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今、そのままで完全円満であると悟る事が完全円満が出て来るということ(3)

 今、このままでここがこのまま実相世界であり、神の国であり、完全円満の世界であり、全ての人は無限健康で愛深く思いやりのある人ばかりが大調和して生活しているのである。その実相世界は未来でもなく、遠くでもなく、正に今、ここに展開しているのであり、吾々は完全円満の神の子として、その実相世界に今、住んでいるのである。
 それがそう感じられないのはひとえに自分の心のレンズが歪んでいるからである。レンズが歪んでいれば、大調和の世界も争いや病気等に歪んだ世界に感じられる。それは具体的にそうした争いとか病気が存在するのではなくて、単に自分の観の歪みである。心のレンズが歪んでいるだけで争いとか病苦が自分又は自分の周りにあると思われる様な時でも厳然として、今、吾等は完全円満の大調和の世界に神の子として神から無限の生かす供給を受けているのである。

 だから、吾等は自分の念が真っ直ぐになれば良いのである。世界とか相手を治そうとか良くしようとかして奔走する必要は一切無い。相手を救おうとしてあくせくする必要は一切無いのである。ただ自分一人の心が救われれば良いのである。そうしたら世界が今、そのままで完全円満であったと分かるのである。現象はナイ、一切はナイ。それらをアルと思って、心でつかんで良くしようとするな。神が既に良くして下さっている。全ての人を救ってかつ癒して下さっている。それを観ずる事が実相を観ずると言う事である。人を救う必要は無い。自己の心の歪みさえ取れば良い。その事が分かった時、既に自己の心の歪みも取れているはずである。そして、その平和な実相直視の心から真の思いやりと愛行と人類光明化運動が生き生きと発進する。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-26 12:22 | 信仰 | Trackback | Comments(8)

オリンピック女子フィギュア

 昨日、バンクーバーオリンピックで大会一番の華である女子フィギュアのショートプログラムが行われた。
 一位が韓国のキム・ヨナ選手、二位に日本の浅田真央選手、三位はカナダのジョアニー・ロシェット選手であった。浅田選手はノーミスの素晴らしい演技で今季自己最高の73・78点をマークした。しかし、キム選手がそれを上回る世界歴代最高の78・50点をマークした。その差は4・72点差である。

 日本人はもちろん、浅田選手にキム選手を抑えて、金メダルを取って欲しいと願っていると思う。4年前のトリノオリンピックではフリーで荒川静香選手が見事な演技をして見事金メダルに輝いたが、彼女の演技の後にライバルのロシアのスルツカヤ選手が演技している時、日本人のある不心得者が「転べ!」と叫んだとか叫ばなかったとか。

 この間も書かせて頂いたが、何でもそうだと思うが「人と比べてどうこうという事よりも自己のベストが出せ、かつ昨日の自分より今日の自分が生長した事こそ悦ぶ」のが本当だと思う。オリンピックで金メダルを取る事は確かに素晴らしいが、それは実力も無いのに何が何でも取る事が良いという事ではない。
 私の大好きな映画に「クールランニング」と言う映画がある。これは確かディズニー映画で題材は1988年にカナダのカルガリーで行われた冬季オリンピックにジャマイカの選手達がボブスレーで初めて出場した実話を元にした映画だったが、私はこれに痛く感動した。映画ではジャマイカチームの監督にかつて、オリンピックで金メダルを取った事のある元選手が就任していたが、この監督はオリンピックで自分が金メダルを取った際にある不正行為をして、その事が後でばれて彼はこの競技界から追放された人物であり、その監督が選手達にしみじみと「自分は金メダルを取るという事が最高に価値ある事だと思っていた。しかし、それは間違いだった。」と吐露するシーンがある。
 そして、ジャマイカチームは本番の大会では素晴らしい快進撃をするが決勝のゴールの直前で後一歩と言う所でボブスレーのソリの大事なボルトが外れて、ソリが大破してしまう。しかし、4人の選手達はゴールを諦めず、全員で壊れたソリを担いで歩いてゴールするのである。

