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政治に理想は無い。

 昨日、衆議院選挙が行われ、周知の様に民主党が圧勝した。 ある程度、予測されていたとは言え、蓋を開けてみたら、それは予測以上のもので当の民主党の人達も狐につままれた様な感じになったそうである。私自身もここまでとは思っていなかった。

 ところでこの場は政治的な発言をする場ではないのでその事はここでは極力控える。(私の個人的政治的見解は神奈川県相愛会のホームページの壮年層勉強会掲示板に書きましたので興味ある方はご覧下さい)
 私は自民党に関してはどうもアメリカのいいなりになっていると見ているので応援する気になれない。ただ自民党には個々には立派な政治家が沢山いると思う。麻生さんにしても皆悪く言うが私はそれほどでもないと思っているし、G7の酩酊会見ですっかり評判を落とした中川昭一氏にしても私は心の中ではあんなのはとても不可解な事でこの人はあんな国益の掛かった重要な場で泥酔状態で出て来るほどのうつけ者だとは信じていない。この人は割合、アメリカに対して毅然とした考え方を持っている人である。

 また今回、大勝した民主党に関しては私は色々彼らの考え方、政策を見るにつけ、首をひねらざるを得ない亡国的な部分があると思う。でも前党首の小沢一郎氏は考え方、実力共にかなりの人物であると私は思っている。
 要するに政党とか政治に理想即ち完璧なもの言い換えれば神を求める事は不可能であると思う。完全に自民党が良いとか民主党が良いとか言い切れないからである。だから、生長の家も政治に理想を求める事を止めたのではないかと思っている。政治力即ち人間力には限界がある。それで昭和54年に谷口雅春先生は九州長崎の地に龍宮住吉本宮と顕齋殿を建立され、龍宮界から直接、宇宙浄化の神である住吉大神のご来臨を仰ぎ、日本国実相顕現、世界平和の実現を御祈願されたのだと思う。
 そうなるとこの生長の家の運動というのは本当にこれからの日本、世界平和に取って、とても重要な鍵を握って来ると思わざるを得ない。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-31 12:27 | 時事問題 | Trackback(3) | Comments(2)

私がやらなくてはならない事なんて一つも無い

 私は子供の頃から曲がった事が嫌いで、それが完璧主義にも結びついていたが、理に合わない事、道にそむく事をどうしても放っておく事が出来ない性分であった。
 だから、他人の落ち度事に卑怯な心、無慈悲な行いには我慢ならなかった。私は自分で言うのもなんだが生まれつき心がきれいだったとは思うが、生長の家をやる事でますますそれが強くなった。しかし、同時に清濁併せのむ事と言うことがどうしても出来ず、それで自分を追い込み、他人を責めという事を繰り返した。
 そうしたら、我(が)の力などたかが知れているのでどうしても自分で出来ない部分も出て来るし、それが出来ないと自分を責めるし、又、ああしなければならない、こうしなければならないと思う事自体がとても心の重荷であった。それは特に生長の家を知ってから、それが全ての人を救う素晴らしい教えであると思えば思うほど、それをそれを知らないで苦しんでいる人達に伝えなくてはならないと思った。それが聖なる使命即ち聖使命と思い、実際、生長の家の組織でも他の人に真理を伝える事を法施と言って、一番大事な愛行であると奨励している。しかし、それを私という有限の肉体がやらなくてはならないと言う事は大変な重荷になるのである。

 それで生長の家の講習会とかの行事の参加促進の時期になると参加目標が与えられて、それを達成すべく対象者にチケットを売り、お誘いするのだが、生長の家は講習会に限らず、ほぼ一年中何らかの行事があり、それでしょっちゅう、目標が与えられて、それで参加促進する。
 だが、私はこうした生長の家の運動や愛行に限らず、全てのものごとにおいて、私がやらなくてはならない事なんて一つも無いと思っている。私がやらなくてならないなんて思ったら、それは大変な重荷である。実際、生長の家の組織に属している人は大体その重荷で何となく活動しているのが現状だと思う。しかし、それでは却って、力が出ないのである。繰り返すが自分がやらなくてはならない事なんて一つも無い。それでは誰がそれをやってくれるかと言ったら、それは我が内なる神である。神こそが全てであり、宇宙に行き渡り、全てのものごとを既に完成させ、そして、現在もその歩みを休む事無く展開されているのである。神が全てをやってくれ、生かしてくれ、導いて下さるのである。それが神に生かされているという事であり、その状態を神への全託と言う。

