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生長の家とは何か(16)

 テニスでは最初は外側から指導者にああせい、こうせいと言われ、その通り、忠実に練習していくという所から入る。しかし、その内、自分の中に本当の打ち方、そのままで既に完成された打ち方がある事に気付き、その催しのままにやって行く様になるのである。
 
 生長の家でも最初は三正行という一種の型を外側から自分にはめて、行をやり、その他、生長の家の先生の指導通りの教えを受け、その通りの行をやって行く。しかし、その内、自分の中にこそ真理がある事に目覚め、そのままで良い事が分かり、内側からなるそのままの行をする様になるし、真理の会得も内側から自ずと出て来る。そうなった時、吾等は真に魂が解放されるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-31 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

罪もその報いもナイ

 自分が過去に誰かを傷付けたから、自分もその通りの報いを受け、傷つかなくてはならないなんて事は誰でも考えがちである。そういうのを自己処罰と言う。大体、戦争なんてのも人類の罪悪意識から来る自己処罰の現れであるとは生長の家の教えである。
 しかし、そもそもそういう事を考えるのは人間には罪ありと言う迷いがあるからである。罪アリと思えば、必然的にそれを消すには自分もその報いを受けなくてはならないという事を連鎖的に考え、実際、自分の運命に病気などの不幸を自ら現しだし、自己処罰する。
しかし、そういう事であれば、吾々は今まで何回も生まれ変わって来ているのであり、その間、魂が幼かった頃は人間その他の動物の生命を生命とも思わず、どれだけ残忍に殺しているか分からない。そうなると何回殺されてもそれでも贖いきれないなんて事になるのである。

 しかし、幸いな事に罪とその処罰を超える道がここに存在する。それは罪はナイという生長の家の真理に目覚める事である。簡単に言えば、「悪かった」と心の底から思えた時、その時、一切の罪は消えている。それはそうした事をした自分は本来存在しなかったという実相を悟ったから過去の自分が間違っていたと気付くのである。その点、罪の意識がわき起こって来るのは最初は苦しいかも知れないがそれは悟りの出始めである。完全に罪ナシと分かった時、罪に対する自責の念は自ずと消える。
 自分が誰かを傷付けたり、その報いとして傷付けられたりする世界は本来存在せず、このままで大調和している世界が今、ここに展開しているのを単に自分の心が歪んでそう見えているのに過ぎない。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-28 13:03 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

生かされている(15)

 私は高校一年の時に初めて、生長の家の練成会を受けて、「思ったら思った通りになる」という唯心所現の法則を教えられてから、それから自分の心のコントロールに悩み、勉強が手につかなくなった経験がある。しかし、それはそもそも「自分が生きるのは自分が生きているのである」と思っていたからである。
 自分で生きているのではない。生長の家の招神歌にあるように「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」である。自分が生きているのは自分が生きているのではない。神がここにありて生きているのである。
 自分で生きているという感覚が迷いであり、それが取り越し苦労になり、持ち越し苦労になり、それが不安や悩みになる。そして、それこそが自分の心をコントロールしなくてはならないという苦しみなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-27 12:09 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

精神性にこそ悦びがある。

 吾々の肉体は肉欲というものがある。食欲、睡眠欲、性欲である。これは肉体の維持の為に必要なものであり、これらがあるということは健康な証拠である。しかし、それが過度のものであったりするとこれも問題で然るべき所で然るべき時に然るべき相手と適度に満たせば良いのである。

 しかし、人間を肉体であると思い、肉欲こそは人間の本当の欲望であると思う所に迷いがあり、迷いの結果は苦しみである。人間本来の姿は肉ではなくて霊であり、生命であり、精神性である。その希望、願いは自他一体のものであり、高尚なものである。そして、こうした願いを実現させる事こそが本当の人間の悦びである。
それを知らない人間が肉欲を満たす事が第一であり、本当の願いだみたいに思って、それを追求するのである。
 肉欲よりも精神性を優先させた方がより楽しい人生になる。それは肉なるものは有限であり、縛られたものであるが神とか霊とかは自由であり、快活そのものであるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-26 12:15 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

ここがこのまま神の国である。(3)

 自分の属している組織とか家族とかで何か良くない不調和な状態があるとかあいつ赦せないと思う事があるのである。特に内に理想を抱いている人ほどそうなるのである。それで組織の長を責めたり、上役を憎んだり、家族をののしったりする。そして、自分の理想通りに無理矢理矯め治そうする。しかし、実際にそういう悪い組織とか悪い相手がいるのではないのである。
 組織でも何でも悪いと思って、それを心でぎゅうぎゅうつかんで良くしようとするなかれ。今既にそのままで良いのであるから、それを静かに観ずべし。悪く見えるのは単に自分の心に歪みがあるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-25 12:23 | 社会生活 | Trackback | Comments(2)

