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悪い人はいない。悪い事はナイ。

 吾々はどんなに細心の注意を払って、上手くやろう、失敗しない様にしよう、人を怒らせない様にしようとしても失敗してしまう事もあれば、人の機嫌を損ねてしまう事がある。 それはこの世界が具体的に実在する世界ではなくて、吾等の心の影であるからである。
 この世界が具体的に実在する世界であるならば、吾等は色々画策して、努力して、結果を良くしようとか、この人はうるさい嫌な人だから機嫌を損ねない様にしようとかすれば何とかなりそうであるが、失敗する事を恐れて、うるさい人が自分にうるさく言ってくるのを恐れて、何とかそれを避けようと努力しても自分に失敗を恐れる心、この人はうるさい嫌な人、悪人と思う心があれば、その通りの展開になり、結局、手続きは失敗し、嫌だ、うるさいと思う人を怒らせてしまう事になるのである。それは思ったら思った通りになるという唯心所現の法則によるのである。

 これは裏を返せば、悪い人や事はナイ、イナイという事になるのである。吾等はこれらの現象はナイ、悪はナイと悟り、ゆうゆうと神に全託して行けば失敗する事は無いし、全てものごとは上手く行く。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-31 12:29 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

生かされている(12)

 私の尊敬するA先生の御講話の中でこういう話がある。それは生長の家の宇治別格本山での練成会で座談会の時、ある青年が「私はもう生きるのが嫌になりました」と暗い顔をして、先生に訴えたのだそうで、そうしたら先生はすかさず「何なら僕だって嫌だよ。」とお答えになったそうである。

 昨日も「いのちの電話」という番号に自殺を示唆する電話が年間6万件位掛かって来るというのをニュースでやっていたが、それには「私は生きる事に疲れました。」とか言う内容が多いのだそうである。

 ところで私はここ最近一ヶ月の間、どういう訳だか次から次へと神経をすり減らす様な試練が次々と出て来る。現在でもおよそ6個位の問題、課題がある。会社の事、家族の事、大学のOB会の事等々どうしてこれだけの難題が一度に来るのかと不思議である。これは私が「自分で生きている」なんて思っていたら、その心労におそらく耐えられないと思う。しかし、私は幸運にも生長の家の信仰があり、自分が生きるのは自分が生きるのではない。完全円満の神に生かされているのであるという事を知っている。だから、問題がある様で全部神様丸投げにしているので実はらくちんである。榎本先生は又「神様の責任において」とよく仰っていた。これはちょっと生長の家をかじりかけの人で真面目な人であればあるほど「私の責任で」と力むものである。しかし、内側から神が自分を生かして下さっているのであるから一切の後悔も取り越し苦労も要らないのであり、正に「神様の責任」で全部自ずと良い様に進行するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-30 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

そのままでよい(29)

 全ての焦り、心配、恐怖は「何とかしなくてはならない」と思う所から来るのである。それは感謝とか満足の心ではなくて、不満であり、欠乏の感じである。それでそれらの欠乏とかを何とかする為に人は色々画策したりするがこういう心だと唯心所現の法則が働いて、いくら動き回っても欠乏した通りの現象が出て来る。

 吾等は現象的に如何なる状態であっても「今、そのままで完全円満である」という悟りを持たなくてはならないのである。それは即ち全ての営みは神から来るという事であり、それは又、全ては神がやって下さるという事である。その安心感と悦びから、吾等は心が平静かつ躍動感がみなぎって来て、本来やるべき事が悦びの中でどんどんされて行くという事になり、そこに事業の繁栄も光明化運動の進展、発展もあるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-29 12:25 | 社会生活 | Trackback | Comments(3)

この世界は実相と実相が自分で出て来る事しかない

 この世界は実相と実相が自分で出て来るという事の他、何も存在しない。生長の家の教団さえも存在しないのである。色々、表面的に現象的に紆余曲折がある様に見えてもそれは全て実相が自分で出て来るうねりが底流にあるのである。

 だから、今、自分に如何なる課題が与えられようとそれは自分の実相を顕現する為に過去の自分が自ら造り出した問題であり、それは必ず解決出来る課題なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-26 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

善も執着すると悪になる。

 生長の家の本に「例え善であってもそれに執着すれば悪になる」という教えがある。例えばある人がある組織に属しているとして、その人がその組織について素晴らしい理想的姿、形態を心に描いているとする。しかし、だからと言って、それを何としてもそうしなくてはならないのだと思って、色々画策したり、陰謀を巡らせたりして無理矢理、それを通そうとするのではそれは我(が)である。

 いくら良い事でも我(が)が何としてもやろうと執着するとそれは悪になるのである。それは生長の家の愛行にも言える。あの人を何としても救いたい、供養したいという心持ちが起こるのは良い。それはそう思う人の愛念が元になっているからである。しかし、だからと言って、何としても救おうとか供養しようと固執するのは褒められたものではない。それは我(が)であり、そうなったらそこに神は無く、悪になるのである。
 吾等は何時でも実相独在の信仰に立ち還り、そのままで救われている全人類を拝み、全ての行い、愛行、救い、善きことは神がなさるのであるという基本に返って、神に全託する事が大事なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-25 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

全託について

 私の尊敬するA先生は「皆さん!全託と言ったら本当の全託ですよ!」と御講話で強調されていた。吾等は神に全託しなさいと言われても、祈りは自分がやらなくちゃならんだろとかほんのちょっとこの部分はまだ自分がきちんとしてなくちゃならん、整えなくちゃならん、清めなくちゃいかんと何となく思っているものである。「その上での全託だ。それこそ「人事を尽くして天命を待つ」である」なんて思っているものである。
 しかし、そこに完全な百%の信仰が失われるのである。それが心の隙であり、そこから「千丈の堤も蟻の一穴から崩れる」の例えの通り、全ての信仰が崩れ去るのである。
 