 だから私は生長の家の行事の参加促進を始め、全ての仕事は自分はやらなくていいと思っている。そうすると非常に楽である。そういう状態だと自ずと嬉しくなって、こういう事がやってみたい、ああいう事がやってみたいという悦びとやる気が出て来る。そして、楽しんでいる様で結果的にものごとが調って行き、前回の講習会の時は私はお陰様で目標を遙かに突破し、教区で一番の伸び率であったと記憶している。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-28 12:31 | Trackback | Comments(6)

自分のしたい事が神の願いである。

 私は生長の家青年会に23歳の時に入った。東京池袋にある立教大学に通っていたので東京の城北教区の青年会に入った。当時、私は所謂、キャンパスライフを謳歌しており、クラブは美術部に入っており、又、野球同好会にも兼部して、かつ趣味として個人的にテニスもやっていた。そういう状態であったから結構、忙しかったのである。しかし、青年会に入ったらびっくりした。5月に日本武道館で開催される生長の家青年会全国大会の参加促進の為に2月から毎日、参加促進の為の対象者に対する家庭訪問が始まったからである。
 その他に誌友会、会議、理想世界誌配布等の行事が目白押しであり、又、当時は所謂、理想世界誌百万運動(当時の生長の家の青年向け神誌である理想世界誌の購読数を百万部にする運動)なる運動の名残があったから、青年会中央部主催による青年会幹部研修会は理想世界誌を一人一千部一括申し込みをする事がテーマとなり、それを決意する事を迫られた様な雰囲気の研修会であった。
 当時は女性は結婚資金をつぎ込んでまでこの一千部一括申し込みをやり、又、男性でも借金をしてまでこの運動をやったりした。要するに生長の家の為に時間も資金も生活も全て捧げるというのが信仰的生き方であり、日本国実相顕現の為に不可欠な事であるという指導を当時、研修会で散々受けた。

 私はそれまでのふわふわしたキャンパスライフがそのお陰で一挙に吹っ飛んでしまった。もう止めようかとも思った。しかし、ここで引く事は神の道にかなわない様な気がして、もう全てを諦め、光明化運動に捧げようと思った。それから長い間、青年会活動をやり、色々な役職もさせて頂いた。要するにそこで学んだ事は「第一のものを第一にする」と言う事(これはこれでとても大事な事である)で、何か自分の行動でいくつかの選択の余地がある時は神様の御用を第一にする事が大事であると言うか当たり前であると思って、十年以上に渡って、行動して来た。
 しかし、テニスは細々と続けていた。私はテニスを始めて三年位で手前味噌になるがグラウンドストロークが素晴らしく上達したので自分はテニスの天才だ位の自負が実はあったのである。そういう中、サービスだけが上手く打てず、これさえ良くなればもうそれで納得して諦められるのになんていう気持ちを持ちつつ、それを良くしよう、どうやったら上手く打てる様になるかなんて密かに悶々と考えていた。
 即ちテニスがしたい、上手くなりたいと心底思いながら、それが良くない事であるとその願望を打ち消す自分が同時にそこにいた。そして、テニスをしている時は自分はこんな神様の使命でない遊びをしているという罪の意識があった。それ以外にも私は光明化運動をやり切れていない自分、完全に神様のみの生活になり切れていない自分を毎日少しずつ責めていたのである。
 極端な例を挙げれば、就職活動の時、生長の家以外の会社に入るなんて事自体に罪の意識を感じた程である。でも、実際、そこまでの覚悟は無く、それで自分への言い訳として、家業を手伝うという事なら生長の家でない仕事についても大義名分が立つなんて当時はそんな事を本気で考えて、父の経営する会社に入る道を選んだ程である。

