失敗してもよい。

 私は今回、ある仕事を絶対に引き受けなければならない立場に追い込まれたのである。しかし、私はその仕事で以前、二回も大失敗したことがあり、その時、非常に責められ、恥をかいたのである。それは私の努力ではどうにもならない程、私にはそれをするのが困難に感じられるのである。
 私は今回、その仕事を再びしなくてはならないということが決まった時、本当に暗い気持ちになった。やらなくてはならないが自信がない。やめたい、避けたいと思うが立場上避けられない私は本当に精神的に追いつめられたのである。

 しかし、私は今日の朝、ふっと思ったのである。「そうだ。絶対失敗してはならないと思うから、大変なプレッシャーに感じるんだ。失敗してもいいじゃないか。殺される訳でもなし。」と。
 私は余りにも我(が)が強くて自分のメンツにこだわりすぎていたのである。そうだ。そんなメンツなんてどうでもいい。失敗しよう。恥をかこうと失敗を積極的に受け入れる気持ちになったのである。
 まな板の上の鯉の心境とはこんなものであろう。そうしたら私の両肩にズンとのしかかっていた重みがスーッと軽くなったような気がしたのである。

 我々はものごとを為す時、完全主義になってはならないのである。完全主義は力みを生み、力みは自分のそのまま本来の生命の自由な動きを妨げ、却って、失敗を招くのである。
 失敗してもよいのである。恥をかいてもよいのである。必ず完全にやらなくてはならないという力みを我々は何事においてもとらなくてはならないのである。以前の文章でも書いたが、我々は「そのまま」であれば、本来神の子無限力であるから適宜に力が出せるのである。判断も出来るのである。しかし、絶対に失敗してはならないと思って、力むと本来の力、判断力が妨げられ、却って失敗してしまうのである。

 失敗を受け入れよ。不完全を受け入れよ。そして死さえも受け入れよ。それらを全て受け入れる時、我らは自由になるのである。失敗から逃れよう逃れようと焦れば焦るほど、却って失敗するのである。死から逃れよう逃れようとじたばたするほど却って、死の虜になってしまうのである。
 死を受け入れ、失敗を受け入れる心になった時、我らは死と失敗の恐怖を超える。そして、死を超越し、永遠の生命を獲得し、失敗を超脱し、全てを完全に行うことが出来るのである。
 失敗してもなおかつ、認められ、愛される自分を認めよ。死してもなおかつ、生き通す自分を自覚せよ。

 失敗を恐れるのは自分が失敗することによって居場所がなくなる、軽蔑される、相手にされなくなると思っているからである。死を恐れるのは自分の肉体が死んだらそれが永遠の死であると思うからである。

 現象的失敗や死はあるように見えても我らは現象の奥に完全円満な神の生命により完全に生かされている存在であるということを自覚すれば、失敗を恐れず、死におびえることがない。それが死を受け入れ、失敗を受け入れる心境になる唯一の道である。

  堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-15 22:40 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

執着について

 この前の日曜日、映画「スターウォーズ・エピソードⅢ/シスの復讐」を観た。スターウォーズファンの私としては待望の映画であり、大変見応えがあった。
 今回は主人公のアナキン・スカイウォーカーが如何にあの悪の化身「ダース・ベイダー」に変貌して行くのかという過程がメインに描かれているが、彼は元々正義を愛する熱血漢の若者だったのにその正義感と愛が我執(がしゅう)にとらわれたものであった為に却って、悪の世界に転落してしまうというストーリーであった。

 このアナキンの様な愛は生長の家の聖典「生命の実相」第35巻、下化衆生遍78ページにも以下の様に示されている。
「・・・愛見の大地とは我が彼を愛するという彼我(ひが)、能愛所愛(のうあいしょあい)の区別を存する愛であって、執着が残っているから、私があんなに愛してやったのに背(そむ)いたなどと言って恨み怒りの原因となる。愛が闇となったのである。(中略)宜しくわれらはかくのごとき執愛を超克しなくてはならない。」

