<   2010年 06月 ( 26 )   > この月の画像一覧

感謝とは

 生長の家は感謝の教えであると言われている。だから、「大調和の神示」にあるように「汝ら天地一切のものに感謝せよ」という教えがあるのである。ことに父母への感謝が大事であるから生長の家の人は父母への感謝が大事であり、感謝出来ない人はそれで悩んだりする。私も一所懸命、感謝しようとして父母の感謝の祈りを毎日したものである。

 しかし、感謝というものの本質は何であるかと言ったら、「生かされている」という事である。私がオレがと思っている所に感謝は存在し得ない。私が感謝するのだ、オレが感謝するのだと言うのが生長の家の教えではない。光明化運動でも仕事でもオレがやっているというのは我(が)である。そこから不遜とか傲慢が出て来る。吾等は神に生かされているのである。ただ感謝のみである。それが感謝という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-30 12:02 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

問題は神が消して下さる(9)

 ものごとはそのままであれば全て、神が遂行して下さるのである。否、今そのままでここが極楽浄土であり、それは神の智恵、愛、生命、供給、悦び、調和が満ちあふれている世界であり、神が一切を支配し、運行されているのである。それを自分が、私がどうとかしようというのが間違いであり、そこに苦悩が出て来るのである。

 従って、何か問題みたいなものが現れて来ても、それは神が解決して下さるから慌てる必要は無いのである。それなのに自分が生きている、やっていると錯覚するものだから、問題をつかみ、心で問題をつかむから問題が消えず、問題の重みで潰れてしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-29 12:18 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

真の伝道とは

 鍛えるとは自分の中に今、そのままで出来る力、即ち無限力があるという事を認める事である。認めるから使う事が出来るのである。使う時、初めて訓練となり、知力、体力、筋力、勘悉く鍛えられ、力をつけ、研ぎ澄まされて行く。別の言い方をすればそれは清水の舞台から飛び降りるという事にもつながる。余りにも大事を取って、何回も確認している様では自分の記憶力を信用していない事になるから記憶力などの智力が鍛えられず従って智力が減退していく。

 だから、本当の愛行は相手が今そのままで悟った仏であると認める事であって、決して相手を見下して一つこいつを教えで良くしてやろう救ってやろうというものではないのである。その尊敬の念から真の思いやりが出て来て、愛行にもなる。その愛行や伝道はこの人だったら分かるという相手への尊敬の念から為されるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-28 12:14 | Trackback | Comments(0)

生長の家とは何か(19)

 生長の家の教えには神髄とその神髄から派生してきた部分と両方ある。

 その派生して来た部分というのは聖典「生命の実相」第七巻、生活編に主に出て来る。それは天地一切のものに感謝せよという事から始まり、親に感謝、夫婦お互いの感謝、夫にハイ、光明面を観る、子供の育て方、それから先祖供養の方法等々沢山ある。しかし、こういう事が生長の家の神髄ではない。
 生長の家の生き方というのは人間神の子完全円満、実相独在の信仰があって自ずと出て来るものである。生長の家の神髄は人間は神の子であり、そのままで完全円満であり、実相独在であるという事である。

 それが分からないと生長の家の生き方を我(が)がやろうという事になる。他人の悪口を言わない、批判しない、常に感謝しなくてはならない、妻は夫に絶対ハイをしなくてはならない、常に心を浄めなくてならない、先祖に迷った霊がいるとまずいから、毎日確実に先祖供養しなくてはならない、生長の家の真理は恩返しの為に一人でも多くの人に伝えなくてはならない等々の事を全部自分がこれからやらなくてはならないなんて事になったら大変である。
 そして、これ自体が生長の家の教えの中心だと思って、それを自分が是非やらなくてはならないと思っている人は人を真理で審くのである。生長の家の生き方は非常に厳しいものである。こんなもので人を審いたらやられた方はたまったものではない。
 私はこれだけ感謝してる、これだけ愛行してる、それなのにお前はやってないじゃないか、感謝出来てないじゃないか、ハイが出来て無いじゃないかとかはたまた、自分がこれだけ性格が暗く、トラウマを負ったのは親の育て方が生長の家の教育法とは全然違うひどいものだったからだとか言って批判の矛先を親に向けるのである。

