回か、あった。そうしている中、相手の女性の方から「もうこの辺りでラストにして下さい」と言われ、余り量を打っていないのに早々に引き上げられてしまった。 私はそれがショックであった。私は飛んで来る球は打ち返すのは自信があるが送り出しの球が苦手で、その欠点をもろに相手にさらしてしまったのを悔やんだのである。それは翌朝の寝覚めの悪さにもつながった。
 そうする中、一昨日も朝から仲間とのゲームで殆ど勝てず、その後、ある地域の誌友会に出講に行ったりしたが、どうも余り、その講話も自分で調子がいいものとは感じなかった。それで翌朝である昨日の早朝テニスで私は久しぶりに2勝1分けの好成績であったが、その中で何となく分かって来た事は私のサービスの速さが先日のシングルスの大会の試合の時と仲間とのゲームの時とでは全然違うという事であった。シングルスの大会の時は火事場の馬鹿力が出て、けっこういいサービスが打てていたのにダブルスの試合となるとパートナーがいる事なのでダブルフォルトだけは避けたいという気持ちがあり、ボールを思い切って打っていないのである。それは丁度、ボールをなでている様な感じだった。私はその時、気がついた。私がダブルスの試合で殆ど勝てないのはサービスを思い切って、打っていないからであると言う事を。ダブルフォルトを恐れる余り、サービスをなでる様に打っている中でプレイ全体が萎縮して来て、その結果、それ以外のプレーでもミスはしないもののボールが短くなって、相手から打ち込まれてしまう事が多いので勝てなかったのである。

 シングルスの大会の時は負けて元々という気持ちがあったのでサービスでも萎縮せずに打っていた為、全体のプレーも伸び伸びして出来ていたから力を発揮出来ていたが、ダブルスの試合はそういう事でサービスを萎縮して打っていたからプレイ全体も萎縮して負けてばかりいたのである。そして、そういう癖が練習の時の球の送り出しの時も出て、腕全体が萎縮して、回転過多の短いボールばかりしか出せない様になり、相手が上手い、事に女性となると緊張して、ネットを超えなかったりしたのである。

 要するに私はこうして恥をかいて、嫌な思いもして、ダブルスの試合も全然勝てないという最悪の時を抜けて、自ずから本当に価値ある大切な事が分かったのである。それはサービスを打つ時はダブルフォルトを恐れないで思い切り打つ事がプレイ全体も伸びのあるものにしてダブルスの試合にも勝てる様になるという事である。
 それで昨日は早朝テニスの後、午後、クラブにも行って、ダブルスの試合をメンバーの人達と2試合したが、2戦2勝で完全に手応えを感じる事が出来た。思えば、私はテニスを始めて以来、ダブルスの試合はずうっとそんな感じで萎縮してサービスを打っていたのである。だから、先日もシコク嫁さんが書いていたが、使っていない力というものは錆び付いているもので、昨日の試合では全て、勝つことは出来たが、思い切り、サービスをうとうと思っても、それが中々思うようにびしっとラケットが最初の内は振れなかった。これは自分で自分の力を自ら縛っていた癖がこれほどあったのかと自分で実感する程のものであった。

 この事が分かった事は単にテニスという一つのスポーツで上達したと言う事に留まらない。私の人生において、失敗を恐れ、萎縮して、自分自らのあらゆる力を抑えていたと言う事にまた改めて気がついた。

 生長というのはスロープ状ではなくて、階段状に進むのである。何故なら、反復練習ではなくて、内に既にそのままで完全円満の宝を発見して行く事により、生長するからである。それまではいくらやっても一向にうだつが上がらない事がある。そういう時に諦めてはならないのである。

 と同時に改めて分かった事は無限力というものは長い忍耐の上に発揮されると言う事である。何となれば忍耐力こそは神の徳の中の一つであるからである。そして、もう一つ、再認識したのは良くなる直前は最悪となると言う事である。悪い現象は自分の心の間違いを教えてくれているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-27 13:05 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(4)

現象の親はナイ

 生長の家では親への感謝が非常に強調される。聖典「生命の実相」第一巻にも「神様の愛が目に見える形として具体的に出て来たのが親様である。」という記述があるし、「大調和の神示」にも「神に感謝しても父母に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ」という一節がある。私はその事を非常に重大に考えて、青年会時代は神想観の最後に必ず父母への感謝の祈りを毎日熱心に行った。神想観だけでは足りないと思ったのである。何故なら、神想観は神への感謝の思いであり、「大調和の神示」に「神に感謝しても父母に感謝しえないものは云々」と書かれていたのでこれは神想観だけでは駄目だと思った次第である。

