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凡庸の歌の意味

 凡庸の歌というのがあるでしょう?雅宣先生がブログで発表されている。私はあれの意味が今一つ分からなかった。だって、人間は神の子無限力と教えられていてスポーツ、武道、音楽、美術、科学技術、文学、語学その他あらゆる方面に無限力を持っていてそれを何回も人生を生まれ変わる事によりその力を内側から開花させるのが人間であるというのが生長の家の真理だから、凡庸という事が何とも不可解でした。

 しかし、一昨日、東京第一教区の講習会でそれが分かった気がしました。

 それは当たり前に感謝する事、NO1じゃなくても今与えられた事に満足出来る事、競争心でガチガチになって他を蹴落としたりしない事、自分の能力とか機械技術を向上させる事にやっきになるのではなくて、のんびりと周囲の景色や人々に目をやり、それを愛で、かつ思いやりを持って生きる事、じっくりと人生を味わって生きる事等々が大事であるという事だと分かりました。
 先生はJR東日本の宣伝ポスター「次の当たり前を作ろう」という宣伝ポスターを引き合いに出され、機械技術の向上を至上命題とする生き方を批判されました。そして「こういう考え方が自然を破壊し、温暖化引いては人類の生存の危機を深めてきた。吾々はそろそろこうした考え方から脱却しなくてはならない。」とご指導されました。

堀 浩二
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by koujihori | 2017-03-21 09:54 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

生長の家は全ての悪と罪を消す。

 生長の家の素晴らしいというかすごい所は全ての問題をたちどころに解決してしまうという所だ。

 吾々は過去に何か禍根を残す罪とか失敗ややり残し等々があると感じる事があるだろう。しかしながらそれらは皆、本来無いのである。

真理を自覚し悟れば全ての罪が消える。そして過去の禍根とか間違いなども消えるのである。何故ならば過去も現在の心の現れであるからである。

 生長の家の「本来罪無し」というのはそういう意味である。そしてその過去の罪とかやり残しとかと言う現象は実は自分の実相顕現の為に最も必要な過程であった事も分かる。

堀 浩二
by koujihori | 2017-03-17 15:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

都会化が招くもの

 この間、温和な性格と言われるゴールデンレトリバーが赤ちゃんの頭を噛んでその赤ちゃんが亡くなった事故があったでしょう?
 これ、最初、僕はてっきりそのゴールデンレトリバーがブリーダーが金儲けの為に回転を良くする目的で子犬を生後二ヶ月位で母犬から引き離す事で生じる子犬の精神の不安定さから来てるかと思っていた。
 しかし、これよく読むと事故は赤ちゃんの祖父母宅で起きた事で親が赤ちゃんを祖父母宅に預けていた際に起こった事だという。

 要するにその犬に取ってよそ者が侵入して来た訳だ。犬は番犬の役目もするから赤ん坊と言えども自分の家によそ者が入って来たら攻撃するだろう。


 これはその祖父母と間接的には父母の責任だと思う。

 要するに犬という動物の性質に対する無知という罪から来ている。最も重大な罪は無知である。

 でも何でこんな無知になるのか?それは人間が余りにも都会化されていて自然と離れた生活を何代にも渡って送って来たからである。だから自然に対する智恵、今回は動物に対する智恵だがそれが働かないのだ。

 自然を破壊し、都会化生活に慣れればそうした智恵は失われて行く。生き物として本来備わっている自然の智恵が。

 だから自然を回復し、自然と共生するライフスタイルを持つ努力をしなくてはならないのだ。今盛んに自動車業界を中心にもてはやされている自動化の波だがこれも人間の本来持っている能力をどんどん削いで行き、それに伴い当たり前の自然の叡智も失われて行く。

 今日は3.11だがあれの最も大きな教訓は「自然に対して謙虚であれ。自然をこれ以上破壊するな。原発などと言う自然界に取って最も脅威である発電設備を人間の都会生活での享楽の為に使うな。」という事であったのだが現政権は原発を重要なベースロード電源と位置づけそれらの教訓に背を向けている。