 要するに自分のしたい事、それは人の為になりたいとかそんな事じゃなくて、ただ単にテニスとか英会話とか、今の自分が正直、今したい事、上達進歩したい事を優先させるのは神の御使命に反する事で利己的欲望だと思っていたから、自分の正直な願望を否定して、押さえつけ、それを少しでもやれば、罪の意識を感じていた。しかし、そんな生活が長く続くはずは無く、私はそういう精神構造で常に自責の念で生きていたからそれが積もり積もって、神経を壊してしまったのである。そして、心の平和が無くなり、夜も眠れない様になってしまって、奈落の底に落ちたのである。しかし、そこからが私という生命の実相が真に発芽する時であったのである。それが元で私は宇治の生長の家の道場に導かれ、生涯の師であるA先生に巡り会い、その尊い薫陶を受け、そのままで良かった、今ここが地上天国であり、自分の中に神の国があり、自分がそのまま神であるという事を悟ったのである。

 それからは私の願いがそのまま神の願いであるという事が分かったのである。先日、出講させて頂いた誌友会ではその会場に入った途端、参加されている誌友の方達の雰囲気を感じるに自分が準備して来た内容をそのまま話すのは適当では無いと判断し、それで誌友の方と殆ど対話形式の講話にした。そして、誌友の方達にとても悦ばれ、私自身もとても楽しい誌友会に参加させて頂いた気分だった。これは私が普段テニスで培っている所の今、何をどの様にやるか、どの様に打つかと言う事を内側からのインスピレーションに従って、瞬時に判断して行く事が大いに役立ったのである。
 それとつい先日、たまたま立ち寄った家の近所の中華料理店で、あるアメリカ人の青年と意気投合して、色々話したが、彼は仏教徒と言う事で職業は庭師であると言う事だったがお互い信仰を持っているので大いに信仰の話で盛り上がった。そして、別れ際に持っていた私の名刺を差し出して分かれたが、これは生長の家の国際平和信仰運動に大いに役立っていると思う。それも私が普段、英語を勉強しているお陰である。

 要するに今の自分のあれをやりたいこれをやりたいという単純な願い、願望がそれがそのまま内なる神の願いであるのである。それを自分の個人的な願いとかは利己的欲望であって、神様はそんな事を望んでおられるのではなくて、他の人への愛行こそがお望みであるなんて考えて、そこまで行っていない自分は神様の願いを自分の願いに出来る様にもっともっと心を清めなくてはならないなんて考える人がいるかも知れないがそんな事は無いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-27 12:34 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(19)

 私は昔から完璧主義であった。プラモデルを作るのでも完璧に作らなくてはいけないと思って、一つの部品も欠ける事無く、塗装も完璧にやろうとした。そうなると逆に作業が進まず、高いレーシングカーのプラモデルを一年近く組み立てないで放置しておく事もあった。

 私の完璧主義はどこにでも出て、生長の家も完璧にやろうと三正行を完璧にやろう、生長の家の組織運動も完璧にやろうとした。それで疲れてしまって、夜も眠れなくなった事もあった。それは仕事にも出ていた。事に他人に対して、完璧を求めた。その他人に完璧を求める心は他人を討つ心に自ずとなった。私は自分の中に高い理想を持てば持つほどその基準に達していない他人を強く強く心で批判する様になった。

 しかし、討つものは討たれるの法則で私自身も色々な場で討たれる事が多くあった。それでやっと自分が討たれるのは自分が他の人を討っているからであると分かった。
 それと同時に私は「そのままでよい」と言う事が最近より分かる様になって来た。そのままで癒しであり、そのままで智恵であり、そのまま無限力であり、そのままで完全円満である全てのものこと人の実相が実感でより分かって来た。
 それと同時に他人を責める心が無くなって来た。
 私は今、そのままでよいとますます分かって来たので、周囲の人を責める気持ちが無くなって来たのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-26 12:11 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)

ありがとうございますTシャツ

 本日、熊本のブログ仲間のシコク嫁様より、「ありがとうございますTシャツ」が届きました。これは先日、シコク嫁様のブログの8月8日の記事に載っていたもので、シコク嫁様のご主人の直筆による「ありがとうございます」の毛筆の文字が背中にプリントされたものです。