 私はその父母への感謝の祈りを30歳位から7~8年に渡って、毎日行じた。しかし、実際、私と父との仲はそれに反比例してどんどん悪くなって行った。それで全然親に感謝出来ない状態で私も精神にバランスを崩し、夜も眠れない様になって、それがきっかけで宇治の生長の家の道場に導かれ、私の尊敬するA先生の薫陶を受け、自覚が生まれ変わり、今、神に生かされていた、そのままで良かったと分かり、それと殆ど同時に父親が有り難い存在であった事が分かった。それまでは父に感謝しなくてしなくてはと思っていたが、父は最初から私の事を愛してくれていたのであったと言う事に初めて目覚める事が出来た。それで私はどんどん元気を取り戻し、その後現在に至っているが、要するに私は自分の祈りの力で状態を良くしよう良くしようとしていたが、そうした現象など勝手に自分が描いていた幻であって、実際の親は始めから自分を愛してくれていた存在であったのである。私は単にその事に気がついていなかっただけだったのである。

 この様に生長の家で親への感謝が大事であると教えられると大抵の人は「親に感謝しないといけない。そうでないと私は幸福になれない」なんて思って、焦って感謝しようとするのであるが、そうすればするほど感謝は出来ないのである。しかし、それは現象の親がアルと思っているからである。現象の親などひどい親は今時沢山いるのである。そんなものに感謝しようとしても土台無理と言うものである。今でも私は父親と喧嘩する事もある。私は父親に感謝しなくてはならないなんて思っていないから怒った時は割合遠慮せずに怒る事がある。でも、結局は神様が和解させてくれる。

 現象はナイのである。だから、現象の親もナイのである。全て自分の心の影である。親が悪く見えるのは自分の姿を映しているだけである。親とは本来こうあるべきだと現象の親を審くのは神を自分の外に求めているのである。
 現象はナイ。現象の親はナイ。全ての現象をナイと否定し、自分の中にのみ神の国を見出した時、自ずと自分の中に自分と一体である親に満腔の感謝を捧げる事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-24 12:31 | 家庭生活 | Trackback(1) | Comments(16)

先祖供養

 現在、吾が教区では誌友会のテーマはお盆に向けた先祖供養祭である。誌友会の最初に40分位、誌友が持参した霊牌で先祖供養祭を行い、その後、講師が先祖供養の意義の講話を行う。私は地方講師であるのでお盆とかお彼岸の季節になると出講先の誌友会で先祖供養の先導と先祖供養の意義の話をする。

 しかし、実の事を言うとこのテーマの時、私は講話で何を話すかと言う事に多少の困難を感じる。と言うのは生長の家で先祖供養するのは先祖や親類縁者や水子などでまだ成仏していない霊魂を聖経「甘露の法雨」などの真理の説かれたお経を霊前で読誦する事により、その霊魂に人間神の子完全円満の悟りを啓いて頂いて、今まで悟っていなくて霊界で苦しんでいた為に子孫に障りの霊波を出していたのを成仏してもらって、高級霊となって頂いて、子孫を導いて頂くと言う事であるとそう言ってしまえば言えなくも無いからである。

 谷口雅春先生著「人生を支配する先祖供養」の御本の中には先祖供養する際の心構えとして重要なのが「ただ感謝の念を持って供養する事」と書かれており、先祖を迷って障りを成す霊として扱って、それを教え諭す様な軽蔑的思いで先祖供養してはならないとある。だから、私は先祖供養の講話をする時は必ず、この一節を読み、あくまで、ただ感謝の念の表明で先祖を供養するという事を強調する。そして、吾々が今生きているのはただ神に生かされて生きているのであり、その神の生かしがご先祖様となり、親となって今の自分を生かしてくれているのであるという話を良くする。

 しかしながら、実際はこの自然流産の水子は高級霊だから供養しなくていいのじゃないかとかいや、そういう霊でも供養した方が良いなんて話が座談会で出る。先祖供養の問題は余り、あれこれ考えるときりがないのであり、私の尊敬するA先生は我々一人一人が生きた仏壇だと仰って、余りに先祖供養のやり方とかにこだわるのを一喝されている。

 要するに吾等が人間神の子完全円満を悟れば自分が生きているのは自分で生きているのではない、神に生かされていたと分かり、そしてその中から自ずとご先祖や親に感謝の思い、一体感が湧いて来て、自ずと感謝し、供養するのである。だから、余り先祖供養の仕方にこだわるのは考えものである。

 真の信仰を持って、何事も内側から催すままにすればよい。先祖に真の感謝の念が湧いて来たら、内側から催すままに当たり前にお祭りし、御供養すれば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-23 12:31 | 家庭生活 | Trackback | Comments(7)

ただ与えるのが悦び

 生長の家では「人に褒められようとするのではなくて神に褒められようと思え。」と言う教えがある。山奥に咲く百合は人から観賞される事を目的にしているのではなくて、ただ内側からの生命の発露、悦びのままに咲くのである。同様に神は吾々人間を一から十まで完璧に生かしておきながら、その見返りを求める事は無い。ただひたすら生かして下さっているのである。

 だから、吾等も自分が他の人又は団体に何か貢献したとしてもその見返りを求めてはいけないのである。ただ、そうする事が嬉しいから貢献するのである。ただ与えるそれが嬉しいのが神である。なれば神の子である吾等もその如く、ただ与える事を悦びとして、生きるべきである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-22 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

