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元々感謝している。

 生長の家では親に感謝を盛んに説く。しかし、腹に据えかねる事、理不尽な扱いをされる事だって現象的にはあるのである。
 だが、「現象の親はナイ」のである。現象の親をアルと思って、祈りでなんとか自分の心を納得させて感謝しようと思って、「ああ、やっと祈りが効いてきた」なんて思っても、そんなもの一気にチャラにされる様な理不尽な事がわっと襲ってきたら吹っ飛んでしまうのである。

 現象はナイ。現象の親はナイ。だからそんなものに引っ掛かってはいけない。それを悟るしかないのである。これから感謝するのではなくて今そのままで感謝であるのである。それは神において自分と親は一つ命であるからである。大体、親だから元々愛しているからその理不尽さに腹が立つのです。隣の親父が同じ事をしても大して腹は立たないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2011-12-09 22:43 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

やっぱり正しい信仰って大事だな

(生長の家のポスティングジョイに書こうと思ったけど事務局からクレームがつきそうな内容なのでこっちに書きます。)

 柔道、金メダリストの内柴選手が準強姦罪容疑で逮捕されましたね。いくら柔道が強くても人間駄目だって言う事が良く分かります。テニスの世界なんかでもテニスだけ強くて、勉強がまるで駄目なんて子はプロになり損ねるとパチプロになったりするなんて話も聞きます。スポーツだけ出来て勉強をしない、ましてや人としての一番大事な信仰が無いとやっぱりこういう事になるんだと思います。
 僕も男ですからこういうシチュエーション(お酒を呑んで何となくそういう雰囲気になる)っていうのは分かります。でも信仰を持っていると先ず理性で「いけない」と思うし、例え、それでも誘惑に負けてしまう(極真空手創始者、大山倍達氏はアメリカで武者修行している時、マフィアの家でいけないと知りつつ、誘惑に負けて、金髪美女と関係を持ってしまったと述懐してます。)事があってもそこは守護霊が護ってくれるという事があると思います。

堀 浩二
by koujihori | 2011-12-09 12:13 | スポーツ | Trackback | Comments(2)

無限即有限、有限即無限

 吾々は今、神の子であるのである。これからではない。という事は今、無限力量人という事になるのである。だが、それなら誰でも200kgのベンチプレスが上げられるかとか100メートル10秒以内で走れるかと言ったらそんな事はもちろん不可能である。
 これは今、完全円満だが、その表現段階は人それぞれ段階があるという事なのである。従って、人間は今、自分に与えられた課題で無限力を発揮するという事になるのである。自分に与えられた課題というのは実は過去の自分が自分の心で作った問題である。しかしながらそれは同時に神が自分に与えて下さったものであるのである。そして、それはその時の自分に丁度良いレベルの問題しか出てこないのである。言うなれば、現在与えられた課題は解決出来るものしか与えられていないという事になるのである。例えば小学生の野球チームなら小学生の大会で小学生同士の試合で無限力を発揮するのであって、それがいきなり、大リーグのニューヨークヤンキースと対戦しなくちゃならんという事にはならないのである。それは小学生レベルに限定されている。要するに有限なのである。そして、その有限のレベルの中で無限力を発揮するのである。それが無限即有限、有限即無限という事なのである。
 だから、「私は出来ません」などと諦めてはならない。「人間の成功不成功は途中で諦めるか否かである」とはあのアップルのスティーブ・ジョブズ氏も言っているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2011-12-08 17:38 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

般若の智恵に目覚めなくてはならぬ。

 般若の智恵と言うのは内側から自由自在に沸き起こって来る本当の智恵の事である。これに目覚めないとどうにもならないのである。そうでないとその相手がどんなに偉大なお方であろうと「誰々先生はこう仰った。」という言葉尻にとらわれてしまう事になるからである。そうなったらその時点でその人は奴隷と堕してしまうのである。生長の家の教えはそんなものではない。
 真理の言葉というのは有限なものであって、Aという表現とBという表現が言葉尻だけ見るとまるで反対の事を言っている事があるのである。コーランには「敵を見つけたら叩き殺せ」という言葉もあり、その他には寛容の徳を説いた部分は沢山あるとの事である。
 聖典にこう書いてあるからこうだと思うのはその言葉にとらわれている、言うなれば奴隷みたいなものである。真の信仰に目覚める為には般若の智恵に目覚めなくてはならないのである。それは表現された言葉以前の真理そのものからその時、その場、その相手に応じて自由自在に出て来る智恵であるのである。それを発見するのが真の信仰であり、それが本当の生長の家であるのである。それは必ずあるし、それを必ず発見する事が出来るのである。それは何かと言ったら吾々の中にある「実相」であるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2011-12-06 12:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

無限力の発揮とは

 吾々は神の子である。神の子とは神の事であり、神とは完全円満、無限力であるから、吾々も今、完全円満、無限力である。しかし、だからと言って、誰でも百メートル10秒以内で走れるとか、200kgのバーベルを持ち上げる事が出来るかと言ったら、もちろん不可能である。しかしながら、誰でも今、完全円満、無限力なのである。それはどういう事かと言ったら、実相は完全円満、無限力であり、それは正に今、ここにある。しかしながらその表現は有限化されて行われる。無限が無限のままであるならば、それは巨大すぎてあるやらないやら分からないものになるからである。
 そして、その表現は段階を持って、過程の中で行われる。言い換えれば、今、目の前の事に全力を投じる事が今における無限力の表現である。そして、その今、目の前に与えられた課題は必ず出来るのである。それは無限力の表現であるからである。そして、その今、与えられた事に全力で傾注する事が無限生長であり、現在の自分に取って最もふさわしいトレーニングとなるのである。
 そして、現在の段階のトレーニングを積んで行けば、次の課題が呈示され、より高度な力の表現かつトレーニングが行われて行く事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2011-12-03 22:24 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

結果はどうでも良い。

 現象はナイとは生長の家の教えの根本である。だから、それの善し悪しにこだわる必要は無いのである。それを良くしようとするのが我(が)である。生長の家は実相独在である。今、ここがそのまま神の国であり、自分は今、そのままで神であり、完全円満であり、無限力である。そのままと言っても現象として映っているそのままではない。現象はナイ。実相そのまま、完全円満そのままが今、自分としてここにいる。そして、その完全円満の自分が完全円満して、全力を尽くす事が尊いのである。結果は問題ではない。
 それが分かれば、失敗に対する恐怖は消える。人からどう思われるかなど気にする心も消える。他人に負ける事をくやしがる小さな自分も消える。今、ここに無限の神が自分を噴出口として息づいているのである。それに気付けば、ただ悦びでいられる。

堀 浩二
by koujihori | 2011-12-02 08:07 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)