 実際、着てみましたが僕の体にぴったりのXLサイズのTシャツで色は紺でとてもシックで良い色です。そして、何より背中のご主人の直筆の「ありがとうございます」の文字が本当に達筆で素晴らしいです。書道二段という事ですが、ご主人はくも膜下出血を起こされた時にたまたまお店でお使いの染料に頭をつっこみ、それが元で半年間、意識が戻らなかったですが、シコク嫁様の懸命のお世話と励ましと信仰で現在は素晴らしく回復され、この様な素晴らしい達筆の字を書けるまで回復されました。ブログ仲間の方は良くご存知ですよね。正に生長の家の神の子無限力を立証してくださっている素晴らしいご夫婦です。

(私のプロフィールの写真は正面から撮影したものです。)

堀 浩二

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by koujihori | 2009-08-25 23:08 | Trackback | Comments(4)

核武装の是非について

 現在、日本が核兵器を持つべきか否かと言う議論が一部でわき起こっている。結論から言うと日本が核兵器を持つと言う事は間違いであると私は思う。それは自衛を通り越して、相手人民を全滅させる程のものであるからである。
 それは自衛の心ではなくて、殺人の心である。そういう心を持てば、自らも滅びる他はない。吾等は自分の心通りになるのであって、こちらに相手を殺す心が無ければ相手から殺される事は無い。自らの生命体としての当たり前の働きの中で自ずと生じる自衛力を持つという事は決して相手を滅ぼす心ではなくて、生命力の顕れである。そうした当たり前の生命の働きから来る自衛力のみ持てば良いと思う。

 正しい信仰心ではなくてただの人間の通常の常識から考えれば中国とか北朝鮮の核に対抗するには日本も核兵器を持つべきだと考えると思う。特に保守派、右よりの人はそう思うと思う。しかし、愛国心だけでは日本の国を良くする事は出来ない。大東亜戦争開戦時又はそれ以前の時の日本の国の指導者達も愛国心はあったが信仰心に欠けていた為に道を誤ったのである。日本の国を真に平和にし、発展させて行く為には真の神からの導きを得る必要がある。その為には正しい信仰心が是非とも必要である。それには政治家には生長の家の様な正しい信仰を持ってもらいたいと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-25 12:18 | 時事問題 | Trackback | Comments(4)

自分の観が変われば全ては今そのままで成就する(2)

 実は私はここ数年、ちょっと周囲の人と上手く行っていなかった部分があった。会社しかり、地域のつきあいしかりである。喧嘩したとか、絶交したとかそんな事ではなくて、どうも変な事をする人、余り感心しない事をする人、言う人がどの付き合いにおいても割合出て来ていたのである。それで私は組織のここはこう治さなくてはならないとかこういう人間は組織の為にならないとかと言う目で周囲の人を見て、又、変な事を言う人やる人には割合ストレートにそれを指摘して、怒りをぶつけたりした。そうする事で相手も幾分分かってくれるだろうという気持ちもあった。しかし、それでもかつそうした感心しない人達が私の周りから減るどころか増えて行く現状を見るにつけ、私はやっとの事で真理が分かった。それは私の人間関係は病気にかかっているのであると。
 要するに私の心に歪みがあったから、私を取り巻く人達が歪んで悪く見え、私に変な事をしたり、言ったりしているのであると言う事が分かったのである。

 自分の周りに不調和な事が起こるのは具体的に悪い人達が居るからではなくて、単に自分の観に歪みがあるからである。だから、それらの人達を良くしようとしたり排除したりする必要は無く、ただ自分の観が真っ直ぐになれば良いのである。

 今、このままで完全円満である。それはおのれの事だけではなくて、おのれを含めた今ここ全ての世界、人達がそうである。それがそう見えないのは自分の心が病んで歪んでいるだけである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-24 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(3)

問題は神が消して下さる(6)