 「これだけは私が」と思うのは真の全託ではなく、私がそこに入り込んでいるのであり、その分、神を小さく限っているのである。
 繰り返すが全託と言ったら、本当の全託である。私がこれだけ祈ったからとかそういう事ではない。そこにもう自分は無く、神が全てを司り、救い、整えている世界即ち実相世界のみが今、ここにあり、その神の表出口として、自分が自ずと動き出すのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-24 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

我(が)は要らない。

 私の尊敬するA先生は御講話の中で「実相は自分で出て来る。我(が)は要らない。」と良くお説きになっていた。それまで私が色々な生長の家の先生のお話を聞くと「この現象世界は神が直接お造りになった世界ではなくて、吾々人間の念が作った所の第二創造の世界であるから、吾々は神にひたすら心の波長を合わせる為に不断に心を清めて行かなくてはならない。」というお話ばかりであったので、榎本先生のお話を最初に拝聴した時はちょっと違和感を感じた。しかし、それと同時に何とも言えない穏やかな悦び、安心感に満たされたものである。

 しかしながらこの榎本先生のお説きなった境涯こそが真の生長の家である。それは「無門関」に通ずるものであるし、真理の精髄である。ちなみにA先生は生長の家の草創期の谷口雅春先生の真の高弟である吉田國太郎先生と服部仁郎先生に師事して、薫陶を受けられたのである。
 話が横道に逸れてしまったが、生長の家の神髄は実相独在である。それを直接お説きになっておられるのが吉田國太郎先生であり、服部仁郎先生であり、その流れを受けられたA先生である。それは正に我(が)は要らないという事である。
 
 吾々はひたすら神に生かされている。全ては神に生かされ、私なるものは露ほどもない。私が祈ったとか、私の信仰などというものはナイ。ただただ神の生かしのみがあるのである。それが絶対他力の生長の家の神髄である。
 先日、母親が肺炎に罹り、山と思われた夜に私だけが家族の中で母親の病室に一晩中付き添った。私は自ずと母の実相、そのままで既に救われている完全円満の実相を祈り、実に心地よい安心感と共に眠りこけた。気がついたら母はすっかり元気になっていたが私がその時、実感したのが私の祈りの念力によって母親が蘇ったのではなく、正に母親のそのままで完全円満無限健康の実相が神により自ずと出て来たという事である。私(我)は要らないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-23 12:33 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

生かされている(11)

 吾々は自分で生きているのではない。生かされているのである。自分が生きていると思う人はこの人生に色々出て来る様々な諸問題に自分がこれを切り開くのだ、自分が対処するのだ、自分が解決するのだと思う。そうなると段々疲れてきてにっちもさっちも行かなくなるのである。それで「私はもう疲れました」とか何とか言って、ものごとを止めたり、はたまた人生そのものを止めたくなるなんて事もある。

 これらは全て「私が生きている」と思うからである。吾等は生きるのではない、生かされるのである。その事が分かった時、一切の凝りが抜け、身体から余計な力が抜け、そして内側から何とも知れない力強さと悦びを感じる。その実感が「感謝」である。「あー、有り難い。生かされていた。導かれていた。」という満腔の感謝である。そこには「私が」という我(が)はこれっぽちも存在しないのである。そして、それが真の生長の家である。

 そして、その何とも言えない神に全面的に支えられた全託の心地よさの信仰がそのまま勇気である。勇気とは姑息にものごとを自分の思い通り、望み通りに絶対しようとして、自分の判断も天の配剤も信用せず、我(が)の力で無理矢理、絶対に安心な道を確保しようと言う心を捨て、神に全託する心であるからである。
 それに反して、無理矢理良くしよう、生きようと思う人の心は地獄である。宇宙を貫く完全円満、無限なる神に生かされ、守られているという事を自覚せず、姑息に我(が)の力でものごとを良くしよう、安全にしよう、病気が治ろう、息子をいい学校もしくは会社に入れようという心持ちだからである。
 吾々は真の幸福はそうした無理矢理な我(が)の欲望から来るのではなくて、神に全託して神に生かされる中から自ずと来るものである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-19 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(5)

結局は己しか信ずるものは無い。

 聖典「生命の実相」第七巻「生活編」には「己の判断を信ぜよ。」とある。如何なる大先生が偉大な真理を説いていようが、どんな素晴らしい心の持ち方とか処世術があろうが、究極的にそれを行うのは自分である。だから、結局は己しか信ずるものは無いと言う事になるのである。

 ここで何回も書かせて頂いたが、かつて私が私の尊敬するA先生に厳かに言われた事は「人間神の子という事は自分が神であると言う事である。」と言う事であった。それは私が先生に「私は自分の言動や書いたものが人をミスリードするのではないかと時々、不安になることがあります。」と申し上げた所、先の様なお言葉を頂いた。自分が神であるという事は自分の言動、行動そのまま神の行い、お言葉であるという事になる。故に自分を信ぜよと言う事になるのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2010-03-18 12:22 | 信仰 | Trackback | Comments(3)

真の大日本国とは中心帰一の実相世界の事である。

 先日、神想観で久々に「大日本神国観」を行った。私は神想観は朝、起きた時、自ずと布団の上で正座瞑目合掌して行う。大体が基本的神想観であるが、この前は「大日本神国観」を行った。

 そこで天皇陛下を中心として、全ての生きとし生けるものが秩序整然として、争うものなく、相食むものなく、大調和している光景を脳裏にありありと描いて、瞑想していると「ああ、真の大日本国というのは天皇陛下を中心とした実相世界そのものの事であるな」としみじみと実感して、何とも言えない大安心の平和な心地よさに浸る事が出来た。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-17 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)