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今、自分に与えられた事は実現可能な事だけである。

 先日も書いたかも知れないが、私は生長の家の教えの中で最も素晴らしいと思うのは「神様は決して、出来ない問題を与え給わない。」という教えである。いくら神の子無限力と言っても「それならお前、ジャマイカのウサイン・ボルト(100メートル走の世界記録保持者)とかけっこして勝てるか?」と言われたら勝てっこないのである。

 人間神の子無限力というのは今、自分に与えられた事は必ず出来るという事である。自分に与えられた問題と言うのは実は自分自身が作り上げた問題である。それは現象的には感心しない心である。恐れとか、迷いとかそんなものである。しかし、その円満でない自分の心が病気とか経済的窮地とか不調和とかそうした人生の試練を自分の運命として作り出すが、だから、自分は駄目な人間という事ではなくて、実は自分の無限の可能性を鍛え出す為にそうした試練を自分の人生に作り出すのである。

 それで、その自分に与えられた問題の中で命が全力を出して、燃え上がる時、本当の生長進歩があるのである。それは言うなれば自己の実相の完全円満さを引き出すべく自己が自ら作り上げた練習器具みたいなものである。

 私は何回も申し上げるが、十年以上前に本当に人生を諦める寸前まで行ったのである。それをぎりぎりの所で踏みとどまらせたのがそれまで繰り返し拝聴していた谷口清超先生の講話テープにあった「解決出来ない問題は決して与えられない」の教えである。私はその言葉にしがみつき、頑張り抜いた。そうしたら、その先は嘘のような素晴らしい神に生かされるばかり、悦ぶばかりの世界であったのである。

 「今、自分に与えられた事は実現可能な事だけである。」この言葉ほど、吾々に人生を生き抜く実際の力となるものはない。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-30 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

本当の信仰とは(2)

 本当の信仰とはこれこれこういう祈りをやるから、ここがその祈りの通りの世界となり、それで初めて悦ぶというものではない。生かされる、生かされると念じるから生かされる様になるのではない。今、そのままで吾、神の子として完全円満、無限なる神に生かされ、幸はへられているから、それに感動して、感謝して思わずそれを賛嘆せずにはおれないというのが感謝の祈りであり、本当の信仰である。

 自分の都合の良い状態というのを勝手に自分で決めて、それを信仰とか祈りで自分の世界をそういう状態にねじ曲げようなんて言うのは信仰ではなくて、御利益信仰であり、我(が)である。如何なる運命であろうと如何なる状態であろうと今そのままでここが神の国であり、完全円満であり、一見困った様な事であっても神の目から見て、長い目で見て、結局良かったという事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-27 12:18 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

生長の家の真理の現れは多様である。

 この所、生長の家何とかの会とか言う団体から私の家にどうやって番号を調べたのか連日、ファックスが来て、そこには生長の家現総裁の谷口雅宣先生が生長の家創始者の谷口雅春先生の教えをねじ曲げているという理由に「雅宣先生は真理というものは不立文字であり、現象の言葉そのものとは違うと説いているが、雅春先生は真理と現象の言葉を一致させたのが生長の家であると説いており、雅宣先生は雅春先生の教えをねじ曲げている」と言うのである。

 生長の家の真理に限らず、真理というのはその本体は無形であり、不立文字であり、現象の言葉、例えば日本語とか英語とかの形としての言語以前のものである。それを生長の家では言葉と表記せすに敢えて、コトバとカタカナで表記している。そのコトバが創世記にある「始めにコトバあり、コトバは神とともにあり、コトバは神なりき」のコトバの事であり、それが実相世界の神の事そのものであり、実際の日本語とか英語とかの現象的に顕れた言語の元になるコトバである。その事が説かれているのが生長の家の真理、谷口雅春先生の説かれた真理であり、それを谷口雅宣先生は同様に真理というのは不立文字であり、その顕れとしての言葉は真理そのものと違うと仰っているのである。だから、何も雅春先生の教えをねじ曲げているなどと言う事は無い。しかるに雅春先生は「声字即実相の神示」を始め、聖典、「生命の実相」にも「生長の家は古来、不立文字や言栓不及とか言われていた真理を現代語で分かり易く説いたという所に特徴があるのであります。そういう意味では私はむしろ言葉の芸術家と呼ばれたい思うのであります」とも仰っている。