試行錯誤は内側の宝を発見する課程である。

 先日もお伝えしたが、私は伝統ある正式なテニスの大会に出る事で大部、テニスの力量を上げる事が出来たと思っている。私の今までのキャリアではレベルの高い経験者ぞろいのこの大会に出るのはかなりの勇気が必要であり、それこそ「清水の舞台から飛び降りる」思いであったが、自己限定しないで思い切って出場した事で壁をいくつも乗り越えさせて頂いた。これは単にテニスの力量という事だけではなくて、己の中の神の子無限力というものがこれからではなくて、正に今の事であるという信仰を深めさせて頂いた。

 ところで、今まで私はテニスの技量向上の過程において、色々な試行錯誤、気づき、スランプ、迷い等々の行程を繰り返して来た。それで「分かった」「悟った」と思い、調子が良くなる事もあれば、又、別の考えが起こり、それでやって見て、又、停滞する事もあった。失敗もあった。恥をかく事もあった。屈辱を感じる事もあった。
 色々な経験、試行錯誤を繰り返し、ことに今回、この大会に向けて、トレーニング、練習、研究したこの二ヶ月間はその探求が大幅に進んだ。それで結局、現在得ている結論はフォームの事なんて考えないで自分の内側の力と閃きを百%信じて、プレイする事が大事である事、そして、自分の実力というものはこれからではくて、今、完璧なものであると信じてやって行く事であると言う境涯になっている。
 それまでの色々の試行錯誤はまだ迷いの段階であるとも言えなくも無い。しかし、それだからと言って、今までの試行錯誤が無駄で愚かなものであったとは思っていない。今までの試行錯誤は私の中の実相が自分で出て来る課程であり、色々迷ったりしたのも悟りの基礎工事であったのである。要するに全て意味ある事であったのである。正に実相が自分で出て来る行程であった。

 全ての道程が悟りへの道である。そこには迷いあり、試行錯誤ありである。吾等の人生経験全て、無駄なものは無い。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-21 12:29 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

背水の陣を敷く

 生長の家の聖典「生命の実相」第七巻「生活編」には生長の家を実生活に生活する具体的な方法が細かく丁寧に書かれている。これは真理を実行しないと本当に自分のものにはならないという事が書かれた本であるが、これは本当は信仰も無いのに形だけ真似るというやり方では駄目で、人間神の子無限力の信仰があって、その中から自ずと内側からその生き方が出て来る様でなくてはならない。
 即ち、自分が本当に無限能力者であると信ずるという事はそれが生活化されなければ本当ではないのである。

 さて、その中に「背水の陣を敷け」という章がある。人間は内側に無限の宝庫、無限力があっても、それが絶体絶命の境地に置かれなければその力を発揮する事は難しいというのである。もう退却の退路を自ら断ち切った所に初めて無限力が出て来るのである。逃げ道を作っておけばどうしてもそれに甘えて、真の底力を発揮する事は出来ない。

 ところで私は昨日、「鎌倉テニストーナメント」という80年の歴史あるテニストーナメントに出場した。私がエントリーしたのは45歳以上の男子シングルス部門であったがエントリーしたのが2ヶ月位前であった。この大会は年に一度のレベルの高い大会であり、出て来る人は皆、レベルの高い人達ばかりなのでエントリーするのに躊躇した。しかし、私は神の子無限力の信仰があるので思い切ってエントリーしたのである。
 ここでエントリーするのが人間神の子の自覚を実行するという事なのである。それは真に自分が今、神の子無限力であると信ずればこそ、自ずと出て来た行為である。そして、それは私に取って、正に「背水の陣を敷く」事となった。それから練習試合の為、数回、草テニス大会に出場し、自分の課題を見極め、又、テニススクールも週に三回位行って、真剣に練習し、会社の帰りに毎日、クラブに行き、一人黙々とサービス練習を30分位やり、ランニングなども毎日やって、体を鍛えた。
 その中ではっきりしたのがグラウンドストロークとボレーではフットワークでリズムを取りながら、する事が大事である事、それからサービスはインパクトまでの動作を慌てずゆっくりとやって行く事でトスが安定する事、セカンドサービスはボールをインパクトまできちんと見る事で確実に回転を掛けられる事等である。
 それでそうやって、本番に向けて、技術的にも体力的にも大幅に力を伸ばす事が出来た。そして、昨日の本番では当初ダンゴ(0-6、0-6で負ける事、要するに1ゲームも取れない事)も覚悟していたが、第一セットは5-7、第二セットは2-6で負けたが殆どのゲームもジュースになり、試合時間は1時間40分にも及んだ接戦であった。経験では遙かに相手の方が勝っていると思うが私は火事場の馬鹿力で自分としても意外な程の力が出て、接戦をする事が出来た。

 これは普通にただクラブに行ったり、友人同士のゲームをしているだけでは私にはこれだけの力の伸びが無かったと思う。やはり、このレベルの高い大会にエントリーするという背水の陣を敷くという行為が私の無限力を引き出したのである。これは何よりも今、自分は出来る、無限力であると信ずればこそそうしたのであり、そして、その思い通り、力が出たのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-19 12:27 | スポーツ | Trackback(2) | Comments(2)