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人間の根本の迷いは自分が生きていると思う事である。

 人間の根本の迷いは自分の人生というのは自分が生きていると思う事である。それはどういう事かと言うとこの自分の肉体の生理作用を始めとして、自分の一挙手一投足、そしてそれが作り上げる自分の人生というのは自分というちっぽけな肉体、我(が)がちっぽけな頭脳を使って、自分で生きているという迷いがあるという事である。
 我々は一瞬でも神でなかった事など無いし、これからも無いのである。我々は今、完全円満、無限力の神であり、我々が生きるという事は何時でも完全円満の神がここにあって生きるという事なのである。そこにこの吾等の人生がただの人生ではなくて神の生、即ち神生であるという事が分かるのである。吾等は神の生命であり、言い換えれば何時いかなる時も宇宙に拡がる神の大生命に生かされているのである。それなのに自分という我(が)が生きている、このちっぽけな肉体の頭脳が勝手に判断して生きていると思う事が迷いであり、そこから全ての苦しみが病気が災厄が出て来る。全宇宙を完全に司って、大調和している神の生命に今、完全に生かされた神なる自分であるのにそこから離れた存在であると自分を勝手に自己限定して勝手に自分で生きていると思う所に人生の重圧責任を担う事が出来ず、逃亡的人生を送るか重圧に押しつぶされるだけの苦しい人生になってしまうのである。ましてや生長の家の生活といういと高き生活法をその肉体我が出来るはずがないし、人類光明化なんて崇高で全宇宙に拡がるべき運動をちっぽけな肉体我が出来るはずがないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-10-30 23:11 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

ボールを良く見ろ?

 僕はテニスをやりますが大学時代は美術部の他に野球同好会にも所属してました。それでバッティングとかテニスで必ず言われるのが「ボールを良く見ろ」って教えです。でもこれはっきり言って間違いです。確かに王選手とかボルグ選手のボールを打つ瞬間の写真を見るとボールを凝視している様に見えます。でもこれは「ボールを良く見よう」としているのではなくて「打つ瞬間に集中してる」んです。

 僕は雅宣先生の「マルチタスクはほどほどに」の御文章で今まで自分が如何に今をおろそかに雑に生きていたかを知り、改める事が出来ましたが、それって僕のそれまで悩んできた記憶力、判断力、運動バランスの低下の原因だった事が分かり、それからは今をじっくり味わう要するに今に集中する事で何でも出来る気がします。

僕は目覚める前は我(が)が強かったのです。それは気が焦って「オレかオレが」とせいていたので先へ先へと思って、今に集中してなかったからテニスも上手く行かないし、英語のリスニングなんかでも頭に入って来ないから分からなかったのです。

※以上は生長の家のpostingjoyに私が投稿した文章である。これに解説を加える事とする。私は今まで神に生かされているという自覚が観念的にはあったがそれが自分の普段の行動として表面に出て来ていなかった部分があるので何をするにも「私が、自分が」という我(が)の力みがあったのである。だから、今を味わって生活せずに意識が先へ先へと焦っていたのである。そこには神が出ていないから無限力を発揮する事能わずして、色々と難儀があったのである。しかし、私の中から神がいよいよ自分で出て来て、ますます顕在化して来たので私の我(が)が消えて、今に集中する生活となった来たのである。それ我(が)ではなくて、神が自分を噴出口として吹き出ているのである。繰り返すがそれは私という我(が)ではなくて神がおやりになっているのである。
 だから、そこに無限力が発現して来て、色々な事に無限力を発揮出来る様になって来たのである。そうなれたのは全て、私の中の神がご自分で出て来てますます顕在化して来たからである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-10-29 15:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

現象は不完全である。

 生長の家の教えは実相と現象を明確に区別しますね。実相は完全円満でそこに住む人は皆、無限力でいい人ばかりだが、現象は吾々人間の念の歪みにより完全なものとしては現れていないと。

 これ、頭で分かっていても中々実生活だと分かるのは困難ですね。僕は昔から理想が高いので自分の仕事にも趣味にもそして人に対しても理想を求める所がかなり強いです。それって苦しみになります。所謂完全主義ってものです。これ特に人に対して、相手が理不尽な事をしていると「赦せん」って感情になります。
 適当にこの位でいいわとお茶を濁せば悩みとか苦しみとか憎しみは生じませんが完璧を求めると現実とのギャップに苦しみますね。

