罪は赦される

 またまたテレビ番組「アンビリバボー」からの題材である。実はたった今、見終わったばかりであるのだが、本当に今日の内容も良かった。前半が心温まる優しい動物達の話であったが後半は本当に感動的であった。

 それはお隣韓国の話であるのだが、若い兄妹の話である。この兄妹は本当に仲が良く、妹はまた美人であり、将来は保母さんを目指していて、幸せな生活を送っていた。
 しかし、突然の不幸が起こる。兄妹がドライブ中に巻き込まれた事故で妹が全身、特に顔に大やけどを追ってしまうのである。2000年7月のことである。

 包帯を取った彼女の顔はやけどで以前の美しい顔は変わり果て、焼けただれた醜い顔になってしまい、おまけに手の指も親指だけを残し、八本も切断しなくてはならなくなってしまった。
 実は事故の時、兄は軽傷だったが妹は炎の中で気絶しており、兄が必死に助け出したのだが、助けたことで却って、死ぬよりつらい運命が妹に降りかかって来たのである。
 妹思いの兄はそれを苦にして、妹に対していつも負い目と罪の意識を感じていたのだが、妹は日本に来て、再手術したことで大分回復し、ボランティア活動をする中で徐々に明るさと元気を取り戻し、やけどをして新しい顔になった自分を受け入れていく。

 そして、ある日何の気なしに兄が妹に「自分はもしかしたら事故の時、おまえを助けなければ良かったのか?」とずっと自分の心に抱えていた思いを打ち明けたのである。そうしたら、妹はやけどして身体を損なったことで今はこの上なく大切なこと、即ち失った指が如何に有り難いものであったかということ、そして、自分がこんな顔になっても常に支えてくれた家族がいたことなどの有り難さ、尊さが身にしみて分かったので今は本当に幸せだから、またもし百回同じような事故にあったらまた百回同じように助けてねと言ったのである。

 それを聞いた兄は事故後、何年かずっと抱き続けていた妹をへたに助けたことで却って妹に苦しみを与えてしまったという罪の意識が赦されて行くのを感じたという。
 しかし、この兄よりもそれを聞いて、本当に安堵するのはこの事故を起こした相手のドライバーではないか?何でも酔っぱらい運転でこの兄妹の車に追突炎上させたということだから。

 人間はこの様に悪気はなくても人を誤って傷つけることがあり、後から後悔してもどうしようもなく、一生罪の意識で暮らさなくてはならないということがあると思う。しかし、人間は実は不滅の存在であり、肉体ではないから肉体がこの彼女の様に如何に醜く焼けただれてもそれを却ってバネにして真の幸福、生き甲斐を得ることが出来るのである。そして、人間として最も大事な真理、人間は肉体ではなく、肉体を超えた不滅の生命であり、そして神に生かされ、周囲の人から支えられ、愛されている存在であるということを悟ることにもつながるのである。それを悟ることこそが真の幸福である。
 だから、自分が誤って人を傷つけたということがあったとしても自分が傷つけたこと、そして傷つけるようなことになってしまった心の間違いを反省することは大事であるがそれ以上にその相手を不幸にしてしまったといつまでも罪の意識を握り続けることは要らないのである。

 この韓国の彼女の現在の姿をテレビで映していたが、確かに顔や手にはやけどの跡が見られるがその顔は内側からにじみ出た美しさで美しくさえあった。人間は心が変われば肉体も変化するのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-26 21:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい

 私はテニスをやっていて、自分の弱気の殻を破ることがスポーツをやる上で何より大事であるということを悟り、その体験を「あと一歩の勇気の大切さ」と題して、本ブログにそのことを以前に書いた。
 しかし、その後のテニスの試合で更に心境が進んだのでその体験を書きたいと思う。
 私は今月の15日の日曜日、またある草テニス大会に出た。私はその時、自分が以前に悟ったように今日はとにかく失敗を恐れないで思い切って打つことを心掛けようと決め、試合を進めていった。
 第一試合はそれで良かったのだが、続く第二試合を終えた当たりからちょっとサーブのフォーム上の迷いが出て来てしまったのである。そして、第三試合は試合中、サーブのフォームに引っ掛かりながら打っていたのであるが、ゲームスコアを2-2にして、自分のサービスゲームで40-0としてあと1ポイント取れば、この試合のゲームスコアを3-2とすることが出来る所まで来たら、何とその後ダブルフォルト(サービスを二回続けて失敗すること。ダブルフォルト一つで失点1となる)を4回立て続けに犯し、このゲームを落としてしまった。
 そして、結局この試合は2-6で敗れてしまったのであるが、もし、ゲームスコア2-2の私の40-0から普通にサーブを打てていたら、この試合は勝てたかもしれないのである。

