訓練について

 皆さんは訓練というものについてどのように考えるであろうか?以前に「一所懸命」という文章で訓練の事について触れたが、重ねて言うが、人間の能力は訓練すれば出て来るし、訓練を怠れば、錆び付いて出て来なくなるのである。

 一週間位前に俳優の唐沢寿明を案内役とした「記憶」のメカニズムを題材にしたテレビ番組がやっていたが、そこで言われていた事は「記憶力で大事な事は記憶しようとするものを反復して覚える訓練をすることだ」と言う。
 何回も覚える訓練をして行けば、やがて、脳内の神経が系統的につながって行き、その結果、覚えることが出来るようになるのだと言う。そう言えば、私は46歳だが、もう若い頃の暗記力はないだろうとすっかりあきらめていたが、英検一級合格を目指す為に約2ケ月ほど前から毎朝10個ほどの英単語を暗記し始めたのである。
 始めた頃は全然覚えられなかったのが反復して暗記練習をしている内に最近は段々と英単語を暗記出来るようになり、英会話学校での単語テストでも成績が大分良くなったのである。

 それと番組で言っていた記憶のもう一つの要素というのは「人間は自分の興味のあることは反復しなくても一回で覚えられる」ということである。
 確かに自分の好きなスポーツ選手や女優や歌手の名前は覚えようと反復練習しなくても自然と忘れないものである。

 要するに人間の記憶力を養うものはこれを覚えようという意志に基づいた暗記の反復練習と自分の興味あることを持つ、又はそれに励むということになると思う。これらの事をやって行けば、私はもう年だから、暗記力も無くなってきた、頭もぼけて来たなんて言わなくても良いのである。
 覚える訓練をすることで脳の神経もつながって行くということだから、例え、年齢的に衰えた脳でも一念発起して何かの特技の向上を目指して、暗記の訓練をしたり、暗記だけじゃなくても色々の訓練を通じて、脳を訓練して行けば、いくらでも脳の力を蘇らせることが出来るということである。
 そうなると脳というのは生まれつき、いい、悪いというものではなく、筋肉の様に一つの意志を持って、鍛えることでいくらでもいい頭にする事が出来るものであるということになると思う。

 そして自分の好きなこと、興味のあることは強いて覚えようとしなくてもその好奇心が自ずと脳を活性化させ、覚えてしまうという事であるから、そうなると要するにぼけないでいつまでも脳の力を保って行く人というのは自分の好きなことをとことん追求して一所懸命それにかけている人ということになる。
 私の父が正にその好例である。父は今年満88歳であるが、今だに自分が創設した機械(コンプレッサー)製造会社で毎日、毎日飯より好きな機械設計開発に従事し、暇さえあれば新しい開発アイデアの事ばかり考えている。その為か数値的記憶力は私より上なのである。

 こうして考えると肉体の奥にある人間の潜在能力というものは正に無限であり、それを自覚して掘り出して行けば、いくらでも力は出て来るものであるということが分かるのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-28 22:17 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

問題はナイ

 私は会社では給料計算係である。今月は夏季賞与の月であるので昨日は各従業員の賞与計算をしていた。その二日前の月曜日に賞与支給日をいつにするか社長(私の父)に相談した所、給料日と同じ27日でよいということだったので賞与支給日を27日とする旨、文書にして社内掲示板に掲示した。
 
 しかし、昨日になって、急に賞与は本来は30日支払いが原則であるから賞与支給日は27日ではなくて月末の30日にすると訳の分からない事を父が言い出したのである。
 賞与支給日をきちんと父にお伺いを立て、その結果、はっきりと27日にするという指示であったので社内にも既に発表してあるのに、何を今更、おかしなことを言っているのだと、私は強く抗議した。
 やんごとなき理由があるならともかく、そんな三日も送らせなければならない事情など何もないことは経理担当の私にはよく分かっていた。
 私はその時、かなり憤って、その理不尽な指示に反対したので父もはっきりとした返答をしないまま、どこかに行ってしまった。

