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そのままでよい(19)

 私が私の尊敬するA先生に薫陶を頂いたのは自分が神であるという自覚である。それまではその事は頭で知識として知っていたに過ぎないが私はその事を実感として、先生に教えて頂いた。それまでは実相は実相として完全円満ではあってもこの現象世界はそれとは別に具体的に存在する世界であると何となく思っていて、その自分に取って実感のあるこの現象世界は自分の念が作る世界であると思っていたので、「私が心を清めるのだ」「私が救うのだ」「私が真理を実行するのだ」という認識でいた。
 しかし、その認識は実相の他にこの現象世界を別に具体的にある世界であると認識しており、その世界の方が自分の住んでいる実感のある本当の世界であるかの様な認識であるから、結局は自分が生きるのに「神に生かされている」という認識ではなくて、「自分が生きている」「自分が相手を救っている」「自分がこの世界を作っている」「自分が生長の家の真理を実行する」という認識になるのである。
 そこに神に生かされている、幸はへられている、導かれているという絶対他力の本当の生長の家の神髄は無く、ただ戦々恐々として、「自分が」「オレが」という事になり、何事にも安心立命が無くなり、ついには脅迫観念で夜も眠れなくなってしまったのである。
 しかし、それが「神に生かされている」という絶対他力、大安心の私の本当の悟り、実相が出て来る準備段階であったのである。私はそうなった事で絶体絶命となり、不思議な神縁で宇治の榎本先生の元に導かれ、そこで「今、そのままで自分が神であること」「全宇宙は初めから救われており、それを拝むのが真の人類光明化運動である」という事を悟る事が出来、それで私は体中から無駄な力が抜け、逆に勇気百倍、元気百倍、力百倍が出て来て、健康を取り戻し、救われる事になるのである。
 その「実相世界というのは今、自分が生きているここであり、現在の自分がそのまま神である」という事を認識したから、その私の自覚に従って、第二創造である私の周囲の現象世界、それは私の肉体であったり、環境であったりが実相そのままの映しとなったのである。要するに現象世界というのが実相世界とは別にあるのではなくて、そんなものは最初からナイのであって、真に実在するものは実相世界のみであり、自分は今、神であり、私の一挙手一投足そのまま神であったと認識したから、現象世界がそのように自分に展開しているのであり、それを生長の家では第二創造の世界と言っているのである。

 私はその事が分かってから、人を救わなくてはいけないとか生長の家を伝えなくてはいけないという考えから完全に解放されたのである。自分が生長の家を伝えようなんてしなくてもそのままで相手は既に神により救われ済みであるのが実相であり、その事は今、そのままの事実であり、何としても自分が伝えようなんて何ら力まなくて良いのである。それが真に相手の神性を拝む事であり、その中から真の相手への愛行が生まれる。その中で神が自分を通して相手に生長の家を伝える事があるかも知れないがないかも知れない。その相手は既に救われ済みであるから自分が何としても相手に生長の家を伝えなくてはならないなんて事は無いのである。
 そして、私は自分がやった事、言った事に関して、一切後悔が無くなった。その時は感情的になって、相手に強い事を言ったとしても、それで後悔する事は一切無い。私は何時だって神であり、私のする事に一切間違いは無いのである。その事が分かれば、「あの時、ああすれば良かった。又はしなければ良かった」などと後で悶々と罪の意識にさいなまれる事は無くなる。ああすれば良かったなんてうじうじ後悔するのは自分を神と認識しておらず、我(が)であると思って、その我(が)が生きていると思うものだから、それは自分が注意して、コントロールしなければ、間違いをするものだという認識でいるから、その歪みの心で自分を見るものだから、その自分の行動が不完全ないびつなものと映るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-31 11:06 | Trackback | Comments(0)