 そして、私はその次のその日最後の試合に望んだのだが、その試合中に大事なことを悟ったのである。それは、どんなによいことでも一つのこと、型にとらわれてはいけないということである。
 私は「勇気を出して思い切ってやる」ということのみしか頭になく、そうこうしている内にフォームに迷いが出て来て、それに引っ掛かるようになり、それで自滅してしまったのである。
 スポーツや武道というものは一つのこと、型、構えに引っ掛かったら、もう駄目でそれではその一つのこと以外の所はスキが出来るのである。だから真の武道の達人というものは構えを持たず、無構えなのだそうである。

 私はこのことを最後の試合中に悟り、一切の型、心構えにも引っ掛からず、ただ「そのまま」であろうとしたのである。そうしたら自分の中のそのままの無限の力が自由に適宜に働き、効果的に試合を進めることが出来、試合は6-0で圧勝することが出来た。

 そもそも我々は神の子であり、内に無限の力をそのままで秘めているのであるから、そのままであれば、いくらでも臨機応変に技を繰り出し、力を行使することが出来るのである。ただそれは経験を重ねて、本当にこういう打ち方がいいなとかこういう心境で臨むのがいいなという実感を深めていかないと実際のものとして顕現しないのである。
 ただ、その分かった一つ一つの些末なことにとらわれたら駄目で一つの型、心構えが経験により分かったら、それはもう我が内のそのままの無限力の中の一つの要素が出て来たのであり、以降はそのことに心を引っ掛からせないでも自動的に出来るのである。だから「そのままでよい」のである。
 
 我々はスポーツに限らずそのままで無限に素晴らしい可能性を秘めた存在であり、それは人生という学校の中で失敗体験を重ねて行く中で一つ一つ出て来るのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-26 13:03 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

日本の夜明け

 現在、我が日本国の現状は何となく暗雲たれ込めたような状況、危機的状況にあると思うが、それはやはり、かつて生長の家創始者谷口雅春先生が訴えられていた通り、国の根幹を定めた現憲法である日本国憲法の精神、考え方に問題があるからだと思われる。
 この憲法には平和、自由、平等、権利が高らかにうたわれ、一見、理想的な憲法の様だが、国の根幹、家の概念、国民としての義務が骨抜きにされ、肉体の権利、快楽を第一のものとして据えた精神に問題がある。
 
 こんなものを戴いていれば、おのれの権利ばかりを主張し、国や祖先に対する感謝の念は薄れ、肉体の快楽、物質の利益を第一にする国民性が出来上がるのである。それは現在のもうけ主義第一の産業人のやり方、肉体の快楽を第一に求めた様な猟奇的事件の多発、自分のことばかりで子供のことを顧みない若い親達の出現等の我が日本国の現状を見れば、明らかだろう。
 そして、自衛隊を否定し、国の安全保障上の当たり前の免疫機能である軍隊を否定しており、その事がまた日本が一人前の国として世界に対して、責任ある行動と言動が出来ない原因になっているのである。
 
 しかし、昨今、一昔前までタブーとされたこの日本国憲法改正に関しての議論が活発になって来て、過半数の国民が改正に賛成ということになって来たのはいい流れではあると思う。しかし実際、現状のままでは日本国憲法を根本的に改正するというのは難しいだろう。
 環境権の追加とかそのような微細な改正なら可能かも知れないが、根本的にまともな憲法にするように変えるのは現状では困難だと思う。へたをしたら改正どころか改悪なんてことにもなりかねない。
 何故、この憲法を正しい方向に改変して行くのが難しいと言ったら、このアメリカ製の日本弱体化を意図した憲法は言わばぬるま湯憲法であり、一旦、それにはまったら中々そこから自ら抜け出す気にならないからである。
 おまけに日本はいわゆるムラ社会であるから、強力なリーダーの元、合理的な改革がびしびしと実行されて行く欧米と違って、誰が中心者だか決定者だかよく分からないで何となくものごとが進行して行き、ドラスティックな改革は中々行われず、現状維持で何となく進んでいくのである。