 本当の愛とは既に自分の生命と他の生命が神の大生命において一体であるという自覚であり、それに対し、我と彼との本来一体の霊的生命を観ないで表面の肉体である我と彼とのみを見ている者には我と彼とは一体ではなくバラバラに別れて見えるものであるから、相手を愛そうとする時、相手を無理に自分に取り込もうとするのである。それが執愛である。
 執愛は相手を無理矢理自分の好み通りにしようとするのである。反対に本当の愛は自分の生命と相手の生命が既に一つであるという事を自覚せるが故に相手に執着せず、相手を相手の自由意志のままに解放しようとするものである。
 本当の愛は相手を放して、却って相手から慕われ、執着の愛は相手を無理に自分に縛ろうとするが故に却って相手から煙たがられ、終いにはその相手から去られるのである。

 我々は自分の愛する人々即ち自分の妻、夫、子、親、兄弟そして恋人を本当に愛するならばそれに執着するのではなくて心で放さなくてはならない。そして、この事は対人間に限らず、全てに対して言える事である。
 自分の地位、財産、肩書き、能力そして肉体の健康、これら全てに執着せず、神様に全部預けてしまえ。(念のために断っておくが、これは自分の全財産を一定の宗教団体に捧げてしまえという意味ではない。あくまで心構えの問題である。)これらは元々、全て自分の中の神様から頂いたものである。これらを自分のものだと思って執着してしがみつかないで全て神様にお返しするつもりで心から放ち去れ。
 その時、我らは却って真に必要なものを神様から適宜に与えられるのである。それが生かされているということであり、また感謝ということである。そしてそれが本当の愛の生活である。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-14 21:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

フェデラーの強さの秘密

 皆さんの中でテニス好きの方は先週のテニスのウィンブルドン大会を熱心にテレビで観戦していたと思う。今年は女子シングルスではロシアの人気選手シャラポアの二連覇が期待されたが準決勝でアメリカのビーナス・ウィリアムスに破れ、結局そのビーナスが決勝でも勝ち、久々にウィンブルドン女王に返り咲いた。
 そして男子シングルスではあのスイスのロジャー・フェデラーが無敵の強さを見せ、決勝ではあの時速240km/h以上の高速サーブを誇るアメリカのアンディ・ロディックをセットカウント3-0のストレートで完膚無きまでに叩きつぶし、見事大会三連覇を飾った。

 このフェデラーはサーブ良し、グラウンドストローク良し、ネットプレー良しのオールラウンドプレーヤーであり、そういう意味では同タイプとされるあのウィンブルドン4連覇を誇るアメリカのピート・サンプラスの再来と言われている。しかし、私の見た感じではフェデラーの方がグラウンドストローク力はサンプラスより上であり、そういう意味では史上最強と言われたサンプラスより実力は上ということになり、そうなるとこのフェデラーこそ史上最強のテニスプレーヤーということになると思う。
 しかも、彼はまだ若干23歳であり、年齢的にはこれからが全盛期ということになり、本当に末恐ろしいプレーヤーである。

 私は彼の一番の強みはどこにあるかと言えばそれは力みが抜けているということに尽きると思う。テニスでは何が一番大事であるかと言えば、これはテニスに限らないかも知れないが上体の力が抜けているということである。フェデラーはこれがほぼ完璧に出来ている。
 対するにウィンブルドンの決勝の相手であったロディックはそれが十分に出来ておらず、その差が試合結果に出たと思う。

 日本の合気道で言われている事だが、ものごとにはそれ本来の力がそのままに流れており、その力を利用すれば、自分で力まなくても効果的な打撃又はその他の色々の技を繰り出す事が出来るのである。
 合気道では真剣で巻き藁(まきわら)を一刀両断にする訓練があるそうだが、これも力任せにただ刀を巻き藁に叩きつけても刀は巻き藁にブスっとくい込むだけで決してスパッと真っ二つに切る事は出来ないそうである。
 姿勢を正し、上体の力を抜き、重心を臍(へそ)の下、所謂、臍下丹田(せいかたんでん)に落として刀自体の持つ、重力により自然と降り下ろされる力を利用して切るとスパッと切れるそうである。
 ホームラン世界記録を持つ王貞治の師匠荒川博はこの合気道の達人であり、王にこの真剣の巻き藁切りのトレーニングをさせ、それによりバッティングの神髄を伝授したそうである。

