スポーツマインド

 皆さんはスポーツや武道では何が一番大事かと思うだろうか?体力?技術?精神力?そのどれであろうか。

 昔から武道では心技体が大事であると言われ、体力も大事だし、技も大事だし、心の強さも大事であると言われている。どれも大事だし、どの要素が欠けても試合には勝てないが、しかし、非常に大きなウエイトを占めるものは心の強さであると私は思う。

 例えば体力がそこそこで技もまあまあで心の強さが抜群のテニスの選手と体力も技も素晴らしいが心がからきし弱いテニス選手と試合したらどちらが勝つかと言ったら、それは間違いなく前者である。テニスの試合では八割方が精神力の勝負と言われている。
 テニスのテクニックは世界ランキング10位内の選手と世界ランキング100位の選手と全然変わらないのだそうである。その差を決めるのは精神力のタフさなのである。

 いくら力と技を持っていても、それが肝心な所で萎縮してしまえばその実力の半分、いや10%も発揮することは出来ないのである。だから、スポーツ選手は自己の心を鍛えるということが大変重要である。

 心の強さとは自信があるということに言い換えられるが、自信をつけるためには多くの選手はそれこそ練習を重ねるのである。これだけ練習したから自分は強いんだと言い聞かせて試合に臨むそうであるが、それも大事であるが私は試合に臨む時の考え方、心構えということが大変重要だと思っている。

 口幅ったいが私はスポーツの試合をする時の心構え、考え方の奥義というのをほぼ会得したと思う。それは試合に勝とうとしないことである。試合に勝とう、結果を出そうと色気を出す心が焦る心となり、それが却って自分の本来の力を自縄自縛するのである。

 スポーツをする人の多くは意欲のある人はなおさらだがスポーツの試合に臨む時、何としても試合に勝とうとする。その為に練習も研究もするのであるが、試合に勝とうとすると却って、勝てないのである。何故なら試合に勝とう、結果を出そうという心が却って、自分の本来の伸び伸びとした動きを妨げ、自分で自分の力を縛り付けるからである。
 試合に勝とうなんて思わないで、今やるべきことを勇気をもって、全力でやるということだけ考えてやればよいのである。そしてやるだけやって試合に勝ったら、ああ、ラッキーだったと喜べばいいし、それで負けても勝ち負けなんてどうでもよいのだから、必要以上にショックを受けずに済むのである。

 そして、大事なのは一所懸命やって失敗したら、その失敗体験を踏まえて、次はもっといいプレーをしていくことである。
 例えばテニスでサーブが入らなかったり、ボレーをミスしたりしたらミスしたのはどこに原因があったかということを正直に素直に反省し、それを踏まえて練習したり、次の試合では気をつけてプレーするのである。その様にしていけば、次からはミスも減り、結果的にそれが試合の勝利ということに結びつくのである。しかし、それはあくまで結果である。
 だから、そういう人は試合に勝ったからと言って、変に有頂天になったり、天狗になったりしないし、逆に負けたからと言って必要以上に落ち込むこともないのである。

 そして試合が相手を打ち負かすことに目的があるのではなくて自分が全力を尽くすこと、自分がよりよいパフォーマンスをすることに目的があるので試合が勝っても負けても相手を祝福し、お互い健闘をたたえ合うことが出来るのである。
 それがスポーツマインドであり、スポーツスピリットである。そして、このマインド、スピリットは人生にそのまま当てはめることが出来るのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-08-05 21:34 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

政治家について

 私は政治には大いに興味がある。それはやはり、彼らの政策が国と世界の流れの大勢を決めるからである。だから、政治家の方々には大いに自覚を持って政治活動をしてもらいたいものである。

 しかし、聞くところによると政治家は頭の中の八割方は選挙の事を考えているそうである。それではいい政治など出来るはずがない。政治家は国民の生命と財産を守る責任があり、いい政治をしてもらわないと困るのである。それには選挙対策なんてことではなく、本当に国民の為になる政治をする為にはどうしたらいいかということをそれこそ頭の中の八割方考えていなくてはならないのである。

 古代ギリシャの哲学者プラトンの唱えた哲人政治というものがあるが、これは哲学、真理を究めた人間、いわば最も道理の分かった哲人こそが政治に携わるべきだという考え方であり、そうした賢人が政治をすれば、素晴らしい政治が為されるのであるということを言っている。
 しかし、現実は既に書いたように自分が次に選挙に当選出来るかどうかということの心配にその精神活動の殆どが割かれているような状態が現在の日本の国の政治家の実態なのである。

