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全ての問題は神が解決して下さる。我(が)は要らない。

 「皆さん!全託と言ったら本当の全託ですよ!」とは宇治別格本山でご指導されていた榎本恵吾先生のお言葉です。
 世に「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが生長の家も「ここまでは人間の役割で後は神様に全託」という言い方がされる事があります。
 でもそれは正確に言うと正しくない。全託と言ったら本当に何もかも神に任せきる事です。浄心行して自分の積年の恨みの念がすっきりしたとします。でも現実に戻ると相も変わらず人として本来でない仕打ちを相手はして来る。でも感謝しないと自分や家族が病気になったりその他の不幸になるのは分かっている。感謝しなくてはと思っても今目の前で行われている不正に対する憤りはどうしもようもない。それだけじゃない。生長の家の生き方としてこうすべしという事があってもどうしてもやり切れない自分がいる。

 これはもう神様に全部問題を預けてしまう以外無いのです。感謝も神がさせて下さる。本来やるべき事も神様が自分又は他の人をして自ずとやらしめ給う。

 それが生長の家の本当の信仰であると思います。問題は神が解決し給う。実相は自分で出て来る。そのままでよい。我(が)は要らないのです。

 そのままの中で観世音菩薩が色々お示し下さって徐々に自分の認識が高まる。それが実相が自分で出て来ている事なのでそれで良いのです。そこに人生が神の生即ち神生となる。

堀 浩二
by koujihori | 2017-05-22 11:15 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

赦すのは神が赦すのである。

 相手が自分にとても赦せない仕打ちをして来た場合、それを赦そうとしても赦す事は難しい。
 それは我(が)が赦そう赦そうとしているからである。吾が内の神のみがそれを出来るのである。

 神に全託して「そのまま」の心であれ。それで表面的に相手に怒る事があっても良いのである。神が内側から出て来て相手を赦す事が出来る様になるのである。
 それが神に生かされているという事であり、実相独在であり、実相は自分で出て来るという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2017-05-11 16:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

完全主義とは

 昨日、私は大発見をした。それはもう一年以上前から組み立てているサンダーバード2号のプラモデルで2号本体の付属品とも言うべき救助メカの中の組立に失敗した時の事だった。
 このプラモデルは毎週少しずつ部品が売り出され、このサンダーバード2号と救助メカシリーズは丁度80週掛けて完成される。今、67週目だ。

 で、昨日、その救助メカの一台の組立に失敗し、模型として不完全なものが出来上がった。救助メカというのは十何台もあり、一つ一つは手の平に載るような小さいプラモデルだ。今まで十何台というその救助メカを完璧に瑕疵なく組み立ててきたのに昨日、初めて失敗してしまったのだ。 

 その時、私は非常に歯がゆい思いをした。今までずうっと完璧に組み立てて来たのに初めて失敗作が出来てしまったからだ。模型本体に付属する十何台もある小さな模型の組立に失敗しただけなのに。

 そして、私は自分が完全主義者であるという事を認識した。完全主義であると不完全だととても気持ちが悪い、嫌になってしまうのだ。いつまでもモヤモヤしてやる気が無くなってしまう。しかし、その時、その考えこそが自分の人生を不幸なものにするという事を悟った。
 完全主義というのは現象即ち外の世界に完全なものを求める主義の事でこれだと心の安定が得られない。そして完全にしよう完全にしようという衝動が出て来て落ち着かないのである。その心は利己主義であり我(が)である。
 そして、それはこの世には不完全あり、悪ありという自己の迷いの心なのである。その迷いの心があるから不完全を現象世界に映し出す。そしてそれが不運とか不幸になるのである。思ったら思った通りになる心の法則が働いているからである。

 この世に悪あり不完全ありの心が完全主義の正体であり、それは聖経「甘露の法雨」に書かれている
「神の国は吾が内にのみあり、外にこれを求めるものは永遠にこれを得ることあたわず」という事なのだ。

 神の国は吾が内にありというのは今ここそのままで神の国であり自分は神の生命そのものであるという自覚である。それこそが生長の家の信仰であり、それが無くて現象要するに外の世界に神の国を求めるというのが迷いの心でありそれが完全主義である。

 私はそういう心を今まで持っていたから現象的に不幸や不運が出て来ていたという事が昨日、プラモデル創作の過程で分かったのだ。

 だから、私は完全を求める心を放っておいて今を生きる、今与えられている事に感謝する心のトレーニングを昨日から開始している。

 この様に日常の何気ない所至る所に観世音菩薩の教えは響き渡っているのである。

堀 浩二
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by koujihori | 2017-05-10 17:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家は実相独在と心の法則。この二つしかない。