 私の見た感じだとフェデラーはその脱力の奥義をほぼ会得しているようである。ここでも何回も申し上げたが、人間には本来無限の力が宿っており、それをそのまま表現していけば、素晴らしい力が発揮出来るのである。しかし、大抵の人はそんなことは思っていないから是非、自分が力を入れて、力んでやらなくてはならないと頑張るのである。しかし、その為に本来の動きが妨げられ、スポーツで言うと本来の筋肉の動きがその力みによって妨げられ、強く打とうとしているのが却って、テニスだとラケット、そして野球だとバットの振りが鈍くなるのである。
 振りが鈍くなればラケットとかバットのヘッドスピードは遅くなり、ヘッドスピードが遅くなれば、打とうとする対象物、テニスとか野球などの球技ではボールということになるが、それに対して効果的に力を伝えることが出来ず、ボールを遠くに飛ばしたり、早いボールを打つことが出来ないのである。

 だから、達人というのはその人間本来の無限力の力の源泉から出て来るパワーを余計な力みでそれを鈍らせることが無い人の事を言うのである。
 この余計な力みを取る為にとても大事なのが、それは先ず自分には無限の力が宿っているということを信じて、それに任せる事である。そして、姿勢を正し、顎を引き、頭から一本の糸で天から吊られていると思って背筋をピッと伸ばす訓練をすることである。そうすると臍(へそ)の下に重心が落ち着き、そうなると肩の力が抜け、気持ちが落ち着くものである。それが腰が据わるという状態である。
 フェデラーは誰に習ったのか知らないがこの姿勢が見事に出来ている。腰が据わった感じなのである。
 この様に上体の脱力が出来、腰が据わっていれば、所謂、気持ちが「あがる」ということが無くなり、常に冷静で落ち着いた精神状態になり、テニスのプレイに入れば、余計な力が抜けているから自己本来の力とラケットそのものの力そして自然の重力の力を最も効果的に駆使していくことが出来るのである。それが出来ているのがこのロジャー・フェデラーである。
 彼はその達人の域に達したプレーで無敵のテニスプレーヤーとして今や世界中にその名を轟かせているのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-09 18:51 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

若貴問題について

 久しぶりに時事問題というか余り、程度のいい話ではないが今、話題になっている問題について書いてみる。例の「若貴問題」である。

 周知のように史上初の兄弟横綱であった花田勝氏、光司氏の兄弟不仲がいよいよ深刻の様である。昨日も双子山親方の35日法要が行われたが、二人は殆ど顔を合わせなかったそうである。

 私はこの二人の構図はよく分かる様な気がするのである。即ち、ちゃらんぽらんだが割合、何にでもつぶしがきき、現実的な考え方をする兄、そして生真面目な求道家タイプの弟。ちょっとこの弟は私に似てなくもないので彼の気持ちが何となく分かるのである。

 聞くところによるとそもそも兄弟の確執はどの辺から始まったかと言うと、兄の勝氏(若乃花)が横綱になったあたりらしい。若乃花は相撲はうまいかもしれないが軽量で小柄ということもあり実力的には横綱にはなれる資格が無かったのに兄弟横綱で相撲人気を盛り上げようとした相撲界の商業主義により横綱若乃花が誕生したと言う説があり、相撲や横綱というものを神聖視していた貴乃花がその事に対して、非常な憤りを感じたと言うのである。神性な横綱という地位をちゃらんぽらんで実力もない兄が汚したと弟の目には映ったのかも知れない。