 この部分だけを読むと雅春先生の仰っている事と雅宣先生の仰っている事は違う様に感じる。しかし、その部分だけをとらえるからそう感じるのであって、前述の様に雅春先生の説かれた生長の家の根本真理は本当の神そのものの言葉をカタカナでコトバと表記して、実際の言語の言葉というものと明確に分けている。

 その様に生長の家の真理というものは聖典に書かれた一つの表現に引っ掛かると分からなくなる。それは生長の家の真理は前述の様に様々に説かれるからである。それを一つの表現に引っ掛かるかそれとも自分の都合の良い所だけを採り上げて解釈すると間違うのである。そういうのを原理主義と言い、そうやってテロを繰り返して無辜の民を惨殺しているのがイスラム原理主義者である。(彼らはコーランの「敵は叩き殺せ」という所だけを採り上げてテロ行為を行っているのである。)

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-26 12:16 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

自信という事

 世の中で一番大事なものは何かと言ったら、それは自信である。自信が無ければ、どんなに素晴らしい頭脳も力も備えていようがその力を発揮する事は出来ない。何故ならば、自信が無ければ、その力を使う事が出来ないからである。自信とは吾、神なりの自信である。自分の中に真理があるという自信である。自分の中に無限があるという自信である。そして、吾、今、完全円満なりの自覚である。

 生長の家はその事を説いているのである。生長の家に限らず、古今東西の聖人、教えの始祖と呼ばれる人はこの事のみを説いているのである。その一点を時代に応じ、地域に応じ、人に応じ、色々色づけして説いていたのである。そして、その事を現代語で最も分かり易く説いているのが生長の家である。

 その事を悟らなくてはいくら自分の中に無限があっても、その力を使う事が出来ないから力は発揮されない。その事が心の法則として生長の家で説かれているのである。それでその内側の無限を悟る事によって、自覚が変わり、その無限を使う事が出来る事であらゆる人生苦、病気等々が消えるのである。それが生長の家の信仰である。

 自信というのはかくも大事なものであり、生長の家の信仰の根幹を成すものである。その自信というのは前述の様に吾、完全円満、無限力なる神であるという自覚である。他の誰にも頼らない自覚である。その自覚ある所、自分の言葉、行動そのまま神であるという自覚になるのである。それがそう思えないのは自分の認識に歪みがあるからである。歪みとは自分が神であるという事を疑う心である。それで自分はあの時、ああ言ったがあれは果たして正しい事だったのかとかあの時、ああいう選択をしたが、それは果たして正しい選択だったのであろうかとあれこれ思い悩み、迷い、後悔し、それで正解とか真理を自分の外に求めて、彷徨する。これが迷いというものである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-25 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

「共に学ぶ」と言う事

 生長の家の教えは創始者の谷口雅春先生のお書きになった聖典「生命の実相」40巻を始め、実に様々な著作がある。そもそも生長の家の運動は雅春先生が「生長の家」誌を自費出版された所から出発し、それを読んだ人達から治病などの色々の奇蹟が生じて、「生長の家」誌の購読者が爆発的に増えて行った事から、生長の家の伝道は文書伝道が主体であると言われている。
 実際、宗教の創始者自らその時代の人達に合わせて、最も分かり易い表現で真理が説かれた事は無く、それは現代語の日本語で実に分かり易く書かれているので、それを読んでいさえすれば生長の家の教えが分かるだろうと思いがちである。
 しかし、そこに落とし穴がある。文書伝道は伝道の一つのきっかけ、スタイルであって、文書だけ読んでいれば、生長の家の神髄とか生長の家の今の生きた運動の流れが分かるというものではない。文章は如何に素晴らしい表現をしていようとそれは真理の一つの表現に過ぎない。あまたある文書、例えば、聖典「生命の実相」40巻を通して、繰り返し繰り返し読む中でそこに流れる久遠の生命の触れる人もいるがそうしてもそれに触れ得ない人もいる。真理というのは文章以前のもの、即ち不立文字と呼ばれるものであり、文字であれ、発生音であれ、それが如何に素晴らしい真理を説かれていようが、その不立文字の表現即ち一種の記号に過ぎないのである。
 だから、その文章とかあの時ああ言ったとかこう言ったという事にとわわれるのは駄目なのであって、そういう事にとらわれ、引っ掛かり、雅春先生が以前こう仰ったから現在も断じてこうすべきだなんて言うのは所謂、原理主義なのである。

