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本当の智恵は自分の中にある。

 本当の智恵は自分の中にあるのである。吾々は何かのやり方とか知識を考えすぎる事がある。テニスでも判断に迷う事があり、相手のサービスがどこに飛んで来るか考えすぎると分からなくなり、又、漢字なんかでもちょっと迷って頭で考え出すと却って分からなくなる。
 先日も私は相愛会の会議で閉会の祈りをしたのだが、会議の最中、何の気無しに祈りの言葉を頭の中で確認していたら、ちょっとある所に引っ掛かったら、もうど忘れして分からなくなった。何をど忘れしたかと言えば、光明思念の歌(みすまるのうた)である。通常はこれは二回続けて唱えるのだが、改めて頭で考えると一回だったか二回だったか分からなくなった。これは毎日、神想観でやっているのにかかわらずである。

 私は焦った。何度頭の中でシミュレーションしてもすればするほど分からなくなってしまった。それで横にいる対策部長さんに会議中に小声で「光明思念の歌(みすまるのうた)は一回だったでしょうか?それとも二回唱えるのだったのでしょうか?」と質問したい衝動に駆られた。しかし、私はそれを我慢した。
 私は神想観で唱える言葉が分からなくなった場合、無闇にテキストを確認するのではなくて、「神想観は神想観が教えてくれる。他に頼るな」と想っているので、内側から教えてくれるのを待つ。そうすると自ずと分かる事が多いのである。
 そんな訳で私は他の人に光明思念の歌(みすまるのうた)が一回だったか二回だったかを聞く事は真理を自分の外に求める事になると思って、それをせず、会議の最後にいよいよ私が閉会の祈りをする際に「内側から神の導くままにしよう」と覚悟を決めて臨んだ。そうしたら招神歌から始まって、一通り祈りの言葉を終えて、いよいよ最後の光明思念の歌(みすまるのうた)を唱える段になった時、自ずとその場の雰囲気、全ての周りの気から光明思念の歌(みすまるのうた)は二回であると感じ取る事が出来、無事に閉会の祈りをする事が出来た。
 読者の方は何を光明思念の歌(みすまるのうた)位の事でと思われるかも知れないがその時の私に取っては正に自らを賭した命がけの時間であった。

 吾等は智恵は脳髄にあると思うかも知れないが本当の智恵は腹と言うか、吾が内の神の中にあり、それが必要な時に必要なだけ出て来るのである。それをそう思わないで外に頼るから智力が出ないのである。外に頼る事は智力を訓練しない事につながる。そんな事を繰り返していれば、神の智恵のレシーバーである脳髄も鈍いものになってしまうのである。
 全ての知識は自分の中にあると思って、外に頼らない事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-29 12:56 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

そのままでよい(26)

 吾々は結果を求めて、あれこれあくせくする事がある。しかし、それは間違いである。病気を治そう、良い話をしよう、頭を良くしよう、スポーツの試合に勝とう、仕事や試験で良い成績を残そう等々の事が人生にはあるが、それを焦って、良い結果を求めるのは駄目である。それは我(が)である。
 
 そのままでよいのである。結果を求めるな。良くしようとするな。そのままであれ。そのままが神である。そのままではまだ自分としては満足した結果にならないかも知れないが、それで良いのである。結果は神様にお任せするのである。神様は最も良い時期に最も良い形で結果を出して下さるのである。それを待つのである。

 しかし、そのままとは何もしないという事ではない。内側からの自ずと催してくる「汝、これを為せ。こうであれ」という神の言葉そのままと言う事である。それを結果よりプロセスが大事であると言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-28 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(30)