 それは今まで聖職と言われて来た職業というものが無くなって、皆サラリーマンの様になって来ている所に関係があるのではないかと私は思う。つまり、教師や医者は本来は聖職であり、労働者としての権利とか何とかを唱える前に自分の生命は教え子や患者に捧げるというような覚悟の元にその任務、職責を全うすべきものではないかと思うのである。
だから、そういう職業は労働ではなくて聖なる職業、聖職と呼ぶにふさわしいのである。

 しかし、現在は医者とか教師達は自分達がそうした聖なる職業についているという高い自覚を失い、自分達を単なる労働者、即ち人から言われた事を機械的にこなしていくだけの半分機械のような存在に過ぎないという感覚にまで堕してしまい、聖職という言葉は殆ど死語になり、自分の身を投げ打って、人のために尽くす気風、気高さを教師や医者達は失ってしまった。
 それはとりもなおさず、彼らが自分達が神聖なるものであるという自覚、誇り即ち神の子であるという自覚が欠落して、自分達をただの物質の塊であるという堕落した人間観、認識しか持たなくなって来ているからであると思う。
 政治家も同様である。自らの保身、党利党略の事ばかりが先行し、国民の為に身を投げ打ち、国のために自らの生命を捧げるという覚悟を持った政治家がどれほどいるであろうか。

 もちろん、政治の世界を生きて行く為には清濁併せのむということも必要である。しかし、それは小さな善にとらわれるな、自らの度量を広く、深く持てということで自らの政治理念を放棄して、党利党略、保身の為に汚い裏工作に明け暮れるということではない。
 本当に国民の為を思い、国とそして世界全体の平和の為に何が必要かということを常に考え、そして実行して行く政治家が政治をやって行かないと環境問題にしろ、国際紛争の問題にしろ、テロの問題にしろ解決することはない。だから、本当に政治は大事なのである。

 それならどうしたら立派な政治家になれるかと言ったら、それはまず、自分の利益、保身を二の次にする覚悟を持つことである。そして、国民と国と世界人類の為にどういう政治をしたらいいか真剣に考え、それを実行する為に自分の生命を捧げる覚悟を持つことである。

 その為には一番大事な事は正しい信仰を持つ、あるいはそれを持とうという努力をすることである。正しい信仰とは自分は死んでも死なない肉体を超えた神の生命そのものであるという信仰であり、この世界はこの不完全な現象の奥に素晴らしい完全円満な神の国があるという信仰であり、そして、全ての宗教の神髄は本来共通しているという信仰である。
 正しい信仰ではなく、間違った信仰例えば、アメリカの政治家の様にキリスト教原理主義みたいなキリスト教のみが尊いとかと言った他宗排斥の信仰であれば、それが先のイラク戦争の様に戦争の原因になり却って良くないが、正しい信仰心を持つことは是非とも必要なのである。
 正しい信仰心を持ち、神様の御心を常に体現しようという覚悟をすることである。自分でどうしても判断に迷った時は徳川家康がそうした様に優れた宗教家とか哲学者に教えを請えばいいのである。
 そういう正しい信仰心は信念となり、自分の心配なんてしないのである。自分の心配なんてしないから自分の保身や次の選挙の事なんて考えないのである。そして、正しい信仰を持っているから選挙民に媚びずに却って、選挙民、国民の幸せを願い、そしてその為に国民の真の声に真剣に耳を傾けるのである。

 そこに真の民主主義が実現し、常に国民の声を聞き、真剣にそれを踏まえ、良き意見は実行しようとするから自ずとそういう政治家は次の選挙で上位で当選出来るのである。
 
 先日、郵政民営化の事で悩んだ政治家が自殺したという報道があったが、私には小泉首相が何故、この法案にここまで固執するのか分からない。何でもかんでも民営化するのが能でもあるまいと思うし、ここまで時間と経費とエネルギーをかけて民営化して何のメリットがあるのだろう。国民に取って見れば大した違いはないはずである。それどころか有識者に言わせればデメリットの方がいくつもあるそうである。

 私はそんなことより今の日本の政治家は時間と労力を掛けなければならない問題が山積しているのではないかと思う。拉致問題はどうなったのか?炭素税の導入はどうなったのか?対北朝鮮、対中国の外交問題の事をもっと真剣に考えなくてはならないのではないか?