 話がちょっと横道にそれたが、そういう訳で生長の家も生長の家のしかるべき組織に属さないで勝手に自分だけで本を読んで勝手な解釈をしているだけではおよそ分からないのである。これは実に生長の家だけに限らない。何をやるのでもそうである。特に求道とか探求とかをする場合、「自分だけ」という事だとどうしてもそこに我(が)が出て来て、独りよがりの勝手な解釈に走り、迷いに陥る。

 私はテニスをやっているがこれは実に深いものである。テクニック的にも精神的にもである。先日、引退したプロテニス選手の杉山愛は「テニスとは人生そのものだ」と言ったが正にその通りである。事に悩むのがサービスのテクニックである。そのテクニックを一人でああだこうだと考えていると間違いなく迷いのどつぼにはまる。
 この間の日曜日、夕方からちょっと時間が空いたので近くのテニスクラブに行った。そこでメンバーと試合しようと思ったがあいにく殆どの人がもう帰っており、残っているメンバーはダブルス二組位いたが、それ以外はいなかったので私は空いているコートで一人でもくもくと何十球もサービスの練習をして彼らが試合が終わるのを待っていた。しかし、延々と彼らは試合を続け、やっと終わったと思って、彼らの一人にストロークの練習を誘って見たがもう疲れたという事で断られた。仕方がないから私はその後も一人で日没まで延々とサービス練習をしていたが、その内、迷いが出て来て、打ち方が分からなくなってしまった。それで帰宅しても何か悶々としていて、その夜は寝付きが悪かった。
 要するに私は一人でサービス練習している内にその打ち方に迷ってしまったのである。それで私は迷って勘違いをした打ち方で翌日のテニスを仲間とやったが、勘違いした打ち方であるから、全然良いサービスが打てず、試合結果は散々なものであった。それが朝の事であったが、昨日はその後、何も予定が無かったので、午後から又テニスクラブに行ってプレイしたが、メンバーと試合をしている内に段々と迷いが晴れて、どうしたら良いか内側から分かって来、それで結局、以前より更に新しい発見があり、お陰様で進歩生長する事が出来たと思う。

 要するに一人だけで本当の事を分かろうとしても分からないのであり、仲間との試合とかして、しのぎを削り合い、真剣な生命のやりとりをしている中から自ずと本当の事が分かるのである。キリストは「汝等二人になった時、そこに神がおられるのである」と説かれたが、要するに勝手に一人だけで真理を探究してもそこに神は無いから分からないのである。真理はしかるべき仲間と共に学んで行く中にそこに神が顕れ、内側から分かって行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-24 12:33 | Trackback | Comments(0)

生長の家総裁・副総裁に中心帰一する意味

 私は生長の家の信徒として、痛感するのが生長の家の信徒は生長の家総裁・副総裁に中心帰一するべきだと言う事である。生長の家の信徒の心得が書かれている「菩薩は何を為すべきか」には「生長の家大神―生長の家総裁・副総裁―御教え、これを貫く流れが生長の家の運動の不動の中心であるという事を生長の家の信徒は肝に銘ずべきである」とある。
 
