<   2012年 11月 ( 7 )   > この月の画像一覧

自分が変われば世界が変わる。

 「自分が変われば世界が変わる」というのは宇治の生長の家の練成道場に掲げられていた。現在は掲げられているかは不明であるが。

 この世界は今そのままで完全円満の神が遍く満ちている神の世界であり、全ての生きとし生けるものは全て完全円満であり、不完全なものは一つもない。それがそう見えないのはひとえに自分の心のレンズが歪んでいるからである。だから、これからこの世界を周囲を良くする必要は無い。今そのままで全ての人は大調和で完全円満で無限健康なのである。
 
 それを見る目を単に自分が養えば良いだけの話である。罪は世界とか他人にあったのではない。自分にのみあったのである。罪と言ってもそれは犯罪という事ではない。自分が実相を包み隠していた。という事である。
 その包み隠しを取るとは何も難しい事ではない。自己の「そのままで完全円満の神なる実相」を自縄自縛して自己限定しなければ良いのである。自縄自縛の自己限定とは「自分はそのままでは不完全で恥ずかしい存在である。それを何とか良くしなくてはならない」と自己の不完全を心でぎゅっとつかむ事である。それを「今そのままで完全円満である」と信じて、任せて、勇気を持って、そのつかみ、自己限定を解放する事である。しかし、それはある意味、勇気の必要な事である。しかし、その勇気も神が与えて下さる。実相は自分で出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-11-26 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

自分の人生そのまま神の生である。

 吾々は自分の人生を振り返るに顔から火が出るほど恥ずかしい思い出、慚愧に堪えない過去があるのである。そして、出来れば過去に戻ってやりなおしたいとか考えるものである。
 
 しかし、その必要は一切無いのである。何故なら、吾々は神の子であり、神の子は神であるからである。吾々は自分で生きていると思っているかも知れないが実は神に生かされているのである。即ち、自分をして神がここに生きているのである。従って、自分の人生は自分が生きて来たのではない。神が生きてきた神の生である。それが実相なのである。それは表面的には短期的には失敗みたいに見えるものは沢山あるであろう。しかし、それは一つ一つが実相顕現の大事な過程である。だから、人生は近視眼的に短期的に見ると悲劇、長期的に見れば喜劇と言われるのである。

 後悔するというのは自分で自分の人生を生きているという錯覚から来る迷いである。反省するというのはより実相が出て来て、それまでの自分が間違っていたと分かるもので実相顕現の事であり、内側からの解放である。

堀 浩二
by koujihori | 2012-11-21 12:55 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

実相は自分で出てくる。(48)

 「今、涙が出るほど嬉しい。テニスでトンネルを抜け出せた。一時はテニスクラブ辞めようかと思ったほど、調子悪かった。ここ数ヶ月。
 フォアハンド、サービスが駄目で、動きも悪い。これ、7月の母の他界からの心労で神経が疲れてて、それで駄目になってると自分では思ってた。自信が無くて試合に全然勝てない。そういう時ってパートナーもホント良くミスしてくれる。
 それが今日、一気に晴れた。サービスもフォアハンドも調子が戻って来た。サービスに関しては打ち方を勘違いして、駄目になっていたがそれも迷いが覚めた。フォアハンドとかかなり自信を無くしてて打つのが恐くなっていた。でも、自分は出来る!と思ってしっかり勇気を持って打って行けば段々良くなるって事も改めて実感。
 心労とか神経の疲れなんて関係無い。今諦めないで積極的にやっていけばそれが訓練になって、力も出る。という事が改めて分かった。
 まだトンネルを抜けてなかった今日の朝、このマイケル・ジョーダンの言葉に励まされましたよ。
 でもドツボを抜ける時って突然来るんですよね。それまで諦めないで頑張り続ける事が大事だと思う。」