 郵政民営化などというどっちでもいいような問題に血道を上げている今の自民党はどうみても国民と国と世界の平和と安定を真剣に考えている様には見えないのである。


 堀 浩二
 
# by koujihori | 2005-08-03 21:45 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

天地一切のものと和解せよ

 生長の家の三十三ある神示の中で「大調和の神示」というのがある。それは「汝ら天地一切のものと和解せよ」という言葉で始まり、天地一切のものの本質の神なる生命を拝んで感謝し、和解せよという主旨のお言葉である。

 私は生長の家の信徒であるから、そのことは実行しなくてはならないのだが、その重要性は頭では理解していたが、それがどうも実生活で実行出来ていなくて、前の文章でも書いたが私は割合、人の好き嫌いが激しく、嫌いな人間に対してはその悪い面ばかり見て、心で批判ばかりしていた。

 しかし、その様なことでは段々立ちゆかなくなってきたのである。というのは私はテニスとか野球とか英会話とか生長の家の講師とか実に色々な事をやっていて、それの能力を発揮することに血道を上げているが、それが人との関係が良くないとうまく行かないということが分かって来たのである。
 私は人とうまくやって行くことと、この自分の能力を発揮するということは別物であるとずうっと思っていたので嫌いな人間、仲の悪い人間がいても、自分の能力はそれとは関係無しに発揮出来ると思っていたのである。
 だから、毎日、色々勉強したり、練習していさえすれば、極端に言えば人との関係はどうでもいいとまで思っていたのである。しかし、私は生長の家の講師であるから、よく人前で生長の家の真理の講話をすることがあるのだが、たまに自分が苦手で嫌いな人が相手だと途端にうまく話せず、全然変な拙い話になってしまう事があったのである。また、テニスの試合でも気心の知れた相手だと力を発揮出来るが苦手な相手だと緊張が過ぎて実力の半分も出せなかったのである。

 自分はずっと自分の能力が発揮出来ないのは経験不足、訓練不足によるものであると思っていたが、そうではなかったのである。何かの会合で人前で何かまとまった話をする時、そしてテニスとか野球の試合や審判をする時に緊張し過ぎて力が発揮されないのは恐怖心で自らの力を縛り付けていたからであるという事に気が付いたのである。
 それはこの相手はきらいだ、いやだという日常生活で人を差別して好き嫌いして和解していない心の習慣性があった為にそれが対人恐怖となり、その恐怖心が肝心な時に私の本来そのまま自由自在であれば、発揮できた能力を縛って出ないようにしていたのである。

 私はそのことに気が付いてから、「今まで本当に人を差別して好き嫌いして申し訳なかった。人間は皆、本当は神の子でいい人ばかりなのにそういう所を自分は見ないで表面の悪い姿ばかり見ていた。これからはどんな人でもその本質の神なる善なる生命を拝み、よいところに感謝させて頂こう」という気持ちについになったのである。

 そうしたら私に一大革命が起こったのである。今まで苦手だと思っていた人を、その人を神の子と信じてその良い面を見るようにしたら、その人を前にしてもすらすら立て板に水の様に話すことが出来るようになったし、テニスもこの人とやるのはいやだな(これは何故、いやかと言うと、自分がミスをすることでこの相手に軽蔑されるのではないか、へただと思われるのではないかということを私が恐れるという意味でいやだったのである。)と以前は思っていた相手とテニスをしても失敗を恐れることなく伸び伸びと本来の力を発揮出来るようになったのである。

 「大調和の神示」にある「神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」というのは本当である。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-08-02 22:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

不測の事態

 今日は土曜日で会社は本来、休日であるが、会社の管理者研修会である。講師を外部研修機関から呼んで、研修担当者である私がセッティング、進行、講師接待等するのである。そして、それが終わったら午後7時から生長の家の信徒の集まりである誌友会という会合で今度は私が講師として話をしなくてはならないというスケジュールである。

 こういうプレッシャーのかかる行事が一日に立て続けにあると私も朝から緊張するのだがそんな中、今朝になって、今日、生長の家の誌友会で使うはずの資料が見当たらない事に気が付いたのである。事前の準備は両イベント共、昨日まで十分に済ませたつもりでいたが、当然あるべき所にあると思っていた資料が見当たらない。
 朝は私は色々やることがあり、神想観という瞑想をした後、テニスの素振りをすることにしていて、今日もそのつもりだったが肝心の資料が見つからない為にテニスの素振りもあきらめた。
 そして、遂に見つからないので、私が元々持っていた予備の資料を代替えにしようと思ってそれを出そうとしたが、何故かそれもいつも綴じてあったはずの所をいくら探しても出て来ない。
 私は頭がパニックになりかけた。こんな事ってあるだろうかと思った。そして、今までだったら自分は何て運が悪いんだろうと自分の運の無さ、そして、この世界の非常さに憤った所だが、こんなに本来の資料、そしてその予備の資料までも忽然と無くなるというのはこれは何か意味があるのではないかと思ったのである。