 私は谷口雅春先生が素晴らしくて、その後の清超先生とかは大した事無いと思っていた。私が学生の時に生政連が解散され、その後、雅春先生がお亡くなりになり、清超先生が二代目総裁として雅春先生の後をお継ぎになった後は清超先生に素直に中心帰一する気になれなかった。
 だが、当時、青年会で関東ブロック担当をされていた現青年会長竹村正広先生とか地元の青年会の事務局長さんとかに影響されて、私も総裁・副総裁に中心帰一しようという信仰姿勢が段々と出来てきた。
 そして、その後、「菩薩は何を為すべきか」に「生長の家というのは私(谷口雅春先生)が個人的に思いつきで始めた運動ではなくて、それは宇宙浄化の神である住吉大神が御始めになった運動であって、私はそのラッパとしての役割をしているのに過ぎないのであって、私というラッパが寿命を迎えて、この世を去る時が来ても、次の総裁が又、その新しい時代にふさわしいラッパとして、生長の家の運動を継続する事になるのであるから、信徒の皆さんは私がいなくなったらどうしようなんて心配する必要は無いのである。既に清超先生は私(雅春先生)を凌駕する働きをしているのであります。」と書かれてあるのを読み、私は痛く感動して、「そうだったのか!」とそれをそのまま受け取り、信じた。
 
 そして、その後、私が地元の教区の青年会委員長にさせて頂いた平成4年の講習会の時はその時、副総裁になられたばかりの雅宣先生を仰いで中心帰一しようという気持ちはそれでも実感として余り無かったが、生長の家の運動は「生長の家大神―生長の家総裁・副総裁―御教え」を貫く神意が不動の中心だと自分に言い聞かせ、参加促進なども頑張って、当日は確か前年比30%増し位の成果だったと思う。
 それで講習会後の幹部会で雅宣先生に成果をご報告した際、「生長の家の運動の中心は先生(雅宣先生)を通して展開されると思って、頑張りました」なんて今から思ったら赤面する様な事を先生に面と向かって、申し上げた。そうしたら、先生はその事には何も触れずに電卓片手に「青年会は随分延びましたねー。率で言ったら前年比30%増しですね」などと褒めて下さった。

 私はその後、信仰が行き詰まり、人生に挫折したが、人生を本当に諦めなかったのは清超先生のテープをそれまで繰り返し拝聴していたからである。それには「解決出来ない問題は無い」という教えがあり、私はその一言にすがって、生き抜きそれで後に宇治で榎本先生に救われる事になるのである。

 私は自分の中に神の国を見出し、他の誰の言にも振り回される事は無い。だからと言って、「自分の中に神があるんだ、真理があるんだ。だから、生長の家総裁・副総裁もへったくれもあるか」と言う気持ちにはなれない。むしろ、自分の中に神を認めれば認める程、その投影としての教えの中心者である総裁・副総裁に中心帰一したくなるのである。実際、今の私でも雅宣先生の仰っている事が分からない事もある。私が先生の御言葉で一番分からなかったのはかつての大戦が日本の侵略行為があったというくだりである。しかし、現在、当たり前に考えてみれば、中国大陸において侵略行為があったのは明白であるし、それが大東亜戦争に結びついたのであるし、それの開戦である真珠湾攻撃はやはり侵略行為であるという事も分かった。又、その後の皇位継承の件でも私は民族派の学者や識者が盛んに男系継承を固持すべきであるという論文ばかり読んでいたから私もそれが正しいと思っていたが、雅宣先生は女系容認論を出され、この時も正直頭が混乱したが、その後、歴史学者の所功氏の著書などじっくり読むと女系容認でも万世一系の皇統が損なわれる事は無い事、むしろその道を開いた方がよほどゆったりした継承になる事が分かったし、最近では民主党による政権交替でも雅宣先生はいち早く支持を表明されたが、これも当初は疑問であったが、その後の彼らの政治運営ぶりとか鳩山首相の国連での演説とか聞くにつけ、期待出来る良い政権が誕生したという思いを日々強めている。

 要するに真理と言うのはいくら自分の中にあるからと言って、自分の脳髄や経験だけからのみ出て来るのではなくて、自他一体であるから教えの中心者に中心帰一する所から、自分の中にある真理が教えの中心者を通して自分の眼前に展開されるのである。

堀 浩二 
by koujihori | 2009-11-20 12:27 | Trackback | Comments(9)