 私は今回の女子フィギュアのショートプログラムを観た限りではもちろん浅田選手も素晴らしいが、キム選手のそれは本当に群を抜いていると思う。私は素人で詳しい事は分からないが、私が今まで見たフィギュアの選手で最高の選手ではないかと思う。はっきり言って浅田選手よりキム選手の方が実力は頭一つ抜けていると思う。
 これでもし浅田選手がキム選手に勝って金メダルを取ると言う事になるにはキム選手の転倒以外考えられない。私はこういう結果は望まない。それぞれの両選手が自己の最高の演技をしてもらいたいと思う。それで結果は神様にお任せすれば良いと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-25 12:31 | スポーツ | Trackback | Comments(4)

神様が全て解決して下さる。

 吾々は何か大変な問題が起こって来ると「大変だ!何とかしなければ!」と思いがちである。しかし、そう思う事がその問題を自分の心がつかむ事になり、そこに心の法則が働いて、その問題が中々消えないのである。

 神様が全ての問題を解決して下さる。全ての病を癒して下さる。全ての人類を救って下さる。一見、問題みたいな事が出て来て良いのである。それは過去の迷いの具象化したものが今頃になって出て来たものに過ぎないのである。そして、それは同時に実相顕現の為の練習台であり、又、実相が自分で出て来る過程である。だから「そのまま」でよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-24 12:01 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

業の流転はナイ

 悪業は流転すると言われる。悪業とは罪の別名であるが、それは放っておけば、子々孫々伝わるとされる。簡単に言えば、一度ついた悪癖はこれは修正する事は中々難しいと言う事である。例えば、今、話題のゴルフのタイガー・ウッズが派手な不倫関係が騒がれているがこの様な女癖の悪い人は自分の女癖を無くそうと思っても、自力では中々治す事は出来ない。罪が罪を生み、どうにもならないのである。又、自分は恐怖する習慣があるから、恐怖しない様にしよう、なんて思っても、恐怖する事が又、恐怖を生み、どうにもならない。   
 この様な業(ごう)の流転というものは繰り返すのである。これを我(が)の力、人間の力で消す事は出来ない。しかし、それを消す道がここに存在する。それが生長の家の実相独在の信仰である。それは存在するものは神のみであり、存在する力は神の力のみであるという真理である。恐怖とか悪とか罪とかをアルと思って、それを自分の努力で消そうとして、それをつかむから駄目なのである。
 神の力こそが悪業を消す事が出来る。神の力のみが真に実在する力であり、その他の力はある様に見えて実はナイと悟らなくてはならない。
 神が神する事によりのみ神が御自分で出て来る事によりのみ神が出て来るのであり、それが悪業を断ちきる。実相独在と言う事はそういう事である。その事を悟る事を「悟る」と言うのである。全ては神であり、神の力のみであり、それはそのままであれば、自ずと全ての業や悪や罪や悩みを消して下さると知れ。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-23 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

機会を逃してはならない。

 私は昨日、テニスのシングルスの草テニス大会に出た。私はテニスに関してはダブルスよりシングルスの方が性に合っている。と言うのは私のグラウンドストロークはトップスピン系であり、これはダブルスよりシングルス向きであるし、又、ダブルスだと負けたりすると思わず、パートナーのせいにしたくなったりするからである。
 その点、シングルスは全部自分の責任であるから、そういう所は私の性分にあっているのである。又、公式の大会に出たりする場合は私は自分の行動をテニスを第一にするのではなくて、生長の家の行事を第一にしているので、それによって大会に出れたり出れなかったりするのでそうした時も身一つであるシングルスの方が都合が良いのである。