悪人はイナイという事を実感する

 病気の人は大抵はこの世界を冷たい世界、失敗が赦されない世界と見ているのである。そうした冷たい世界観、人間観が病気である。そういう人は対人関係が第一上手く行かない。大抵の病気は誰か人を恨んでいる事に起因するのである。そうした中で対人恐怖なんて事も出て来る。
 即ち、吾等は人間観、世界観が大事であり、その元はこの世界は善い人ばかりで、安心だという人間観になる事が何事にも根本的に大事なその人の成功不成功を分ける元になる。殊に健康面でである。

 生長の家は人間は皆、神の子で善い人ばかりであると言う教えである。しかし、人間が神の子で、悪人はイナイという事は実感しなくてはならないのである。

 人を攻撃したら、自分も攻撃される。だからと言って、相手が明らかに間違った事をしたり、言ったりしているのにそれを見て見ぬふりをして、何も言わないで我慢しているというのは駄目である。間違った事を間違った事であると言い、それを批判する事で自分も批判され、攻撃される中でその間違った事をする相手が実は自分の心の影であり、それは相手が悪いのではなくて、自分の悪い心を実演して見せてくれていたと分かる事でそこで初めて、悪人はイナイと実感出来るのである。そして、真に全ての人が神の子で善い人であったと分かり、その自分の認識の映しとして、善い人ばかりが自分の目の前に展開するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-29 12:21 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)

生長の家の運動について(3)

 サブプライム問題やリーマンショックなどに象徴される今までの市場第一主義、金儲け主義という唯物論が破綻した事により、それではもう人類はやって行けない事が分かり、これからは自他一体の心を持ち、他の人の為、全ての生きとし生けるものの為にアイデアを出し、活動して行く生き方が大事であり、その中にこそ、人類が真に幸福になる道があるのである。
  
 それが今まで、金儲けの為に自然を破壊して来たのを神において、全ての生物と人類が一体であると認識し、全ての生物及び天然資源を大事にし、自然を守るという環境保護運動となるのである。生長の家が提唱しているのは単なる環境保護運動ではなくて、資本主義が破綻した人類が霊的自覚に目覚め、全ての生きとし生けるものが人類と一体である事を自覚し、それを慈しみ、愛を与えて行くという生き方に人類が今こそ、その価値観の大転換をして行くという岐路に立ち、それを力強く進めて行くという流れそのものなのである。それが、この日本という国に発祥した生長の家が中心となって、強力に推し進めて行くという事が非常に意味のある事であり、それは又、この日本国の「世界平和を全世界に持ち来す」という国の持つ使命と合致している。
  
 日本国の使命は自らを空っぽにし、全世界を大和の心で一つにして、全人類が、全宗教が、全ての生きとし生けるものが仲良く、調和して、お互い相足らざるを補い合って、助け合って、それぞれの個性を発揮して、一大世界平和を持ち来たらせる様にするというものである。今こそ、その日本国の使命、生長の家の使命がいよいよ発揮されて行く時である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-28 12:30 | Trackback(1) | Comments(0)

嫉妬について

 私の師のA先生が御著書の中で述べられているが、生長の家の信仰者の間には嫉妬心がある場合があると言うのである。それは例えば、「あの人はあれだけ講習会に人を誘ったが、自分はそうではない。悔しい。」とかそんな事である。要するに生長の家の人は生長の家を知らないで苦しんでいる人がいれば、それを生長の家の真理で救ってやろうと言う同情心を起こす事は容易な事であるが、その人が仮に自分より優れている場合、それを素直に祝福する事は難しいのである。 
 要するに自分が指導して、自分が救ってやろうというのは自分が偉くて相手が真理を知らないで苦しんでいる愚かな憐れむべき存在であると一段見下しているのである。それで一所懸命、そういう憐れな人を救おうとして個人指導したりなんかして、もし、それでその相手が病気が治ったりして救われれば、自分がその相手を救ったのだと内心、得意になるのである。しかし、その相手が既に救われていて素晴らしい無限力を発揮している場合はそれを面白くなく思って、つぶそうとしてくさしたりするのである。そういうのを榎本先生は「相手が救われない事を願う」とまで表現されている。要するに相手を自分が救った場合は嬉しいが、既に相手が救われていて自分より優れている場合、それを素直に悦べないのは裏を返せば、「相手が救われていては困る」という事であり、端的に言えば、相手の不幸を願う心である。人類光明化運動をやっている人がどうしてそうなるかと言えば、その人は真の光明化運動というのを知らないからである。

