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どんな事が起こっても大丈夫

 どんな事が起こって来ても恐れるに足りない。何故ならば、今まで一度も恐ろしい事が起こった事は無く、これからも起こらないからである。恐ろしい事態、困った状態というのは嘘である。存在しない。それは単に自分の観が歪んでそう見えているだけである。そのままでよい。そのままでここがそのまま極楽浄土であり、全ての事が大調和しているのである。それが分かればその通りの実相が浮かび上がる。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-28 12:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

業障海を超越する道

 生長の家で「思ったら思った通りになる」と教えられて、「ああ、それなら心に悪を描かなければ良いのだな」と思う。しかし、悪いことを思わない様にしようと思えば思うほど、却って悪い事を思ってしまい、それが実現すると思うと更に焦り、いかんと思っても更に焦り、悪い事を思ってしまう事がある。それを業障海に墜ちると言うのである。生長の家の人はこの事即ち心をコントロール出来ないという事で悩んでいる人が多いのではないか?
 しかし、それは谷口雅春先生も悩まれた事であり、一度はそうした境涯を体験するのである。しかし、その中で必ずそうした境涯を卒業する時が来る。それは実相独在の真理を悟る時である。
 
 そもそもそうした悩みを持つのは自分の心が恐怖してしまうからである。恐怖しなければ恐怖した事が実現する心配も無いからそれで良いのである。
 恐怖というのは神様を信じていないからである。今ここが神の国であり、自分が神であるという事が分かれば恐怖心など生じようがない。そして、自分の心が自分の心ではなくて神の心である事が分かる。自分が神であると悟るのである。
 そして、それが生長の家の神髄である。それを実相独在と言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-27 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悪業を超越する道

 悪循環というものがある。悪業が出て来て、恐怖してしまうが、その恐怖が新たな恐怖を呼び、それがまた悪業となる。だから、悪業は更に深くなり、迷いは更に増し、病気は更に重くなる。

 しかし、それを断ち切る道がここに存在する。それは内なる生命の実相を悟る事である。実相が内側から自分で出て来て、悟りが自ずと出て来る。そこに迷いが自ずと消え、悪業を重ねる事は自ずと無くなる。我(が)の力ではそれは出来ぬ。実相が自分で出て来る事による。そして、それは誰でもがそうなのである。苦しんでいるようでそのままそれがその人の実相が自分で出て来る生長の一環である。だから、決して人生を諦めてはならぬ。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-25 15:41 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今、完全円満である。(2)

 生長の家は「今」の教えである。吾々が完全円満、無限力なのは正に「今」の事である。これからではない。今はまだ過去の迷いの残像が潜在意識と肉体に残っているから、実相は完全円満であっても、まだ潜在意識は清まっていない。肉体もまだ病弱だなんて思って、これからぼちぼち心と行を改めて行って、ようやく何時の日かその効果が潜在意識と肉体に現れたら、実力を発揮出来るだろうなどというものではない。

 吾々は現象はナイと教えられている。心即ち潜在意識はナイと教えられている。肉体はナイと教えられている。そんな風に今はまだ駄目だなんて思ったら本当には力を行使しないから、訓練も真には出来ず、その「今はまだ駄目だ」の心通り、何時まで経っても駄目であるし、例え、せっせと積み上げたとしてもあと一歩の所で転落するのである。


 神なら今すぐ、全てを癒す事が出来るのである。我(が)はこれから癒そうとするのである。そして、その我(が)の励みは結局、失敗、不毛に終わる。神の生かしは今、吾に直接流れ入って、吾を生かし、力を与えるのである。否、吾は神そのものである。


堀 浩二
by koujihori | 2010-09-23 21:27 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

神の国は吾が内にのみあり

 生長の家の真理とは大宇宙の真理である。従って、生長の家教団のみが生長の家の真理を説いている訳ではない。そうでなければ昭和5年、谷口雅春先生が生長の家誌を発行されて生長の家の活動を始められる以前は神は真理を一つも説かなかった事になるし、この世界を見捨てていた事になる。

 そして、生長の家の真理は現在も生長の家教団のみが説いているのではない。生長の家以外にも沢山の素晴らしい覚者又は団体があって、それぞれ神に与えられた役割の中で真理を説いている。それは大宇宙の真理であるから生長の家の教団以外の団体や覚者が説いても生長の家の真理と言える。だから、生長の家は他の宗教(但し邪教は除く)を排斥も撃つ事もしないのである。生長の家の真理は生長の家のみ説いており、他の団体又は人物の言っている事は全て間違いであるという事をもし生長の家が言ったらそれはもう生長の家ではない。

 だから、生長の家以外の人物や団体に救われる事も大いにあり得る。それで良いのである。そして、最も大事な事は本当の救いは自分の中にあると言う事である。それは自分の中にのみ神の国があるという事である。その事こそが聖経「甘露の法雨」にあるキリストの教えであり、生長の家の真理である。だから、生長の家の本に書いてある事に字面にとらわれてはならないのである。その最もとらわれているのが教条主義、原理主義に陥る事である。生長の家の本の一言一句そのものが真理そのものであるとする考え方である。本当の真理即ち神の国は吾等の中にのみある。それが本当に生長の家が説いている事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-17 12:32 | 信仰 | Trackback | Comments(3)

悟るというのはどういう事か。

 人生の目的は生命の実相を悟る事にある。その為に吾々は何十回も生まれ変わって来て、色々な経験を積むのである。その経験こそが実相顕現の道である。人生の様々な経験を通して、吾々は自己の生命の実相を悟り、宇宙の本質を悟って行くのである。そして、その中で必ず導き手と言う方がいらっしゃる。
 それが釈迦、キリスト、谷口雅春先生などの所謂、宗教的天才である。これらの宗教的天才は神が人類の悟りの為に使わした神の使者である。しかし、その偉大なる聖者であってもそれは吾々の内なる生命の実相の展開の中の一登場人物に過ぎない。悟りの本体は吾等の中にある。吾等の中にある神の国にある。それが自分で出て来て展開する中で悟りがあり、救いがある。