 さて、私は去年は二つのシングルスの公式大会に出た。二大会とも、初めて出場した。テニスの公式の大会は年齢別に別れており、私は45歳以上の部にエントリーした。二大会とも、レベルの高い大会であったので初めて出る私としてはダンゴ(1ゲームも取れないで負ける事)も覚悟の上だった。しかし、二大会とも、勝利する事は出来なかったが、競った試合(試合のスコア、7月の試合5-7、2-6と12月の試合5-8)ともなり、自分なりに手応えをつかんだ。これなら、来年はもっと上位に行けるだろうという自信も持つ事が出来た。それで私は今年も7月と12月にある各大会に向けて、出来るだけ毎月、テニススクール等で主催されている草テニス大会に練習の為に出ようと思った。それで昨日は今年初めての草テニス大会に出場した。そこで私は都合4試合したが、情けない事に全敗であった。スコアも悪く、ダンゴでは負けなかったが、1-6,2-6、2-6、1-6という事で一試合、せいぜい2ゲームしか取れなかった。と言うのはこの大会に出て来る人達はテニススクールのコーチとか将来プロを目指しているジュニアの選手とかが出て来るので、非常にレベルが高く、私の様な50歳のウィークエンドプレーヤーが勝つのはとても困難なのである。
 でも、私の中では昨日はとても収穫が多い練習試合であった。テニスクラブで練習したりして分かったサービスの打ち方がより分かり、磨きをかける事も出来たし、グラウンドストロークでミスが出るのは足を効果的に使っていなかった事が原因だった事も分かった。
 ところで昨日は日曜日であり、しかも試合は夜に行われたので最初の二試合が終わった時は翌日仕事でもあり、又、何となく朝から体調が優れなかったので後の二試合は棄権して帰ろうかと思った。でも、3試合目を待っている内に段々、疲れが取れて来たので、これなら3試合目も出来る気がして、それで試合に臨んだ。その試合で私はグラウンドストロークで足をこまめに使って早めに良い位置へ行って、早めに構えて打てばミスが減る事が分かった。それで4試合目はさすがに棄権しようと思ったが、内側から「試合に出ろ」という声なき声がして、私は最後の試合に出た。その相手は中学二年生だったが、将来プロになる為に毎日、4時間位練習している子である。私はその時、サービスを悉く強く打ち返され、ポイントを失った。所謂リターンエースというものだが、こんな経験をしたのは初めてだった。私はサービスが早くないのでサービスで相手を圧倒する事が出来ない。しかし、それでもファースサービスをリターンエースされる事はさすがに無かった。私はショックを受けた。サービスはある程度良くなった積もりだったからである。4試合目はやはり、疲れが出ていたのと試合まで寒い中、30分近く待っていたので身体が冷え切っていたという事もあったと思うが、ともかく途中までバンバン、リターンエースを決められたのである。
 私は「何くそ」と思い、でも頭は冷静にゆっくりと確認する様に正しい動作でしかも思い切りサービスを打って行った。これが私のサービスの技術を向上するのにとても良い勉強と練習になった。段々、相手の子が私のサービスのリターンをミスする様になり、それでかろうじて1ゲーム取れた。でも試合は結局1-6で負けたが、私はそういう訳で昨日は大いに収穫があった。

 元巨人の桑田が相手と自分を比較するのではなくて、昨日の自分と比較して今日の自分が上達した事を悦びなさいと子供達に指導していたが、私は昨日は試合成績は良くなかったが自分の中では大いに進歩があったと思って悦んでいる。それと私は出来れば4試合目はやりたくないと思った。それは表面的には「明日、仕事だから」なんて自分には言い聞かせていたが、最後の試合でもし負けて、全敗になるのを実は恐れていたからである。私はそういう恐怖心に打ち勝って、積極的に内部の声に従って、試合に出たからこそ、掛け替えのない教訓と生長を得る事が出来たと思う。
 吾等は自分に巡ってくる事は全て、今の自分の生長に取って、最も良い練習台になるのである。だから、決して、消極的になって機会を見逃してはならないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-22 13:12 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

問題は神が消して下さる(8)