 それが昨日の午前11時頃であり、私は社長である父の理不尽さに腹が立って仕方が無かった。以前にも同じ様に父が急に強引で理不尽な命令を下した事があり、その時は父をうらんだが、その頃の記憶がふつふつとよみがえって来たのである。
 しかし、昼を過ぎる頃から段々と気持ちが落ち着いて来て、ふとメモ帳に目をやると「理不尽な目上の者がいるから自分はこの組織にいられないというのは間違いでこちらが目上の者の善なる実相を観て、中心帰一する心になれば、目上の者も理不尽なことを言わなくなる」という私がかつてメモした一節が目についたのである。
 面白い話だが私は私自身がかつてメモした事に教えられ、気を取り直し、こちらが相手を悪い人間だと思って問題をつかむから駄目なのであって、父は神の子であり、本来理不尽な事を言う人間ではないから、現在の問題は心から放して、神に全託しようと思ったのである。
 その上でまだ父が賞与支給は27日ではなくて30日にすると言ったら、理屈は全て捨てて全面的にその指示に従おうと腹を決めたのである。

 そうしたら専務である兄が賞与の事でなにやら父に話してくれた様であったが、その後、いよいよ、賞与振込手続きの期限が近づいて来たので私は父にもう一度、賞与支給日について確認した。すると、何と最初の決定した通りの27日支給でいいよと父は答えたのである。

 現象の奥に実在する本当にある世界、これを生長の家では実相世界と呼んでいるがそこは神の世界であるから本来は何も問題のナイ世界なのである。
 だから、我々がそれを信じ、何も問題をつかまずに神にお任せしておれば、自ずと本来問題のナイ世界が展開するのである。
 しかし、自分で勝手に「この世界には悪人がいる。問題がある。」と思うと、本来無い問題を心で握ってしまい、心で握れば、心が映し出す世界であるこの現象世界に本来存在しない問題が展開して来るのである。

 この世界は本来は何も問題のナイ世界なのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-23 13:19 | 信仰 | Trackback | Comments(8)

一所懸命

 一所懸命とは一生懸命とも書くが、生長の家創始者谷口雅春先生によれば一カ所に命を懸けるのだから「一所懸命」が正しいと言う。
 それはともかく、この一所懸命が如何に尊く、大切な事であるかということを今日は述べたいと思う。よく、世間ではがむしゃらに努力しただけでは駄目で努力は正しくされなければ意味が無いと言ったり、また才能のない者がいくら努力しても無駄だと言う。確かにその通りであるがそれでは一所懸命に努力することは無駄なのかと言ったら決してそんなことはないのである。

 才能のない者が努力しても確かに無駄であろうが我々は例外なく皆、神の子であるから無限の可能性、力を内に秘めているのである。しかし、それは潜在的にあるだけで表面には出て来てはおらず、それを掘り起こし、発現させるのが正に訓練であり、努力ということになる。だから、努力は決して無駄ではないのである。
 しかし、それは前述したように正しい訓練が為されなくて間違った努力をしていれば、その間は表面的にはいくらやっても上達することはない。そして、いくらやっても駄目だということで途中であきらめてしまってはやはり内在の無限力は出て来ることはない。従って、我々は正しい訓練を持続力を持って継続させなければならないということになる。

 しかしながらそもそも我々は何故、努力するのであるかと言ったら内に無限の可能性を秘めているからこそ努力するのである。内側からの要請で力を出したい、能力を発揮したいという欲求が自然にあるから我々はそれを掘り起こさずにはいられないのである。それが努力であり、一所懸命さということである。

 しかし、ただがむしゃらにやっていても前述のように正しい方向に導かれなければ我々の内在の力は発現することはない。その正しいやり方というのを探し当てるのは中々並大抵な事ではないので大抵の人は努力していく中で中々芽が出ず、いくらやっても駄目だと思って、途中で努力を放棄してしまうのである。しかし、努力の成果を出す人は他の人が「もう駄目だ」と思って、途中でやめてしまうのを更に後一歩、あきらめないでやり続けた人である。本当の成功というか、正しい神に導かれたやり方に到達する瞬間というのはこの様に最後まであきらめないでやり続けたそのちょっと先にあるのである。

 それはどういう事かと言うとあきらめないで最後まで一所懸命やるという心意気が神様と波長があうのである。というかその心意気自体が我々の中にある神の心そのものである。それが発現して行く中で神の導きが自ずと出て来て、我々の努力が正しい方向に導かれて、今までの血みどろの努力が実を結ぶことになるのである。

