自壊作用はナイ!

私が生長の家の宇治の道場の練成会に初めて参加した時の事である。榎本恵吾先生が主宰した座談会の時にある参加者がこう言った。
 「私は今、自壊作用の最中なんです。」と
 そうしたら先生はすかさず
 「皆さん、あんまり自壊作用に引っ掛からない方が良いですよ。」とご指導された。

 自壊作用というのは過去の自分の心持ちに間違いや迷いがあった場合、それが後から肉体の病気などに出て来て、それは過去の迷いが消える所謂自壊作用であるから良い事だという教えが生長の家にある。
 そうするとなまじ生長の家をかじっている人は現在、調子が悪いと「ああ、これは自分の過去の迷いの自壊作用なんだから」と思い、そして「だから今は力が発揮出来ない。調子が悪い。でもこれから心を浄める事によりこれから徐々に良くなる。」と何となくこう思ってしまっているのである。

 これは現象にとらわれているのである。実相以外に病念と病念の結果である具合を悪い肉体を認め、「今はまだ駄目だ。」と思う。これこそ現象にとらわれ、身動きが取れなくなってしまっている。

 今、実相独在であり、今完全円満である。今出来るのである。自壊作用はナイと一刀両断にしなければ永遠に立ち上がる事は出来ない。永遠に悦ぶ事は出来ないのである。
 
 それが雅春先生が悟られた「今立て!」という事である。先生はそれまでは実相は完全円満でも現象はまだ過去の自分の迷いの念が残っているから貧しい、財力が無いと思って生長の家を始める勇気が出なかったとお書きになっている。
 しかし、神から「今力は与えてある。今財力は与えてある。今立て!」と促され、その自覚の通り、現象的にはまだ弱い肉体、貧しい経済状態であったのにかかわらず立ち上がり、断固として「生長の家」誌一千部を発行し、そして生長の家が始まったのである。
 雅春先生が「まだ今は自壊作用で駄目でございます。」なんて自覚だったら永遠に生長の家は始まる事は無かった。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-12-06 14:06 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る。

 余りにも嬉しい事なので書く。私は今までの身体の不調、衰え、運の悪さ、そして周囲からの冷遇の原因が分かり、それらを克服しつつある。

 それは一言で言って私がものごとの良い面を見ないで悪い面を見てそれを批判又は良くしようと心でつかんでいたからである。

 そうした性向は恐怖心を生み、取り越し苦労となり、脳髄を痛め続けていた。それが反射神経の衰えや記憶力、判断力の低下につながり、かつヒステリーをも引き起こしていた。そして、常に悩みは尽きる事無く心配と取り越し苦労は更に増していた。
 そうした心の暗さが運命を悪くし、周囲ことに目上のものからの冷遇につながっていたのだ。そして自分に自信が無いものだから嫉妬心が異常に強かった。

 私はかつて20年前にそれが原因で不眠症になり、ノイローゼにもなった事があるが生長の家の宇治の練成道場で榎本恵吾先生の薫陶で救われたが根本的な人間神の子の自覚は得る事が出来たがそれが普段の自分の心の向け方には完全に出ていなかったのである。
 それがある素晴らしい観世音菩薩の出現により自分の心の間違いを悟る事が出来た。今年の二月の事である。それがきっかけとなって私は真理で周囲ことに目上の者を批判する事を止め、その奥の完全円満の実相を観る事にし、かつものごとの光明面を見る習慣、トレーニングをやる様になった。

 それにより私の絶える事の無かった悩む心、取り越し苦労する心が消え、傷めていた脳神経は再生し、人を批判したり憤る心が消え、運命も改善し、かつ反射神経、運動能力も蘇って来た。

 実相は自分で出て来る。私の中の実相独在の自覚という実相が自分で出て来てより一層顕現して来たのである。

堀 浩二 
# by koujihori | 2016-12-05 14:14 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悩む心は日時計主義で消える。

 悩みというのは尽きないものである。それは色々と形を変えて続く。で悩みの対象が変わると以前はどうしてあんな事で悩んでいたのか不思議なのである。それはとりもなおさず悩む具体的な対象というのは本来存在せず、ただ自分の悩む心がつかんでいただけなのである。誠にもこの現象世界は心の影である。

 要するに悩みというのは具体的に実在するものではなく自分の悩む心が映し出しているのに過ぎないのである。だから悩む心を自分が抱いている限りは悩む対象は次々と形を変えても悩みとか不安とか恐怖というのは続いて行く。そしてそれが高じたのがノイローゼである。ノイローゼは脳の病気である。悩む心により脳にストレスが刻まれ、脳の組織に損傷を生じ、そして不安と恐怖でさいなまれ、眠る事も出来ない。それが精神病でありノイローゼである。