 自分の心のレンズが悟るなんて事は無いのである。ただ、自分が今、神であるという事実があるだけである。自分は神であるから、自分は悪しき事は考えないし、恐怖もしないし、善のみを考えるのである。その自覚が今ここにあるだけである。
 だから、心のレンズを清めるなんて事もナンセンスである。心のレンズなるものは存在しないと教えられているのである。ナイものを清めるなんて事も馬鹿げた事である。実在するのは自己が神であるという事、そしてその実相である自分の神なる生命が自分で出て来るという事しか無いのである。それを取りも直さず生長と言うのである。また、それが顕在化するのを悟ると言うのである。そして、その生長段階の初期の段階を迷いと言うのである。その実相が自分で出て来る過程の中で結果的に心のレンズとか潜在意識が清まるのである。
 
 そして、それが生かされているという事であり、感謝と言う事である。ただただ神に生かされている、それが吾が内なる神が御自分で出て来るという事である。自分が心を清めて、自分が神をひっばりだすのであるという考えでは偉いのは自分であって、神ではないと言う事になる。そこには神に生かされていた、有り難いという感謝の念は無いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-27 12:10 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(29)

 吾々は内なる実相完全円満を現実に現し出すにはその実相完全円満の行動化、即ち真理の行動化が必要であるとされる。従って、人の悪を観ない様にするとか、善行を積み重ねるとか、勇気を出して、全託を実行するとか、取り越し苦労しないとか、究極は親に感謝しなくてはならないとか色々ある。

 しかしながら、その実行が難しいのである。数日前のブログでも引用したが、生長の家のある先生が「心を円満な状態、清めた状態、真っ直ぐな状態にすれば実相顕現するのは分かっているのだが、その心を真っ直ぐな状態にするのが難しい」と仰っていたのと同じである。自分を投げ出して、やるべき事を勇気を出してやるとか決して激高しないで常に穏やかに振る舞うとかと言った生長の家の生き方をすれば実相が顕現するのは分かるのだが、その勇気、根気が出ないのである。

 しかし、生長の家の奥義は「実相は自分で出て来る」と言う事である。実相を行動化するのは誰かという昨日のテーマと同じになるがそれが私というちっぽけな肉体という我(が)であると思うものだから、出来ないのである。実相を実行する、生活化するのは我(が)ではなくて吾が内なる神即ち実相そのものである。それを生長の家では「実相が実相する」「神が神する」と教えている。本当の行はそういうものであるし、実際そうなのである。それであれば吾等は歓喜勇躍して、手の舞い足の踏むところを知らずという事になるのである。実相の行動化が自分がやるのでは出来ないだろうが神が行うのであるから、必ず出来るからである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-26 12:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

信仰があってこその行である。

 現在、脳科学なるものが発達して来て、脳細胞というものは使えば使うほど活発に再生するものであり、何かのきっかけで脳に損傷を負ったとしても、自分の好きな事に熱中するとかして行く内に脳の回路がつながって回復するなんて事例も報告されて来ている。

 しかしながら自分の能力を使うという事は自分にその力があると知らなくてはならない。その力があると分かってこそ初めて使える。だから、ただ使え使えという事だけでは片手落ちである。
 そして、力があるという事は我(が)の力ではなくて、天地一切に満つる神の完全円満さが全ての生命を生かしていて、何も悪い事は無いし、悪い人間はいないという自覚と大安心が必要になって来る。そうでないと恐怖心があったり取り越し苦労があると安心して自分の力とか智恵を使う気になれず、悪い事になるのを恐怖してそれを良くしようとか悪い事態にならない様にしようとかして本来の自己のそのままの完全円満さを縛る事になるのである。

 生長の家の迦葉尊者と言われる吉田國太郎先生は「自分が行ずるにしても何が行ずるのであるかという事が大問題であります。そこに座っている者は何者かであるかという事が大問題であります。そこに座っている者は私という我(が)であり、又、真理を行ずるのは私という我(が)であり、肉体であると思っている人は早晩、生長の家を止める時が必ず来ますよ」と訴えられている。

 要するに本当の信仰も無いのにただ生長の家の生き方を行ずるというのではそれは我(が)の空回りになるのであって、自分が完全円満の神であり、自分の中に神の国があり、自分は神に生かされている完全円満の生命であり、この世界には何一つ悪いモノは存在しないという絶対的な全託の信仰がまずあって、そこから自ずと行動として出て来る行でなくては意味が無いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-25 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