 ところで僕は家族、会社、地域、趣味の仲間、そして今回は大学時代のクラブのOBの先輩後輩ともつきあいが出来て色々つきあいがありますが、僕は人と付き合っててその人の嫌な部分、不完全な部分が分かって来る事があります。そうなると「あ!この人嫌な人だ。」って思ってしまうのです。でもこれって理想即ち神とか神の国を現象に求めるからですね。

 これは聖経「甘露の法雨」に説かれていて散々読ませて頂いた「神の国は内にのみあり。外にこれを求めるものは永遠にこれを得る事能わず」って事だと思います。理想を外の世界即ち現象に求めるのは間違いだって事ですね。理想は現象に求めるのではなくて内なる実相世界にあると自覚する事が大事だって事です。

 現象世界ではどんな聖人でも「無くて七癖」と言われている様に何らかの不完全な部分があるのです。要するに現象は不完全と思って、目に映る人が不完全で嫌な部分があるからと言ってその人に絶望せず、その人の実相を観て、現象は自分の心の歪みが映っているだけだと思って否定する事が大事ですね。

堀 浩二
by koujihori | 2010-10-27 10:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家の真理は頭では分からない。

 生長の家の真理は頭では分からないのである。頭でいくら理屈をこねくり回しても分からないのである。生長の家が日本国天皇及び日本国実相顕現という事を運動の全面に押し出さなくなって久しい。しかし、生長の家の本尊は天御中主神であり、その現人神は日本国天皇である。そして、我々生長の家の信徒は自ずと今上陛下に対して仰慕の念があるし(それは全ての日本人が心の底では同様である)、建国の日はお祝いし、生長の家の本部でも祝賀式が行われる。

 それは全て自ずと行われる事であり、しかし、現在の運動方針としてはその事は全面には出てこないのである。それがどうしてそうなるかと言ったら、それは現在は最も神の運動としての生長の家が取り組むべき喫緊の問題が紛れもなく地球環境問題であるからである。それは神の御意志である。

 でもそれでも生長の家の運動は天皇日本を強調する事であり、その最も大事な事を今の生長の家は忘れているなどという声は出て来ている。それ全て頭で考えているからである。生長の家は、生きた生長の家の運動は頭では分からぬ。実際に神の運動の中に自分をおいてみて初めてそれが理屈でなく実感で分かるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-10-21 22:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今の人生は前世の成績表?

 生長の家では自分の今生の運命を作るのは50%が前世の成績により、25%が高級霊などの導きにより、そして残りの25%は自分の今世における努力によると教えている。

 確かにそれは正しい。今世での生まれは前世の業による所が非常に大きいのであり、社会に不満ばかり言っている様な人は死んだら次生ではアフガンなどの戦争地域やアフリカの極貧国などに生まれ、そこで平和と言うものが如何に有り難いかという事を学ぶ様に出来ている。

 そうなると今世では如何に努力しても半分は前世の自分の成績によるのであるから、今世では自分の病気とか障害とかが治るのは難しい、今世は諦めて、せっせと今世は善業を積んで来世で幸せになりましょうなんて事になりかねないのである。でも、それは生長の家の教えと違う。生長の家は今の教えなのである。
 今ここが神の国であり、常楽の世界であるというのが生長の家の神髄の教えである。そうなると現象と実相は違うのだから、現象はすぐに幸福にはなれないが実相ではこのままで完全円満であるから現象は不幸でも実相は完全円満であり、それで納得せよって事とも取れるがそれも違うのである。

 今ここ実相世界であり、常楽の極楽浄土であると言うのはそんな観念的な話ではない。正に今ここ形ある姿でありありと感じ取れる人には感じ取れるのである。そんなものは前世からの業など超越している。しかし、これ以上観念的な事を書いても仕方が無いのでここで具体例を出す。私は生まれながらの前世から引きづった業がある。それは私の性格的、精神的なものである。具体的に言うとかなり感受性が強くて良い意味でも悪い意味でも非常に感じやすいのである。だから恐怖心や迷いも非常に強かったと思う。しかし、それが私の求道を深めてくれたのであり、又更に他の人ことに生長の家を真面目にやっている人の悩みとかがとても分かるのである。そして、そうした中で求道させて頂いて得られた事を私は自分の同志に発表する事が出来るのである。これ全て私が前世から引き継いだ一見、ハンデとなる様な業があったればこそである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-10-20 17:41 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

生長の家落第?

