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そのままでよい(20)

 今、そのままの自分が神である。自分の行動、発言そのものが神の行動、発言である。自分の行動と神の行動が別のものであると思うから迷うのである。自分の行動や発言が自分の行動、発言であって、神の行動、発言でないと思う事が既に我(が)である。そうした考えがあの時、ああ言えば良かったとか、こう言わなければ良かったとか考えたり、これこれこうしなければ大変な事になるとかの取り越し苦労を生ずるのである。それは取りも直さず神に生かされているという認識ではなくて、自分で生きているという認識である。だから、自分の言った事、やった事に自信が持てず、絶えずこうした事で相手を傷付けるのではないかとか大変な損害を与えるのではないかと取り越し苦労そして持ち越し苦労が絶えないのである。

 私はかつて私の尊敬するA先生に強調されたのは「自分が神であるという事は自分の言った事、やった事そのまま神の言った事、やった事である。」という教えである。それまでは自分の行動や言動は正しかったのだろうか、それによって相手に多大な迷惑やミスリードしたのではないかと自分の行動、言動に対して自信が持てず、持ち越し苦労や取り越し苦労ばかりしていたのである。

 しかし、吾等は今、このままで始めから神であったのである。吾神の子の自覚とはそういうものである。それがそう見えないのは一重に自分の観が歪んでいるのである。その歪んだ観で色々行動するのが取り越し苦労や持ち越し苦労であり、それが罪の意識であり、我(が)である。それは大安心の心でないから、いつかはつぶれてしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-30 12:09 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悩みは尽きない(?)

 「一難去ってまた一難」と言う諺がある。それは吾々はよく「この悩み、問題さえ解決されたら、自分は幸せになれるのに」とか思って、それが何かのきっかけで解決されたとしても、又次に別の問題が持ち上がって来て、今度はそれで悩み続けるという事がある。
 
 仏教のお話にこういう話がある。それはある男が居て、自分の家が狭くて狭くてそれが悩みだと言うのであるが、それをあるお坊さんに相談したら、そのお坊さんは「お前、自分の飼っている牛と馬を自分の家に入れて飼え」と指示を出したのである。そうしたら、その男はびっくりして「そんな今でも手狭な家で困っているのにそんな牛とか馬を家に入れたらとてもじゃないがもっと家が狭くなって困ります」と反論した。しかし、お坊さんは男に「とにかくだまされたと思ってわしの言う通りにせい」と言って、男に牛と馬を家に入れて飼育させたそうである。男はしばらくその状態で我慢して暮らしていたが、程なくして、お坊さんが「お前、そろそろ牛と馬を元通り、家の外に戻しなさい」と指示を出した。男はその指示に従い、牛と馬を表に出したら、家がとても広く感じられ「自分は今までこんな広い家に住んでいたのか」と再認識したそうである。
 この話が教えてくれる事はそもそも具体的問題とか悩みなんて存在するのではなくて、皆、それは自分の心の歪みが作り出した影であるという事なのである。この世界に問題あり、悪ありと思っている人は今そのままで完全円満の世界に居て、完全円満の何の欠点も病気も無い肉体を与えられているにも拘わらず、それに目を閉じて、勝手に問題とか欠点を自らの心で作り出して、それを現象界に投影させて、その事で煩悶する。そして、その問題を「ここにこういう問題がある」と勝手に想像して、それを心でつかみ、何とかしたいと思う。それが悩みである。だから、こういう心に歪みを持っている人は具体的問題なんて無いのに勝手に自分が問題を心に描いて、色々と対象を変えて、悩み続け、悩みは尽きないという事になるのである。

 悪はナイ。問題はナイ。悪人はナイ。それらがアルと見えるのは全て、自分の認識の歪みである。そうした認識が悩みであり、罪の意識であり、又、他人から危害を加えられる事になる。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-29 12:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

全部神様がやって下さる。

 「全部神様がやって下さる」というのが真理である。吾々はこの人生を生きる上で「自分が」やらなくてはならない事など一つも無いのである。何故ならば実相独在であるからである。宇宙に満ちた完全円満、無限の神の生命の実相以外は一切ナイのが真理である。それなのにここの部分は私がやらなくてはならないなんて考える事が根本迷妄である。

