<   2014年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧

これから良くするのじゃない。

 生長の家をやっていて陥りやすい誤謬は自分が行によってこれから良くしようと思ってしまう事である。
 「現象は心の影だ。そしてその心は潜在意識が95パーセントを占め、その潜在意識を形成するのは現在意識の繰り返しによる。そうなると今はまだ安寧ではない。完全円満ではない。無限力ではない、これから先の事だ」
 と考えがちである。そしてこれから行を積んで潜在意識を浄めて、それが現象の肉体に現れて来るまでは悦べないという事になる。それが最大の間違いである。生長の家は

 ◎実相は今ここにある。完全円満なのは今である。
 ◎心はナイ。肉体はナイ、現象はナイ。心はナイという事は潜在意識はナイという事である。だからそれをこれから浄めようなんてのはあり得ない事である。

 吾々が完全円満なのは今なのである。それは全宇宙に遍満している全知全能、完全円満なる神により完全に保証されている、生かされているものである。

 その事が自覚されるとその力を今使う事が出来る。そして、その繰り返しが訓練となって行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2014-02-28 21:22 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家とは

 生長の家を信仰するにあたり、初期の頃は
「自分で生きている。自分が作っている。自分がやっている。」という認識になる事が多い。

 生長の家は実相独在の縦の真理と心の法則の横の真理がある。実相独在の縦の真理は「人間は神の子であり、完全円満であり、そして全ての存在は神がお造りになった完全円満の存在であり、それを実相と言う。そして、実相以外のものは存在しない。」というものであり、それが生長の家の根本真理である。
 そしてそれと同時に横の真理がある。それは「思ったら思った通りになる。」というものである。それは実相は確かに神のお造りになられた完全円満の世界であるかも知れないがその世界を認識しなくてはそれは現象として現れる事は無い。というものである。

 そこから、「実相世界は神がお造りになっている完全円満のものかも分からないが、それは自分が今、住んでいる実相世界とは違う。現象世界は自分の心が作っているのであるから実際今自分が住んでいる世界を良くしようと思ったら自分が心を浄めて行かなくてはならない。従って、実際自分が住んでいる世界は神様じゃなくて自分が作っている。だから、吾々は心を浄め、先祖を供養し、人類を救わなくてはならない。」という発想になる。

 そこから、完全円満の神に生かされているという大安心、感謝、謙虚な心が失われ、私が生きているのだ、私がやっているのだ、私が救っているのだという我(が)の心が出てくる。そこに傲慢心が生まれ、そして不安の心も生じる。

 それで感謝しろ、供養しろ、伝道しろ、真理を実行しろとがなり立て、それが出来ない人間を軽蔑する。

 しかし、これは間違いである。吾々は今、神であり、完全円満であり、無限力である。それはこれからではない。そして、神に完全に生かされているのである。吾々が神でなかった事は一度も無いのである。だから一度も罪を犯した事は無いのである。そして、今ここが完全円満の実相世界である。

 それしかないのである。その自覚と悟りが内側から自ずと出てくればここがそのまま実相世界であり、完全円満であったと自覚出来る。その時、実相顕現があるのである。それが心の法則である。

堀 浩二
by koujihori | 2014-02-11 21:54 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

罪ナシ。

 映画「戦火の勇気」では湾岸戦争時、アメリカ軍の戦車隊の指揮官が誤って味方の戦車を砲撃してしまい、その乗員を死なせてしまう話が描かれている。指揮官は軍の「誤砲撃は状況的にやむを得なかった」という判断でその責任を追及される事は無かったが内側に深い自責の念、罪の意識を抱き、大変な苦悩を抱える様になる。

 罪というものは本来存在しないが現象的には現れる。そしてその罪が余りにもうずたかく神の子の本性を覆っている場合は罪の意識というものは全く起こらない。神の子としての自覚の無い人間は平気で残酷な事をするのはそういう事である。
 しかしながら内なる神性が幾分、目覚めて来ると良心の呵責、罪の意識というものが出てくる。それは罪のごもくたが少なくなりその下の神の心の炎が罪のごもくたを幾分燃やす事で煙がもくもくわき上がるからである。その煙が煙くて仕方が無いのが罪の意識である。
 良心的な人間は自分の過去に犯した罪の重さに苦しむ。それはそういう訳である。しかしながら罪のごもくたがいよいよ少なくなりその下の「本来罪ナシ、完全円満」の生命の実相の炎がいよいよ勢いよく燃えさかって罪のごもくたを完全燃焼させてしまう場合は罪の意識は全く消える。それが悟りである。

 自分が神であり、この世は今そのままで神の国、実相世界であると悟れば自分の過去も罪が全く無かったという事が分かるのである。それは過去さえも今の自分の心の影であるからである。過去に罪があったと思うのは神ではなくて自分が生きて来たという迷いであり、それが我(が)である。その心の歪みの反映がそのままで神に生かされた完全な神の生であった自分の半生が罪まみれに見せるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2014-02-05 19:56 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真理を実行出来る人

 生長の家は知ってるだけじゃなくて実行しなくてはなりません。それで「生命の実相」第七巻、生活編がある。

 そこでは色々な生長の家の生き方が書かれている。

今に全生命を集中させよ。朗らかに笑って生きよ。人の生命の実相を拝め。取り越し苦労するな。等々



 しかし、これを実行出来るかと言ったら中々難しい事もある。又、生長の家を知ってるのにそれを実行していない人を責めたくなる事もある。そうなると真理を実行出来る人は良いが自分は出来ない。だから救われないなんて事にもなる。

 自分は頭じゃ分かっているが真理を実行出来ない。ああ、自分は駄目な者だ。なんて嘆く。

 

 

 実はこれは雅春先生も同じ事で悩まれた。それは「生命の実相」自伝編に出てくる。雅春先生は心をコントロール出来なかった。それで恐怖すまいと思ってもしてしまう自分をお嘆きになった。雅春先生は心という悍馬をコントロール出来る心の名手なら良いが自分はそうではないと言って嘆かれたのです。

 その時、神様から

現象はナイ。心もナイ。実相のみあると諭され、実相の大地に降りる事が出来たとあります。

 それが実相独在の生長の家の神髄ですね。そこが単なる処世術、ハウツー物と違う所です。

 実相独在という事は今そのままで僕達は完全円満の神の子であってそれ以外の何者でもないという事です。だから、生長の家を実行出来る人と実行出来ない人なんて神様は差別してお造りになっていない。僕達は神の子だから生長の家の生き方そのものであり、悟りそのものなんです。生長の家の生き方をしようと思って出来ないと言って嘆くのは単なる我(が)なんです。それが心もナイと雅春先生が悟られた心だ。

 僕達は神の子であり、それは繰り返しますが生長の家の生き方そのものなんです。僕達は皆、生長の家の生き方が出来るのです。それが実相独在という事でそれなら生長の家の生き方が出来ない人というのは何かと言ったらそれは生長の家の生き方が出来る実相がまだ表面に出て来てないだけで魂が幼いだけなんです。それは迷いの状態ですがそれがひいては将来的に悟りの基礎工事となって、自ずと生長の家の生き方が出て来ます。

 そしてそれが実相顕現という事です。

 だから、日常で人でなしとか卑怯者とかに見える人達も本当に悪いのではない。卑怯者ではない。まだ実相が表面に出て来ていない初期段階の魂なんです。

堀 浩二
by koujihori | 2014-02-04 23:48 | 信仰 | Trackback | Comments(4)