<   2012年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

今、ここそのままで完全円満の実相世界である。

 生長の家は信仰によって、この世界を良くするものではない。救われていない人を救う運動でもない。それは「今、ここそのままで始めから完全円満の神の国であった。」という真理そのものなのである。
 これから信仰によって良くするのではない。これから救われいない人類を救うのではないのである。

 私の母は7月5日に他界した。86歳であった。母は生前から生長の家の信仰があり、私は幼い頃、この母によって生長の家を伝えられた。
 母は4月末から体調を崩し、徐々に身体が弱ってきて、6月には寝たきりになった。そして7月初旬に亡くなったのであるが、医者の見立てによると大腸癌だったらしい。それが末期だったというのである。
 母は2年半前に大腸癌の手術をした。私は母と大部、信仰の話をその際、した。その後、母は私の話に大部心が救われたと知人に話していたそうである。
 その後、一年検診で肺に再発したと言われても姉の知人の超能力者により「癌ではない。本人の自然治癒力が癌の再発を防いでいる」という見立てをもらい、私としては母は心が生長の家の信仰により安心立命、全託の境涯になっているから生命力、自然治癒力が出て癌を克服したと思っていたのである。
 しかし、母が先般亡くなった死因は大腸癌だったという。母は父が最近ぼけて来て、私を含め、息子達の悪口を再三、母にこぼすのでそれでかなりのストレスを受けていたらしい事を私は知っていた。だから、今回、母の大腸癌が再発したのは父が母に心労を与えた為、それは元を正せば、父に私の愚痴をこぼさせた私の罪であると何となく思っていたのである。
 しかし、実相世界にそんな事はないのである。実相世界は死は無く、母は大往生して霊界に転生しただけであるし、父は愛する母を心労で殺してしまうなんて事も無い。その心労の原因を作る様な愚かな私もいないのである。私はその事は分かっていたがどこかやはりすっきりしなかった。
 
 だが、母が倒れる直前に購入した「大往生したけりゃ医療と関わるな」という本があるのであるが、それを最近、詳しく読んで見た。そこには「癌は年取れば大方の人には出来る。それは老衰の一種である。癌はあの世からの招待状である。」とあった。
 そして「癌は痛まないのが本来である。その証拠に癌で手遅れになった人はそうなるまで気がつかない。癌が痛むものならどうして気がつかないのか」とあった。要するに「癌というのは自然治癒力が衰えた為、出来るので年取って身体の自然治癒力が衰えてくれば癌は出来やすくなる。癌は本来痛まない。それが痛むのは抗がん剤とか色々治療するからだ。だから、癌は安らかにあの世に逝けるあの世からの招待状なのである。」というのである。
 この様に年取ってからの癌での死は寿命なのであって、それは本来痛まない。それが痛むのは色々、先進医療で治療するからである。そして母の場合は私の地元のこの上なく良心的な訪問看護医のお陰で一切の不自然な延命治療をする事無く、自然な安らかな他界が出来たのである。
 母は完全に神に護られ、ご先祖に導かれた最高の大往生だったのである。正にストレスを与えた父も私も癌という病気も無かったのである。それが実相である。そして、その実相通りが正に今、ここで展開されたのである。その事に私の目が啓け、悟る事が出来たのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-08-29 17:59 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真の先祖供養

 本当の先祖供養とは現象をアリと認め、霊界で救われていない祖先の霊魂をアリと認め、それを救う為に行う行為ではない。
 もし、そんな現象アリの心で先祖供養を行うならば、祖先の霊魂は無数あるのであり、現象的にはどのような状態で霊界に暮らしているのかとても分からない。それらの迷った霊魂を全て漏れなく完全に供養で救う事などとても出来ないのである。
 生長の家は現象ナシの教えである。それは先祖供養の時も全く同様である。実相独在、現象ナシの生長の家の神髄と先祖供養は全く矛盾しない。
 真の先祖供養は現象ナシと一刀両断し、実相独在、今ここ完全円満実相常楽国土であるという自覚の元、そして神の生命としての一切のご先祖様を拝み、感謝する心の中から自ずと自然発生的に「ご先祖を供養して差し上げたい」という真の供養の心、感謝の心から行われるものである。そこには供養漏れは無いか?この供養の仕方で本当に効果があるか?なんて疑う心は存在しないのである。
 始めから全てが救われている実相世界に住む一切のご先祖様を拝む心、心から供養して差し上げたい心が自ずと働いて行われる供養が真の先祖供養である。

堀 浩二
by koujihori | 2012-08-22 22:03 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

ただ神の栄光が顕れんがため。

 キリストが「この子の盲目なのは本人の罪の結果であるか、親の罪の結果であるか」とある人に問われた時、こう答えたのである。
 「神の栄光が現れんがため」
 と。
 聖経「続々甘露の法雨」にも
 「この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索することなかれ。病本来無ければ病の原因も本来ナシ」と書かれている。
 表面上は色々紆余曲折はある様に見えてもこの世界は神の世界であり、神と神が顕れる事しか無いのである。その過程では肉親や伴侶の死もあるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-08-19 13:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