 吾等はこの人生を生きていくに当たって、色々な事をこなさなくてはならない、判断しなくてはならないのである。その中にはとても難しい選択を迫られる事もある。どこの学校に進学するのが良いか、どこの会社に就職するのが良いか、どの相手と結婚すべきか等々人生には沢山の重要な選択肢がある。どういう選択をするのかそして、その決定事項に関してそれを遂行するのにも自分というちっぽけな肉体が決める、そしてやると思ったら大変である。
 会社などでも沢山の人間が居るのであり、管理職となれば、部下を如何に管理するか、その意見を採り上げるべきか上げざるべきかとか、そして会社上層部と如何に折り合いをつけて、調和してやって行くか等々の問題があり、そうした中でとても煩わしい問題を抱える事もある。そうした中、私という肉体のみがこの人生を生きている、この仕事をやっていると思うとそれはとても困難に感じるのである。

 しかし、吾等は生理作用はもちろん、人生のありとあらゆる場面で一瞬たりとも自分が生きてきた事などないのである。全て神が自分をして、生きているのであり、ものごとを遂行されているのである。その無限なるものに全託すれば楽ちんこの上ない。そして、神は全知全能であるから、神に全託する所、一切が行き届いて上手く物事が運ぶのである。
それを神に全託しないで「私が」「オレが」と我(が)が力む所、無理が生じ、そんな事を繰り返していてはその内、その我(が)なるものは擦れて、禿びて朽ち果てるであろう。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-28 12:24 | 社会生活 | Trackback(1) | Comments(0)

現象は不完全

 吾等は信仰するのにこの現象を良くしようとして信仰してはならないのである。そんな事を言ったら、何時まで経っても悦べる時など来はしない。現象というのはどこまで行っても所詮、不完全なのである。それなのに現象の不完全さを心につかみ、「これさえ良くなったら」と言う事でそれを良くする為に信仰生活をするというのは間違っている。それは信仰している様でその実、その信仰なるものは単なる手段であって、本心は現象アリ、この現象を信仰という手段で良くしようとしているのに過ぎない。

 真の信仰とは今、このままで現象はナイと悟る事である。そして、実相のみが今、ここに完全円満の世界として存在するという事に目覚める事である。
 自分の人生を現象から見れば、それはとても、完全とは言い難い。そして、ああしなければ良かった、こうすれば良かった、自分のあの事さえ無ければ自分の人生も完璧なのになんて思って、後悔の念で一杯になるのである。しかし、視点を変えて、実相の視点から見れば、それは色々、紆余曲折はあっても、それは全て、内なる神が自分で出て来る課程に過ぎなかった事が分かり、今そのままで自分の人生は神に祝福された百点満点の人生であったと分かり、大安心と法悦で満たされるのである。それが現象はナイ、実相が今、ここに独在していると悟る事である。ここに吾等は今、そのままで成仏している自己の実相を見出すのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-25 12:17 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

我(が)が本来の能力を抑える

 私は生まれつき我(が)が強かった。どうしてもこうしたいとか、こうでなくてはならぬという気持ちがとても強ったのである。それはものごとを遂行したり、理解しようとする時でもその気持ちが強く、出来たい、分かりたいという気持ちがとても強かったのである。それは無気力よりは良いかもしれないが、常に私がオレがと思っているものだから、心に平安が無いのである。吾々は本来、無限力であるがそれは神に生かされてこそである。神という宇宙に満ちた完全円満、無限力の大生命から生かす力を供給され、導かれてこそである。それを、私が、オレがやるんだ、分かるんだと力むとちっぽけな我(が)が一人で力んでいるのだから、力も智恵も出ないし、何よりもとても不安である。ああしなければいけない、こうしなければならないという気持ちは自分を苦しめ、強迫観念になるのである。

 そうではなくて、吾々は今、神の子であり、神により完全円満、無限力を与えられているのである。それを悟らないから私が、オレがという気持ちになって、我(が)で頑張る。そうなるとそれが本来の無限の智恵と力を自ら栓をする事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-24 12:22 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

実相は自分で出てくる(26)