 これは今ここ完全円満の実相浄土であり、自分の中に神の国があり、それを悦んだ時、自ずと悦びで生長の家の生き方が出て来るという信仰の中心を外すからである。現象はナイ、従って現象の親もナイ、自分の中に神の国があると思った時に真の感謝が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-25 14:44 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

そのままでよい(34)

 今、このままで大丈夫である。自分の不注意で転落してしまうような人生をあゆんでいるのではないのである。何故なら、この人生は自分で歩んでいるのではなくて神が歩んでいる神生であるからである。
 自分の不注意や心のコントロールの失敗で転落するかの様な人生はそれは「自分の人生は自分で歩んでいるのであって、神に導かれたものではない。ましては神が歩んでいるのではない」と思う自己の妄想がそう見せているのである。そういうのを今、ここ天国ではなくて天国に至るまでは自分は注意に注意を重ねて天国への階段を踏み外さない様にするのだと思っている考えであり、そういう信仰を持っている人は天国の門の直前で天国への階段を踏み外して落下するのである。
 それは心の法則が働いて、「自分はまだ天国にいない。自分の努力で天国にこれから入るのだ」と思っていればその「天国に今自分はいない」という想念の通り、天国から追い出されたり、天国への階段を踏み外して転落するのである。
 しかし、転落したのも本当に転落したのではない。それは転落したという夢を見ているに過ぎない。転落した様でもそのままで天国にいる。それが実相である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-25 12:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

祈り

 生長の家では二年に一回、生長の家総裁先生の講習会という行事がある。これは生長の家の信徒に取って最大の行事である。講習会のある教区では各組織に参加目標というのが与えられ、その組織に属する生長の家の信徒はその目標を達成する為の参加促進というのをやる。
 その際、よく言われるのが「祈って参加促進しよう」という事である。要するに仏教用語で「願無き行は仏の魔事なり」と言われる様にただ何の願いも祈りも無く、生長の家の講習会などの行事に他の人を誘うというのでは駄目でしっかりと「この講習会は神様の講習会でそこに行く人は必ず幸せになる」という願いを込めて参加対象者を誘うのである。それが無いのにただ数を上げる事を目的にする様なのは単なる運動屋の運動であって、こういうのは愛が無いから本当の愛行にならず、その内、挫折する。

 さて、ここで祈りとは何ぞやという事になるのである。それは「あいつは真理を知らないでくの坊であるから、一つこいつに有り難い生長の家の真理をつぎ込んで良くしてやるか」というものではないのである。真の祈りとは相手をそのままで既に救われている神であると拝み、尊敬する事である。そして、この世界は既に神様が充満した救われ済みの世界であり、今その世界にいて、自分は神から完全に生かされているのだという自覚である。

 そうした真の祈りのある所、そこに真の願が立つ。そうした悦びの波動のある所、「そんな悦べる所なら是非行きたい」という事で人が自然と集まって来るのである。そして、祈るというのは最高の愛行である。それはそのままで完全円満である相手の実相を観るという事であり、それこそ真の愛行である。そして、それは何もしないという事ではない。しばらくは何もしない事もあるかも知れないが、そうした真の祈りのある所、その内、必要な相手への働きかけは自分か又は他の誰かを通して神が為し給うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-24 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

朝の来ない夜は無い。

 谷口清超先生が御講話で仰っていた。「もう駄目って事は無いんです」と。吾等は色々、人生に於いて失敗する事がある。病気や倒産や家庭内争議とか色々な困難な状況に見舞われる事がある。そうなると「もう駄目だ。」なんて絶望しがちである。
 
 しかし、そんな事は決して無いのである。迷いは必ず晴れ、困難は必ず消える。何故ならそれらは真実在ではなくて悟りの基礎工事に過ぎないからであるからである。この世界は神と神よりいでたるものしか存在しないとは聖経「甘露の法雨」にあるとおりである。従って、現象的に如何なる苦難が訪れようともそれは内なる神、実相が自分で出て来る為の準備期間というか基礎工事に過ぎないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-23 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(33)