因縁を超越する。

 吾々は因縁と言うものがある。現象生活において、生活して行く上で自分がある行動をして、それが集積して、因となり、そして何らかの縁を得て、結果としての果を生じる。これを因縁果と言うが、吾々はそうした法則の下に生活しているのである。しかし、何時までもそれに縛られていては駄目なのである。
 「やられたらやり返す」とか「目には目を」「歯には歯を」などと言う連鎖があるが、この連鎖の中から抜け出されなければ人との争い、部族間の争い、人種間の争い、宗教間の争いなどは永遠に果てしが無いのである。「あいつは自分の家族を殺したから報復してあいつの家族を殺してやるんだ」と言う考え方である。又、自分は過去に子供をこれだけ堕ろしたから、自分もその回数だけ殺されなくてはいけないなんて言う考え方もある。それは自分が現世において犯した罪であるから、憶えているが、吾々は生き通しの生命であるから、前世もその又前世もまたまたその前世の前世もいくらでも人生を生きてきているのであり、その中でどれだけの罪とか間違いを犯しているか分からない。それを全部、清める為に自分はどれだけの同じ目に遭わなくてはならないなんて事になったら、果てしが無いのである。

 要するに悪いものをアリと認めて、それを一つ一つ償う事により、消して行くのであればどうにもならないのである。吾々はいつかはそうした因縁を超克しなくてはならないのである。その超克する道が生長の家の教えにはある。それは「現象はナイ」「肉体はナイ」の教えである。吾等はこれらがナイと一喝する事により、今、そのままであらゆる因縁を超越する事が出来るのである。要するに因縁を繰り返して少しずつ良くなっていく肉体はナイ!と一刀両断にするのである。そうした因縁を繰り返しながら自分を良くして行こう、償って行こう、清めて行こうなんて世界などは本来ナイのであって、今ここに始めから完全円満なる自己の生命を感得する所に因縁を超越する道がある。
 即ち因縁の繰り返しによって生きているこの現象の肉体をナイと一刀両断にして、今そのままで始めから完全円満であった自己の生命の実相に飛び込めば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-21 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

人生は全ての経験が最高である。

 たまに「人生をやり直したい」なんて言う人がいる。自分の半生を顧みるに失敗ばかりであり、又、後悔する事、今から考えると顔から火が出るほど恥ずかしいなんて思い出もあり、「あの時、ああ判断し行動したのはまずかったのではないか」とか「あの時、ああすれば良かった」とか何とか思い煩って、煩悶する人もいる。
 そういう人は又、自分の将来とかそうでなくても近い未来、例えば今日はあの人とあの件で面談するがどう言おうかとかどのように切り抜けようかとか色々取り越し苦労して心配する人もいる。

 これらは全て自分の人生は自分という我(が)が生きていると思うから、色々後悔するし、迷うのである。しかし、人間は神の子完全円満であり、人間は神の子完全円満であると言う事は今の事であり、それは裏を返せば何時如何なる時も吾等は神の子完全円満であるという事になる。そうなると自分の人生は自分で歩んできたもの、もしくは自分が歩んで行くものではなくて、神が歩んできた事、又は歩んで行くものであり、だから人生は人生ではなくて、神生なのである。
 それを悟る事を実相を悟るというのであり、それを悟らないで自分は自分で生きているのであると思っている人は人生が頼りなく不完全な間違いだらけのものに感じられる。そして、自分の結婚相手は果たして本当の魂の半身だったのだろうか、あの時勢いで何となく決めてしまった様なとか又は自分にはもっと別のふさわしい相手がいたのではないかなんて考え出すのである。