 私が私の尊敬するA先生に教わった事はそれまで私がこれが生長の家だと思って来た事とは革命的に違っていた。その中にこういうものがある。それは「問題は神が解決して下さる。悩みは神が消して下さる。」と言うものである。それまでは私は実相は完全円満であるがそれをこの世界に投影させ、現実化するには「私」が、「自分」が、「オレ」がきちんと心を整えなくてはならないと思って来た。その為に常に聖典を読み、心を清め、毎日、神想観を実行し、「生命の実相」第7巻生活編に書かれている事を「私」がやらなくてはならないと思って来た。
 即ち実相の完全円満さを肉体及び現象に実現させる為にこれだけあなたが励みなさい、やりなさい、心を整えなさいという話である。私は私なりに一所懸命やって行ったつもりである。しかし、その事に遂に疲れてしまったのである。
 何故か?それは常に自己の心と行動を自分が支えなくてはならない、良いものにしなくてはならないという風に思うから、そこに神に生かされているという全託の信仰が無くなってしまったからである。それで何か問題とか悩みが生じるとその問題とか悩みを心につかみ、「私」が、「自分」がこれを是非解決しなくてはならないと思った。それが故にその問題とか悩みを自分がつかむ事により、ここに心の法則が働いてますます悩みや問題がどうにもならないのである。しかし、それは何かのきっかけで別の問題とか悩みが出て来る。そうするともうその別の悩みが出て来るからそちらに自分の心の引っ掛かり、つかみが移行するから又その事で悩み続ける。そうなると今まで悩んでいた事はもう悩みとか問題ではなくなり、次の問題が悩みになる。即ち悩みの対象が変わっただけで悩み続けるのであるが、ここから具体的悩みとか問題なんて存在せず、悩みの正体とは「自分」がこれが悩みだと思ってそれを「自分」がどうにかしようという心のつかみ、引っ掛かりに過ぎないという事が分かるのである。
 ここに自分が生きよう、自分が自分の心とか行動を良くしよう、心のレンズを自分が行する事により、真っ直ぐなものにしようと思う信仰の段階が本当の奥義のものではないと言う事が分かるのである。それは神を信仰している様で我(が)の行いになっているのである。生長の家の信仰に入った後の初期段階ではこういう信仰の仕方でも良いが、これはあくまで生長の家の信仰の初期段階であり、もっと奥殿の本物の信仰は全ては神に生かされ、支えられるという全託の信仰にならなくてはならない。それが現象はナイ、心はナイの信仰であって、実相独在の信仰である。それが神に生かされているという事であり、実相は自分で出て来るという事である。

 従って、何か問題とか悩みが出て来たとしてもそれを「私」が何とかしようとするのではなくて、神が消して下さるのである。実際そうである。それが実相独在の信仰であり、神に生かされているという事である。
 私は如何なる複雑な深い問題が出て来たとしてもその事を知っているからどうと言う事はない。実際に如何なる迷いや悩みが出て来ても、その内に神が解決して下さるとして、「そのまま」にしておくと、自ずと解決する。
 それが「問題はナイ」「迷いはナイ」と言う事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-19 12:26 | Trackback | Comments(2)

あきらめるな

 先日は「神は決して解決出来ない問題は与え給わない」という事を書いたが、本当にそうである。
 詳細は忘れてしまったが、ある人が確か、何かの試験か何かを受けて、それがとてもその人に取って重要なものであったのだが、その事で良い結果が得られなかったと絶望して、服毒自殺を試みたが、実はその自分が目指していた事がパスしたという知らせが何かの都合で遅れて、その吉報が届いたのは既にその人が絶望して服毒自殺を遂げてしまった後であったと言うのである。要するにその人はもう少し、辛抱していれば自殺しないで吉報にまみえる事が出来たのをそれを出来ずに自ら生命を絶ってしまったのである。これと似た話は他にもあり、コロンブスがアメリカ大陸を発見したのも船員達が前途に希望が持てず、コロンブスを殺して、船を引き返そうとしたその矢先であったと言う。要するに「丑三つ時は一番暗い」と言われている様に物事が成就する直前はもっとも絶望的になる時であり、そこを希望を持ち続けてしのげるか否かが成功不成功の鍵という事になるのである。

 実相は自分で出て来るのであり、それは表面的には絶望的に思える時であってもその水面下では着々と出て来つつある。だから、良くない時でも決して諦めないで己の内側からの導きに従い、努力を継続するのが良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-18 12:27 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

自分が神である。(3)