 私は元々自分の計画通り行かないと途端にいらいらする所があり、通勤のバスの中でも必ず読む本を決めていて、それが思いもよらず、そのバスが混んだりして、本が読めなかったりすると「チェッ」と舌打ちするような所があった。
 しかし、この世界は自分の思惑、計画を超えた不測の事態が起こることなどしばしばなのである。それなのに自分が勝手に決めた計画、思惑にとらわれて、こうでなくてはならぬなんて頑張るのは我(が)である。
 この世界は一見不都合に見えることでも長い目、大きな目から見れば結局それが良かったということがいくらでもある。そうしたことを認める大きな広い心で不測の事態があってもいらいらしないで大局的に対処したらよいのである。
 こうでなくてはならぬと頑張る心は狭い心であり、我(が)の心であり、それが我が儘ということである。どんなに自分に取って不利と見えることでも大局的に見れば、そんなことはないのである。資料が無くなったら探せば良いのである。探してなかったらそれと同じ資料を持っている人に貸してもらうように頼めばよいのである。それでも無かったらそれはそれで神様が何とかしてくれる。こうした大らかな心を持てば、自ずと運も向いてくるし、ものごとも円滑に運ぶものである。
 
 今朝大事な資料が無くなったのは神様が私にそのことを教えてくださる為に神様がお隠しになったのであると私は今、思っている。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-30 12:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悪い人はいない

 実は私はここ一週間、先週土曜日あたりからずうっとおなかの調子が悪い。
 私は元々、腸が強い方ではなかったが、この様に一週間も毎日おなかの調子が悪いなんて事は今まででも無かった事である。
 これはもしかしたら癌かもと思ったが、丁度5月に腸の腫瘍マーカーの検査を会社の健康診断でやっていて、至って数値が良かったのでこれは心配ない。風邪かとも思ったが、熱やけだるさが全くないからこれも違うようだ。これはどうも神経的なものではないかと思うのである。

 私は先日、今人気の細木数子のテレビ番組で阿藤快という俳優が細木数子にアドバイスされた言葉を何気なしに聞いていたが、その中で細木が阿藤に「あんた腸が悪いだろ。それはあんたが人に対して心を開かない所があるからだ。」というのがあった。
 私はその時はああ、そうか位に思っていたが、その後でどうもこれは私にぴったり当てはまるのではないかと思ったのである。
 というのはこの一週間おなかの調子が悪いのはこれから数週間、私に取って、中々プレッシャーのかかる行事、仕事の予定が控えていて、そうした状況の中、あの人には会いたくない、この会合には行きたくないという苦手意識がストレスになって腸に来ているのではないかと気が付いたのである。

 細木数子は阿藤に「あんたは自分のごく親しい人にはいいけど、そうでない人には心の殻を作って心を開かないね。それを直しなさい。」と言った。それは本当に自分に言われている様であった。
 私は人間神の子という信仰を持ってはいるが実際生活になると割合、人の好き嫌いが激しく、好きでない相手には全く心を開かないで相手の悪い面ばかり見て、嫌悪していた。
 これが人間関係のストレスになって、腸に来ているのではないかと思う。

 私は生長の家の真理である、この現象世界の奥にある本当の世界は完全円満な世界であり、人間は皆、本来神の子で素晴らしい人達ばかりであるという真理を知っていたのにかかわらず、感情的にはこの世界の現象面のみ見て、この世界はいやな人間が沢山いると信じていたのである。
 いやな人間が沢山いると信じているということはこの世界はいやな世界であると信じているということになり、そんな風に私は今までこの世界をその様な冷たい世界であると考えていたのである。
 
 この現象世界は自分の心が映る世界である。自分が今まで、人間関係で冷遇されたと感じていた部分は正に自分が他の人に与えていた印象なのである。即ち、人間神の子本来完全円満ということを信じないで相手が悪いやつ、油断のならないやつと何となく思って好き嫌いしていた私の心が相手に映って、冷たい相手と自分には感じられて、それがまた私の人間嫌いにつながっていたのであった。
 正に悪い人間は元々おらず、全て自分が心で勝手に映し出していたのである。

 堀 浩二
 
# by koujihori | 2005-07-29 23:17 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

テニスの試合に出てみて3

 先日の日曜日、テニスのシングルスの草テニス大会にまた出た。結果を先に言うと、ぼろぼろの三戦全敗であった。
 結果は全敗でも内容が良ければ、納得も行くが、内容がひどく悪く、私は本当に落ち込んだ。テニスでこんなに落ち込んだのは久しぶりというか初めてではないかと思うほどであった。