 しかし、それは全て迷いである。それを心のレンズの歪みと言うのである。吾等は表面上は色々紆余曲折はあっても、今、このままで神に生かされ、導かれ、百点満点の人生を歩んでいるのである。
 私は14年前に自律神経が具合が悪くなった事により、野球とかソフトボールでボールがまっすぐ投げられなくなった。それでその後、宇治の生長の家の道場で救われる事になり、大方は精神的にも肉体的にも回復したが、このボールがまっすぐ投げられない状態は中々改善しなかった。そして、地元の子供の学校の父兄のソフトボール大会とか野球大会に行きがかり上、どうしても出なくてはならず、でもボールがまっすぐ投げられないからキャッチボールがまともに出来ないのでそれはそれは肩身の狭い思いをしたものである。
 しかし、それが良かった。その事が真理というものを行ずる上で一番大事な事、即ち捨身、全託という事を私に教えてくれた。裏を返せばそれまでの私はそれが出来ていなかったから自律神経も具合悪くなったのである。
 具体的に言うとその事で自分が身体、事に上半身や右腕に余計な力が入っていた事が分かり、それが更に自覚が進んで自分が本当に捨身の心を行じていなかった事、即ち今、そのままで自分が完全円満、無限力を行じておらず、良くしよう良くしようという心が自分にあった事が心底分かったのである。
 その自覚をその後、日常生活のあらゆる場面で「今、完全円満」「それ故の全託、捨身」を行じて行った事により、私の身体から大部、余計な力が抜け、臍下丹田に重心を落とした姿勢、状態で生活する様になり、その事がより私の精神を柔軟に強くし、肉体の状態も改善して、今ではあらゆる事で力を発揮出来る様になるきっかけになったのである。
 誠にもあの人前で恥をかいたキャッチボールがまともに出来ないという経験があったればこそである。私はそれで決して後ろ向きに成らず、その事で学んだ事を日常生活で必死に行じて行ったからこそ、今の私があるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-20 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(28)

 確か十年位前の事と記憶しているがある生長の家の先生が講話でこんな事を仰っていた。それは「吾々は実相は完全円満、無限力、無限健康です。そして、この現象世界は吾々の心の影であり、具体的な存在ではないのですから、吾々が自己の実相の完全円満さを自覚しさえすれば、必ずどんな病気も不幸も消滅し、健康に幸せになります。でも、その自分の心を変えるのが究極の問題なんですよ。」という事であった。

 要するに吾々は心さえ良いものにして自己の実相の完全円満さを自覚する事さえ出来たら、いくらでも力は出るし、幸福にもなるがその心のコントロールがままならないのですよと言う事を強調されていたと記憶している。私もその事では随分悩んだ。それは初めて生長の家の練成会を受けた高校一年の頃からである。
 しかし、聖典「生命の実相20巻・自伝編」では谷口雅春先生もこの心のコントロールの問題では相当悩まれ、そして遂に「現象はナイ、心もナイ、実相のみがある」とお悟りになられて、「その時、初めて自分はどうにもならない悍馬である心から実相の大地に降り立ったのだった。」とお書きになっている。

 要するに生長の家の人は雅春先生同様に自分の心のコントロールに苦しむのである。しかし、それは間違った考え方である。自分の心をコントロールする事により、実相を自分で出すと言う考えが間違っているのである。それは実相の他に自分の心もそして、その心が作り出す現象もアリと認めている迷妄である。生長の家の神髄は実相独在であって、その実相は今ここにそして自分の中にある。それを悟る事が大事であり、その悟りのある所、心のコントロールなんて次元は突き抜けて、吾が内の実相の躍動のみを実感する事が出来る様になる。それは自分の人生が現象的には紆余曲折があったかの様に見えるがその実相はただ実相が自分で出て来ている過程、道程であったと言う事が実感で分かるのである。即ち、それが「生かされている」と言う実感であり、実相は実相自ら自分で出て来るという実感である。自分の心もナイ、現象は無論ナイ、ただ自己の内在の実相が自分で出て来る事によってのみ実相顕現も生長もあるのであって、我(が)が色々励んで心を清めて実相を引き出すなんて事ではないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-19 12:33 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

そのままでよい(24)