 貴乃花は大相撲で割合、日常的にあると噂される八百長には一切、手をつけず、ガチンコと呼ばれる真剣勝負だけで横綱に上り詰めた横綱中の横綱である。そうなるまでは彼は素質に恵まれていたとは言え、人の何倍もの努力をそのストイックな精神力で重ねたはずである。それなのに割合ちゃらんぽらんで現実的な兄がひょいひょいとその横綱になってしまったのだから、この生真面目な弟にはそれが許せなかったのだろう。

 でも、これがもし他人同士だったらどうであろうか?貴乃花はこうやって楽に横綱になった若乃花という力士をこうまで憎まなかったであろう。「まあ、しょうもないやつ」くらいで流していたはずである。それは何故かというと他人にはそんなに思い入れがないからである。
 例えば、となりの親父が愛人を作ったからと言って、世の奥様方はそんなに憤らないであろう。だが、これが自分の亭主ということになると「怒髪天を衝く」ということになると思う。それは自分の家族は他人より愛しているが故にこうあって欲しいという理想像があり、それに相手が反したことをすれば相手を愛している分、憎しみも深いからである。

 そういう訳でこの若貴に限らず、憎しみ合っている仲の悪い兄弟姉妹というのは実は仲が良く、お互い愛し合っているからこそ憎しみ合うようになるのである。

 それでは実際問題、こういう場合、どうしたらいいのか?どうやったら仲良くなれるのか?皆さんはどう思いますか?それは相手に理想像を求めないということである。相手を愛しているからこそ相手に理想像を求めてしまうのであるが、相手の短所ではなくて長所を見ればいいのである。

 人間は全ての面において、完璧な人間はおらず、皆、長所と短所があるのである。短所のない人間はいないが長所のない人間もいないのである。
 ある長所を持っている人間はその自分と同じ長所を持っていない相手をいたずらに自分の尺度で責めるのではなく、自分は全体の役割の中で相手にない長所を持っているのだから、自分の長所で相手の短所を補う役目があるのだと思うようにすればよいのである。
 逆に相手は自分にはない長所があるはずだからそれを探し出して、感謝すればいいのである。そうすれば、お互い、相足らざるを補い合って、全体の家族、組織、社会としてうまくものごとが運び、皆幸せになるのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-04 20:37 | 時事問題 | Trackback | Comments(2)

集中力について

 皆さんは御自分は集中力があるとお思いだろうか。実はものごとを為す上で一番大事なのがこの集中力であるのである。

 集中力というのは今、目の前の事に全神経を集中させることの出来る能力であるが、それも鍛えようによっては向上させることが出来るのである。例えば、レーズンを数個わしづかみにして無造作に口に放り込んで食べるのではなく、一個々々、その味を良く味わいながら食べていく訓練というのがあるそうでこうやって、集中力を高める訓練をするそうである。瞑想なんかも集中力を高める訓練と言えると思う。
 生長の家の「神想観」はあらゆる瞑想法の中で最高に完成されたものである。神想観においては何に精神を集中させるかと言ったら、この現象世界の奥にある真に実在する完全円満な世界、これを生長の家では実相世界と呼んでいるがこれに精神を集中させるのである。

 それはともかく、我々は今、目の前の事に対する集中力が高まれば、その能力は飛躍的に伸びるのである。だから、我々はものごとを良く見、良く感じる訓練を生活の中でして行くべきである。
 自分の先入観とか既成概念で勝手にものごとを判断して処理するのではなく、対象物のありのままを良く、注意して見、聴き、感じるようにして行くことが大事である。そうして行けば、そこから来る情報に対して、どう行動するか、どう判断するかは我々の中に宿る無限の潜在能力が自動的に行って行くのである。