 第一戦目の相手は37歳のアメリカ人でアメリカの大学でテニスをやって、その後、日本に来てからテニススクールのコーチをやっているという相手であった。こんな相手は半分プロみたいなものであり、この様な自由参加のテニストーナメントでは一回戦は私の様な素人がこんなとんでもない相手と試合する事もあるのである。
 相手は回転のかかったサーブとストロークを身上としており、それほど威力は感じなかったがコーナーに打ち分けて来て、私は右に左に走らされ、翻弄され、殆ど一方的に敗れ去った。(当然だが)

 第二戦目の相手は今まで3回ほどやって一度も勝った事のない相手だったが、私は最近サーブにしろストロークにしろ大部自信を深めていたので今ならこの相手に勝てるのではと思ったがあにはからんや1-6という情けないスコアで敗れてしまった。
 この相手との試合が終わった辺りからどうも強化したはずのサーブの威力と正確さが以前より却って悪くなって来ているような気がしていたが、まあ何とかなるだろうと思っていた。そして次の第三戦は高校一年生の選手と試合した。この高校生とはやはり過去戦っていて負けてはいるが4-6位のいいスコアの試合をしていたのでもしかしたら行けるかと思ったら、この試合がさんざんなものであったのである。

 サーブを打つ時に何故か異常に緊張して、サーブが入らない。入らないばかりかフォームがバラバラで本当に情けないサーブになってしまい、心なしか高校生に失笑されているような気さえした。
 その後、試合を進めて行く内に緊張もほどけて来たが、結果は0-6のストレート負け。本当に情けなく穴があったら入りたい位の気持ちで試合後の握手の時も相手の顔をまともに見られないような感じだった。

 私は帰途、車を運転しながら頭が完全にパニックになっていた。どうして良くなったはずのサーブが乱調になってしまったんだろう。何であんなにサーブを打つ時緊張してしまうのだろうとぐるぐるぐるぐると頭の中で考えていた。
 そしてその後、家に帰っても落ち込んであんなに汗をかいているのに風呂に入る気力もなかった位である。
 実はサーブに関してはクラブでうまい人から習ってから大変調子が良く、威力も正確さも増したのだが、もっと威力を出せないかと思って自分で考えてちょっとフォームをいじっていたのであった。それで満を持してこの大会に臨んだつもりが意に反して威力も正確さも以前より損なわれ、そうこうしている内に最後の試合でフォームがバラバラになってしまい、高校生相手に情けない試合をしてしまったのである。もしかしたら自分でフォームをいじったのが悪かったのかとかいやそうじゃないとか頭の中を二つの考えがぐるぐるぐるぐる回り、その日は翌日仕事だと言うのに午前3時過ぎまで眠れなかった。
 そうこうしている内に気が付いたら朝であり、ああ少し眠れたなと思って起きたのであるが、その時、私はやはりサーブのフォームを自分の判断でいじったのが悪かったのであり、悪いフォームで打ち続けたから、サーブに自信が無くなり、その為、最後の試合でサーブを打つ時、異常に緊張したということが分かったのである。

 私は自分には進歩のヒントに関するインスピレーションもあるし、偶然うまい人にサーブのコツを伝授されたりと神様からも導かれていると思って、自分はうまくなる一方だといい気になっていたのである。
 それで自信を持って臨んだはずの試合だっただけに思っても見ないサーブの乱調があったので、ショックを受け、落ち込んでしまったのである。本当に自分が情けなく、もうテニスもやめてしまおうかと思った位である。
 しかし、既に述べた様に何故、サーブが乱れたのか緊張してしまったのかという事が試合の翌朝、直感的に分かったし、それと同時に昨日の乱調も私のテニスの力が進歩向上して行く中の一つのステップに過ぎなかったという事が自ずとこれも直感的に分かったのである。
 何故なら自分が思いついてちょっといじったサーブのフォームのやり方が昨日の失敗体験により、この方法は正しくないということを体で如実に分かったからである。これを進歩と呼ばないで何と呼ぶのであろうか。
  
 今回は本当にテニスをやめてしまおうかと思った位落ち込んだが、ここでやめたら進歩は永遠に無かったであろう。
 だから、私は声を大にして言いたいのは自分がやっている事の結果をすぐ出そうとして、それがちょっとでも失敗したら、もう駄目だなんて思わないで欲しいということである。ものごとはそんな一筋縄ではいかないのである。そんなちょっと挫折した位でやめたり、逃げたりしていては何事も成就することは出来ないのである。
 自分がこのやり方がいいと思って、やってみて、その結果がうまく行かないというのも一つの生長過程である。それでその思いついた方法がうまく行かない方法であるという事が分かったのである。生長というものはこの様に試行錯誤しながらして行くものである。
 