 要するに人類光明化運動というものを「自分が救ってやるのだ」という感覚でやっている人は「人類が救われる事を願う様で実は救われない事を望んでいる」のである。真の光明化運動というのは宇宙が既に光明で満ちあふれていて、地球上の人類に限らず、全ての全宇宙の生きとし生けるものが既に完全円満であって、救われている事を拝む運動である。それこそが本当の人類光明化運動である。そこに相手が救われる事を真に願う本当の光明化運動が展開するのである。

 人類光明化運動というものをこの世界には救われていない人が大勢いて、それを自分が救ってやるのだと認識している人は即ち、相手が神であるという事を拝んでいない人であり、それはとりもなおさず、自分自身が完全円満の神であるという事を自覚していないのである。
 己を不完全と思って、それを良くしようという心が自分を縛る心であり、それはとりもなおさず、他人が伸びる事に苦痛を感じる心であり、それは他人が伸びるのを足を引っ張ろう、つぶそうという心である。自己をそのままで今、完全円満であると自覚し、己を捨てる心が自己を良くしようとしない心であり、それが自己をつかまない心であり、それが他の人が伸びるのを悦べる心であり、それが愛である。そうなれば、自己の生命の実相の完全円満を自覚した者のみが真に人に愛を与えられるのである。

 即ち、真の人類光明化運動というのは自他共にこれから救う必要のない完全円満の神であると認識し、それをひたすら祝福し、讃嘆する運動に他ならない。そこに真の思いやりのある愛の運動が展開するのである。


堀 浩二
by koujihori | 2009-12-25 12:33 | Trackback(15) | Comments(2)

自分の人生は自分の実相が自分で出て来ている人生である。

 自分の人生は実相が自分で出て来る人生なのである。人生というものはそういうものなのである。それは表面的には色々の艱難辛苦や不都合が出て来るかも知れない。しかし、表面的に如何なる紆余曲折があろうとも、それは只々、吾等の完全円満の生命の実相が自己顕現する為である。

 現象というのはゆらゆらと陽炎の様に良い時もあれば、悪い時もある。そうした時に一喜一憂してはならないのである。生長の家の神示、「無相円相一切相の神示」にも「物の生滅に心を捉えられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったときに信仰を失ひ、身体が健康になったときに神を讃へ、家族の誰かに病気が起こったと云っては信仰を失うが如きは、神を信じてゐるのではなく物を信じてゐるのである。」とある。

 吾等はそういう現象の良し悪しの移り変わりにとらわれていては駄目なのである。現象が如何なる状態であろうとも、それはそのままで内なる実相の完全円満さが自己顕現する過程である。
 そして、それは自分が気を張って、自分の心のレンズを何とかコントロールして、実相顕現させ様とするのではないのである。心のレンズや潜在意識はナイ!と教えられているのである。
 吾等の人生そのまま神の生であり、吾等は表面的に如何なる紆余曲折があろうとも、それはそのままで吾等の中の神が自分で出て来る人生になっているのである。具体的には吾等は迷いの段階にあって、それでその迷いの結果を自分の肉体の状態、その他の現象の状態でそれを刈り取る事により、体験する。その中で吾等の生命が必死に、真剣になる事で、真の生長があり、その中で吾等はその本体が無限の智恵なる神であるから、自ずと自分の迷いに気付き、その事で本当の事が分かり、それが実相顕現になって行くのである。だから、何も恐れる必要は無い。自分の人生はこれでいいのだろうかとか、もっと励まないと駄目なんではないかとか、不安に思う事は無い。この人生そのまま神の生であり、神が御自分で現れる人生である。
 神に全託して良いのである。