 以上は今日、夕方にfacebookにアップした私の文章である。私は16年前に心の迷いから神経を故障し、その後、生長の家の宇治の榎本恵吾先生に薫陶を頂いて、迷いが晴れ、救われたのであるが、その後遺症で野球のボールが真っ直ぐ投げられない、又、テニスとか卓球などでフォアハンド、特にフォアでのボールの送り出しに困難が生じる様になってしまった。
 7月に母が他界し、その前後の心労から、テニスに復帰しても身体が思う様に動かない、そして前から多少、困難に感じていたフォアハンド、特にフォアでのボールの送り出しが殆ど出来なくなってしまったのである。それが出来ないとテニスクラブに行ってもストローク練習が出来ない。そして、試合になればフォアハンドでミスばかり。身体の動きも悪く、全く試合に勝てなくなってしまった。
 私は密かに悩んだ。テニスは30年もやっているのに、こんな情けない事になってしまった。一時は母が他界した事までうらめしく思ったほどだった。
 で、テニスクラブも辞めようかと思ったほどだったが、とにかく自己の無限の可能性を信じ、テニスをやり続けた。そして、今日、冒頭の文章にもあるように一気に突き抜け、今までの悩みや迷いが消え、突然、力を取り戻したのである。

 これはテニスのテクニック的な事や、自己に無限力が今あり、それを勇気を持って使っていけば、それが訓練となってますます出来る様になるという事が実感で分かったというのが表面的な事であるが、実相から観れば、実相が自分で出てきたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-11-15 21:07 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

訓練の意味(3)

 訓練すれば必ず力は向上する。だから、今、現象的に出来なくても、その事を信じて、ひたすら訓練する事に集中すれば良いのである。
 
 しかし、間違えてはいけないのは「今はまだ出来ない。」と思って、その出来ない自分を出来る様にする為に訓練すると思ってはならないのである。それは「悪いものを良くしよう」という心であって、瓦を磨いてダイヤモンドにしようという愚と同じである。

 吾々は今、完全円満、無限力であり、今、ダイヤモンドなのである。その無限力が今あると思って、断固として今、起つべし。その繰り返しが真の訓練になるのであり、こういう今、無限力を自覚し、今それを使うという訓練でなければやればやるほど駄目になる。

堀 浩二
by koujihori | 2012-11-14 12:31 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

この人生そのまま実相顕現の過程である。

 吾々は神の子であり、完全円満、無限力である。そして吾々の人生はその実相顕現の過程であり、それ以外のものではない。
 従って如何なる不如意、不都合、不幸が表面的に出て来てもそれ全て、吾々の完全円満の実相が自己顕現する為の大事なステップなのである。
 如何なる現象であろうともそれは全て意味がある。それは自己の心、今までの行いを映して見せてくれている観世音菩薩の御働きである。そこで何を教えてくれているかという事をまっさらな心になって自己反省すれば良いのである。そこから必ず実相顕現、無限生長が行われる。

堀 浩二
by koujihori | 2012-11-09 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

吾が生くるは吾が力ならず

 吾々はこの人生を自分で生きていると思っている。そして、表面的に上手く行ったと言っては喜び、失敗したと言っては嘆き、後悔する。
 これ全て、自分が生きていると思っているからである。この人生は自分で生きているのではない。神が自分をして生きているのである。神は完全円満、無限の善、無限の愛、無限の智恵、無限の供給、無限の力である。それは全宇宙に隈無く満ちている。
 その神の自己実現として今自分が神に生かされている。だから、吾々は自分で生きているという事はなくて、神に生かされているのである。そして、それが自分が神であるという事である。そして、そのことは自分の人生は何時如何なる時も自分という我(が)ではなくて完全円満の神が生きているという事である。
 だから、紆余曲折、色々失敗があるように見えても吾々の人生は神の生なのである。だから、全託でよい。後悔、取り越し苦労は一切要らない。色々失敗があり、不完全が見えていてもそれは実相が自分で出てくる過程である。

堀 浩二
by koujihori | 2012-11-08 21:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

因縁を超越するという意味

 生長の家は因縁を超越する教えである。真理を悟ればどんな悪因縁があろうと業の流転があろうとそれを超越するのである。

 しかし、それは心の法則を通して実現する。自分が今まで積み上げてきた業の集積を刈り取る形で実相顕現が行われるのである。それが観世音菩薩の働きである。その中で自分の心の状態を如実に悟るのである。それにより、自己反省が行われる。そして「ああ、悪かった」と大懺悔が起こる。そして、実相が顕現し、因縁を超越し、悪業の流転を断ち切る事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-11-04 21:42 | 信仰 | Trackback | Comments(0)