人間はそのままで神である。

 生長の家では実相は完全円満だが、現象は違うのでその実相の完全円満さを顕現させる為には心のレンズを真っ直ぐなものにしなけれはならないと教えられる。私はその事を高校生の時に知ったものだから、それからはその心のレンズを真っ直ぐにする事にそれはそれは苦労したものである。「生命の実相」第七巻生活編に「取り越し苦労するなかれ」という章があり、それを実行する事を試みたがどうしても出来なかった。それどころか青年会の仲間に「お前は取越苦労の仕方が異常だ」と言われた事もある。その時の彼の口調はまるで私を罪人扱いと言うか駄目な奴だみたいな口調であった。

 それで私は自分の心がどうしても明るく強くなれずにとうとう精神的につぶれてしまった。その時、私は自分を生長の家の落伍者と思った。生長の家の生き方、心のコントロールが上手く出来る人は生長の家のエリートだろうが私はそれが出来なかったのである。即ち実相は完全円満かも知れないが肝心の心のレンズを真っ直ぐにする事が出来るか出来ないかは個人差があって、私はそれが出来ない駄目な人間であると思った。それで宇治の道場に行き着いた訳である。

 しかし、それが良かった。私はそこで生涯の師であるA先生に巡り会い、今の自分がそのままで完全円満であった事が分かった。即ち、生長の家の実相独在、心もナイ、現象もナイという事がその時、初めて分かったのである。と言う事はそれまでの自分は落伍者でも何でも無く、この本当の自覚を得るための道程に過ぎなかった事が後から考えると分かるのである。

 真理を実行出来る人、心を整えられる人だけが実相顕現出来るのであって、勇気が無くて、真理を実行出来ない人、心を整えられない人は駄目な人であるなんて事はあり得ない。人間は神であるから心の弱い人なんていないのである。もし、心が弱いのであるならば、それは真の強い心が出て来る為の準備段階である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-19 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

そのままでよい(23)

 「そのままでよい」というのが私が私の尊敬するA先生から受けた最大の教えである。それまでの私は「心を清めなくてはいかん」「祈らなくてはならん」「供養しなくてはならん」「感謝しなくてはならん」「救わなくてはならん」「真理を実行しなくてはならん」即ち、ああしなくちゃいかん、こうしなくちゃいかんとぎゅうぎゅうに自分にプレッシャーをかけていた。それで遂に一睡も出来ない程に精神的に追い詰められたのである。それでどうにもならなくなって、宇治の生長の家の道場に救いを求めたと言うか不思議な神の導きで導かれて行き、そこで私の生涯の師であるA先生に巡り会う事が出来、本物の生長の家の神髄を授かる事が出来たのである。

 この事は本当に幸福で筆舌に尽くしがたい最高の宝であった。それでそれまで「ねばならぬ」と言う心で途轍もない程、がんじがらめになっていた心が解放され、「ああ、そのままで良かった」と一気に余計な力が抜けて行き、私の魂の自縄自縛が解かれ、それで私は生命力が復活し、今日に至っているのである。

 それが今から12年前の事であるが宇治から帰ってきた私はそれまでのとらわれなく、正に「そのまま」で生きていて、それで不思議に自ずと神の道にかなう事が多くなった。
 私はそういう訳で無理して、教えを行じようとかしないから、憤慨する事には憤慨するし、批判すべきものには批判する。そうこうする中、私はある件である相手の事をしかるべき所に内部告発した事もある。内情を話せば、内部告発する気は当初は無かったが、話の流れで結果的にそうなってしまった。しかし、私が告発したのは事実である。
 そうしたら、私の名前が告発した相手に分かってしまって、私はそれ以来、三年間も干される事になった。私は自分がした事は内部告発であっても、それは自分の中の神の判断に基づいて行った自信があったから、自分のした事に何ら後悔は無かった。だから、自分がその後に被害を被る事は無いとたかをくくっていた。しかし、そんな事はなくて、やはり、「切る者は切られる」の心の法則が厳然と働いて、私自身が組織から切られる事になったのである。