 そして、吾々は導き手の導き、そして生長の家などの導き手を中心とした組織の指導により、色々な宗教的修行をして行く。その中で生命の実相を悟るのであるが結局、悟るという事は「ああしてこうしてああする事で心を清めて、それで病気を治して、実相を顕現させて、それでやっと幸福になる。救われる」とかではなくて、今、そのままでここがそのまま神の国であるという事を悟る事である。自分の人生が実は神が歩んで来た完全円満な人生であって、何の落ち度も無かったという事を悟る事である。何も「今、このままで」悪いもの、恐いもの、恥ずべきものが無かったという事を悟る事である。「そのままでよい」と悟る事である。現象はナイという事はこのままでここがそのまま神の国、実相世界で何ら問題が無かったという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-14 12:58 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(43)

 実相は自分で出て来るのである。そうでなければ我(が)の働きになるのである。実相顕現は我(が)の無理な働きによるのではなくて、神にのみされるのである。それが実相は自分で出て来るという意味である。

 実相が自分で出て来る過程というのはどういうものであろうか?それは先ず観念的な実相独在の悟りが芽生えるのである。それはその悟り自体が自分の実相そのものである。実相そのものである悟りが自分で出て来て先ず観念的な悟りとなる。そして、その悟りは躍動、生長そのものであるから徐々に具体的悟りとなって発展して行く。それが又実相は自分で出て来るという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-13 13:34 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真の天皇信仰とは

 谷口雅春先生は御著書「無門関解釈」の中で「私は今でも天皇信仰を持ち続けているのである」という事を述べておられる。

 生長の家は天皇信仰である。そして、そのご本尊は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)である。そして、その現れが日本国の中心である天皇陛下である。しかし、生長の家の神様は住吉大神であり、それは宇宙浄化の神である。言い換えれば生長の家の主齋神は天之御中主神であり、副主齋神は住吉大神である。

 ところで谷口雅春先生は「無門関解釈」の中でキリスト教も仏教も実は天皇信仰を説いていると仰っている。それを説かないただ空のみを説く信仰は準備段階の信仰であると説いておられる。真の信仰はキリスト教であるにせよ仏教であるにせよ天皇信仰に通じるのである。それでは天皇信仰と言うのは何かと言ったら、現象の日本国とその中心である現象の天皇を現象として崇めるというものではない。そうであるならば神武天皇より以前の世界、釈迦が誕生した頃の世界、宇宙において釈迦が天皇信仰を説くというのは矛盾である。釈迦が説いたのは中心帰一の理念であり、それが神道的には天之御中主神であり、そしてそれが宇宙の中心である。それが神様の最高理念である。それを説いているのが生長の家である。そして、それが現象的に現れたのがこの現象日本である。
 真の天皇信仰はこの現象日本、現象天皇のみを尊いとするのではなくて、宇宙の中心である神の御心が尊くてそれをひたすら信仰するという事である。
 それが戦後まもなく雅春先生に天下った「大和の国の神示」に示された事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-13 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

一切の責任は吾が内にあり

 我らは自分以外に原因を求めてはならないのである。自分以外に何か自分を不幸にしうる存在があると思ってはならないのである。吾と吾の展開以外に何も無し。

 一切は吾が内にあり。神の国は吾が内にのみあり。吾等の実相が展開するのも吾以外の何者かにより、外側から形成されたと思うのは迷いである。吾等の実相が展開するのは吾等の内なる実相そのものの展開以外あり得ないのである。神の国は吾が内にのみあるからである。吾等の実相が真に顕現し、救われるのは吾等の実相が自分で出て来る以外、あり得ない。その展開が現象的には偉大な師の導きとなって現れ、吾等がそれに導かれ救われるという事になるのである。自分と離れた外側から偶然運良く救われている様に見えるがそれは決してそうではない。吾等の内に全てがあり、それが自分で展開して来て救われるのである。
 
 そうでないと自分はその外のものに対して、終生依存し、借りを返し続けなくてはならないという負い目を感じ続けなくてはならないのである。それは神の子の自覚ではない。神の子の自覚は神の自覚である。それはなにものにも依存せず、頼らず、そのままで自立し得ると言う自覚である。それは吾と吾の展開以外一切無しの自覚である。その自覚の中に真に師に対する、親に対する、先祖に対する満腔の感謝が出て来る。そこにこそ内側からの悦びの報恩感謝の心と行いが出て来る。何故ならば一切は吾が内の神の国において一体であるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-10 07:04 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

我らの内なる本当の生命は今、完全円満である。それをこそ悦ぶべし。

 吾々は無限生長する中で色々な経験により、この生き方が本当だと分かって、今までの悪習慣が消え、それにより潜在意識が清まり、肉体の状態が良化し、実相顕現する。しかし、その事が救いの本体ではない。現象の実相顕現は元々救われている完全円満の実相生命が自分で出て来る結果に過ぎない。
 
 現象の実相顕現が我(が)の励みにより為されて、それにより実相生命が後から救われるのではない。そのままで今完全円満の実相生命しかナイのであり、その実相生命が実相生命する事により、無限生長して、それが日々の生活の中で色々な経験となり、それにより具体的にこういう生き方が本物であったと痛感し、それで自ずと生活習慣が改まる。それにより実相顕現がある。それが実相は自分で出て来るという事であり、そして、それが実相独在と言う事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-09-09 07:08 | 信仰 | Trackback | Comments(0)