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自分で生きているというのが我(が)であり、迷いである。

 南こうせつさんてご存知ですよね。「神田川」は名曲です。それで氏の歌の歌詞にこんなのがあります。「自分の過去を振り返るに恥ずかしい事で一杯さ♪」と。これ、とても共感しました。南こうせつさんも素晴らしいアーティストですからこうしたナイーブな男の心情の機微を歌にしたのだと思います。
 持ち越し苦労ってありますよね。自分はあの時あんな事をしたがあれは間違っていたのではないか?誰かを傷つけたのではないか?とか又、明らかに失言とか失敗をしてしまった事とかそういう事を思い出すにつれ、「恥ずかしいー!」って思う事あると思います。それで大抵はそれを良くしよう、名誉回復しようと頑張る。これが我(が)なんです。そして迷いの正体です。僕達が生きているのは我(が)が頑張って生きているのではない。神が生きている。神に生かされている。それ以上でも以下でもない。ただ「神に生かされている」のです。それは何時いかなる時もそうです。失敗した、恥かいたと思う瞬間でもそうです。それをそう思わないで自分で生きていると思うから、「あの時、失敗してしまった。穴があったら入りたい位だ。ああやり直したい」なんて思う訳です。それが我(が)なんです。繰り返しますがそれが迷いです。
 実相は何時いかなる時も自分で生きていたのではない。神に生かされ、神が自分をして生きていた。何時いかなる時も。だから、持ち越し苦労は要らない。後悔も要らない。短期的、近視眼的に見ればいくらでも不都合はあるでしょう。失敗に見える事はあるでしょう。でもそれは時間軸空間軸を拡げて神の観点かれ見れば失敗ではない。全て良き成果につながる良き事ですね。

堀 浩二
by koujihori | 2011-09-17 22:08 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

真の中心帰一の信仰はどこから来るか

 聖経「甘露の法雨」には「神の国は吾が内にのみあるなり。外の国に神の国を求めるものは永遠にこれを得ることあたわず」とある。これは生長の家の信徒なら毎日、読んでいる所であるが途轍もない深遠な真理であるのである。
 生長の家の本を読むとときたまそれにとらわれる事があるのである。子供の育て方は幼児教育が大事であるとか書いてあるのを読むと自分が性格が弱いのは親の育て方が悪かったからだなんて落ち込んだり、親を裁いたりする人も出て来るのである。神の国は吾が内にのみあるなりという事は真理は自分の中にのみあるという事であるのである。そうでないと如何なる聖人の言葉でもそれにとらわれる事になるからである。如何なる素晴らしい師が自分に素晴らしい教えをしてくれたとしても自分以外に師という別の存在がいて、それが自分を救ったのではないのである。自分の中の神が師を通して自分を導いたのである。
  一切の外界は無い。一切の師も親も仏も自分の外にない。全て自分の中にある。そしてその自分の中にある神の国をそして真理を自覚した所、却って師を奉り、親に感謝し、仏に生かされ導かれている事を実感出来るのである。そしてそこに生長の家総裁・副総裁に対する真の中心帰一の信仰姿勢が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2011-09-07 15:18 | Trackback | Comments(0)