 約30年位前にアメリカのティモシー・ガルウェイとうテニスのレッスンプロが書いたテニスのレッスン書で「インナー・テニス」という本がある。これは当時アメリカでベストセラーになり、テニス好きで有名な当時のアメリカ大統領ジミー・カーターが絶賛した本である。日本語に翻訳されて、日本でも出版された。
 著者のティモシー・ガルウェイはヨガの精神を学び、人間にはそのままで内側に無限の可能性があるということを知り、それをテニスのレッスンに応用させたのである。
 彼によると人間には内に自動的に動く無限の力があるのだから、それに任せておれば、テニスは飛躍的に進歩するというのである。その為には対象物、ここでは主にテニスボールということになるのだがそれに意識を集中させるということが何よりも重要な事になるという。そして、フォームを矯正して行くには自分のフォームの変な部分を勇気を持って、それをあるがままに体で感じて行くことでフォームの矯正は自動的に為されて行くというものである。
 私は学生時代にこの本を読んで、感銘を受け、その理論を現在も信じているし、その理論の正しいことは私のテニスの経験の中で充分確認された。

 ここではテニスを題材にしているがそれは日常生活、仕事にもその考えは応用出来る。本を読んだり、車を運転したり、その他日常生活でものごとを判断して行動していくのは何よりも今、目の前の事に意識を集中させ、そこから来る情報を元にどう動くか、どう判断するかは我々の中に宿るそのままで完全な潜在能力に一任すればよいのである。それはそのまますっと初一念で感じること、判断することを信じて、それをそのまま実行するのである。それがおのれの勘を信じるということである。しかし、そこでああだこうだと考えるとたちまち自分本来の潜在能力、潜在する智恵がくらまされ、迷いが生じ、判断出来ず訳が分からなくなるのである。それが自分の潜在能力に自ら蓋をするということである。

 この今、目の前の事に集中して、良く見、良く聴き、良く感じる訓練とその情報の元に自分が最初に感じる勘を信じて、それに基づいた行動をする訓練というか習慣づけをして行くことで、我々はあらゆる能力を伸ばして行けるのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-30 12:53 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

訓練について

 皆さんは訓練というものについてどのように考えるであろうか?以前に「一所懸命」という文章で訓練の事について触れたが、重ねて言うが、人間の能力は訓練すれば出て来るし、訓練を怠れば、錆び付いて出て来なくなるのである。

 一週間位前に俳優の唐沢寿明を案内役とした「記憶」のメカニズムを題材にしたテレビ番組がやっていたが、そこで言われていた事は「記憶力で大事な事は記憶しようとするものを反復して覚える訓練をすることだ」と言う。
 何回も覚える訓練をして行けば、やがて、脳内の神経が系統的につながって行き、その結果、覚えることが出来るようになるのだと言う。そう言えば、私は46歳だが、もう若い頃の暗記力はないだろうとすっかりあきらめていたが、英検一級合格を目指す為に約2ケ月ほど前から毎朝10個ほどの英単語を暗記し始めたのである。
 始めた頃は全然覚えられなかったのが反復して暗記練習をしている内に最近は段々と英単語を暗記出来るようになり、英会話学校での単語テストでも成績が大分良くなったのである。

 それと番組で言っていた記憶のもう一つの要素というのは「人間は自分の興味のあることは反復しなくても一回で覚えられる」ということである。
 確かに自分の好きなスポーツ選手や女優や歌手の名前は覚えようと反復練習しなくても自然と忘れないものである。

 要するに人間の記憶力を養うものはこれを覚えようという意志に基づいた暗記の反復練習と自分の興味あることを持つ、又はそれに励むということになると思う。これらの事をやって行けば、私はもう年だから、暗記力も無くなってきた、頭もぼけて来たなんて言わなくても良いのである。
 覚える訓練をすることで脳の神経もつながって行くということだから、例え、年齢的に衰えた脳でも一念発起して何かの特技の向上を目指して、暗記の訓練をしたり、暗記だけじゃなくても色々の訓練を通じて、脳を訓練して行けば、いくらでも脳の力を蘇らせることが出来るということである。
 そうなると脳というのは生まれつき、いい、悪いというものではなく、筋肉の様に一つの意志を持って、鍛えることでいくらでもいい頭にする事が出来るものであるということになると思う。