 それではどうしようもないのかと言ったら、そんなことはないのである。それは日本の真の姿、実相というのは自然発生的に出て来るのであるからである。そもそも日本国の建国も欧米の国の様な人々の契約により成り立ったものではなく、自然発生的なものであり、従って、日本国の生長や改革も言わば、同様に自然に行われて行くと私は思う。
 
 日本の実相はそのままで素晴らしい国であるから、だからこそ色々な失敗体験をするのである。その失敗体験こそ素晴らしい勉強と学びの機会であり、それを契機としてその本質の素晴らしさがますます顕現して行くのは我々個人と同様である。

 現在の日本は正に色々大切な事を学んでいる時期であると思う。新聞紙上を騒がす、色々な異常な事件、JRの脱線事故等々のように多くの人達の乱れ、悩みは我が国開闢以来のことであると思われる。しかし、それだからこそ、我々日本民族の素晴らしさがその学びの中で自ずと自然発生的に目覚めて行くのである。それが日本の夜明けである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-25 12:43 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

日本の防衛について

 日本の防衛についてどうしたらよいかという議論があるが、この世に悪ありと認めて、それを恐怖して、抑える為に軍備を増強しようというのは間違っているのである。その様な迷い、恐怖心で動けば、その恐怖した通り、近隣諸国は実際、牙をむいて襲いかかって来るであろう。
 
 こんな事を書けば、日本国憲法の前文にあるような虚構の理想論即ち「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という愚か極まりない文句と同じに聞こえるだろう。
 しかし、私の信仰している生長の家の真理、即ちこの世界には善なる神しか存在しておらず、悪や悪人は本来存在しない、というのは現象の事ではなくて現象を超えてその奥に存在する本当にある世界、即ち実相世界の事であるのである。
 その事を吾々人類が本当に悟れば、現世(うつしよ)であるこの現象世界にもその完全円満な悪のない実相の世界の姿が投影されてくるのである。しかし、日本国憲法でうたわれている虚構とも言える理想主義はこの現象世界そのものが悪も何もない国々ばかりであると言っているのであって、そこに生長の家の真理と日本国憲法の考え方と根本的な違いがあるのである。

 吾々、日本民族はあくまで正しい信仰を把持し、この現象世界の奥には悪は一切ない世界が真実の存在として存在しているのであるという思想に立ち、この現象世界と本当にある完全円満な実相世界とは違うのだという認識を持たねばならぬ。その上で本当の世界には悪も悪人もないという大安心の心を持って政治を行い、経済活動をしていくべきである。
 そうしたら国の防衛に関して何もしないかと言ったら、そうではないのである。鳥が卵を産むのに備えて巣作りをするのは取り越し苦労するからするのではなく、あくまで内側から自然の働きで何となく巣作りしたくなるからするのであるというのは生長の家の「信仰生活の神示」にも示された通りであるが、そのように本当の世界は一切、悪はナイという信仰に立てば、やるべき備えは自ずとしたくなるように自ずと必要最小限の軍備や武力を備える事になるのである。
 それは日本国という一個の生命体としての免疫的な自然な働きである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-22 21:51 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

野球の審判

 私はこの世で一番恐ろしいものは何かと聞かれればそれは野球の審判をやることだと答えるだろう。
 私は息子の通っていた小学校のPTAのお父さん達によるソフトボール大会のつながりから出来た野球チームのまとめ役、会長を仰せつかっている。
 私は野球の経験はそれほどないが、何故かこのチームの会長をやることになったのであるが、会長という立場上、加盟している早朝野球のリーグ戦の他チーム同士の試合の審判に率先して行かなくてはならないのである。しかし、私はこの野球の試合の審判ほど苦手であり、それをするのが非常に恐怖を感じるものはないのである。