 我々は頭で考えなくてもこの様に失敗体験により本当の事が直接分かるのである。だから、この世界は自分以外全て先生なのである。どんなに悪い事、失敗に見える事でもそれは神様の導きであり、そう考えるとこの世界は悪いこと、落ち込むようなことが沢山あるみたいで実は神様の導きに満ちた世界であると言うことが言えると思う。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-26 18:22 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

差別について

 前回の文章で差別というものがロンドンの自爆テロの一つの要因になっているのではないかという事を書いた。
 そして、日本は欧米ほど差別のない社会であるということも書いた。しかし、厳密に言えば、この日本にも差別はある。日本には人種差別というものは単一民族なだけに存在しないが部落差別と言われるものはあるにはある。
 また、階級闘争というのもこの日本にはなくはないのである。要するにマルキシストの言う、資本家階級、労働者階級という階級が存在しており、その間には階級闘争というものがあり、資本家は労働者を出来るだけ搾取しようとしているという世界観である。

 どうしてそういう差別心や階級闘争世界観が出て来るかと言えば、人間にはこの現象世界を生活する為に必要な五官というものが備わっているからである。要するにこの世界で生活、活動する為にはこの世界の事物から発生する波動を感受して、それを神経系統で伝達して脳でそれを実際にその事物がそこに具体的に存在するというイメージを得させる為にそうした五官の感覚器官が人間には備わっているのであり、その五官があるおかげで我々はこの現象世界が本当に存在する世界であると認識して生活出来るのである。

 しかし、その五官だけに頼って生きていれば、この世界が現象的にある通りの世界であるとしか認識出来ないからこの世界がお互いバラバラに対立した世界であると認識せざるを得ない。そこにこの世界は階級同士の闘争があるとか、人種間の差別があるという対立思想が生ずるのである。

 話が大部難解になって来たが、要するにこの世界は映しの世界であり、本当に実在する世界は霊的世界としてこの現象世界の奥というか内側というかそういう所に存在するのであり、それは五官を超えた直感力でもって認識するしかないのである。
 しかるにそうした直感力を信ぜず、従ってそれを使うことのない人は五官の感覚器官しか使うことを知らないからこの映しの世界である現象世界しか存在しないと思いこむ。そして、そう思っている人はこの現象世界というのは表面的に見れば、お互いバラバラに相対的に各自が存在する世界にしか見えないから自分の喜びは他人の喜びでない、他人の悲しみは自分の悲しみでないというお互い利害が対立する所の闘争世界がこの世界であると見るより仕方がない。
 そうした世界観を持つ人が人種差別とか階級間同士の闘争を作り出すのである。

 だから、我々はこの世界に住んでいる限り、いつかはこの差別とかを受けるかも知れないし、階級闘争の渦に巻き込まれて悩むことがあるかも知れない。
 しかし、そういう時は毅然としていなければならない。相手が自分を差別すると言って、嘆いてはならないし、それに怒って仕返ししたりなんかしてはならないのである。我々はそういう時こそ自分の受けている境遇とかをものともせずに積極的によいことを、そして自分の使命と感じることをやって行かなくてはならない。
 先日亡くなった歌手のレイ・チャールズや名前は忘れたが黒人で初めて潜水夫となった人などアメリカではひどい人種差別を受けてもへこたれないで立派な業績を残した黒人の人達の話がいくつかある。
 
 彼らは人種差別を受けたにもかかわらず、へこたれないでおのれの天分をまっとうした人達である。そんな彼らを白人達は最後には諸手を挙げて賞賛したのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-19 18:08 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

ロンドンのテロ

 ご存知の様にイギリスのロンドンで同時多発テロがあり、多数の犠牲者が出た。監視カメラ等、イギリスの警察の優秀な捜査技術により、事件発生後からわずか一週間でテロ実行犯を確定出来た。
 それによると彼らはパキスタン系のイギリス人四人でいずれも20歳から30歳の若いイスラム教徒だそうである。彼らはいつもは学生とか教師としてイギリス社会に普通のイギリス人として潜伏しており、いざテロ実行という時になるとその本性を現し、この様な恐ろしいテロを実行するというスリーピング・セル(眠っている細胞)と呼ばれるテロリストである。
 しかし、日本人の感覚からするとよく分からないのが彼らがパキスタン系とは言え、イギリスで生まれ、イギリスで育った、イギリス国籍を持つイギリス人であるのにかかわらず、こうした自国民が母国であるイギリスの首都ロンドンで大量虐殺のテロをアル・カイーダの様な国際テロ組織の指示がいくらあったにせよ、どうして起こせるのか、起こしてしまうのかということであろう。
 この様に自分の生まれ育った母国で自国民にテロ行為をするなんて日本人ならおよそ考えられないことである。