 そして自分の好きなこと、興味のあることは強いて覚えようとしなくてもその好奇心が自ずと脳を活性化させ、覚えてしまうという事であるから、そうなると要するにぼけないでいつまでも脳の力を保って行く人というのは自分の好きなことをとことん追求して一所懸命それにかけている人ということになる。
 私の父が正にその好例である。父は今年満88歳であるが、今だに自分が創設した機械(コンプレッサー)製造会社で毎日、毎日飯より好きな機械設計開発に従事し、暇さえあれば新しい開発アイデアの事ばかり考えている。その為か数値的記憶力は私より上なのである。

 こうして考えると肉体の奥にある人間の潜在能力というものは正に無限であり、それを自覚して掘り出して行けば、いくらでも力は出て来るものであるということが分かるのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-28 22:17 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

問題はナイ

 私は会社では給料計算係である。今月は夏季賞与の月であるので昨日は各従業員の賞与計算をしていた。その二日前の月曜日に賞与支給日をいつにするか社長(私の父)に相談した所、給料日と同じ27日でよいということだったので賞与支給日を27日とする旨、文書にして社内掲示板に掲示した。
 
 しかし、昨日になって、急に賞与は本来は30日支払いが原則であるから賞与支給日は27日ではなくて月末の30日にすると訳の分からない事を父が言い出したのである。
 賞与支給日をきちんと父にお伺いを立て、その結果、はっきりと27日にするという指示であったので社内にも既に発表してあるのに、何を今更、おかしなことを言っているのだと、私は強く抗議した。
 やんごとなき理由があるならともかく、そんな三日も送らせなければならない事情など何もないことは経理担当の私にはよく分かっていた。
 私はその時、かなり憤って、その理不尽な指示に反対したので父もはっきりとした返答をしないまま、どこかに行ってしまった。

 それが昨日の午前11時頃であり、私は社長である父の理不尽さに腹が立って仕方が無かった。以前にも同じ様に父が急に強引で理不尽な命令を下した事があり、その時は父をうらんだが、その頃の記憶がふつふつとよみがえって来たのである。
 しかし、昼を過ぎる頃から段々と気持ちが落ち着いて来て、ふとメモ帳に目をやると「理不尽な目上の者がいるから自分はこの組織にいられないというのは間違いでこちらが目上の者の善なる実相を観て、中心帰一する心になれば、目上の者も理不尽なことを言わなくなる」という私がかつてメモした一節が目についたのである。
 面白い話だが私は私自身がかつてメモした事に教えられ、気を取り直し、こちらが相手を悪い人間だと思って問題をつかむから駄目なのであって、父は神の子であり、本来理不尽な事を言う人間ではないから、現在の問題は心から放して、神に全託しようと思ったのである。
 その上でまだ父が賞与支給は27日ではなくて30日にすると言ったら、理屈は全て捨てて全面的にその指示に従おうと腹を決めたのである。

 そうしたら専務である兄が賞与の事でなにやら父に話してくれた様であったが、その後、いよいよ、賞与振込手続きの期限が近づいて来たので私は父にもう一度、賞与支給日について確認した。すると、何と最初の決定した通りの27日支給でいいよと父は答えたのである。

 現象の奥に実在する本当にある世界、これを生長の家では実相世界と呼んでいるがそこは神の世界であるから本来は何も問題のナイ世界なのである。
 だから、我々がそれを信じ、何も問題をつかまずに神にお任せしておれば、自ずと本来問題のナイ世界が展開するのである。
 しかし、自分で勝手に「この世界には悪人がいる。問題がある。」と思うと、本来無い問題を心で握ってしまい、心で握れば、心が映し出す世界であるこの現象世界に本来存在しない問題が展開して来るのである。

 この世界は本来は何も問題のナイ世界なのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-23 13:19 | 信仰 | Trackback | Comments(8)

