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生長の家とは何か(14)

 生長の家とは何かと言ったら、それは大宇宙の事である。この地球という天体にたまたま谷口雅春氏という天才が思いつきで始めたものではない。そして、生長の家の運動と言ったら、住吉大神による宇宙浄化の運動である。生長の家という団体が具体的にあって、それは80年前に一人の宗教的天才がたまたま始めたものであって、罪悪深重の凡夫である自分がせいぜい、その教えの通りに実行すれば幸せとか功徳に預かれるというものではない。生長の家は大宇宙の事であり、真理そのものであり、内なる神の国、実相世界そのものである。そして、それは自分自身の事であるのである。自分以外に生長の家の教えとか谷口雅春先生とかが存在しているという事になると尊いのは谷口雅春先生もしくは谷口雅春先生の説かれた教えのみであるという事であり、それの命令通り動くのは哀れなる詰まらない自分であるという事になるのである。

 その生長の家の神髄は自分自身が一番良く知っている。それは「今このままで神であり、何も心配がナイと言う事。それを自覚していないと心が歪んで今、既にそのままで完全円満なのにそう見えないという事。そして、自分が完全円満であるという悟りは自分が悟りそのものであるが為に自ずと出て来るというものである事」である。
 
 誤解の無いように付け加えるとだからと言って、生長の家の現在の中心者の説かれる事より自分の現在の心境の方が上だと言う意味ではない。そんなものはごくごく浅い自分の事である。本当の自分の中の生長の家とは大宇宙の事であり、その自分の中の大宇宙の真理が住吉大神の宇宙浄化の運動となって生長の家の運動になっているのであり、その中心となるのは神の御心であり、それは現在の生長の家総裁・副総裁を通して出て来る。私はその神意にひたすら中心帰一するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-30 12:56 | Trackback | Comments(4)

悪いところを無理に良くしようとするな。

 吾々は普段生活していて、色々な場面で不完全な状態を目の当たりにする。職場でも地域でも生長の家の組織でも。それで、自分の理想と比べて、ああすればよいのに、こうすればよいのにと歯がゆい思いをしたり、本来でない事をする相手を批判したり、又は無理矢理、自分の思い通りにしようとする。しかし、こんな事では上手く行かないのである。

 悪い所を見つめて、良くしようとするのではなくて、良い面に感謝すべし。そして、今目の前の事に全力を尽くすべし。実相は自分で出て来るのであるから、無理に悪い所を我(が)で良くしようとするのではなくて、実相が自分で出て来るのを待つべし。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-28 11:59 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生かされている(13)

 吾々は生長の家を知り、それから生長の家の生き方を学ぶ。それは人の生命の実相を礼拝せよとか朝の時間を生かせとか思い切りよく押し強く勇敢に行動せよとか色々ある。そして、思ったら思った通りになるのだから、生長の家の生き方をやり、弱い自分を克服して行く事が大事であると頭で理解する。しかし、それを分かっちゃいるけど中々出来ないというのが大方の人の本音だと思う。

 しかし、それは自分がやろうとしているからである。我(が)には何も力が無いのである。吾々は神に生かされている。勇気も実行力も神から来たるのである。生かされている。生かされている。私は要らない。神に感謝し奉る。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-27 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

現象は心の影である。

 私は昨日、家内とドライブに出かけ、夕食はよく行く回転寿司屋に行った。その時、トイレに行こうと席を立ってトイレに向かう際、混んでいて通路が狭くなっていた。すると前方からこちらに向かってくる中年の女性がいた。通路は二人がすれ違うほど広くないので私はとっさに狭くなっている通路の手前で待ち、その女性に道を譲った。そうしたらその女性は一見、気むずかしそうな顔つきの人だったが私が通路を自分に譲ったのが分かって、にこっと私に会釈して通路を通って来た。私はその時、パッと悟った。「立ち向かう人は自分の心の影である。」と。私が相手に道を譲ろうという寛大な愛他的心になった時、気むずかしそうに見えた相手もとても気持ちの良い笑顔をこちらに向けて、礼を言ってくれたのである。そして、「悪い人は具体的にいない。悪く見える人は全部、こちらの心の映しである。」と思った。