 聖経「甘露の法雨」に「全ての存在は神と神よりいでたるものである」とはそういう事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-22 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(9)

実相は自分で出て来る(27)

 私は実相は自分で出て来ると言うことをここで今まで幾たびか書いてきた。ある人が「実相が自分で出て来る」とはどういう事かと尋ねて来た事があるが、それは生長の家の人に取ってはちょっと馴染めない表現だからだと思う。通常は実相顕現する為には一所懸命、聖経を誦げ、神想観をし、愛行に励み、そうやって自分の潜在意識を清めて行って、そうした自分の努力により、ようやく心のレンズの歪みが取れて、その後に初めて、実相顕現されるのであると思っているからそういう風に異質に感じられるのであろう。

 しかし、誰が何と言おうと実相は自分で出て来るのである。それが実相独在という事であり、生長の家の本当の真理である。実相が自分で出て来るというのは自分が生きるのに我(が)が要らないという事なのである。生長の家の招神歌に「吾が業(わざ」は吾が為すにあらず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」とあるが正にその事である。即ち実相独在であって、それは今、ここに吾が内にあるのであって、その実相に今、吾等は生かされ、導かれているという実感が「実相は自分で出て来る」と言う事である。

 その事は生長の家を知らなくても誰でも実は体験している事なのである。私はテニスをやっているが、そのテニスのサービスに関してのおのれの技量の発達の仕方においてそれを実感する。それは試合をしている時に自ずと気付く事が多いのだが、テニスのサービスは一回失敗しても又、二回目が打てる。それで失敗すればダブルフォルトという事で失点するのだが、とにかく一回目のサービスはミスが許されるのである。
 私はダブルフォルトを恐れる余り、一回目のサービスから入れていこうとする傾向があった。そうなると置きに行く様なサービスになり、威力がなくて、相手からリターンで反撃される事が多かった。
 しかし、先日ある事に気がついた。それはサービスでは相手コートのサービスエリア(ネットを超えて、この中に入れば、サービスは良い)をねらうのではなくて、ネットの上のポイントをねらうのである。私はこの事はテニス雑誌で何となく知っていたのだが、この前、その事が本当に有効であると直感した。相手コートのサービスエリア内の自分のねらう一点にサービスを入れるにはその前にボールが通過するネット上のあるポイントを自分で想定して、そこをめがけて打つのである。そうするとボールをトスアップした時にそのポイントに打つにはボールのここの部分にこういう回転を掛けて打てば良いと直感出来るから、その通り打つのである。そうなるとサービスの確率が格段に上がる。そして、自信が出るから以前より遙かに思い切って打てる様になった。

 これ全て、私がテニスにおいて、試行錯誤を重ねて来て、試合中に直感した事であり、私のテニスにおける能力である私の実相が自分で出て来たのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-21 12:31 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

過去も自分の心の影である。

 人には誰でもこれさえなければという過去があるのではないか?それは「あの時、自分がああしていれば」とか「あの時の自分の選択は正しかったのだろうか?」とか言う事である。しかし、過去の自分のやって来た事が気になるのはやはり、悪がアルという迷いにとらわれているからである。

 自分のやって来た事は神のおやりになった事で完全円満である。そう思わない心が自分の過去を悪く見せているのである。
 それを「何を言うのか。私は具体的にこれだけ人を傷付けましたよ。」と言うかもしれない。それで罪滅ぼしをしようとか又「いや、あれは自分が悪いのではない。相手が悪かったのだ」なんてあれこれ考えたり、誤魔化したりするが、それ全て、現象アリ、不完全アリ、悪アリと言う自分の迷いが映っているだけの話である。自分は宇宙の始めから神であり、完全円満であり、間違いとか罪など犯しようがないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-18 12:18 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