 最近、頑張りすぎない事の大切を唱える識者の論評が増えてきている。ちょっと前は作家の五木寛之氏の「他力」とか医者の海原純子氏も介護で気をつけなくてはならない事は「頑張りすぎない事」とどこかで言っていた。今日の産経新聞にも経済評論家の勝間和代氏が「ガンバリズムからの脱却」というエッセイを書いていた。

 要するに努力とか忍耐という事が何をするにも大事であり、それが無いから、成功不成功が分かれるというのが今までの一般的考えだったが、本当はそうではなくて余り頑張りすぎない事、適当に流す事の方が大事であると言うのである。それは自分の努力だけでは所詮限界があるし、自分の運不運、健不健はそんな自分の意志とか頑張りを越えた偶然の所産である部分が沢山あるからというのが大筋の論旨であると思う。

 私は「頑張り派」か「適当に流す派か」と聞かれれば、両方だと答える。要するに両方の言っている事に真理があるのである。
 はっきり言って、頑張れない人間、努力の出来ない人間は私は余り見込みがないと思っている。成功する人間というのはやはり、人一倍努力する人間である。しかし、「俺が」「私が」と力むのも良くないと思っている。それはやはり、神に生かされているという事を忘れているからである。「適当に流す派」の言っている様に吾等の運命というものは自分の頑張りだけではどうしようも無い部分が大勢を占めている。そこに吾等は神の生かし、神の供給の有り難さと言うものに目覚める時が来るのである。即ちこの完全円満なる神、無限力なる神、無限の愛なる神、無限の智恵なる神を感じ取らなければならないのである。そこに自ずと神への全託の心境が生まれる。それが即ち真の信仰である。それこそが真の「適当に流す派」であり、その信仰が無い「適当に流す」だけでは駄目である。
 
 そして、そうした信仰に行き着くまでは火のような求道が必要である。そこに全力即ち所謂ある種の頑張りも必要である。それが必死の心であり、真摯の心である。その我(が)の塊のような頑張りの心もそれは奥底には神のうねりがある。何故ならば、神こそは全力であり、真摯であるからである。それが顕現して、神が表面に出て来た時に全託の、正に常楽の心が出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-19 12:09 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

実相は自分で出て来る(25)

 私はテニスをやっているが、自分が無限力があると信じるからやっているのである。それで、テニスクラブにも入ったし、機会があれば、大会にもエントリーしてチャレンジしている。しかし、自分では自信を持っているのに他の人から余り評価されなかったり、又、実際、試合しても負ける事が多かった。
 自分としては自分は無限力なのにそれを又、自覚しているのに何故、それを人から認めてもらえないのかと憤った事もあった。(実際、試合に勝てないのだから、今から考えれば無理無い事であった。)
 一方、自己の中に無限力があると明確に生長の家で学んだ人でなくてもいくらでもテニスや野球やその他のスポーツで素晴らしい力を発揮している人が沢山いるのはどうしてであろうと思っていた。

 それは即ちこういう事なのである。いくら無限力と言ってもそれが現象的に顕現するのには経験が必要なのである。そして、色々あれもこれもと浮気しないで一つの事に絞って、努力を継続する所に初めて、その無限力の顕現がある。それは要するに真摯とか全力という事こそが神の性質そのものであるから、無限力である神を現すにはいい加減な浮気的な事をしていても駄目なのである。そして、そうした中で努力を継続する中、色々な段階を経て、自分の中から無限の力、技が出て来る事によって、初めてテニスも上達出来るのであり、いくら無限力であるからと言って、そして、それを自覚しているからと言って、今すぐ、我(が)の力で無理矢理力を出して来て、プロ選手並みの力とテクニックが出せるかと言ったらそうではないのである。それはそのテニスならテニスに的を絞って、全力を尽くして行く内に色々な経験から自ずと内側から無限力、無限の技が出て来る事により、素晴らしいテクニック、技が出て来るのである。

 即ち、吾々の内なる実相、無限力というのは我(が)の力により出すものではなくて、その実相自体が自分で出て来る事によりのみ出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-14 12:32 | 潜在能力 | Trackback | Comments(5)

今、完全円満である。

 生長の家は「今」の教えである。吾々は神の子、完全円満、無限力であり、それは何時の事かと言ったら、正しく「今」の事であるのである。これから心を清めてからとか、罪を全部贖ってからとか、これこれこういう手続きをしてからとか一切そういう事が要らないで無条件に今、神の御力により、完全円満、無限力であるのである。