 ところで悩みについてこんな仏教の話がある。それは家が狭い狭いと文句を言っている男がいたという話である。そして近所の寺のお坊さんに相談した。そうしたらお坊さんはその男に「お前が飼っている牛と馬を家の中で飼え。」と指示した。それでその男はただでさえ狭い家なのに牛とか馬を入れたら更に狭くなると不満に思ったがともかくその指示通りにしたのである。 
 そして一週間ほどしてそのお坊さんがもう元通り牛と馬を納屋に返して良いというので男は元に戻した。そうしたら元々狭いと思っていた家が何と広々とした家であったかと分かったというのである。
 これは悩みの種なんて存在せず、その男の悩む心のみが存在するという事の仏教の例え話である。

 さて、生長の家の信仰は実相独在であり、その真髄は今ここそのまま実相世界であるという事であるがそれが現象世界に具体的に展開する為にはその実相独在の悟りに基づいて具体的に生活の中でその悟りが訓練されて行かなくてはならない。その訓練が所謂日時計主義の生き方、トレーニングである。それは日常生活の中で具体的に良き事のみを見つめ、讃嘆し感謝して行く生き方でありそれは自分で意識して心掛けて行かなくてはならないのである。そしてそれが訓練となり潜在意識に善き事、嬉しい事、感謝が満たされて行く様になれば悩みなどは消えてしまう。どんな境遇に立たされても常に感謝に心が満たされ、悩みとか不安とかとはまるで縁のない境涯に至る。所謂無畏怖の境涯である。

 もし、心が悩みに満たされて脳細胞が損傷しそれによりノイローゼになっている人がいたとしてもこの日時計主義で日常良い事のみ見つめ感謝して行く習慣を身につけて行くならば破壊された脳細胞は修復され、ノイローゼ、精神病も回復するのである。 

堀 浩二
# by koujihori | 2016-12-01 09:10 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

良い事をするだけでは駄目。完全円満の世界を観よ。

 良い事をするのは人間として基本だけれどもそれだけだと限界がある。更に大事な事は「今、そのままで既に完全円満の実相世界が現象の奥に存在しているという事を悟る。」事である。そして現象はその実相を悟らずに観ずに現象の悪を見て相手を批判する自分の心が作り上げた幻影であるという事を悟らなくてはならない。

 そうでないとただ善にとらわれただけの心の狭い人間となり、悪事を為している人間を決して赦す事が出来ないからだ。相手を赦さない心は神と波長が合う事はなく、神からの救いの念波を受ける事が出来ず、自分の心が病気になり、精神または肉体の病気になる。そして家族は不幸になるのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-30 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悟りはあくまで実相独在の悟り

「続々甘露の法雨」で
「色々と悟らせて頂きましたなどと種々の迷いや罪にとらわれるは却って悟りに遠き事」と記されている。
 これはどういう意味であろうか?
 そもそも生長の家は実相独在、今ここそのままで(実相そのままで)神の国であり、吾が身そのまま神の身(おなじく実相の事)であるというのがその真髄であり、それでしかあり得ない。そして存在するものは実相と実相が自分で出て来る事しかないという事である。だからその悟りが本当の悟りであり生長の家の真髄である。それが分かればありありと今ここに実相とその無限生長がある事が実感され、唯心所現の法則に従ってその通りの現象が展開するという事である。

 では何故、冒頭の様な「色々と悟らせて・・・」という境涯ではいけないかと言うとそれが現象に引っ掛かるものであり、実相独在の悟りとはかけ離れているからである。

 しかし、生長の家では観世音菩薩の事を説き、自分以外のあらゆる現象、人、もの、事は自分の心を映して下さる観世音菩薩の御働きであると説く。その中で自分の心を反省する事により無限生長がある。だがその学びの体験に引っ掛かっては足をすくわれるという事だ。実相独在であり、実相と実相が自分で出て来る事しかない。そのままでよい。神に全託でよいのであり、その実相顕現の過程の中で観世音菩薩のお導きによる学びがあるというのであり、やはり、実相独在なのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-25 10:49 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

全ての恐怖、問題は神が消して下さる。

 恐怖心というものが起こって来る時がある。生長の家では思ったら思った通りになると教えられているから恐怖してはいけないと言う事になる。そうするとますます恐怖が襲って来る。
 しかるに生長の家では実相独在と教えられているから現象はナイ。心もナイ。と教えられているから恐怖が起こって来てもそれは無いとは理屈では分かる。
 
 しかし、現実問題恐怖心が起こって来てそれが実現してしまうと思うと更に恐怖が募るという事はある。そういう時は如何にすべきであろうか?
 それは「続々甘露の法雨」に書かれている。「恐怖を止める事がどうしても出来ない時はただそのままであれ。そのままの中に恐怖存在せず」とある。