どうしたら良いか自ずと分かる。

 谷口雅春先生の講話テープでこんな話が出て来る。それは「ある会社に勤める人が上司からこの件に関するレポートをいついつまでにまとめる様にという指示を受けた。しかし、その人にはその件に関する専門的知識も何も無かったのでどうしたら良いか途方に暮れた。そしてそのいよいよの期限が差し迫って、期限当日の朝になった。その人は内なる神に静かに祈った。そして、完全に神からのレシーバー(受信機)になって、神からの啓示を待ったのである。そうしたら、今まで自分が全然知らなかったその件に関する情報、知識が自分の頭にパッと示されたのである。その人はその示された情報を元に見事にそのレポートを期限までに仕上げる事が出来たのである。こういう様に吾等の中には無限があるんです。」という内容である。

 私は最初にこの講話を拝聴した時は「そんな馬鹿な事があるか、いくら無限力でも勉強しない事は知りようがないじゃないか」と思ったが今ではその話が素直に受け取れるのである。

 吾等の中にはやはり無限があるのである。それはテニスの試合をしていると実感出来る。テニスは結局はセンスの問題であり、どういう風に打つか、どういう戦略で行くかというのは試合をしている中で直感的に感ずる以外ないのである。
 また、私は毎日の仕事でもそれを感じる。以前、評価制度に対応した社員の給与の基準となる給与表を作成しなくてはならなかった時も素人の私にはどうしたら良いか皆目分からなかった。でも、忽然とどうしたら良いかという事が内側から分かったし、先日も経済産業省から社内で使う有機溶剤がどれだけ使われているかという調査が入った時もその種類が余りにも多種多様であったので途方に暮れたが、これも内側からこうしたらよいというアイデアが直感的にひらめいて、作成する事が出来た。

 要するに吾々は内側に無限を有しているのである。それを自覚するものは適宜それを自由に使う事が出来る。この事が分かれば、もう仕事で途方に暮れる事は無くなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-17 12:24 | 潜在能力 | Trackback | Comments(7)

悪はナイ

 私はここ数週間、心中穏やかではなかった。ある複数の匿名の相手と色々やりとりしていたがそのやりとりは平和的なものでなかったので精神的にとても疲れた。
 しかし、その中でふと気がついたのだが、私は今回の事でやはり「悪がアル」と心に握っていたのである。正確に言うと自分の中の悪アリ、悪人アリという黒い迷いの雲が具現化して出て来ただけの事であり、全て、自分の問題だったのである。改めてそれらが全て「ナイ」と気付いた。全ては自分の心の影であり、ナイのである。

 私は今回、色々な相手とやりとりしたお陰で現象はナイという自覚がますます深まった。私は生長の家は感謝の教えだから、無理して「有り難うございます」なんて言う気持ちはさらさら無い。だから、一時的に平和で無くなる事もあるが、そうした中で自ずと悪がナイ、問題がナイという認識がますます深まるのである。それが「実相は自分で出て来る」と言う事である。

堀 浩二

 
by koujihori | 2009-12-16 13:47 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

迷いナシ

 吾々は真理の探究の際、分からなくなる事がある。迷いが生じる事があるのである。それで迷いを解こうと頭で考えたり、又その解答を探ろうと色々調べたり、人に聞いたりする。
 しかし、その様な事をやっても迷いは深まるばかりである。迷いは悟りの基礎工事であるとは「神、真理を告げ給う」にあるが、悟りが内側から動き出したからこそ、その前段階として迷いや苦悩が出て来たのである。迷うのは悟る為である。そして、その迷いはそれの解決策を外に求めると駄目である。吾等は本質が神であるが故に迷いの解決策は吾々の中にあるのである。それは心静かに当たり前の事を当たり前にして行く中で神様が内側から迷いを消して下さる。それが迷いはナイという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-15 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(2)