 「そのままでよい」とはここで何回も取り上げさせてもらった。この事は私が信仰が行き詰まり、どうにもならなくなった時、宇治で私の尊敬するA先生に教えて頂いた事である。私はそれまで「祈らなくちゃならん」「心を清めなくちゃならん」「供養しなくちゃならん」「救わなくちゃならん」という事で心がガチガチに縛られていた。しかし、榎本先生に「そのままでよい。好きなテニスも思う存分やったら良い」と言われ、心が完全に解放され、救われたのである。

 私はそういう訳でいつも「そのまま」であるから、怒りたい時は割合、怒る。でも、そういう中から自ずと人の実相が観れる様になって来たし、また、私はたまに女性とお酒を呑む事があるが、過ちを犯した事は一回も無い。
 それは「そのまま」が神であるからであり、それをそう思わないで「良くしよう」と言うのが迷いだからである。良くしよう、良くしようとしていると却って駄目になるのである。
 私はテニスを始めてから30年位になるが、技術的に不安があるのがサービスであった。それで他のショットは割合自信があったから、「サービスさえ良くなれば」という思いが常にあった。それで良くしよう良くしようと思って、考えたりとかしていたが30年やって、分かった事は「サービスを良くしよう」と考えるから良くならないという事である。 悪い所を心で握り、良くしよう、良くしようとしても却って駄目になるのである。そうではなくて、「今出来る」「打ち方は今分かる」と思って、思い切ってどんどん試合でサービスを打って行くとどの様に打ったら良いかというのは試合中自ずと分かる。内側から神様が教えてくれるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-18 12:33 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

まだまだ、これから

 人間は年取ってくると色々な能力が衰えてくるとされている。体力、気力、記憶力等の脳の力である。年取ってぼけて来るとその家族は大変である。介護疲れなんて事も出て来て、それでそうした老人を施設に預けるとかする人も沢山いる。

 ところでバイリンガルという言葉があるが、それは「二カ国語の」とか「二カ国語を話す」とかいう意味であるが、ある統計によるとこのバイリンガルの人はアルツハイマーになる確率が非常に低いのだそうである。私は英会話を週二回習っているが、英会話をした後はとても頭の体操になると実感する。また、単語なんかも毎日暗記しているがそういうのも頭を使う事になるのだと思う。

 以前、確か日産自動車だったと記憶しているが定年の年齢が50歳だった事があり、そうした人は50歳になり、定年を迎えるとその後、数年で亡くなる人が多かったそうである。また、私の父は今年93歳になるが毎日会社に出勤して、自分の好きな機械開発設計にいそしんでいて、お陰様で母ともども(母は今年85歳)、年齢の割に元気に毎日過ごしていて、息子である私も有り難いと思っている。
 父がこの年齢に拘わらず、毎日かくしゃくとしてそれほど頭脳に衰えが無いのも毎日、自分の興味のある事に頭脳を使っているからである。昨日、アンビリバボーでやっていたが人間の脳というのは自分の好きな興味のある事に関して使っていけば、例え何かの病気で脳に障害が残ってもその回復ぶりはめざましいそうである。
 という訳で自分の好きな興味ある事に悦んで能力を使っていけば人間は年齢に関係なくいつまでもその能力を保つ事が出来るのであり、そうであれば本人も悦ばしいし、家族も助かるのである。

 要するに人間は年齢に関係なく 今、出来ると信じて、その力を使って行けば、何時までも力は衰えないのである。しかし、もう駄目だと思って、使わなければ力は衰える。人間は何歳になったから自分もそろそろ潮時だとかもう先は見えてるなんて思って、前途に希望を持たないで適当に余生を過ごそうなんて考えたら急に老け込み、その能力も著しく減退する。
 その反対に肉体を超えた所の自分の内在の無限力を認め、その無限力で持って、内なる神の理想を生きて行けばどこまで行ってもますます能力は出て来る。私は人生において、様々な理想と夢と目標がある。その為に自己の内在の無限力を認め、それを使い、日々生長の毎日を送らせて頂いている。誠に有り難い事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-15 12:30 | 社会生活 | Trackback | Comments(5)