 要するに「そのまま」は神であり、そこには恐怖は存在しないからそのままであれという事だ。それが実相独在であり、私の心は私の心ではなくてそのまま神の心であるからそのままであればじきに恐怖は自ずと消えるという事。

 そして、もっと単刀直入に言えば恐怖心に限らず全ての問題は神が消して下さるという事。それが「生かされている」という事であり、「実相は自分で出て来る」という事であり、「そのままでよい」と言う事。そこに神に対する満腔の感謝がある。全託でよい。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-22 10:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真の情報を得るには。

 世の中には色々な情報が溢れています。新聞、テレビ、ラジオそしてインターネット。新聞を始めとするマスコミは為政者によって大部色づけされる部分があるし、インターネットに関しては玉石混淆です。

 その中で吾々は如何にして真の情報を得たら良いでしょうか?それは神様から得れば良いのです。もっと単刀直入に言えば神様は吾々一人一人の中にいらっしゃるのだから、自分の内側の智恵に委ねれば良いという事になります。要するに本当の智恵は自分自身であるという事になります。
 しかし、肉の自分の声に耳を傾けてはなりません。それは偽物の自分だからです。自分自身と言っても自分の中にある神様の事です。そこに聞けば真の正しい情報、要するに真理を知る事が出来ます。
 その為に瞑想をする。生長の家では神想観があります。そうして日頃から神様にアンテナを立ててその声を聞く習慣をつけていれば真の情報は分かるという事です。
 しかし、それは自分以外の人の言う事を聞くなという意味ではありません。自分と他の一切は神において一体ですから自分の中の神様は他の誰か、教えの師であるとか何かの先生であるとか同僚であるとか仲間であるとかそうした人、そしてもの、事を通じて吾々に真理のメッセージをくれる事はいくらでもある。そのどれが正しいかは自分が日頃から神様に心の波長を合わせていれば直感的に分かるはずです。 

 生長の家の信徒であるならば生長の家の大神の教えは生長の家総裁・副総裁を通して現れるのですから生長の家総裁・副総裁のご指導から真の情報を得る事になります。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-10 16:08 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい。

 信仰でものごとを良くするんじゃないですよ。既に今そのままでよい実相がここにあるだけなんですよ。良く見えなかったのは悪いからじゃなくて自分の観に歪みがあってそれを見られ無かっただけ。それだけですよ。
 自分は家族は既に素晴らしい。既に完全円満。それだけです。それを悦んでおれば良いのです。
 既に救われ済みです。そのままでよい。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-08 09:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家で問題を良くしようとするな。

 生長の家で問題とか病気が良くならないのは「生長の家でこの問題、病気を良くしよう」とするからです。
 生長の家で「人間神の子完全円満、無限健康」と分かったら病気とか問題を問題にせず、「今完全円満、既に病気ナシ」を信じてずんずん本来やるべき事をやれば良いのです。ご先祖に生かされていたと分かったらその報恩感謝の証として当たり前にご先祖をお祭り申し上げ聖経を仏前にて読誦すれば良いのです。

 決して「これからこの問題、病気を生長の家の行で良くしよう」などと考えてはなりませぬ。問題は既に神により完全に解決されていると信じなさいませ。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-31 22:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

信仰は鍛えられる。

 今朝のラジオで日ハムの栗山監督の事が採り上げられていた。監督というのは孤独な仕事だという事でけっこう苦労しているという逸話。今年は一年契約だったそうでそれで日本一を成し遂げたのは穏やかな笑顔の奥はかなりの芯の強さ、精神力を伺わせるとのアナウンサーのコメントだった。

 しかしながらこの精神力、宗教的に言えば信仰の深さだ。それは自分の運命は絶対に大丈夫だという強い信念。キリストはラザロが死んだ時、「死せるにあらず、眠れるなり。起きよ、ラザロ」と言ってラザロを蘇らせた話が聖書に載っている。そして弟子達が人の病気を治せなかったのに対し「汝ら、信仰薄きものよ。」と嘆いておられる。

 ここまで行かなくても精神力、逆境に負けない持続力というのは大事だ。目に見える結果とかをすぐに求めるのではなくて結果が出なくても内側の可能性を信じられる精神力、それに伴う持続力が大事。

 しかし、これをすぐに今の自分に求めるのは厳しいだろう。誰だって逃げ出したくなる事はある。諦めたくなる事はある。しかしながらそうした精神力を今すぐ持てなくてもそれを鍛える事、トレーニングして行く事は誰でも出来ると思う。それは100回の腕立ては今すぐ出来なくても10回位からトレーニングして行く事は誰でも可能だというのと同じ。そしてトレーニングの成果は必ずある。だから有り難いのである。

 それを鍛えるのは人生における課題だがそれはその人のその時のレベルで必ず出来る問題しか与えられない。これはそうなのです。
PS 要は諦めない事だよ。


堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-31 10:45 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)