 しかし、よくよくイギリスの事情を聞いてみると、イギリスは日本なんかではおよそ考えられない階層社会であり、上流階級、中流階級、下層階級というのが今でも完全に分かれた社会なのだそうである。それは言葉の発音の仕方から違うのだそうで、イギリス人はお互いちょっとしゃべっただけで相手の階層が分かり、相手が自分より下層の相手と分かると途端に差別的な扱いをするそうである。
 それは当然宗教間の差別なんて要素も加われば、エスカレートするだろうし、今回のテロ実行犯の四人はいずれも下層階級として差別され、イスラム教徒としても差別された人達であったそうである。そうした差別の現存する社会ではいくら母国と言えど、その差別から生じたうらみを張らしたいという気持ちもあったであろうし、それがイスラム教的な聖戦(ジハード)の要素が加われば、今回の事も当然の結果と言えなくもないと思う。

 であるから、よくアメリカやイギリスの政治家とそれに同調する日本の保守系論壇の人達が言う「テロとの戦い」、「テロには決して屈しない決意」とか仰るのはまあ一応分かるが、その前にどうしてこういうテロが起こってしまうのかという原因を考える必要があると思う。
 それは白人のトップの階級が主に生じさせている差別であり、また彼ら先進国の現象的、肉体的快楽と便利さを追求した生活レベルを維持する為に如何に発展途上国の人達を安い賃金で酷使しているか、そして地球環境を損なっているかということを内省する必要があるだろう。

 日本はその点、素晴らしいと思う。日本は階層なんてものは人によっては多少あるという人もいるが、イギリスなんかに比べて、全然そんなものは存在しない。意識調査をすれば80%の人が自分は中産階級だと答える国柄である。もちろん私も自分をそう思っている。
 だから、日本人は地域のつきあい、職場のつきあいでもその人の出身地、宗教、生まれとかで差別してつきあうような事はせず、その人がよほどの変わり者で自ら心を閉ざしていない限り、誰でも仲間に入れてやってお互い、仲良くつきあう。それは日本人は昔から天皇を中心として、その元に平等であるという自覚が意識するとせざるに関わらず潜在意識的に何となくあるからであると私は思う。
 そして日本は昔から自然と対立してそれを征服するという考えはなく、自然と融合して、それを出来るだけ生かし、保存するという意識を持ってきた。そして、鎮守の森と呼ばれた森の中の神社に人々は信仰のより所を求めたのである。
 そして日本は元々天皇を中心とした神道的な信仰の地盤があったが中国から仏教が入ってきてもそれを排除する事なく、日本の風土にうまく取り込んだ日本的仏教を作り上げ、神道ともうまく融合というか両立させたのである。
 我々日本人はそうした素晴らしい国に生まれた事をもっと感謝しなくてはならないと思う。そして、こうした階層の差別をしない、宗教同士を対立させない、そして自然を大切にするという我々日本人が古来から持って来た国民性を大事にし、こうした要素が世界の平和と環境保護活動に今こそ求められているという事を自覚して、志ある若者にはどんどん世界で活躍してもらいたいものである。

 堀 浩二

 
# by koujihori | 2005-07-18 09:32 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

失敗してもよい。

 私は今回、ある仕事を絶対に引き受けなければならない立場に追い込まれたのである。しかし、私はその仕事で以前、二回も大失敗したことがあり、その時、非常に責められ、恥をかいたのである。それは私の努力ではどうにもならない程、私にはそれをするのが困難に感じられるのである。
 私は今回、その仕事を再びしなくてはならないということが決まった時、本当に暗い気持ちになった。やらなくてはならないが自信がない。やめたい、避けたいと思うが立場上避けられない私は本当に精神的に追いつめられたのである。

 しかし、私は今日の朝、ふっと思ったのである。「そうだ。絶対失敗してはならないと思うから、大変なプレッシャーに感じるんだ。失敗してもいいじゃないか。殺される訳でもなし。」と。
 私は余りにも我(が)が強くて自分のメンツにこだわりすぎていたのである。そうだ。そんなメンツなんてどうでもいい。失敗しよう。恥をかこうと失敗を積極的に受け入れる気持ちになったのである。
 まな板の上の鯉の心境とはこんなものであろう。そうしたら私の両肩にズンとのしかかっていた重みがスーッと軽くなったような気がしたのである。