 しかし、実相はそうでも、現象は過去の念の残像が現れているから、不完全であると言って、現在はまだ過去の迷いの念の自壊作用が残っているので現象的には力が出ません、病気です・・・と言う人がいる。しかし、現象はナイのである。従って自壊作用もナイのである。正に実相独在であり、それは正に今、ここにあるのである。だから、吾等は今、無限健康、無限力であるのである。従って、何も心配は要らないのである。

堀 浩二
 
by koujihori | 2009-09-10 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

自壊作用(2)

 私は6月に生長の家総本山から帰ってから、過去の迷いの自壊作用みたいなものが割合、出て来ていた。自壊作用が出て来たら、消えると教えられているので、これが過ぎたら、一層、力が発揮出来て、より健康になると思っていたが、それが中々、その状態が変わらなかったのである。具体的にどういう感じになるかと言ったら、私の場合は自律神経に故障があったから、それで以前は眠れなかったり、ボールが真っ直ぐ投げられなかったり、字ことに英語の筆記体が上手く書けなくなったりしたが、現在はお陰様で大部、良い状態になっているが、テニスや卓球の時、幾分、右手の操作に不自由を感じるとかその他の動作にも多少の困難を感じていて、私はこれは自壊作用だから、これを過ぎれば能力はどんどん出ると思っていた。しかし、その時点で、既に自壊作用というものを自分でつかんでいたのである。
 自壊作用はあるが最近、以前よりずっとぐっすり気持ちよく眠れる様になったり、ボール投げなんかでも支障なく真っ直ぐ投げられる様になったので、その良くなった現象にとらわれて、自壊作用という現象にも知らずにとらわれていたのである。そうするとその自壊作用が中々無くならなかったのである。
 私はそれでようやく気付いた。自分は自壊作用という現象にとらわれていると。それは良くなった部分にもアリととらわれていたからである。現象はナイのである。自壊作用も現象であるからナイのである。良くなった現象もナイのである。 今、完全円満である。今、無限力であるのである。繰り返すが現象はナイ。自壊作用はナイ。そんなものが多少現れていても心でつかんではならなかったのである。今、完全円満の生命が完全円満する内に無限力がどんどん鍛えられて行くのである。

 私はその事を再認識したら、すぐ、その自壊作用は殆ど消え、今、無限力であるという事を正に実感して、どんどん色々な事に能力を発揮出来る様になって行ったのである。私は要するにまだ、今は自壊作用だからと自壊作用即ち不完全な現象をつかんで、今そのままで既にある自分の中の無限力を使っていなかったので、力が中々出ないで、自壊作用みたいなものが何時までも続いていたのである。即ち、自壊作用は自分が作っていたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-09 12:27 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

問題は神が消して下さる(7)

 吾々は自分で生きているのではなくて、生かされているのである。完全円満、無限力なる神に生かされているのである。それが実相であり、真理である。実相とか真理というのは遠く隔たった世界の事を言うのではないのである。今、ここの事であるのである。吾々は今、現に神に生かされているのであり、完全に導かれているのである。だから、悩む必要は無いのである。如何なる問題や悩みが出て来ても、全て完全円満なる神に解決され、消されるのである。即ち、全部、神様が面倒を見て下さるのである。それが真理である。それが分かった時、吾等の全ての心配も憂いも恐怖も消えるのである。
 それを「いや、実相は完全円満だが、この現象世界は自分の心が創っている第二創造の世界であるからこの問題を解決する為に、この病気を治す為に私が心を清め、私が心を整え、解決の為に奔走しなくてはならないのである。」と思うのは迷いであり、間違いである。

 そう思う事が既に二元論に陥っているのである。生長の家の教えは現象はナイ、心もナイである。あるものは神の生命とその顕れだけであり、その神の生命に生かされているのが吾々である。それを悟る事を実相を悟ると言うのである。
 それを悟った時、吾々は肩の荷を全て、神により担って頂く事が出来、生かされている悦び、問題を解決して頂ける有り難さを実感するであろう。それが生長の家で一番大事とされている「感謝」と言う事なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-08 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(3)