 病気はそれを忘れている間に治っていると言う話を聞いた事があるだろう。要するにこの病気、この病気と思って、それを良くしよう、治そうと思うと駄目で、そんな事を忘れて、ただ他の人の為、社会の為、国の為に尽くしていると気がついたら病気が治っていたと言うのである。それは聖経「続々甘露の法雨」にも示されている。
 私の知っているある生長の家の人もずうっと持病があって、色々生長の家の練成会を受け、講師にも指導されたが、どうしてもそれで良くならず、それでもう治ろうという気持ちを捨て、死んでやろうと言う気持ちになって、それで一所懸命生長の家の組織活動にいそしむ様になったら、いつの間にかその持病が消えていたそうである。

 要するに病気に限らず、全ての問題は神が消して下さるのである。全ての悩みは神が消して下さるのである。それをこれが悩みだ、問題だと心につかんで自分でそれを消そうとすると心の法則が働いて、却って消えないのである。神が全ての悩みや問題を消して下さる。だから、問題はナイのであり、そのままでよいのである。そして、それが実相独在の生長の家の神髄である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-21 12:10 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(3)

自分の観が変われば全ては今そのままで成就する

 自分のいる境遇、扱われ方、そして、自分の健康又、自分の肉体で気になる部分というものが良好でない場合がある。
通常はそういうものが具体的にあると思って、吾々は色々それを良くしよう、改善しようと思って模索し、努力するのである。それで自分の地位を上げようとしたり、又、組織でこの人間さえいなければ良いのにとか思う人間を排除したり、又自分が下の場合はそこを飛び出したり、又自分の健康でもやたらと薬を服用したり、又自分の肉体で気に入らない部分があれば、それを整形したりしてましなものにしようとする。

 しかし、これらは皆、元々存在しないのであり、吾等の心の映しに過ぎないのである。即ち吾々は元々神の子であり、完全円満であり、無限力であり、全ての人と調和しているのであり、自分の境遇は常に良いのであり、又自分の属する組織は素晴らしいリーダーの元に統率されて、素晴らしい組織力を発揮して、又自分の肉体も醜い所などなく、眉目秀麗であり、自分のつれあいも子供も皆美しく、完全円満である。それはこれから自分があれこれ努力してそうなるのではなくて、始めから今そのままでそうなのである。それがそう思えないのはひとえに自分の観が歪んでいるからに過ぎないのである。

 観の歪みとは何かと言ったら、それは今、ここそのままで完全円満の神の国があり、そこに住む住人は自分を含め、今そのままで完全円満であるという事を悟らない心である。悟らないから、それをましなものにしようと色々画策する。それが心の歪みであり、自らを縛り付ける自縄自縛である。

 吾等は今、そのままで完全円満の神の生命であるから、それを自ら縛り付けさえしないでそのままであるならば、全ての事、能わざる無しであり、全ての悩みは消え、自分の周囲は完全に調和しており、自分及び全ての人は眉目秀麗の神の子である事を見出すであろう。一つ一つ問題をつかんで良くする必要は無い。自己の生命を縛り付けさえしなければよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-20 12:24 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

生長の家はナイ

 誤解を恐れずに言うと実は生長の家はナイのである。こんな事を言ったら、生長の家の地方講師として問題発言だと言われるかも知れない。しかし、敢えて言う。生長の家はナイと。

 生長の家が実在宇宙の事であると解釈すれば生長の家というのは実相の事であると言える。しかし、生長の家という教団、そして現象としての生長の家の運動はナイのである。それは生長の家自身が説いているのである。

 生長の家を一宗教だと思って、それをアルと思っているとつまづくのである。そういうレベルであるならば生長の家も創価学会も立正校正会も真如苑も同列である。却って、信徒数から言ったら、生長の家の方が劣るのではないか?
 生長の家はナイのである。生長の家をアルなんて思っているとそれが正しいのかどうかなんて悩まなくてはならなくなる。生長の家はナイのであり、吾々の中の神があるのみである。その神の展開として、生長の家の運動の展開もあるし、その他全ての運動がある。

 だから、私が生長の家をやっているのではなくて、私のやっている事が結果的に生長の家なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-19 12:10 | Trackback | Comments(4)