 私は正直言って、腹に据えかねる人間が何人かいる。何となく「あいつは悪い奴だ」と思っていたのである。しかし、やはり、悪い人間なんてイナイのである。現象は心の影である。如何なる悪人が映ろうとこちらの影なので本当に悪い人間ではない。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-26 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

全託について(2)

 どうして我(が)が出て来るかと言うとこの世界、この人生は我(が)が神の他に存在してその我(が)が生きているのであると何となく思っているからである。それで失敗しない様にしよう、上手くやろう、心のレンズの歪みを取ろう、恐怖しない様にしようとあくせくするのである。

しかし、我(が)はナイのである。実相のみが今ここに吾をして生きているのである。それが分かったらどうなろうと神に全託しようという気持ちに自ずとなるのである。何故ならばどうじたばたしようと我(が)など始めから存在せず、神がここに生きるのみであると分かるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-23 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

大丈夫だ。今そのままでここがそのまま実相世界である。

 吾々は信仰で現象世界を良くしようと考えがちである。自分とか家族に病気とかその他の問題がある場合、生長の家の信仰をして、心が整って、実相世界の完全円満さが現象世界に投影させる事が出来たら、病気とかその他の問題が消えるだろうからしっかり、信仰して自分の心のレンズを真っ直ぐにして、決して恐怖しない様に悪い事を思わない様に病気を思わない様にしようとする。
 しかしながら、そんな心配は不要である。何故ならば、吾々は今、そのままで完全円満の神の国に住んでいるのであり、吾々の心は神の心であり、恐怖心なんてナイからである。それが現象ナシの生長の家の教えである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-22 12:20 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

神様の性質

 私の尊敬するA先生は本当にユニークな先生で私が言うのははなはだ僭越なのだが、本当に悟りを啓いた素晴らしい先生であった。

 その真理の説き方も型にはまったものではなく、実にユニークなものであったが、その中の一つに「神様の性質」というのがあった。ある人が「これこれこういう現象は良いんですか悪いんですか?」と言う質問をやたらとして来たが、その人が何の気無しに「先生、この花、綺麗ですね。」と感嘆の声を上げたら、先生はすかさず「あなた、どうしてこの花綺麗ですねって言う感覚は良いんですか?悪いんですか?って僕に聞かないのかい?」と仰ったのだそうである。要するに自分がこう思った事はその人に取って、真実であって、それを他の人にその良し悪しとか正しい、正しくないとかを聞くのは間違いであると言う事を仰ったのである。

 その中で「こういう感じは良いんですか?悪いんですか?」と言う事について、先生はこんな事を仰った。それは「懐かしい感じ、心地よい感じ、自分らしい感じは神様の性質ですからそう思っていいですよ。」と言う事である。
 神様の性質というのは神様というのは自分自身であるから最も懐かしく自分らしい心地よい事が神様の性質なのである。それと同時に私が思う神様の性質に「問題や恐怖は神様が消して下さる」と言う事がある。問題とか恐怖が出て来たら、それを何とか消そうとして恐怖とか問題をつかむのは心で描いたものは却って出て来るの法則に従って、そうすればそうするほど却って、恐怖が強くなり、問題は大きくなる。それであくせくするのだが、それは神様の性質ではない。そうではなくて問題や恐怖は神様が消して下さるという何とも心地よい状態が神様の性質というものであるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-21 12:20 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

自分が神である。(4)

 ここでも何回か書かせて頂いたが、私はかつて私の尊敬するA先生とお話させて頂いた時に「私は自分が他の人をミスリードしたのではないかと時々不安になる事があります」と申し上げたら「人間神の子と言うことは自分が神であると言う事だ。」とそれまでにこにこ談笑されていのが嘘の様に峻厳な口調でご指導して頂いた。