 実際、3年前にもひどいジャッジをしてプレーヤーからひどく抗議されたし、それが自分としては一種のトラウマになっていたのであるが、今年も今月から早朝リーグが始まったのでいやでも審判に行かなくてはならなくなってしまった。私は性分から自分は出来ないからやれませんと言えないので、本当に悲壮な覚悟で渋々審判をするのである。
 そして、先週の日曜日の15日に他チーム同士の試合で三塁の塁審をやったのであるが、実際その試合の間の約2時間は自分に取って拷問に等しいものであった。一回だけ三塁でクロスプレーがあり、私はとっさにアウトの判定をしたが、実際微妙にセーフだったらしく、アウトにされたチームからまたもやひどく抗議された。
 私はその翌日の朝、目覚めた直後、寝床の中で前日の自分のまずいジャッジがすぐ頭によみがえり、ボーっとした意識の中で他チームの人から批判される妄想で苦しんだのである。こんなに苦しい思いがあるだろうかと思ったほどである。
 しかし、それは実は私に取って、素晴らしい転機の始まりだったのである。私は前にも書いたが自分自身、ものごとに対してこうあるべきだというのが非常に強くて、それは他人を自分の基準でひどく責め付けることにつながっていたのである。
 しかし、野球の審判でミスしてプレーヤー達からひどく責められたことで私は人から自分のミスを責められるということはこんなにもつらいことであるのかと痛いほど感じ、だったら私も人のミスを心で責めるのをやめようと思ったのである。
 そして、私が現在、心で責めているある人のミスを無条件にこれを赦そうと思ったのである。そして、今は神様から人を赦すトレーニングをやらされているのであると思ったのである。

 そしたら、私に一大変化が起こったのである。私のこのものごとはこうあるべきだという考えは自分にも向けられ、それがちょっと真面目すぎる、ものごとをきちんと完全にやらなくてはならない、また特に人を傷つけてはならないというちょっと強迫観念に等しいものにもなっていたのであり、それが私を長年苦しめていたのである。しかし、こういう思いを持っていると自分で自分を縛り、却って力が発揮出来ないものである。だから、野球の審判もうまく出来なかったのである。
 それは他人をそして自分を取り巻く世界を信頼出来ず、自分が何とかしなくてはならないという我(が)でもあった。そして、世界を相手を信じられないから常に悪くなるんじゃないかという恐怖心もあるから、ますます萎縮して力が出ないのである。
 しかし、人を無条件に赦すことを学んだ私は何より自分自身が神から赦された感じがして、自分の生命を縛っていた心の鎖が取れた感じがしてきたのである。そういう心境になれたということは、私に取って何よりの得難い宝であり、そうする中で私のあらゆる能力が以前より、スムースに気持ち良く出て来て、人間関係までもより明るい、スムースなものとなって来たような感じがするのである。

 私の信仰している生長の家の人間神の子、無限力、そしてこの世には何も悪いこと、悪い人はいないという信仰がこの自分の最もいやだと思っていた野球の審判をさせてもらうことで実際の生活面でも生きて来たと思う。
 そういう意味で私のジャッジングに罵声を浴びせて来た人は正に恩人であり、その罵声は実は私の中の眠っていた無限の可能性を呼び覚ましてくれるかけ声であり応援歌であったのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-22 18:39 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

次郎のこと

 今朝、私の犬の次郎が亡くなった。15歳と10ケ月で、老衰である。次郎のことは以前の文章「犬に教えられたこと」で書いたから覚えている読者もおられると思う。
 そこでも書いたがこの次郎は約2ケ月ほど前から後ろ足に力が無くなり、家の近くを30分程、散歩させても後半は座り込んでしまうようになってしまった。そして、日に日に弱って行き、先月末位には失禁もするようになり、下の世話もしなければならなくなった。獣医にも連れて行き、注射や薬をもらって、ちょっと持ち直したが、連休明けの今月6日位には殆ど歩行も出来なくなってしまった。それでも食欲だけはあり、このまま寝たきりでも下の世話をしながらしばらく生きながらえるかと思ったがその期待も空しく、昨日から何も食べなくなり今朝ついに息を引き取った。