 私は幼い頃から母親の影響で生長の家には触れていた。しかし、本格的な学びが始まったのは高校一年の夏休みに母親から半ば強制的に行かされた生長の家夏季高校生練成会に参加してからである。
 その時は確か4泊5日位で生長の家富士河口湖道場でみっちり練成を受けた。練成会は最初はいやいや参加したが、最後の頃にはすっかり感動して、練成を受ける前とは一転して良い子になっていた。それから、数週間は心が綺麗なままで品行方正の高校生になっていた。
 それから同じ高校に生長の家高校生連盟の友人がいたので彼から誘われて、その年の冬の練成を今度は東京の飛田給道場で受けた。それで又、受けた直後数週間は練成の感動のままに心を入れ替えて、良い高校生になった。それから神奈川の生長の家高校生連盟の仲間から再三、生長の家高校生連盟の活動に誘われたが、私は「生長の家は良いのだけれどもあの笑いの練習が嫌だ。」などという奇妙な理由でその誘いに応じず、しかし、生長の家の真理は痛く感動して、これこそが真理だと思っていたので、一人で家にこもって、生長の家の本ばかり読む様になった。でも、生長の家は一人で本を読んで分かろうとしても分からないものである。私はそれから程なくして、ちょっとノイローゼ気味になった。それは「思ったら思った通りになる。」と練成会で講師の先生から習った事が頭から離れず、段々その事が悩みとか恐怖になって来たのである。

 要するに「思ったら思った通りになる」のであればお金が欲しいと思ったら「お金、お金」と思っていたら、お金が出て来るし、可愛い彼女が欲しいと思ったら「可愛い彼女、可愛い彼女」と念じていれば可愛い彼女が出来ると言う事になるが、私はそうしたら悪い事も思ったら悪い事が出て来るから悪い事を思わない様にしようとしたが、これが面白い事に悪い事を思うまいと思えば思うほど逆に思ってしまうのである。私はこの事で悩んで殆ど勉強が手につかなくなった。そして学校の成績もどんどん下がり、担任の先生に心配して頂いたが、どうにもならなかった。それでもその後、何とか大学に入り、生長の家は一人でやっていても駄目だと思って、自分から生長の家青年会に入って、仲間と共に学び、活動した。それで自分の悩みは活動にかまけている内に消えたかに見えた。しかし、それは根本的には解決はしていなかったのである。

 そして、信仰に行き詰まり、遂にどうにもならなくなったが、神のお導きにより、何度も御紹介する様に宇治の生長の家の道場のA先生に巡り会い、その薫陶を受ける事が出来、それで生長の家の奥殿である「実相独在」の信仰を吾がものとする事が出来た。先日ある人が、このブログにコメントして来て、生長の家の教えに段階があるのかと言って来たが、前述の私の信仰遍歴を読んで、それがどういうものであるかを察して頂きたい。
 私はそれまで自分の心のコントロールという事で苦しんで来たが、自分というものが心ではなくて、神であったと分かった事でその苦しみから脱却する事が出来たのである。

 吾々は神である。これを自覚しないで自分を我(が)とか肉体であると思い、その我(が)のコントロールによって、神が出て来る出て来ないと考える所に迷いがあるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-17 12:12 | 信仰 | Trackback | Comments(7)

今、自分に与えられた事は解決可能な事だけである。

 生長の家の教えのとても有り難い教えに「今、自分に与えられた事は解決可能な事だけである。」というものがある。それは特に谷口清超先生が良くお説きになっておられた。先生は「もう駄目って事は無いんです。」とも仰っていた。これが分かれば吾々は人生を生きていく上で心配する事は何も無くなる。

 私は以前はちょっと大変な時期があり、心に平安が無くなり、一年近く夜まともに眠れなかった。それは「神に生かされている。何も心配は要らない」という事が分からない為に取り越し苦労ばかりして、良くしよう、良くしようと自分が問題とかを心でつかんでいた為である。要するに神に生かされている事を忘れ、私が、オレがという我(が)の塊であったものだから、常に不安があり、良くしよう、自分が生きようという心で「そのままで完全円満であり、無限の善なる神に完全に生かされている自分の生命」をがんじがらめに縛り上げていたものだから、本来の生命力が出なかったのである。
 そういう場合は前途に何の希望も持てないから「もう駄目だ」と何回も思ったものである。しかし、それを救って下さったのがそれまで何千回も繰り返し拝聴していた谷口清超先生のテープの中に出て来る前述の「解決出来ない問題は決して与えられない」「もう駄目って事は無いんです」の教えであった。私はこの教えにしがみつき、それで決して生長の家を辞めずに精一杯頑張ったお陰で宇治の道場のA先生により、「今、そのままで救われている自分及び全人類」「生きるのではない。生かされている。」という自覚、悟りを先生に授けて頂いた。それでそれまでがんじがらめになっていた私の魂は解きほぐされ完全に救われたのである。
 別の言い方をすればその自覚が得られるまでの私は表面的には絶望的状態であったのであるが、実相から見れば、正に「完全円満なる神に今、生かされていた。」という悟りが出て来る為の基礎工事期間であったのである。