 生長の家には生長の家の生き方がある。それは「取り越し苦労するな」「朝の時間を生かせ」「人の生命の実相を礼拝せよ」等々。
 しかし、ある人が言っていたが「分かっちゃいるけど出来ない」って言う現状がある。又、感謝が足りないとかと言って、それで他人を審く人もいる。恐怖してはいけない、恐怖すると力が出ないし、病気は治らないし、恐怖した事が出て来てしまうからと言われても恐怖してしまうのである。

 そうなると恐怖せず、常に大安心で感謝も出来るという人は良いが自分が元々生まれつきのトラウマとかがあって、恐怖心が人一倍強い人などは恐怖すまいと努力しても恐怖心が克服出来ず、従って、運命も健康状態も良くならないし、能力も発揮出来ないなんて事になる。そこに「ああ、生長の家の真理や生き方は素晴らしいが自分の様な弱い心の人間にはとても無理だ。自分は生長の家の落伍者だ」なんて事にもなりかねないのである。

 しかし、こんな事が生長の家であろうか?否々、そうではない。人間は根っから元々恐怖心の強い人間などいないのである。それなら何故現実的に勇敢な性格の人と臆病で恐怖しやすい人との差があるかと言ったら、その臆病で恐怖心の強い人というのは元々恐怖心が強いのでも無ければ、生長の家の生き方の落伍者でもない。その人の本質は大安心そのものであって、勇敢そのものであって、まだ時期が到来せずしてその人の勇敢で大胆、大安心の実相が出て来ていないだけなのである。恐怖心と言うのは一種の迷いであるから、迷いは悟りの基礎工事であるから、恐怖心が強いのは大安心であるその人の実相が出て来る基礎工事期間である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-10-08 13:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

問題はナイ(14)

 問題はナイのである。何故ならこの世界が完全円満、普遍なる神が創造してい給う世界であるからである。今まで一度も問題が起こった事も無いし、これからも起こらない。大調和の内に全ての存在が生かし合っているのである。問題がアル様に見えるのは自分の心の歪みにより、そう見えるだけである。そういう時、「あ、問題がある。何とかしなければ」と思って、問題を心でつかむから問題がいくら努力しても消えないのである。
 そうした時は「このままで問題はナイ。神が既に解決して下さっている」として、問題を神に全託すれば良いのである。

 問題は神が消して下さるのを実感するであろう。

堀 浩二
by koujihori | 2010-10-05 21:52 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

外はナイ(2)

 自分と離れた自分以外のものに救われるという事は実はあり得ないのである。その救ってくれた相手が如何に偉大な存在であっても。自分以外に何か偉大な存在があるという事であるならば、自分の中に神は無いという事になる。そこに真の神への感謝など無いのである。そして、もし、自分とは別物の自分以外のものに良くしてもらった、救われたという事になるならば、その自分以外のものへ吾等は屈従する事になってしまうのである。

 自分以外の外部から駄目な自分が救われた、良くしてもらったという考えは元々完全円満の神が自分の中にあり、そのままで万物を生かしているという信仰とは違う。今のそのままの自分が不完全だから、外部から良くしようという考えであり、それは完全円満、普遍なる実相独在の信仰ではない。そして、そこには真の感謝も無い。
 感謝とは無条件に内側から宇宙普遍の神に生かされていたという感動そのものであるからである。だが現象的には師に救われる事も友人その他の人から救われる事がある。それは自分以外のものに外側から救われた様に見えるが実は自分の内なる神の展開としてそう見えているだけである。それが分かった時、真に、その救ってくれた師や友人に感謝が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-10-01 21:33 | 信仰 | Trackback | Comments(0)