 吾等は実相は完全円満だが、現象は吾等の心が作るからその吾等の心を浄めなくてはならないと思いがちである。それで自分の心を浄めるのに必死になる。しかし、それが良くしよう、浄めようというのでは「今は悪い」という事になってしまうのである。そうなると結果的に悪とか穢れとか恐怖をつかむ事になる。

 恐怖を無くそうとする必要は無い。吾等は今、そのままで無恐怖であり、大安心なのである。元々恐怖が強く、心も乱れがちな自分であると思って、それを気をつけて、恐怖しないように、乱れないようにするのではないのである。それでは心もアル、迷いもアルと本来無いものをつかんでいる事になるのである。
 自分そのものが無恐怖そのものであり、歓喜そのものである。だから、そのままでよいのである。恐怖心はナイ。吾々は神の心そのものである。それが現象ナシ、心もナシ、実相のみがあるという生長の家の神髄である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-22 12:18 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

みにくいアヒルの子

 アンデルセン童話の「みにくいアヒルの子」は有名な話である。アヒルの雛の兄弟達の中で自分だけ何か違った風体で他の兄弟雛に比べて醜い、かっこ悪い、のろまだと思って悲しんでいたのが気がついて見たら実は自分はアヒルより遙かに美しくて優雅な白鳥であったという物語だが、私はこれは人間の生長にも当てはまると思う。

 谷口雅春先生御著書の「神、真理を告げ給う」には「迷いは悟りの基礎工事」という言葉が出て来る。吾等はこの世に生まれ出て来て、色々苦労する。迷う事もある。そして迷ったら色々な不調和とか病気とかの現象が出て来る。しかし、それは悟りの基礎工事であると言うのである。

 吾等は何故迷うのかと言えば、悟る為である。どうして病になるのかと言ったら健康を実感する為である。何故、力を失うかと言ったら本当の力を発揮する為である。
 困難が出て来るのはそれを克服する力を出す為である。その潜在能力が素晴らしいからこそそれを発揮する為にそれに相当する困難な問題を自ら造り出し、それを克服する事によって、内側から無限力を出し、生長するという事になるのである。それまでの迷った状態は言わば、「みにくいアヒルの子」である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-21 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

もてようとするのともてるという事の違い

 手前味噌で申し訳ないが私は学生時代から異性からもてた。高校の時からである。思春期だったので異性をこちらも意識していたがその意識する心が私の場合は人並み以上のものであった。
 それでなまじもてると思うものだから、欲が出て、そのイメージを崩したくないという気持ちが非常に強かった。それで大学に入ってから幾人かの女性とつきあったりしたが余り長続きしないで別れた。それは私が女性を目の前にすると普段の実力の10分の1も発揮出来なかったからである。それはどうしてそうなるかと言うと女性からの自分のイメージを保とう、保とう即ちもてよう、もてようとするから駄目だったのである。

 もてようとするのともてるというのとでは天地ほどの違いがある。前者は自分は駄目だ、異性から嫌われると潜在意識で思っていて、それをもてようとしている焦りの心であり、後者は既にそのままで自分は魅力的であり、女性は放っておいても自分の所に来るという自信を潜在意識で思っているのである。結果がどうなるかは自明である。

 同様に自分が富を持っていると自覚するものは富を持とうなんて思わないのである。常に富想を把持し、だからこそ他へ惜しみなく与える事が出来る。そうなるとますますその富想が富を引き寄せるという事になるのである。

 そこで一番大事なのが今このままで吾、神なり、無限力者なりの自覚であるという事が分かるのである。そしてそれを自分を中心として周りの全てに展開させて、今そのままでここがそのまま極楽浄土であり、救済しなくてはならない相手など一人もいないという悟りを得る事が大事である。その悦びから自ずと真の人類光明化運動が発進し、生長の家は栄えるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-18 12:26 | 家庭生活 | Trackback | Comments(11)