 私は幼い時から生長の家の信仰を持ち、大学生の時から積極的にやり出したが、その努力、一所懸命さが故に却って行き詰まり、苦悩の日々を過ごしたことがある。それは約8~9年前の37、8歳の時であるが、その苦悩の中でも努力を忘れず一所懸命やり続け、その結果、ついに自分の生涯最高の師である生長の家宇治別格本山の榎本恵吾先生に巡り会い、生長の家の神髄を授けられ、全てが悦びに満ちた生活となることが出来た。
 また、テニスも八年前から一所懸命やり続けていたが毎日、努力している割には試合に中々勝てず、結果が出なかった。しかし、あきらめずに一所懸命やっている中でたまたま私がテニスクラブで一人でサーブ練習をしていたのを見ていた管さんというレベル的に日本一クラスの方から直接レッスンを受け、サーブの神髄を授けられたのである。テニスをやっている人の大抵の悩みはこのサーブなのである。これが中々うまく行かず、皆、四苦八苦しているのである。私はこのサーブの神髄を授けられたことでどれだけ優位に立ったか分からないのである。

 私がこの様にこうした超一流の人達の指導を受け、努力が正しい方向に導かれたというのは私がたまたま運が良かったからではなく、私が何をおいても「一所懸命」であったからである。
 繰り返すが、その「一所懸命」さが神と波長が合い、我々の内在の無限の力を発現させる事になるのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-20 08:07 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

自分の運命が教えてくれるもの

 前回と前々回で先週の土日の体験を書いたが、そこで書いたように寝不足でコンディション最悪だったので野球にしろ、英検のテストにしろ最悪の結果となってしまった。
 でも奇妙な事に約二週間前にも殆ど同じ事を私はしているのであり、今回私は同じ事を繰り返しているのである。
 要するにこういう状況になるのは私が早朝野球と英語のテストの前の晩にテニスの試合を組む様な無理な事をしているのが表面的原因だが、実は私がこういう運命になるのはあらかじめ決まっていた事なのである。
 
 こう言うと奇妙に聞こえるが、我々の運命というものは実は現象的に出て来る前に既に心の世界で創られているのであり、それは時間の経過に伴って、後から現象として出て来るのである。おとといの日曜の運命、そして二週間前の日曜の運命は私の心が過去に自分で心の世界に創り上げたものであったのである。同じ様な心であるから図らずも殆ど同じ様な運命となってしまったのである。
 その心とは何かと言ったら、出て来た運命が自分が力を発揮出来なくて失敗する、恥をかく、責められるという事であるから、自分の力を自分自らが押さえつけて責め立てて出さないようにするという心であるが、それは裏を返せば、自分が誰かの非を心で審き、責めつけるという心なのである。
 即ち、おとといの日曜及び二週間前の日曜の私のコンディション最悪で力を発揮出来なくて他の人から責められるという運命は私自身の他人を決して赦さないでその落ち度を責める心が創り出した運命であったのである。
 私が前々回の文章中で書いていた自分自ら作り出した土日のハードなスケジュールが何かを教えてくれているというのは正に「他人に完全を求めて、心で締め付けるな、審くな、その人の良い面を観て、感謝しろ」という神様からのメッセージであった。

 この人生は我々人間という名の研究者が心という道具を用いてデータ又は作品を創り出す為の実験場、研究所みたいな所である。従って、我々は自分が体験した運命をよく注視して深く思索していけば、自分の心を反省することが出来るのである。そして、真に反省する所、我らの進歩、生長があるのである。だから、この人生は一つの大きな学校であるのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-14 22:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(2)

 私は英検のテスト、そして、野球の試合で失敗して、訓練の必要性を痛感した。しかし、どのような訓練をしていけば効果的であろうかと思ったのである。英検を受けた感じでは私の英語の語彙(ボキャブラリー)とヒアリング力がとても英検一級合格レベルではないということを自覚したのでそれを強化しなくてはならないと感じた。そして野球ではスロウイング(ボールを投げること)と脚力に問題があると思ったのでその方面の改善に努めなくてはならないと思った。

 しかし、今日の夕方に息子達とテニスをやっていて、気が付いたのである。それは自分の能力向上の為の訓練を如何にすべきかということにそんなにやっきになって考えなくても、「そのまま」でおれば、自ずと必要な訓練の道は見いだせるということである。

 私はテニスのサーブに関して自分の改善すべき点をテニスクラブの菅さんという方に教わってから、その技を何とかマスターしなくてはならないと思っていた。
 テニスの試合では殆ど本能のままに行い、余りフォームの事を考えながらやらないので試合の他にその菅さんに習ったやり方を徹底して練習しなくてはならないと思っていた。そこで一人で壁を相手に練習していたが、心なしか却ってフォームが乱れて行くような感じがしていたのである。