 私はこの犬には本当に感謝しているのである。何故なら私に人間としての当たり前の心を取り戻させてくれたからである。以前の記事にも書いたが、今回弱ってきた犬の世話をするようになるまでの私は自分の能力向上をむさぼる一種の餓鬼の様な存在であったのである。そう、つい1ケ月くらい前までは。
 しかし、犬というものが如何に優しい感情細やかな生き物であるかということを偶然見たテレビ番組で知らされた私は自分の犬ももっと心を込めて、いたわってやらなくてはならないと気が付き、犬が亡くなるまで自分としては最後まで愛情を注いで世話をして上げることが出来たと思う。
 
 私はこの犬が足が弱ってきた時、それを丁寧に面倒見てやった事で今、目の前のもの、ことに心を込めるということを教えられ、そして犬の下の世話を毎日してやることで生き物に対して本当に愛情を注ぐことを教えられ、そして、実は取り越し苦労しないということが大切であるということも今回の事で教わったのである。
 今、目の前のことに気が行かない、愛情を込めない、何かと取り越し苦労するという性質は私の生来持っていたどうしようもない人格上の欠点であったのである。しかし、この犬はわずか2ケ月という短期間に私にこれらのことに気が付かせ、人間として大事なことは何かということを教えてくれたのである。
 そういう意味で私はこの犬には本当に感謝しなくてはならないと思っていた。しかし、今朝、犬が息を引き取った後、ぼんやりとしていてはっと気が付いたのであるがこれは正に神様が犬を通して私に大事なことを教えてくれたのではないかと思うのである。
 生長の家の本に出てくる神の言葉とされる言葉でこんなのがある。それは「いと小さきものに施したことはそれは私(神)に施したのである。」と。
 神は遙か遠く彼方におられるのではなく、吾々の周囲のいと小さきものとしてそこに現れているのである。

 私は今日の午後、父、母、兄、兄嫁と一緒に犬の亡骸を家の裏山に穴を掘って、葬った。20kgほどの体重の犬の亡骸を布でくるみ、裏山まで犬を抱きかかえながら連れて行き、そこで穴を掘って、葬ったのだが、最後に犬を我が手に抱きかかえてやれたことは本望であった。

 最後になるが最後まで私とよく協力して次郎の面倒を見てくれた息子、周太郎に感謝したい。

堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-14 17:34 | Trackback | Comments(0)

何も食べない人

 またまたフジテレビの番組「アンビリバボー」からの題材である。この番組はひいき目ででなく、今までのいい加減のオカルト番組とは違って、非常に信憑性があるし、また良心的であると思う。
 ところで私が今回引用したいのは先日の5月5日に放送された「アンビリバボーな食生活」と題された回のものである。それはイギリスの15歳の少年が生まれてこの方ジャムパンしか食べないのに健康に全く問題なく、医学的に血液検査等色々検査しても数値的に全然問題ない健康体であるというのである。
 そして、それをしのぐのがロシアの68歳の女性、ジナイダ・バラノアさんである。この人は何と食事はおろか水さえも一切口にしないのである。何故、その様になったかと言えば、それは12年前に一人息子を事故で失った事により、精神的ショックを受け、食事も出来ない程衰弱してしまったの事がきっかけだそうである。
 何も食べられないジナイダさんは衰弱がひどくなり、もう死を待つばかりになったかに見えたが何と次第に彼女は精気を取り戻し、同時に息子さんの死も受け入れられるようになったという。
 それ以来、ジナイダさんは一切の水分も食物も摂らないで元気に毎日、生活を続けているのである。テレビで実際の彼女を見た感じでも顔の色つやといい、肉付きといい、生き生きとした表情、動きといい、全くの健康体の女性である。そして大学の医学部の研究チームが彼女の本格的な体内検査を行ったところ、細胞レベルでの体内器官の状態は30歳の女性と同じであったというのである。
 これは正に「アンビリバボー!!」である。彼女が言うには自分は何も食べなくても太陽にパワーをもらっている感じがするというのである。科学的にも日光によって、皮膚の下にあるコレステロールの一種からビタミンDが生成される事が確認されているそうで正に彼女は日光によってビタミンDやそれ以外の栄養素が体内で自然形成されているのではないかと番組では分析していた。