 しかし、私はそうした中で学び、鍛えられ、段々と他の人の良い所を観て、賛嘆する事の素晴らしさ、尊さが自分の内側から自ずと分かる様になって来たのである。これは無理に他の人の実相を観ようとか絶対に他の人を批判しないとかそうした「ねばならぬ」の信仰でそうなったのではなくて、「そのまま」で居て、自ずと色々な体験を経る内に出来る様になって来たのである。だから、実相が出て来るという事は常に自分の心、行動を「こうでなくてはならぬ」とがんじがらめにする事ではなくて「そのまま」でいて、相手を攻撃したり、批判したりする事が例えあっても、それで観世音菩薩の働きでやはり、自分も攻撃されたり、切られたりする中で自ずと自分自身のそのままで完全円満の実相が自ずとより分かって行き、それと同時に他の人の実相の素晴らしさも徐々に分かって行くと言う形で成就されて行くものである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-18 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

夫婦調和について

 何でもそうだと思うが、現在の自分の人間関係とか境遇が余り良くないのは自分の心が歪んでいるからである。即ち、吾々は完全円満の神の子として、今、ここ完全円満の実相世界にそのままでいて、そこで無限の智恵、愛、生命、供給、悦び、調和を神から幸はへられているのである。「今、このままで」である。 それを自分の認識が歪んでいるとその大調和の世界が感じられない。

 だから、親に感謝せよとか夫婦相和せよとか色々言われるが、自分が今、ここに神の子として神から完全に生かされていると分かれば、その心の現れである、自分の親とか半身がとても素晴らしい有り難いものに感じられるのである。

 今、サッシのテレビコマーシャルで冷え切った夫婦が出て来るのがあるが、夫婦の仲が中々上手く行かず、人生が面白くないものに感じられるのはただ単に自分の観が歪んでいるのである。それで他の相手に気が行ったりして、家庭が破壊されたりする事があるが、それで今までの相手と別れて別の相手と結ばれたとしても自分の観の歪みが取れていなかったら、又、その相手とも上手く行かないのである。

 今、そのままでここが神の国であり、自分の半身は素晴らしい自己の半身であり、見目麗しく、和顔愛語賛嘆に満たされているのである。そして、お互い本当に心が通い合って、愛し合って、一緒にいて楽しいのである。それがそのまま今ここにいる自分の半身である。自己の心が歪みが取れて、そのままの実相世界が観じられる様になると自分の半身はそのままで素晴らしい半身であった事に気がつく。夫婦が上手く行かないのは自分の実相を観ずる心に歪みがあるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-17 12:23 | 家庭生活 | Trackback | Comments(2)

本当の信仰とは

 一口に生長の家の真理と言っても色々ある。実相独在、唯心所現、万教帰一を始め、それはそれは多岐に渡っており、その展開の仕方は無限である。それは時に応じ、処に応じ、人に応じ、変幻自在に出て来る。それでその教え、真理は実に多くの書物があり、又、講習会、講演会や誌友会、見真会、練成会などで生長の家総裁以下様々な先生、講師により、生長の家の真理は説かれる。

 しかし、一番大事な真理はこうした有り難い真理が自分以外の誰かではなくて、自分の中にあるという真理である。
 外からの情報ではなくて、内なる世界に神がある。真理がある。外は一切ナイのである。自分が真理そのもの、神そのものである。外からの情報が如何なる聖者の言であってもそれに振り回される様であってはならぬ。

 キリストは「汝らの内にのみ神の国はあるなり。外にこれを追い求むる者は永遠にこれを得る事あたわず」と仰ったが、生長の家の真理は記憶力が抜群に良くて、谷口雅春先生以下清超先生、雅宣先生のお説きになった事、書かれた事を一言一句全部暗記していればそれで生長の家の真理を分かった、悟ったという事にはならない。それらの諸先生方の尊い教えもそれが自分の外にあるもの、即ち言い換えれば自分と無関係なものとしてとらえれば、それは何の価値も無い。自分の中に神の国を認め、そこにこそ真理があると言う事に目覚めている事が一番大事な事である。その事を悟る事を本当に悟ると言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-16 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)