 我々はものごとを為す時、完全主義になってはならないのである。完全主義は力みを生み、力みは自分のそのまま本来の生命の自由な動きを妨げ、却って、失敗を招くのである。
 失敗してもよいのである。恥をかいてもよいのである。必ず完全にやらなくてはならないという力みを我々は何事においてもとらなくてはならないのである。以前の文章でも書いたが、我々は「そのまま」であれば、本来神の子無限力であるから適宜に力が出せるのである。判断も出来るのである。しかし、絶対に失敗してはならないと思って、力むと本来の力、判断力が妨げられ、却って失敗してしまうのである。

 失敗を受け入れよ。不完全を受け入れよ。そして死さえも受け入れよ。それらを全て受け入れる時、我らは自由になるのである。失敗から逃れよう逃れようと焦れば焦るほど、却って失敗するのである。死から逃れよう逃れようとじたばたするほど却って、死の虜になってしまうのである。
 死を受け入れ、失敗を受け入れる心になった時、我らは死と失敗の恐怖を超える。そして、死を超越し、永遠の生命を獲得し、失敗を超脱し、全てを完全に行うことが出来るのである。
 失敗してもなおかつ、認められ、愛される自分を認めよ。死してもなおかつ、生き通す自分を自覚せよ。

 失敗を恐れるのは自分が失敗することによって居場所がなくなる、軽蔑される、相手にされなくなると思っているからである。死を恐れるのは自分の肉体が死んだらそれが永遠の死であると思うからである。

 現象的失敗や死はあるように見えても我らは現象の奥に完全円満な神の生命により完全に生かされている存在であるということを自覚すれば、失敗を恐れず、死におびえることがない。それが死を受け入れ、失敗を受け入れる心境になる唯一の道である。

  堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-15 22:40 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

執着について

 この前の日曜日、映画「スターウォーズ・エピソードⅢ/シスの復讐」を観た。スターウォーズファンの私としては待望の映画であり、大変見応えがあった。
 今回は主人公のアナキン・スカイウォーカーが如何にあの悪の化身「ダース・ベイダー」に変貌して行くのかという過程がメインに描かれているが、彼は元々正義を愛する熱血漢の若者だったのにその正義感と愛が我執(がしゅう)にとらわれたものであった為に却って、悪の世界に転落してしまうというストーリーであった。

 このアナキンの様な愛は生長の家の聖典「生命の実相」第35巻、下化衆生遍78ページにも以下の様に示されている。
「・・・愛見の大地とは我が彼を愛するという彼我(ひが)、能愛所愛(のうあいしょあい)の区別を存する愛であって、執着が残っているから、私があんなに愛してやったのに背(そむ)いたなどと言って恨み怒りの原因となる。愛が闇となったのである。(中略)宜しくわれらはかくのごとき執愛を超克しなくてはならない。」

 本当の愛とは既に自分の生命と他の生命が神の大生命において一体であるという自覚であり、それに対し、我と彼との本来一体の霊的生命を観ないで表面の肉体である我と彼とのみを見ている者には我と彼とは一体ではなくバラバラに別れて見えるものであるから、相手を愛そうとする時、相手を無理に自分に取り込もうとするのである。それが執愛である。
 執愛は相手を無理矢理自分の好み通りにしようとするのである。反対に本当の愛は自分の生命と相手の生命が既に一つであるという事を自覚せるが故に相手に執着せず、相手を相手の自由意志のままに解放しようとするものである。
 本当の愛は相手を放して、却って相手から慕われ、執着の愛は相手を無理に自分に縛ろうとするが故に却って相手から煙たがられ、終いにはその相手から去られるのである。

 我々は自分の愛する人々即ち自分の妻、夫、子、親、兄弟そして恋人を本当に愛するならばそれに執着するのではなくて心で放さなくてはならない。そして、この事は対人間に限らず、全てに対して言える事である。
 自分の地位、財産、肩書き、能力そして肉体の健康、これら全てに執着せず、神様に全部預けてしまえ。(念のために断っておくが、これは自分の全財産を一定の宗教団体に捧げてしまえという意味ではない。あくまで心構えの問題である。)これらは元々、全て自分の中の神様から頂いたものである。これらを自分のものだと思って執着してしがみつかないで全て神様にお返しするつもりで心から放ち去れ。
 その時、我らは却って真に必要なものを神様から適宜に与えられるのである。それが生かされているということであり、また感謝ということである。そしてそれが本当の愛の生活である。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-07-14 21:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)