 私はこのジナイダさんをテレビで観て、仙人の話を思い出した。仙人は何も食べないでも霞を食って生きているという。私はそんなのは単なる作り話に過ぎないと思っていたが、実際こういうジナイダさんの様な例を見れば、仙人というのもこの様なものであったのではないかと想像するのである。
生長の家のお経である聖経「続々甘露の法雨」には次の様に書かれている。
「生命は物質の法則を利用しつつも物質の法則には縛られざるなり。物質の法則を乗り越えて、みづからの欲する相(すがた)に肉体を構成するもの これ生命なり、いのちなり。されば、吾々は生ける肉体に関する限り、物質の法則は生命の法則の従位にあり。例えば食物にビタミン欠乏せば、生命はみづからビタミンを作るを得、肺臓に空洞を生ずれば生命はみづから新しく肺臓の組織を造るを得。」

 人間は本質的には物質ではなく、神に生かされた無限生命であるから、自ら無限に生きる力を持っているのであり、それを本当に自覚すれば、物質的栄養に頼らなくても十分生きて行けるということかも知れない。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-13 22:06 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

運命の女

「運命の女」というダイアン・レイン、リチャード・ギア共演の映画をDVDで観た。確か去年の作品だと思うが、これが結構、秀作なのである。

 ダイアン・レインは子役の時から知っていたが、当時はそれほど注目はしていなかった。しかし、その後、私の中のベストの映画の一つである「ストリート・オブ・ファイヤ」に主演し、それでけっこう私のお気に入りの女優になったのである。
 
 ストーリーはダイアン・レイン演ずる人妻の不倫の物語である。映画の中のダイアンは平凡だが、魅惑的で知性的な主婦役を好演している。それほど大きくない自動車会社の社長であるリチャード・ギア演ずる夫と10歳位の一人息子と何不自由ないごく普通の家庭を営んでいたが、ひょんなきっかけで若い男と不倫関係に陥り、夫を裏切るのである。
 男は古書売りで、女から見れば一種独特の魅力を持つ色男でダイアン演ずるこの平凡な主婦はこの男の不思議な魅力に取り込まれ、逢瀬を重ね、ズルズルと肉体関係を続けて行く。
しかし、妻の素行に不審を抱く夫が私立探偵に妻の行動を探らせ、妻の不倫の事実を突き止めてしまうのである。
 そして、この不倫相手の男の所へ乗り込んでいった夫は男のアパートで自分が妻の誕生日に妻に送ったはずのオルゴールがこの男の所にあるのを見て、逆上してこの男をそのオルゴールで殴り殺してしまう。
 夫は男の死体を始末し、うまく証拠隠滅して妻の元に返るが、その後、警察に嗅ぎつけられ、次第に追いつめられて行く。

妻は不倫を続けて行く中で最初は快感だったのがそれが段々と苦悩に変わり、そして夫を裏切っている良心の呵責に耐えられず、別れを決意する事を男に告げようとしていた矢先に夫が男を殺害してしまったのである。
 そもそも妻が何故、夫を裏切ったかと言えば、それは平凡な生活の中で刺激が欲しかったのと夫が忙しさにかまけて、日頃余り愛情を表現していなかったので夫の愛を実感として感じていなかったからである。しかし、妻が、自分が夫に不倫を見破られていた事、そして夫が男を殺害してしまったことを知った後、夫が男を殺害した時に使った凶器のオルゴール、これは元々夫が妻に誕生日の贈り物として贈ったものであるがその中に隠されていた夫から自分へのメッセージの紙を見つけ、「わが愛する世界一美しい妻へ」という言葉から始まるその愛のメッセージを読んだ時、自分はこんなにも夫から愛されていたということを初めて知って、愕然とするのである。

 私はこの作品が何故、秀作であると思ったかと言えば、それは人間というものは今、そのままのごく当たり前の生活の中に既に神から祝福され、家族から愛された素晴らしい幸福な世界があるのにそれを忘れ、何か普段と違った変わった異常な刺激の中に幸福があるのじゃないかと勘違いして、それを追い求めて、さまようことがあるということをこの映画は痛切に表現していると思うからである。

堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-07 22:16 | 映画・ドラマ | Trackback(1) | Comments(0)

あと一歩の勇気の大切さ

 テニスの話題が多くて恐縮だが、またそのことで気が付いた事があるので書かせて頂く。私は2年程前に家の近くのテニスクラブに入会した。そこは私の地元鎌倉の名門テニスクラブであり、神奈川でも屈指の実力のあるクラブである。
 そこに入るのは割合厳しい審査があって、正会員2人以上の推薦がなくてはならず、その推薦状の上に審査委員会があって、そこで初めて会員となれる。私は地元の運動会の役員をやっていた働きぶりが認められて町内会長ご夫妻の推薦を頂き、幸運にもそこの会員に成ることが出来た。
 新参者でテニスの技術も確固たるものがない私は2年前の入会当初、そこでプレイすることが非常に緊張し、サーブなど特に失敗が赦されないセカンドサーブなどは腕が縮んで全然いつも通り打てなかった。このクラブは割合レベルが高い上にお互い余り知らない同士であるからいつも気心の知れた友人同士でやるようなリラックスした雰囲気ではやれず、非常に緊張するのである。

 だから、このクラブに入っても中々そうした雰囲気に馴染めないで来なくなってしまう人もいるそうである。
 従って私もこのクラブに出かけて行くのは毎回一種の決意が必要な位であった。

 テニスにはサーブから始まり、ボレー、ストロークと続くが私はストロークは昔から自信があり、ボレーもまあまあであったが何より一番苦労したのはサーブである。サーブはファーストサーブ、セカンドサーブと二回打つ事が出来、ファーストサーブで失敗してもセカンドサーブを失敗しなければいいのだがこのセカンドサーブが昔から悩みの種でうまく打てないのである。
 セカンドサーブに失敗すれはダブルフォルト(サーブを二回失敗すること)になって、相手に得点を与えることになるのでセカンドサーブに自信がないとそれが非常にプレッシャーになるのである。
 特にこのクラブでは試合は皆、ダブルスであるのでダブルフォルトをしたら自分のパートナーに悪いと思って非常に気を使うし、またダブルフォルトは御法度というような雰囲気もこのクラブにはあるのである。私はこのクラブでセカンドサーブを打つ時はそうしたプレッシャーといつも戦いながらプレイしていた。
 
 しかし、私は先日の4月23日のシングルスのテニス大会の試合中に得たトスの位置をちょっと変えてみるというヒントにより、このセカンドサーブの打ち方が技術的にほぼ分かったのである。
 しかし、打ち方は分かったがそれをこのクラブで試してみるのは勇気が必要だったのである。というのはやり方が分かっただけでそれを完全に自分のものにはしていなかったからである。しかし、私はこのテニスクラブでの試合で自分の力と感を信じて思い切ってその自分が正しいと信ずるやり方でセカンドサーブを打ってみた。そうしたら、あら不思議、これが思い切り強く打ってもうまく回転が掛かって面白い様に相手のサービスエリア内に良く入るのである。正にコロンブスの卵のようであった。
 テニスではセカンドサーブに自信がつけば、ファーストサーブもより思い切って打つ事が出来るようになり、それがいい連鎖になり、勝率もグンと上がるのである。そして、私はセカンドサーブを自信を持って打つことが出来るようになった事でこのクラブで自分の力を存分に発揮することが出来る様になったのである。
 
 あと一歩を踏み出す勇気が大事である。もう駄目だ、どうせ出来ないと思って臆病風に吹かれて逃げ出す前に思い切ってあと一歩の勇気を出す事こそが道を開く鍵である。そうした勇気で壁を突き破って行ったその先はもう自分でも思ってもみなかった展開になり、自分の力を存分に発揮出来る世界が待っているのである。というか元々やれば出来る自分であったということに気が付くのである。出来なかったのはあと一歩勇気を出さないで自分で勝手に自己限定して自分に栓をしていただけなのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-05 11:40 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

