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生長進歩というのは嬉しいもの。

 今、作っている立像もまだまだ未完成だが、前作(下)に比べるとグレードが高くなっていると思う。前作は自分としては会心の作と思っていたが今作っているものに比べればまだまだ荒くいい加減なものだったと思う。前作を作っている時はその時はその時で全力で精魂込めていたつもりだったが今から考えると稚拙に感じられるのはやはり、製作を重ねる中で私なりに進歩しているからだと思う。

 昨日の自分より今日の自分が進歩、生長しているというのは本当に嬉しいものだ。

堀 浩二

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by koujihori | 2014-10-24 11:04 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

生長の家の信仰について

 心を良くしようとするのではなく、自分が今、神であり、ここが神の国であると自覚しなくてはならない。
 完全円満で神に生かされていると祈りましょう、そうしたら良くなりますではなくて、今、完全円満であり、神に完全に生かされていて有り難い。ただそれだけなのである。

 その違いは天と地ほどの違いがある。

 生長の家の教えは「完全円満の実相世界を念じ、祈り、それを行動に移せば、潜在意識にその信念が浸透して、運命も健康も徐々に良くなる。」というものである。

 要するに実相世界は完全円満だが、それを現象世界に投影させるには我々の心が清まったものにならなくてはならないから心せよという事である。そうなると実相世界とは別に我々人間の心を良くしないと駄目だよと端的に言えばそういう事になるのである。

 だから、信徒は自分の心を清めようとする。良くしようとする。その為にこれでもかこれでもかと聖経読誦他の行をやる様にもなるだろう。そこに心の平和が失われるのである。

 それは実相は完全円満だがやはり、この現象世界を良くする為には自分がしっかりしなくてはならないという事になり、そこに我(が)が生じるのである。それは現象は自分が支えなくちゃいけない、良くしなくちゃいけないという事で結局、「私が自分が」という事になり神への全託の信仰がまるっきり無くなるのである。

 それは神を全く信じておらず、当然神に感謝も出来ず、そういう場合、親に全く感謝が出来ない。

 生長の家の信仰とはもちろん、実相独在と唯心所現であり、実相独在は「実相のみ存在する。現象はもちろん、心もナイ」という生長の家の根本信仰、縦の真理である。唯心所現は思ったら思った通りになるという横の真理である。もちろん、この二つは真理だが、根本真理はやはり実相独在という事である。
 完全円満の実相世界とは今の事であり、ここの事である。だから私の心なんてものはなくて実相の心があるだけであり、それは宇宙の最初からそうであった。従って自分の人生は最初から一つも間違いなんてものはなくて神の生そのものであったという事である。始めから我々は完全円満の世界にいて完全円満の神の子として完全円満の大生命である宇宙普遍の神に生かされていたのである。自分で生きて来た事など一瞬たりとも無い。
 要するにそれだけなのである。その当たり前の事に気がつくという事が悟るという事である。その悟りは我(が)の実在しない心が悟るのではない。実相の既に悟っている自分の実相生命の悟りが自分で目覚めて、出て来た悟りである。
 そしてその悟りが表面に出て来る事を生長というのである。それでは今までどうして迷っていたのかと言えば、それは迷いは悟りの基礎工事という事で悟りとかその他の素晴らしい実相の価値が現象世界に表現される際は稚拙な間違った状態から徐々に学びが進んで表現が高度になるという過程を経るからである。

 そして悟りが拓けて来るに従って、横の真理である唯心所現の法則が働いて、現象的に実相世界の素晴らしさが出て来る事になる。それが実相独在と唯心所現の真理が両立するゆえんである。

堀 浩二
by koujihori | 2014-10-17 14:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

先祖供養とは、親孝行とは

 私は現在、97歳の父の面倒をみているというかお世話をさせて頂いている。母が一昨年に他界したので現在は同居している私と家内がその任に当たっているのだ。

 父は幸い、自分の事は自分で出来るのでそれほど大変な事は無いが、それでも目を離す訳にはいかないので平日は父がオーナーの会社であり、私もそこで仕事をしている会社に私と一緒に私の車に同乗して来て、夕方に帰宅する。また休みの日は私の兄嫁や姉と分担して父の見守りをしている。しかし、これは人として子供として当然の事である。

 人間神の子を自覚すれば年老いた自分の親に対してはこれを大事にし、お世話をさせて頂くのはごくごく自然の行いである。
 私は先祖供養も全く同様だと思う。子孫として霊界の先祖の安寧のために仏壇を設け、位牌を作り、その前でお供物や聖経を読誦させて頂くのはごくごく当然の愛と感謝の行いである。

 生長の家では先祖供養とか親孝行や親に感謝が大事だと強調される。子孫が栄えるには親に孝養、先祖に供養と言われ、子孫が栄え、健康でいられる為に先祖供養が大事みたいにとらえられる節もある。
 それで病気を治す為、栄える為に先祖供養致しましょうという信徒もいるがそれは根本的に間違っているのである。本末転倒である。病気とかその他の問題は先祖供養の単なるきっかけであって、それを良くする為に先祖供養とか親孝行をするのではない。そんな考え方だと供養の仕方とかに引っかかってしまってどうにもならなくなる。

 先祖供養や親孝行や親に感謝というのは子孫が幸せになり、不幸から逃れる為にするのではない。神の子として全ての全てに生かされているという喜びの発露として、内側から自ずとそのままで行われる事である。

堀 浩二
by koujihori | 2014-10-16 16:00 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

人はどうして謝れないのか?

 テニスクラブの年配の女性のKさん。この人、昔は中々強かったんだけど数年前から極端に動きが悪くなって来て、今でははっきり言ってちょっとクラブのお荷物状態。どうしてそうなったのかは不明。私は健康上の理由と見てるが。
 
 それはさておき、この前、このKさんとダブルスの試合で組む事になったんだけど動きが悪いから相手から狙われる。それで失点を重ねるのだが、私としてはこのKさんのせいで中々ポイントを上げられないから当然あんまり面白くない。
 だが、我慢我慢でプレイしていたがある重要なポイントでボレーボレーの接戦になった。で、私が自分のボールだと思って「オーライ!」と大きな声を出したがKさんがそのボールに手を出し、これをミス。その為にそのゲームを落とした。
 で、Kさん、私に何も謝りもしないでさっさとコートチェンジ。ショットや判断のミスは良い。でも私が何より頭に来たのは私に何の謝罪もなかった事だ。事にその時は私が声を出していたにもかかわらず、ボールに手を出し、かつそれが相手のコートに返れば良いがそれで失点してゲームを落としたのだ。当然、パートナーである私に...謝罪するのが当然である。


 人はどうして謝れないのか?このKさんに限らず、悪い事、失敗をして人に迷惑を掛けても謝らない人間は多い。

 それはこういう事だ。悪い人間、駄目な人間というのは謝る事が出来ないのだ。逆に逆ギレして「何が悪い。悪いのはお前の方だ」となる。これは悪いから駄目だからこそ反省とか謝罪が出来ないのだ。

 反省とか謝罪が出来る人間は実は悪くも無いし、駄目でも無い。過去は悪かった、間違っていた、だが今は悟った、良くなったと自覚しているからこそ、過去の自分を省みる事が出来るのだ。
 だから、こういう謝らない人間を一概に責めてはいけないのだ。その人がこれから良くなる、悟る事を祈ってやるべきであろう。

堀 浩二
by koujihori | 2014-10-16 15:26 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

The beauty

 ブロンズ像が完成した。タイトルは「The beauty」

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by koujihori | 2014-10-02 10:48 | 芸術 | Trackback | Comments(0)