 しかし、今日のテニスの練習試合で気が付いたのであるが、この打ち方が良いと心から納得している場合、試合をしながらも自動的にその通りの打ち方をするようになるものである。それは決して無意識ではなく、意識しながら打っているのだが、同時に自分ならざる内側からの導きと力で打っている感じである。これは試合しながら、同時に練習にもなっているということである。

 私はこの時、悟ったのである。「そのままでよい」と。以前にも書いたが、我らは内に無限の生命、力を宿しているのであるから、今既に与えられている現状に感謝する心、即ち「足るを知る」心の中で心静かに「そのまま」の心で他と交わり、当たり前の事を当たり前にする中で自ずと必要な訓練も為されるようになり、向上していくのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-12 21:40 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

出来ない事を恥じることはない

 本日は日曜日である。私は性懲りもなく、ハードなスケジュールを自ら組み、そして、それが祟って結果は散々であった。

 昨日の土曜日は夜にテニスのシングルスの試合に臨み、そして今日は早朝野球で4時半起き。そしてその後、昼から英検一級のテストであった。私は夜にテニスの試合というハードな運動をすると却ってその後も神経の高ぶりが静まらず中々寝付けないのである。夜11時頃寝床に入ったが12時過ぎても寝れず、明日は早く起きなければならないのにと焦れば焦るほど寝られなかった。しかし、いつの間にやら寝ており、気が付いたら4時半の目覚ましが鳴っていた。私は半分まだ寝ている頭を無理矢理起こして野球仲間の集合場所に向かったが、こういう寝不足の時の私の体調はすこぶる悪いのである。
 そして今回は野球のメンバーが9人ぎりぎりであったのでいつもベンチでスコアをつけている私もスタメンで試合に出ざるを得ず、守備位置ライトで試合に出たのである。
 私はそもそも野球は子供の頃から余りやっておらず、大学に入った時に自分の可能性を試そうと野球同好会に入ったりしたが、元々野球は得意な方ではないのである。でも、地元のPTAのつながりからこのチームの会長を仰せつかることになり、そうしたチームのまとめ役をやらせて頂いている関係上、毎週、早朝野球に臨んでいるのである。しかしながら正直、余り野球の試合をするのは気が進まないのである。

 しかし、今日は既に述べた様な経緯から最初から守備位置にもついたが野球が得意でないのに加え寝不足で体調が悪かった私は自信がなかった。案の定、致命的なエラーをしてしまい、試合も負けてしまった。そして昼からの英検のテストでは作文はまあまあだったが読解とヒアリングが殆ど出来ないという悲惨なものであった。

 私はさすがに落ち込んだ。何の為に毎週早起きして、得意でもない野球をやり、エラーして恥をかき、チームメイトに迷惑を掛け、そして、寝不足でよいコンディションでない状態で英検のテストを受け、ただでさえ出来ないのに余計集中出来ずに試験に失敗し、何故、こんな苦労をしなければならないのだろうと思った。

 でも、元はといえば全て自分が選んでいる道であり、何かをこれは教えてくれているのだろうと思った。そしてその後、夕方、近くのテニスコートで息子と息子の友達とテニスの練習試合をしたが、これは野球などと違って自由に技が繰り出せて、野球と英語で落ち込んでいた自分に多少の自信が甦った。
 考えてみれば、テニスに関しては私は週三回以上行い、素振りも毎日やり、試合も積極的に出ており、そうした中でようやく現在の実力を培ったのである。それに比べて野球などは殆ど訓練されてはいないのである。
 
 要するに我々は訓練が足りていれば、力を発揮出来、訓練がまだ足りなければ、いくらその場で虚勢を張っても所詮、力を発揮することは出来ないのである。
 力を発揮出来ないということは我々に元々力がないからではなく、訓練が足りていないということだけで、何ら恥じることはないのである。それを見栄を張って、自分の実力以上に見せようとするから必要以上に緊張し、疲れるのであり、またそれで失敗すれば落ち込むのである。下手なら下手でそれを素直に受け入れればよいのである。
 
 だから表面を取り繕おうとせずに全ては我らの内在の無限力を磨き出す為の訓練であり、練習であると思えば良いのである。野球の試合も訓練であり、英検のテストも訓練である。そこで実力もないのに見栄を張って、よい結果を出そうを頑張らなくてよいのである。出来ないのは経験と訓練が足らずにその力が磨き出されていないだけなのであるから、その場、その場で力一杯やって、それで失敗してもエラーしても良いのである。 それが訓練であり、そこで気が付いた事があれば、その後の普段の生活でまたその失敗経験を生かした訓練と勉強を重ねていけばよいのである。
 そうした繰り返しの中で我らの実相の無限力が徐々に顕現して来るのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-12 21:21 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