一所懸命

 一所懸命とは一生懸命とも書くが、生長の家創始者谷口雅春先生によれば一カ所に命を懸けるのだから「一所懸命」が正しいと言う。
 それはともかく、この一所懸命が如何に尊く、大切な事であるかということを今日は述べたいと思う。よく、世間ではがむしゃらに努力しただけでは駄目で努力は正しくされなければ意味が無いと言ったり、また才能のない者がいくら努力しても無駄だと言う。確かにその通りであるがそれでは一所懸命に努力することは無駄なのかと言ったら決してそんなことはないのである。

 才能のない者が努力しても確かに無駄であろうが我々は例外なく皆、神の子であるから無限の可能性、力を内に秘めているのである。しかし、それは潜在的にあるだけで表面には出て来てはおらず、それを掘り起こし、発現させるのが正に訓練であり、努力ということになる。だから、努力は決して無駄ではないのである。
 しかし、それは前述したように正しい訓練が為されなくて間違った努力をしていれば、その間は表面的にはいくらやっても上達することはない。そして、いくらやっても駄目だということで途中であきらめてしまってはやはり内在の無限力は出て来ることはない。従って、我々は正しい訓練を持続力を持って継続させなければならないということになる。

 しかしながらそもそも我々は何故、努力するのであるかと言ったら内に無限の可能性を秘めているからこそ努力するのである。内側からの要請で力を出したい、能力を発揮したいという欲求が自然にあるから我々はそれを掘り起こさずにはいられないのである。それが努力であり、一所懸命さということである。

 しかし、ただがむしゃらにやっていても前述のように正しい方向に導かれなければ我々の内在の力は発現することはない。その正しいやり方というのを探し当てるのは中々並大抵な事ではないので大抵の人は努力していく中で中々芽が出ず、いくらやっても駄目だと思って、途中で努力を放棄してしまうのである。しかし、努力の成果を出す人は他の人が「もう駄目だ」と思って、途中でやめてしまうのを更に後一歩、あきらめないでやり続けた人である。本当の成功というか、正しい神に導かれたやり方に到達する瞬間というのはこの様に最後まであきらめないでやり続けたそのちょっと先にあるのである。

 それはどういう事かと言うとあきらめないで最後まで一所懸命やるという心意気が神様と波長があうのである。というかその心意気自体が我々の中にある神の心そのものである。それが発現して行く中で神の導きが自ずと出て来て、我々の努力が正しい方向に導かれて、今までの血みどろの努力が実を結ぶことになるのである。

 私は幼い時から生長の家の信仰を持ち、大学生の時から積極的にやり出したが、その努力、一所懸命さが故に却って行き詰まり、苦悩の日々を過ごしたことがある。それは約8~9年前の37、8歳の時であるが、その苦悩の中でも努力を忘れず一所懸命やり続け、その結果、ついに自分の生涯最高の師である生長の家宇治別格本山の榎本恵吾先生に巡り会い、生長の家の神髄を授けられ、全てが悦びに満ちた生活となることが出来た。
 また、テニスも八年前から一所懸命やり続けていたが毎日、努力している割には試合に中々勝てず、結果が出なかった。しかし、あきらめずに一所懸命やっている中でたまたま私がテニスクラブで一人でサーブ練習をしていたのを見ていた管さんというレベル的に日本一クラスの方から直接レッスンを受け、サーブの神髄を授けられたのである。テニスをやっている人の大抵の悩みはこのサーブなのである。これが中々うまく行かず、皆、四苦八苦しているのである。私はこのサーブの神髄を授けられたことでどれだけ優位に立ったか分からないのである。

 私がこの様にこうした超一流の人達の指導を受け、努力が正しい方向に導かれたというのは私がたまたま運が良かったからではなく、私が何をおいても「一所懸命」であったからである。
 繰り返すが、その「一所懸命」さが神と波長が合い、我々の内在の無限の力を発現させる事になるのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-20 08:07 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