形の教えと心の教え

 私は生長の家には入門編と奥義編と両方あると思う。思うではない。実際そうなのである。形の教えとは形から入って行くと言う事である。武道でもスポーツでも最初は教えられた通りの型とかフォームを反復練習して行く所から入り、その奧殿まで行くと自分の個性的なフォームとか型を自ら内側から編み出すが信仰も同じである。

 形の教えとは生長の家だったら、三正行即ち、聖典読誦、神想観、愛行を意識的にしっかりやって行く事である。こういう形から入らなくては入りようが無いのである。最初はそれで良いのである。しかし、その段階で何時までも留まっていてはならない。段々奧殿まで進み、形を自ら毀し、内側からの自ずからなる行をしていかなくてはならない。それが神が神する愛行であり、神想観である。それはどういう事かと言えば、内側に既にそのままで完全円満なる神の国、実相を見いだすという事である。実相世界は今ここにあるという事、自分は今、神であり、完全円満であると言う事を見いだす事である。そこから自ずからなる愛行が神想観が出て来る。それが生長の家の神髄であり、奧殿である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-24 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

南泉斬猫

 無門関の公案に「南泉斬猫」というのがあり、東西に流派が別れて争っている僧達が一匹の子猫を前に「猫に仏性ありやなしや」と言い争っているので南泉和尚が猫を切り捨ててしまった。猫ごときの事で形にとらわれてなんだかんだ言い争いしている僧達を戒めたものだが、それを聞いた逍州は頭に草履を載せたというのは「そんな猫という形を斬って捨てなければ悟れないようでは困る」という事を言っている。それと共に南泉自身も東西の僧達が言い争っているのを何とかしたいとか悟らせたいなんて事にとらわれる、即ち真理にさえもとらわれてはならないとは谷口雅春先生の解釈である。そして、それが生長の家の神髄であると雅春先生は仰っておられる。

 真理さえもつかんではならない。つかんだら最後、その人は自由を失う。とらわれてしまう。一つの相対的立場に立ってしまうのである。吾々は絶対的立場に立たなくてはならぬ。そのままでよい。そのままで絶対的立場であり、神である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-20 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

良くしようとしなくてよい(6)

 良くしようとする働きが我(が)である。そのままでよい。そのままで自ずと神が出て来る。上手く話そう、本当の事を分かろう、今手がけているものを完璧なものを作ろうとかしなくてよい。実相は自分で出て来るのである。そのままであれ。そのままであれば自ずと自然な働きで良い話も出来るし、本当の事は分かるし、素晴らしい作品が造れるし、組織は調和する。

 良くしようとするのは今は悪いという心の裏返しである。今は悪いと思えば心の法則が働いていくらもがいても全然良くならないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-19 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真の光明化運動とは

 生長の家の人類光明化運動というのは何かと言ったら、全人類の既に救われているそのままで完全円満の実相を拝むという事である。お前はまだ心掛けが足りないから生長の家の本に書いてある事を見習ってせいぜい励めなどという人を見下した様なものではない。そんな気持ちでいるから、周囲から自ずと反発を受け、排除されるのである。

 光明化運動は既に全宇宙に行き渡っている神の救いが自ずと内側から出て来てその人を通して働くのであり、それは繰り返すが「全ての人は神により既に救われていて完全円満である」と相手を拝む心から発進するのである。それは人智や我(が)の力みではなくて、神が自ずと伝道の機会を与えてくれるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-18 13:59 | Trackback | Comments(0)

今、そのままで完全円満である。(3)

 吾々は実相は完全円満かも知れないが現象は心の影であり、第二創造の世界であり、その心は長年の蓄積によって作られるのであり、その長年の蓄積された潜在意識がある時間を経て、初めて肉体とかの現象となって出て来るのであるから、心が真理を悟っても現実の今の自分はまだ駄目だ、まだ過去の迷いの残像又は自壊作用が残っているから力が出ませんなんて思いがちであり、言いがちである。

 しかし、現象はナイと教えられているのである。それならば不完全な肉体もナイのであり、それは将来ではなくて、今の事である。生長の家は誠にも「今」の教えである。
 今、完全円満である。今、無限力なのである。それ以外の現象とか潜在意識とかそんなものはたった今、ナイ!と全否定せよ。そして、今、立ち上がるのである。

 自分がそれでも不完全なのは自分が完全円満かどうか確認しようという心になる時である。「これだけ信仰したからもうその影響が現象や肉体に出て、治ってるかな?」などと確認する心である。その心が自己の完全円満さを完全円満に感じさせなくしているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-18 12:12 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)