人間とは人の間と書く

 一人っきりの状態で考えることは大抵間違っている。他人と接触しないで一人だけで悶々としていれば、色々な迷いとか不安とか取り越し苦労とか疑心暗鬼という本来ありもしない妄想という化け物が心の中でうごめき始めるのである。
 スポーツの技の探求なども一人だけでやっていると誤ったやり方を本当だと思ってしまい、却って下手になってしまうものである。だから、スポーツや武道に限らず、何らかの道を志すならば、良き師について学んだり、仲間、ライバルと競い合って、切磋琢磨する中からでしか真の事は学ぶことは出来ないのである。

 我々は神の子であるから、内に無限の神の智恵を宿しているのであり、それは自ずと内側から浮き上がって来るのであるが、それは他の人との生命の触れ合いという形を通してしか出て来ないのである。何故ならば、我々は個であると共に神という全体とつながっている生命であり、その大生命なる神を通して、他の人の生命ともつながっているのであるから、我々の本性というものは全体との関わり、他人との交わりの中でのみしか発現しないのである。

 それが愛というものであり、他への施しというものであり、また他からの愛や施しに対する感謝というものである。

 従って、自分だけで引きこもってマスターベーションして自己満足しているだけでは我々には永遠に進歩はない。どんどん間違った方向に進み、収拾がつかなくなるのである。
 傷付くことを恐れずにもっと他と交わっていこう。そこに神は現れ、我らの真の姿、実相が発現してくるのである。だから人間とは人の間と書くのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-10 17:48 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

足るを知る

 昨日、テレビドラマ「恋に落ちたら」を観た。物語は草薙剛演じる主人公の出世話を軸にしたものだが、昨日のストーリーの中でこんなシーンがあった。それは大会社の社長まで上り詰めた主人公が自分の飽くなき事業欲のままに事業をどんどん拡大して行こうとするのだがそんな彼に友人が「お前はどこまで行っても満たされることはない餓鬼のようなものだ。」と諫めるというものであった。
 案の定、その後の彼は調子に乗りすぎて失脚し、今までちやほやしていた仕事仲間から見放され、そして、自分の妹と彼に忠告した友人の元に帰って来て、そこで慰められるのである。
 私はこれを観て、はっとしたのである。これは正に自分の姿であると。
 
 以前にも述べたが私は非常に向上心旺盛というか色々な事に興味があり、自分の様々な能力を伸ばすことに悦びを感じて毎日、様々なレッスンと勉強に明け暮れているのだが、私もこの主人公の様に自分の能力向上に取り憑かれた一種の餓鬼の様なものではないかと思ったのである。
 即ち、現状の自分に満足出来ず、少しでもうまくなりたい、良くなりたいといつも心が満たされないで焦っているのである。実は昨日も仕事の後、テニススクールでテニスの練習試合をして来たが、どうも自分の納得の行くプレーが出来なかったので心がもやもやしていたのである。
 それはここをもうちょっとこうすればもっとうまく行く、うまくなれるというコツを頭で分かっているのだが、それが現状の自分はそう出来ないということで何か不満というか焦りというかもう少し手を伸ばせば素晴らしい上達と能力が手に入るのにといういらだちであった。
 私はそんなこんなで心に平和が無く、何かがつがつとしたものを心に抱いていたのである。しかし、私は昨日のドラマを観て、悟ったのである。私はこのドラマの主人公のように足るを知らざる餓鬼であったと。
 
 我々は向上心を持って努力することは大事ではあるが、あくまでそれは現在の状態、現在与えられている環境、仲間、家族等に心を向け、その今、与えられている事に感謝し、以前に比べてこれだけ良くなっているという自分の能力を悦ぶということを忘れてはならないのである。それが「足るを知る」ということであると思う。
 そうした今既に与えられている当たり前の事に感謝する所から、真の自信が生まれ、そこから真の活力が湧き出て、素晴らしい向上があるのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-10 07:18 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