 その後のこの13年は正にその自覚の実生活におけるトレーニングの連続である。その課題は次から次へと自分に与えられるが、その練習台を通して、ますます「生かされている」「全託」という悟りを実行に移すトレーニングをやり込んで行き、ますます潜在意識にその悟りが浸透し、肉体も更に改善され、より健康になっている。
 
 吾々は実相は完全円満だが、それを実行するのは自分の責任であると思いがちである。そうなると生かされているという自覚がいつの間にか抜け、「自分が」と思う事がある。しかし、そうなると神と自分が分離する事になる。そうではなくて、表面上は如何なる状態であろうと自分がするのではない。神が内側から為さしめ給うているのである。「吾が業(わざ)は吾が為すにあらず。天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」は今の事である。自分がやっている様で神がおやりになっているのである。だから昔から「やれば出来る」と言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-16 12:16 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

一番大事なもの

 谷口雅春先生は人間に取って一番大事な事は「心の平和と魂の清らかさ」であると仰っている。この二つを失えば如何なる金銀財宝や地位を手に入れようと無意味であると説かれている。私は真の心の平和は唯一絶対の完全円満なる神への全幅の信仰が一番重要な鍵であると思う。宇宙に満ちた完全円満なる神に全面的に生かされていたという事が分かって、人は本当に安心立命を得る。そこにはもう何も心配も恐怖も取り越し苦労も存在し得ないからである。生長の家をやっていたとしてもこの事が分からねば、悩みや不安は尽きない。あれをやらなくちゃいかん、これをやらなくちゃいかんという事に押しつぶされてしまうだろう。でも私の尊敬するA先生はそういう事を自分に嘘をつかないで本気で悩む事が大事だとかつて私に御教示下さった。

 要するに自分の心に嘘をついて適当に生長の家をやっても本当の信仰は得られないと仰っていた。それがもう一つ重要な要素である「魂の清らかさ」という事に通じると思う。それは断じて自分に嘘をつかない生き方である。罪を犯しているのにそれは自分のせいではないとか、あいつが悪いのだとか言って他人に責任転嫁する様な考え方は駄目である。そういう考え方を放っておくと年取るにつれてますますそうした自己欺瞞の考えになり、もうその人はどうにもならない。神から限りなく遠ざかっているとしか言いようが無い。

 私はテニスをやっているがそれはどうやって上達出来るかと言ったら、経験をより積む事が一番大事である。試合をして行く中でこういう風に打ったら上手く行くというのが自ずと分かる事が多い。でも、その中で大事なのが自分に正直であるという事である。サービスに関して、私はどうも苦手意識があったが、試合中どうも事にセカンドサービスで回転を掛けて打たなくてはならない場合にラケットが十分に振られず回転不足であるという自覚があった。だから、セカンドサーブに自信が持てなかったのである。
 それで一人でコートで練習していた時に自分で分かったのだが、私はラケットを振り上げた時、きちんとラケットを背中の後ろで回していなかったと言う事に気がついた。事にセカンドサービスの際、ラケットを背中に十分落としておらず、それが為に十分に振る事が出来ていなかった事に自分で気がついた。それから試合でそれを試した所、無理なくラケットを十分に振れて、十分な回転をボールに掛けられる様になったのでセカンドサービスも自信を持って打つ事が出来る様になった。
 これ全て、自分に正直に自分の至らない所を怖がらずに見つめた結果、内側から自分で治す力、気付く力が働いてサービスが良くなったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-15 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(2)