 そして今回の疑獄事件も検察は動かない。マスコミも事件の核心には迫らない。日本の崩壊が始まっているのである。それはとりもなおさず人間の崩壊である。

堀 浩二


by koujihori | 2017-03-11 10:12 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

本当の信仰とは

 生長の家の信仰に入って病気とかの問題が消える。しかし、それで良しとしてはいけないと思う。現象など良い時もあれば悪い時もあるからそれの良し悪しで一喜一憂するのは本来ではない。それは無相円相一切相の神示にも書いてある。
「吾が来たれるは物の為ではない。生命の為である。肉体の為ではない。霊の為である。これを悟る者は少ない。物の消滅に心がとらえられ、物が殖えた時に信仰を高め、物が減った時に信仰を失い、身体が健康になった時に神を讃え、家族のだれかに病気が起こったと言っては信仰を失うがごときは神を信じているのではなく物を信じているのである。」と。

 本当の救いは現象は心の影であって本来存在しない事、そしてその奥の実相生命は今この時点で完全円満である事。そして全ては神が解決して下さるので今悦んで良い事を悟る事だ。 

堀 浩二
by koujihori | 2017-03-07 13:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悟り及び実相顕現というのは実相が自分で出て来る事によりのみ成就する。

 迷いは悟りの基礎工事です。人間の本質は完全円満でありかつ悟りそのものです。悟りというのはこの世界は実相独在であって完全円満で無限力の神が宇宙の隅々までも行き渡り生きとし生けるもの全てを内側から生かし、人間はその神の最高表現であり神の万徳を備えたものであり、全ては神に於いて一体の生命であるという真理をそのまま実感している事であります。
 それは叡智であり実相そのものであり久遠の生命であり無限の叡智でもあるから悟りなのであります。

 人間の本質はこの久遠の生命の自覚そのもの悟りそのものであり、それは無限でありかつ無形です。そしてこの世界は表現の世界ですからその無限の実相生命が自ら表現活動をするのであります。それが無限生長という事ですがその表現活動をする事により無限の生命が有限化される。

 その表現のレベルというものは最初は稚拙な段階から始まる。そして試行錯誤する中で段々とその表現のレベルが上がって来る。その際、神の導きにより宗教的天才の指導でその表現の仕方、悟りを導かれる事がある。それがキリスト教、仏教等の世界的宗教というものだ。 

 しかし、本質的にはその本人の内側にある実相即ち無限の叡智なるものが自ら表面に出て来る活動により実相が顕現し、無限の叡智即ち悟りも自ずと出て来る。
 その際、必ず迷いの段階を経る。迷いというのは自己の生命の実相を悟らず迷った状態であり、そこで色々の苦しみも味わう。その中で病になる事もある。しかし、それらは実相即ち本物の悟りが無限生長する事により自分の力で自ら自己表現して現象世界に出て来る過程の中での基礎工事なのだ。
 その悟りが自分で出て来る過程では先達の指導により導かれる事があるがそれは本当はその本人の生命の実相、悟りが自分で出て来る際に先達や師の指導という形を取って現れたものである。

 従って悟りというのは何か自分の我(が)の励みにより我(が)が罪悪深重の凡夫の上に構築して行くものではなくて自己の中の悟りそのものが自分で表面に出て来る事によりのみ成就するのであって、その営みは実相そのものが自分で出て来るという事であり、その過程に於いて迷いというのが悟りの基礎工事として出て来るのである。

 よって、全ては完全円満でそのままでよいという悟りが自己の中から出て来る過程においてこの世界は不完全であり不幸と病と悪が満ちている世界であるという迷いが出て来て、それにより病になったりの苦しみが悟りの基礎工事として出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-03-03 14:04 | 信仰 | Trackback | Comments(0)