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そのままでよい(40)

 そのままでよい。そのままであれ。良くしようとしなくて良い。今、そのままでよいのである。時々、過去の心の残像で難局は出て来るのである。しかし、その問題を心につかんではならぬ。そのままで内側からの神の導きのままにしておればよい。
 過去の心の残像である難局というのは過去の自分が自分の生長の為のトレーニング台として心の力を駆使して作り上げたものである。だから、そこで自分に示された課題というものがあるから、それを良く感得して、改めて行けば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-05-24 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

問題は神が消して下さる(12)

 私は何か問題とか悩みが出て来ると神様に全託する。自分が心を整えてからとかそんな事ではなくて丸投げするのである。「神様、どうぞ宜しく御願いします」という感じで。

 そうすると自ずといつの間に解決しているのである。いつもそうである。それはどういう事かと言うと「この問題」「この悩み」と思ってそれを「自分の力で解決しなくてはならない」と思った瞬間、その本来、ありもしない問題を心でつかむ事になるからである。そして心の法則に従って、その本来ありもしない問題、悩みが出て来るという訳である。でもそうした心的態度だと、何かの拍子でその問題が別の悩みに置き換わる事がある。そうなると又、その次の問題、悩みで悩むという事になる。で以前の悩みとか問題なんて実際、存在しないのである。心がつかまなければ。

 以上は精神科学的な分析であるが、実相の面から見れば、実相独在である。実相独在というのは吾々が生きるのは自分で生きているのではない。神に完全に生かされているという事である。従って、問題も悩みも神が消して下さるのという事になるのである。そして、それが実相独在、神独在という事である。要するに全ての憂い、迷い、問題は神が神の責任で消して下さっているという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2012-05-16 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

ただ与えるだけが悦び

 人間、人にどう思われているか、人から何を受け取れるかと言う事に引っかかっている内は幸せにはなれないのである。それは「条件付き」の幸福感であり、達成感だからである。生長の家の「使命邁進の神示」にもその事は明確に説かれているのである。「人がどう思うだろうかという事にとらわれている様では駄目だ。神に認められようとのみするがよい」という事である。

 他からの評価とかそんなものをもらわなければ完全になれないという事ではなくて、何は無くても「今そのままで完全円満である」という事が実相であるのである。だから、それは「既に無限に満たされている」という自覚である。それが無いと欠乏感、孤独感、嫉妬、焦燥というものが出てくるのである。そして常に外部に求めるのである。人からの評価とか賞賛を。

 そんなものなくても「今そのままで完全円満」である。それが真の自立であり、自律であり、実相完全円満であるのである。その満足感、幸福感から、人に施したい、愛を与えたいって心の底から思うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-05-15 19:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

罪無し

 私は生きているのは自分で生きているのではない、神に生かされているのだと悟った時を境にして徐々に自分の罪の意識というのが消えて来たのである。自分が生きていると思うと自分のして来た事が間違いだらけに見える。そして多くの罪を犯したと感じるのである。そして、それを修正したい、やり直したい、贖罪したいと思うものである。それは小懺悔という意味でならそれで良い。しかし、大懺悔というのはこれとはまるきり異なる。それは自分は神であり、自分の生は神の生であり、過去一度も罪を犯した事が無いという実相を悟る事である。
 自分は神であり、同時に神に百%生かされているのであり、今も未来もそして過去もそうなのである。だから、自分は未だ嘗て一度たりとも間違えた事、罪を犯した事が無かったというのが実相である。自分で生きていたというのは間違いであり、それが迷いであり、そしてそう考える事が罪である。
 その迷いで歪んだ心で自分の人生を見るから自分の人生が間違いだらけ、罪だらけに見えるのである。私はその事を悟ったが故に完全に罪の意識、自己処罰の観念から解放されたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-05-14 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

吾が生くるは吾が力ならず。天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)

 吾々が生きているのは自分という我(が)が生きているのではない。宇宙に遍満する完全円満の神の御力が自分をして生きているのである。今、息をしているのも人と話すのも人の話を理解するのも全て、その神が自分をして理解し、判断し、やっておられるのである。
 自分で生きていると思うから苦しいのである。後悔するのである。取り越し苦労するのである。正しい生長の家の生き方をしようと思うが出来ないと嘆くのである。そして、人を救わなくてはいけないと強迫観念に駆られるのである。そして、自分の心を正しく歪みの無い様に常に注意していなくてはならないなんて考えるのである。
 自分ではない。完全円満、無限力、宇宙遍満の神がここに自分という表出口として生きている。吾々は生かされているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-05-08 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今、そのままで完全円満である。(12)

 今、そのままというのは現象そのままではない。現象というのは何かと言うと吾々の念の投影であり、実相そのものの事ではない。実相を如何に観るかという吾々の心の状態を映して「ああ、この世界はこんな世界だ」と思っているのである。

 だから、吾々がまだ魂が幼くて「この世界は冷たい世界だ。恐ろしい世界だ。悲惨な世界だ。罪だらけの世界だ。」と思っていれば今、現に吾々が実相極楽浄土、一人も不完全な人間も罪人も居ないにもかかわらず、それが歪んで、冷たい人間、不完全な人間、罪深い人間に歪んで映って見えるのである。

 その映って見える世界は過去も含むのである。従って、吾々は今、完全円満、常楽の実相国土に住む完全円満、無限健康、一度も罪を犯した事が無いにもかかわらず、「人間は不完全だ、罪人だ」と思って、心のレンズを歪ませていると自分の過去が罪だらけに見えるのである。そして、私はこれだけの罪を犯した、これだけ人を傷付けたなんて言う風に見える訳である。
 
堀 浩二
by koujihori | 2012-05-07 12:43 | 信仰 | Trackback | Comments(0)