自分の運命が教えてくれるもの

 前回と前々回で先週の土日の体験を書いたが、そこで書いたように寝不足でコンディション最悪だったので野球にしろ、英検のテストにしろ最悪の結果となってしまった。
 でも奇妙な事に約二週間前にも殆ど同じ事を私はしているのであり、今回私は同じ事を繰り返しているのである。
 要するにこういう状況になるのは私が早朝野球と英語のテストの前の晩にテニスの試合を組む様な無理な事をしているのが表面的原因だが、実は私がこういう運命になるのはあらかじめ決まっていた事なのである。
 
 こう言うと奇妙に聞こえるが、我々の運命というものは実は現象的に出て来る前に既に心の世界で創られているのであり、それは時間の経過に伴って、後から現象として出て来るのである。おとといの日曜の運命、そして二週間前の日曜の運命は私の心が過去に自分で心の世界に創り上げたものであったのである。同じ様な心であるから図らずも殆ど同じ様な運命となってしまったのである。
 その心とは何かと言ったら、出て来た運命が自分が力を発揮出来なくて失敗する、恥をかく、責められるという事であるから、自分の力を自分自らが押さえつけて責め立てて出さないようにするという心であるが、それは裏を返せば、自分が誰かの非を心で審き、責めつけるという心なのである。
 即ち、おとといの日曜及び二週間前の日曜の私のコンディション最悪で力を発揮出来なくて他の人から責められるという運命は私自身の他人を決して赦さないでその落ち度を責める心が創り出した運命であったのである。
 私が前々回の文章中で書いていた自分自ら作り出した土日のハードなスケジュールが何かを教えてくれているというのは正に「他人に完全を求めて、心で締め付けるな、審くな、その人の良い面を観て、感謝しろ」という神様からのメッセージであった。

 この人生は我々人間という名の研究者が心という道具を用いてデータ又は作品を創り出す為の実験場、研究所みたいな所である。従って、我々は自分が体験した運命をよく注視して深く思索していけば、自分の心を反省することが出来るのである。そして、真に反省する所、我らの進歩、生長があるのである。だから、この人生は一つの大きな学校であるのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-14 22:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(2)

 私は英検のテスト、そして、野球の試合で失敗して、訓練の必要性を痛感した。しかし、どのような訓練をしていけば効果的であろうかと思ったのである。英検を受けた感じでは私の英語の語彙(ボキャブラリー)とヒアリング力がとても英検一級合格レベルではないということを自覚したのでそれを強化しなくてはならないと感じた。そして野球ではスロウイング(ボールを投げること)と脚力に問題があると思ったのでその方面の改善に努めなくてはならないと思った。

 しかし、今日の夕方に息子達とテニスをやっていて、気が付いたのである。それは自分の能力向上の為の訓練を如何にすべきかということにそんなにやっきになって考えなくても、「そのまま」でおれば、自ずと必要な訓練の道は見いだせるということである。

 私はテニスのサーブに関して自分の改善すべき点をテニスクラブの菅さんという方に教わってから、その技を何とかマスターしなくてはならないと思っていた。
 テニスの試合では殆ど本能のままに行い、余りフォームの事を考えながらやらないので試合の他にその菅さんに習ったやり方を徹底して練習しなくてはならないと思っていた。そこで一人で壁を相手に練習していたが、心なしか却ってフォームが乱れて行くような感じがしていたのである。

 しかし、今日のテニスの練習試合で気が付いたのであるが、この打ち方が良いと心から納得している場合、試合をしながらも自動的にその通りの打ち方をするようになるものである。それは決して無意識ではなく、意識しながら打っているのだが、同時に自分ならざる内側からの導きと力で打っている感じである。これは試合しながら、同時に練習にもなっているということである。

 私はこの時、悟ったのである。「そのままでよい」と。以前にも書いたが、我らは内に無限の生命、力を宿しているのであるから、今既に与えられている現状に感謝する心、即ち「足るを知る」心の中で心静かに「そのまま」の心で他と交わり、当たり前の事を当たり前にする中で自ずと必要な訓練も為されるようになり、向上していくのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-12 21:40 | 信仰 | Trackback | Comments(2)