悩むことは一つもない

 私の高校時代の恩師に清田先生という先生がいらっしゃって、もう何年か前に他界されているのだが、この先生は足が少し不自由なその当時60歳位の男性の先生だった。
 この先生は数学の先生だったが、私のクラス担任だったのでよく人生訓話をして下さったのである。
 その中で今でも印象に残っているのは次のような事である。それは「自分はこの悩みが解決したら一所懸命勉強しよう、でもこの悩みがあるからそれが解決するまでは一所懸命勉強出来ない・・・なんて言っていると永遠に勉強する機会なんて巡って来ない。」というものであった。

 私はこの事は大変重要な事を言っていると思うのである。というのは悩みというものは実は具体的な存在ではなく、勝手に本人があることに心を引っ掛からせているだけなのではないか?ということである。
 人間は色々な悩みを抱えて生きているが、その悩みは人それぞれで千差万別である。しかし、ある事がAの人には悩みだがBの人には悩みでも何でもないということがよくある。
 
 ある仏教の寓話の一つにこういうのがある。それはある人が自分の家が狭くて狭くて仕方がないとこぼしていて、それがその人に取っては最大の悩みであったのだが、それを知り合いのあるお坊さんに相談したら、そのお坊さんは何とその人にその人が飼育している牛と馬を家に入れて、その家の中で飼育しろと指示したのである。
 当然、その人はただでさえ狭いのにこの上、牛とか馬を家に入れたらもっと狭くなりますと抵抗したが、結局、そのお坊さんの指示通り、牛と馬を家に入れて、しばらく暮らしていた。その内、またそのお坊さんが来て、お前、そろそろ牛と馬を外に出せということを指示して来たのでその人は言われるままに牛と馬を外に出したのである。そうしたら牛や馬で大変狭く感じていた家が本当に広々としたものに感じられ、ああ自分の家は広い家であったと認識を新たにしたというのである。

 このように全ては我々のとらえ方次第でいくらでも変わるのであり、具体的な悩みの要因というのは実は存在しないのであって、単にそれに我々が心を引っ掛からせているだけであるのである。
 我々人間は心的生物であって、心の世界に住んでいるのであり、あることに引っ掛かればそれが非常に大きな悩ましい問題に錯覚せられるのである。だから、習慣的にものごとを流せないで常に引っ掛かる性質の人はある問題が解決したと思ったら、また別の問題に悩むということになり、常に悩みを抱えて果てしがないということになるのである。
 それがひどくなれば不安神経症とか鬱病になるのであり、ようするにこういう心の病気というのは心の方向性、考え方の間違いに気づけば治るのである。

 それでは何故、ものごとに引っ掛かってしまうかと言えば、それはその人が真面目でいい人だからである。ものごとをいい加減に出来なくて、あの人はこうあるべきだとか自分はこうでなくてはならないなんてきまじめに考えていれば普通の人が適当に受け流せることも引っ掛かって、よくしようよくしようと悩むか他人を心で責め続けるのである。
 でも、そうした根が真面目な人にちゃらんぽらんになれ、とか言っても中々難しいのである。それではどうしたらいいかと言ったら、それはよくしようよくしようと言う心を捨てて、既によいのだと思うことである。例えば、テニスをやるにしても、うまくなろう、うまくなろうとするのは自分がうまくないと思っているからである。うまくないと思っているからうまくなろう、なろうと常に技術的に悩んで、くよくよ考えすぎたりするのだが、そうしていても頭が痛くなるだけであり、そして、自分はうまくないという信念通り、いつまで経ってもうまくなれないのである。反対に自分はうまいからうまくなる必要はないのだと思っていれば、常に心は空っぽで今目の前のことにのみ集中出来るようになり、そうなればいつも気分は爽快で悩み憂いなく、考えすぎることもなく、注意力も働き、従って記憶力、判断力も研ぎ澄まされるのである。
 そしてこういう人はどんどん試合とか実地経験を積むからその中から自ずと打ち方、やり方が分かって来て、どんどん生長、進歩するのである。それは何もやっても同様の事が言えるのである。

 このように我々は自分に自信を持って、よくしようよくしようと心を引っ掛からせなければ、もともと悩むことなんて一つもないのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-01 12:49 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(0)