 生長の家の本は夥しいと言って良いほどの数があり、ことに雅春先生は著作数の多さのギネス記録保持者だそうです。来る日も来る日も朝から晩まで机に向かって執筆活動をされてたとの事。

 でその雅春先生の御本ですが繰り返しますが実に様々多岐に渡っての著作があり、「新しい結婚」では夫婦間のセックスのやり方まで指南されています。本当に人々の幸せを願われていたからその為に事細かに具体的にこういう時はこうしたらよいと言うお話をお書きになっています。

 その中で先祖供養のやり方も非常に懇切丁寧にご指導されていて、そこでは「迷った状態で霊界に行った霊魂が霊界で苦しんで子孫に助けて欲しいという念波を送って来てそれに感応した子孫に病気を現す事がある。こうした祖先霊を速やかに悟らせてあげる為に供養をするのが子孫の役目である。」と言う記述もある。
 また、「人間の現世の運命は前世の成績によるものが50%、25%が高級霊の導き、残りの25%が本人の努力」というのもある。だからこれを強調していくら努力しても1/4の効果しかないから先祖供養をしたら良いなどという人も生長の家の中に出て来る訳だ。

 しかしながらこれはおかしい。生長の家の真髄は実相独在。そして現象は心の影という事です。これは唯神実相と唯心所現要するに縦の真理と横の真理の二つ。これだけです。生長の家の教えは。他の色々の教えはそこから派生するものと言って良い。

 だから生長の家信徒たるものあくまで
「今ここそのまま神の国であり実相世界である。そしてそれを観ずればそれがありありと観じられる。その心の展開として現象世界がある。」という真理だけを求めそして吾がものとし、そして悦んでおれば良いと思います。

 要するにこの世界は完全円満の実相世界とそれが自分で出て来る事しかなくてその自分で出て来る過程で観世音菩薩によるお示しがあり、それが心の法則であり、そのお示しに従って自己の心を改めて行く中で現象的に実相顕現がある。という事ですね。その観世音菩薩のお示しというのは自己の心の過去の業を現象的に現して示して下さる働きだから、その過去の業が前世の業とも言えます。

 そして先祖供養はあくまで先祖に対する感謝の表明としてやるので迷った先祖の存在を認めてそれを救う為にやるのではないです。

堀 浩二
by koujihori | 2017-05-10 11:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

信仰は現象の諸問題により鍛えられる。

 色々な問題は自分の信仰を鍛え、より顕在化させるものである。
 生長の家をやっているのに色んな問題が出て来る事がある。家族の病気等々。しかし、それは既に自分が学び、かつ培っている生長の家の信仰をその問題を克服する事で鍛える作用があると思う。
 私は20年前に宇治の別格本山で榎本恵吾先生から薫陶を受け、今ここ完全円満の実相世界であり従ってあれこれあくせくして物事を良くする必要は無いという事を自覚した。 そして「そのままでよい」と分かり心が大安心の境涯に来られた。そのままでよいからと言って何もしない訳ではない。そのままは神だから神は無限生長だから時宜に応じて何をどうしたら良いかという事が内側から分かり、それを悦びの中で実行する事が出来る様になった。

 しかし、その信仰も日常生活の中で生じる諸問題でより鍛える事になる。要するに信仰は身口意に不断に実行する事が求められるのであり、悟りと行は同一のものであるとは雅春先生のお言葉であり、またその事が今年の全国幹部研鑽会のテーマになっていてそれがクラフト、自転車、家庭菜園という行として具体的な提案が為された。

 私に取って家庭や職場での一見深刻な問題は正に私の信仰を鍛えてくれるものであった。一見不幸な現象を目の当たりにしてそれが本当にアル事だと思っておののき、信仰を捨ててしまうのは生長の家の信仰者ではない。現象はナイそれはおのれの心の影でありその奥に今完全円満の存在があるというのが生長の家の信仰である。

 現象の問題が現れている中でそのまま現象ナシ、実相独在の信仰が鍛えられる。私も一旦は不幸な現象を具体的にアルと思い、全てを投げ出したい気分に駆られたのである。

 しかし、元々宇治で榎本先生に植え付けられた信仰はそれらの不幸を肥やしとしバネとしてより強固なものなって行くのを感じる。
 
 そして、そのまま今ここが天国浄土であり何の問題もナイ世界であったとまた改めて気がつくのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-05-08 11:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)