死はナイ

 生長の家の教えの根本は「肉体ナシ、病ナシ、迷いナシ、死ナシ、現象ナシ」である。私は最近、死はナイというのが母の他界をきっかけにしてようやく実感で分かって来たのである。
 死はナイ。それは単に霊魂が肉体から抜け出て、現象界の人間から現象的に認識出来ない状態になったに過ぎない。要するに現象界から幽界、霊界と次元の違う世界に転生したに過ぎない。だから死んだのではない。死はナイのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-08-14 13:41 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出てくる。(47)

 私はやっと母の死が肯定的にとらえられる様になって来たのである。母は先月7月5日に他界したがそれは癌によるものであったのではないか、その癌のストレスの原因を作ったのは自分ではないのかと多少悶々としていたし、又、何と言ってもこの上なく愛する母がこの世から消えたという事が正直言って悲しくて悲しくて仕方が無かった。
 しかし、それらは全て、実相の展開であったと今はっきり分かるのである。人の死は教化の意味があると言うが私は母の他界でどれだけの教訓と魂的生長を得られたか分からないのである。一つには会社やその他の人達に笑顔で接する事が出来る様になれた。そして、今回母が倒れた事により父の認知症がひどいものになり、いったん途方に暮れたがその事によりそれは全て自分の心を映す観世音菩薩様であると分かったのである。
 そして、父が攻撃的、凶暴になるのは正に自分の姿であると感じ入り、私は自己の心的態度、言動、そして態度を心から反省する事により、私の本来穏やかな実相が自分で出てきたのである。それと同時に父が本来、神の子で優しい理解ある人間であるという事も実感出来たのである。父は今では私の認識通り、好々爺になり、そして最近、よくものも憶えられている様であり頭もしっかりして来た様子なのである。
 これらの事は母が倒れた事それに続く逝去が無かったら到底、実現する事ではなかったのである。それは正に「実相が自分で出てきた」事であり、今回の母の逝去は不幸な事でも何でもないのである。そして、母の魂は個性を保ったまま霊魂として今後、霊界で生き生きと営みを続け、母の更なる飛躍へのステップにつながっているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-08-10 22:47 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

現象はナイ(3)

 現象はナイ。自壊作用はナイ。病気はナイ。死はナイ。迷いはナイ。信仰とはそれらをアルとしてそれを良くする為にするのではない。それらがナイとした上でそこから湧き出る悦びから自ずと発生する働きである。
 そこから他に対する愛行が生まれる。親に対する孝養が生まれる。先祖に対する供養が生まれる。

堀 浩二
by koujihori | 2012-08-09 12:46 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(47)

 道に準じようと思っても悪性(あくしょう)更に止みがたし。
 という言葉がある。人間、真理(道)に準ずる生き方をしようと思っても中々出来ず、気がついて見ると我(が)が出て、道を踏み外してしまうという事を昔の修行者が嘆いた言葉である。

 人として、生長の家式に言えば神の子として、生長の家の生き方にかなった生き方をするのが正しいと分かっていてもそれが中々出来ないというのが現実なのである。それでは何故出来ないのか?
 それは我(が)が頑張ってやろうとしているからである。我(が)には何も力が無いからである。実相が実相する以外、実相が顕現する事は無い。要するに実相は自分で出て来る以外、顕現する道は無い。
 
 実相は自分で出て来るのである。だから、そのままでよい。色々な人生経験の中で「本当の事はこうだな」という実感と共に出て来るのが実相である。

堀 浩二
by koujihori | 2012-08-08 09:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

足るを知る

 人間、「足るを知る」って言う事はとても大事ですね。何か現在の自分に欠乏を覚えて、「もっと欲しい」「もっと良くしたい」っていう風になるのは駄目ですね。
 今沢山の恵み、例えば空気、水、食べ物、衣服、布団などふんだんに与えられているのにそれに目を向けず、自分の小さな欠点に引っ掛かる。そして、それが容姿だったら、「私のこの目がもうちょっと大きかったら」とか「私のこの鼻がもうちょっと高かったら」とか「もうちょっと小顔だったら」とか思う。

 そして、それを良くしようとしてもそんなものいくら良くしても果てしがないのです。何故なら、現象世界は自分の心の影だから、自分が今与えられている神の恵みに気づき、感謝するという心にならない限り、又、不足の状態を映し出して悶々とする。

 今、ここが神の国である、今、自分が神の子完全円満であり、無限力である。この生長の家の真理が如何に尊い事か。そして、「これから信仰で先祖供養で良くしよう。そして良くなったらその時、悦びましょう」じゃなくて、「今そのままで神の子完全円満、無限力」という真理をそのまま受け取れば良いのです。そして、それを今悦ぶ。

 それが足を知る、一番のツボです。その信仰を拡げる事。その光の輪が拡がっていけば、人類の「もっと欲しい」「もっと良くしたい」「もっと快適に」という欲望追求の心、人から奪う心、人を妬む心は消え、地球環境は良くなり、原発の必要性も無くなり、愛に満たされた状態になります。

堀 浩二
by koujihori | 2012-08-07 12:30 | 環境問題 | Trackback | Comments(0)