 生長の家では実相は完全円満の世界であり、神の子であるがこの現象世界は自分の念が作る世界であるから、自分の念を実相世界に焦点を合わせなくてはならないと教わる。しかし、そこから何時しか現在の自分は神でも無く、完全円満でも無く、そのでくの坊の自分が一所懸命、神に波長を合わせて、神らしく生きるのが生長の家であると言う勘違いが出て来るのである。しかし、そういう考え方は自分と神とを分離した考えであり、その迷った考えでいくら神らしくしよう、神らしい事を思おうと力んでも駄目である。神になろうとするのではなくて、自分が神であるというのが真理である。

生長の家の目的と言うか神髄は自分が今、神であると悟る事にある。そこから「そのままでよい」「実相は自分で出て来る」という言葉が出て来る。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-20 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(33)

 吾々の生命の実相の完全円満、無限力と言うのは自分で出て来るのである。時期が来れば段階を追って、自ずと出て来るという事である。それを無理に出そうとするのが我(が)である。良くなろう、分かろうとして今目の前の事を離れて、あくせくしたり、一つの事にとらわれて、考えすぎたりするのである。それが我(が)であり、そういうのを我(が)が強いと言うのである。そういう人は神に生かされているという気持ちが無いから常に戦々恐々として心に平安が無い。その心が高じれば所謂ノイローゼという事になり、それは自分の事ばかり終始考えているから利己主義という事になる。聖典「生命の実相」の中で谷口雅春先生が「ノイローゼとか不眠症って言うのは利己主義の人がなる病気だ。愛他的になったら治るよ」と仰っているのはそういう事である。

 私の尊敬するA先生は常に「そのままでよい」と仰っていた。そして「「そのまま」の反対「我が儘」」とも良く仰っていた。要するに「良くしよう」「分かろう」というのが我(が)の働きであり、それはとりもなおさず、「実相を何としても引きだそう。それも今すぐ、完全に」と頑張る心である。それがある面、利己主義と言う事にもなるのである。

 しかし、自分が今、完全円満、無限力であると言う事を悟れば、そういう我(が)も自ずと消える。その事も「実相は自分で出て来る」と言う事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-19 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

余命一年のシンガー

 昨日、フジテレビのアンビリバボーで又、素晴らしい感動的な話が紹介されていた。それは昨年6月に余命一年と宣告された女性シンガー小林由佳さん(27歳)の話である。彼女は生まれてまもなく『先天性胆道閉鎖症』と診断された。肝臓から十二指腸へ胆汁を送る肝外胆管が閉鎖し、胆汁が出なくなる難病だった。その後、手術をして、何とか命をつなぎ止めた。そして、その後、彼女は歌に生き甲斐を見出し、歌手を目指して努力をし、そして、インディーズからではあるが、レコードデビューを果たす。しかし、昨年、肝臓が悪化し、余命一年と医者から宣告される。
 彼女は肝臓の生体肝移植をしたら助かると当初、医者から言われていたが、その後、手術に耐えられない身体と言う事を医者から宣告されてしまう。しかし、必死に生きる道を探り、色々な治療法や医者を訪ね歩いたが最後の望みだった方法も不可能と言う事が昨年6月に分かり、とうとう余命一年と言う事になってしまった。しかし、彼女は自分の寿命が来るはずの一年後である6月3日以降の6月11日にラストコンサートをする事に決め、現在それに向けて必死の準備をしているのである。彼女の歌に込める思いは「どんなに辛くても歌という希望に掛ける」と言うものであるからである。 
 私はこのドキュメンタリーを観た時、胸が締め付けられる思いがした。しかし、同時に生長の家の教えというものは肉体や現象が調子よくなった時にのみ悦べるものではなくて、現象が如何なる状態であっても今、完全円満、無限力であると悟る事であると思った。

 肉体はナイ。現象はナイ。今、完全円満、無限力である。この事を悟らなくてはならないのである。現象は陽炎の様にユラユラしていて、良い時もあれば、悪い時もある。それは過去の念の残像に過ぎないのである。だから、そんなものは放っておいて、今、たった今、自己が完全円満、無限力であると信ぜよ。そして、今立ち上がるのである。

 ところで、彼女は今では10年後、20年後の構想も抱いているのだそうである。必死に生きている中で何時しか自分の永遠生き通しの生命の実相を感じ取っているのかも知れない。

堀 浩二
by koujihori | 2010-04-16 12:34 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)