首相の靖国参拝について

 小泉首相が靖国神社参拝することについての是非についての論議がマスコミで活発になって来ているが大体はそれを日本の国益を損なうとして反対の様である。
 何故ならば、首相の靖国参拝を非難している中国は今やアメリカを抜いて日本の最大の貿易国であるから、首相がこれ以上靖国参拝にこだわるのは日本に取って国益にならないというのである。また、それだけではなく、首相がA級戦犯が祀られている靖国神社に参拝することはかつての侵略戦争を起こした張本人達にお参りするのであるから、戦争の被害にあったアジアの人達の神経を逆なでするものであり、思いやりに欠けるという論議もある。
 しかし、問題の本質はそんな所にはない。問題は一国の首相が自国のどこに何をしに行こうとそんなことは他国にとやかく言われる筋合いのものではないということである。そんな口出しは正しく内政干渉以外の何ものでもない。
 そういう意味で私は小泉首相は靖国神社に参拝して全然構わないと思う。でも参拝しなくてもいいし、参拝しなければならないというものでもない。要はそんなことは御本人が決めればいいことである。

 現在の日本というのは精神の心棒というものを失い、自信がないから他国からのちょっとしたちょっかいでふらふらするのである。そして、唯物主義であるから、精神的支柱を守るということよりも目先の物質的利益を第一にするのである。だから、大事な貿易国である中国のご機嫌を損ねないようにすることが重要であり、その為に首相が靖国参拝にこだわるというのは百害あって一利なしと考えるのであろう。

 私は靖国参拝の是非について、ここでとやかく持論を述べるつもりはない。しかし、靖国神社にクレームをつける人、否定的な考えを抱いている人に申し上げたい。一度、御自分で靖国神社に実際に御参拝なさって、御自分でその空気に触れられ、そして、是非境内にある遊就館という展示場に足を運んでその一番奥にある特攻隊の青年の手記を読んでみて下さい。
 そして、我々のこのかけがえのない祖国を守る為に自らの尊い生命を捧げて下さった英霊達の魂に触れてみて下さい。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-06-03 08:43 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

勘を働かせよ

 私は勘が鋭いか鈍いかと聞かれれば、両方だと答えるだろう。口はばったいがものごとの本質を見極める直感力は自分はあると思う。でも、日常生活における勘はどうかと聞かれればない、もしくは極端にないと答えざるを得ない。

 よく言われることだが、動物は第六感、英語で言えばいわゆるシックスセンス(sixth sence)が鋭く、人間は鈍いと言われる。動物はその第六感で地震などの自然災害予知などもするそうでこうなると一種の超能力ということになるが人間はそれが元々無かったのではなく、頭脳智が進歩したせいでその直感力を使わなくなってしまったので第六感、超能力が退化したのだという。

 その直感力というのは何も地震の予知力とかそんな超能力じみたものでなくても日常生活における直感力というものがある。それを初一念という。例えば道にゴミが落ちているとする。それを「ああ、汚い。」と思って、綺麗にする為に拾おうというのが初一念である。しかし、こんなゴミを拾ったら世間体が悪い、みっともないと思うのが第二念であり、やっぱり拾おうかなどうしようかななんて考えあぐねたら、もうこれは「迷い」である。

 我々はこの初一念を生かすことが大事であり、その判断は大抵正しいのである。何故ならば我々人間の内側には神の心があるから、そこから自然と浮き上がって来るのが初一念であるからである。
 しかし、人間智が発達して、頭でああだこうだ考えて、その初一念を無視するとうまく行かないのである。

 そんなことを繰り返していけば、何かに付け、考えあぐねるようになり、考えあぐねれば恐れの心、取り越し苦労が出て来て、迷いも深まり、しまいには訳が分からなくなってしまうのである。

 もっとも大抵の人は自分の勘を信じて生活の大部分を行っているはずである。そうでなければ、会話をすることも車の運転も仕事もスポーツも出来はしない。しかし、かつての私の様に世界がそのまま完全に運行していることを信じられず自分で自分の生活、行動を完全にしようと力むものは自分の直感を信じられず、一々考えるから直感力が鈍り、その為、判断力が低下し、却って能力を発揮出来ないのである。

 だから、我らはもっと生活の中で理屈や頭脳智ではなく、おのれの直感、最初に浮かんできた初一念をそのまま行動化しよう。それを訓練しよう。そうしていけば、判断力は増し、インスピレーションは研ぎ澄まされ、能力は増進し、自分の身に迫った危険も予知出来、避けることが出来るのである。

 堀 浩二
# by koujihori | 2005-05-31 13:07 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)