悟りはあくまで実相独在の悟り

「続々甘露の法雨」で
「色々と悟らせて頂きましたなどと種々の迷いや罪にとらわれるは却って悟りに遠き事」と記されている。
 これはどういう意味であろうか?
 そもそも生長の家は実相独在、今ここそのままで(実相そのままで)神の国であり、吾が身そのまま神の身(おなじく実相の事)であるというのがその真髄であり、それでしかあり得ない。そして存在するものは実相と実相が自分で出て来る事しかないという事である。だからその悟りが本当の悟りであり生長の家の真髄である。それが分かればありありと今ここに実相とその無限生長がある事が実感され、唯心所現の法則に従ってその通りの現象が展開するという事である。

 では何故、冒頭の様な「色々と悟らせて・・・」という境涯ではいけないかと言うとそれが現象に引っ掛かるものであり、実相独在の悟りとはかけ離れているからである。

 しかし、生長の家では観世音菩薩の事を説き、自分以外のあらゆる現象、人、もの、事は自分の心を映して下さる観世音菩薩の御働きであると説く。その中で自分の心を反省する事により無限生長がある。だがその学びの体験に引っ掛かっては足をすくわれるという事だ。実相独在であり、実相と実相が自分で出て来る事しかない。そのままでよい。神に全託でよいのであり、その実相顕現の過程の中で観世音菩薩のお導きによる学びがあるというのであり、やはり、実相独在なのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-25 10:49 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

全ての恐怖、問題は神が消して下さる。

 恐怖心というものが起こって来る時がある。生長の家では思ったら思った通りになると教えられているから恐怖してはいけないと言う事になる。そうするとますます恐怖が襲って来る。
 しかるに生長の家では実相独在と教えられているから現象はナイ。心もナイ。と教えられているから恐怖が起こって来てもそれは無いとは理屈では分かる。
 
 しかし、現実問題恐怖心が起こって来てそれが実現してしまうと思うと更に恐怖が募るという事はある。そういう時は如何にすべきであろうか?
 それは「続々甘露の法雨」に書かれている。「恐怖を止める事がどうしても出来ない時はただそのままであれ。そのままの中に恐怖存在せず」とある。

 要するに「そのまま」は神であり、そこには恐怖は存在しないからそのままであれという事だ。それが実相独在であり、私の心は私の心ではなくてそのまま神の心であるからそのままであればじきに恐怖は自ずと消えるという事。

 そして、もっと単刀直入に言えば恐怖心に限らず全ての問題は神が消して下さるという事。それが「生かされている」という事であり、「実相は自分で出て来る」という事であり、「そのままでよい」と言う事。そこに神に対する満腔の感謝がある。全託でよい。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-22 10:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真の情報を得るには。

 世の中には色々な情報が溢れています。新聞、テレビ、ラジオそしてインターネット。新聞を始めとするマスコミは為政者によって大部色づけされる部分があるし、インターネットに関しては玉石混淆です。

 その中で吾々は如何にして真の情報を得たら良いでしょうか?それは神様から得れば良いのです。もっと単刀直入に言えば神様は吾々一人一人の中にいらっしゃるのだから、自分の内側の智恵に委ねれば良いという事になります。要するに本当の智恵は自分自身であるという事になります。
 しかし、肉の自分の声に耳を傾けてはなりません。それは偽物の自分だからです。自分自身と言っても自分の中にある神様の事です。そこに聞けば真の正しい情報、要するに真理を知る事が出来ます。
 その為に瞑想をする。生長の家では神想観があります。そうして日頃から神様にアンテナを立ててその声を聞く習慣をつけていれば真の情報は分かるという事です。
 しかし、それは自分以外の人の言う事を聞くなという意味ではありません。自分と他の一切は神において一体ですから自分の中の神様は他の誰か、教えの師であるとか何かの先生であるとか同僚であるとか仲間であるとかそうした人、そしてもの、事を通じて吾々に真理のメッセージをくれる事はいくらでもある。そのどれが正しいかは自分が日頃から神様に心の波長を合わせていれば直感的に分かるはずです。 

 生長の家の信徒であるならば生長の家の大神の教えは生長の家総裁・副総裁を通して現れるのですから生長の家総裁・副総裁のご指導から真の情報を得る事になります。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-10 16:08 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい。

 信仰でものごとを良くするんじゃないですよ。既に今そのままでよい実相がここにあるだけなんですよ。良く見えなかったのは悪いからじゃなくて自分の観に歪みがあってそれを見られ無かっただけ。それだけですよ。
 自分は家族は既に素晴らしい。既に完全円満。それだけです。それを悦んでおれば良いのです。
 既に救われ済みです。そのままでよい。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-11-08 09:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家で問題を良くしようとするな。

 生長の家で問題とか病気が良くならないのは「生長の家でこの問題、病気を良くしよう」とするからです。
 生長の家で「人間神の子完全円満、無限健康」と分かったら病気とか問題を問題にせず、「今完全円満、既に病気ナシ」を信じてずんずん本来やるべき事をやれば良いのです。ご先祖に生かされていたと分かったらその報恩感謝の証として当たり前にご先祖をお祭り申し上げ聖経を仏前にて読誦すれば良いのです。

 決して「これからこの問題、病気を生長の家の行で良くしよう」などと考えてはなりませぬ。問題は既に神により完全に解決されていると信じなさいませ。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-31 22:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

信仰は鍛えられる。

 今朝のラジオで日ハムの栗山監督の事が採り上げられていた。監督というのは孤独な仕事だという事でけっこう苦労しているという逸話。今年は一年契約だったそうでそれで日本一を成し遂げたのは穏やかな笑顔の奥はかなりの芯の強さ、精神力を伺わせるとのアナウンサーのコメントだった。

 しかしながらこの精神力、宗教的に言えば信仰の深さだ。それは自分の運命は絶対に大丈夫だという強い信念。キリストはラザロが死んだ時、「死せるにあらず、眠れるなり。起きよ、ラザロ」と言ってラザロを蘇らせた話が聖書に載っている。そして弟子達が人の病気を治せなかったのに対し「汝ら、信仰薄きものよ。」と嘆いておられる。

 ここまで行かなくても精神力、逆境に負けない持続力というのは大事だ。目に見える結果とかをすぐに求めるのではなくて結果が出なくても内側の可能性を信じられる精神力、それに伴う持続力が大事。

 しかし、これをすぐに今の自分に求めるのは厳しいだろう。誰だって逃げ出したくなる事はある。諦めたくなる事はある。しかしながらそうした精神力を今すぐ持てなくてもそれを鍛える事、トレーニングして行く事は誰でも出来ると思う。それは100回の腕立ては今すぐ出来なくても10回位からトレーニングして行く事は誰でも可能だというのと同じ。そしてトレーニングの成果は必ずある。だから有り難いのである。

 それを鍛えるのは人生における課題だがそれはその人のその時のレベルで必ず出来る問題しか与えられない。これはそうなのです。
PS 要は諦めない事だよ。


堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-31 10:45 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

孤独と内界は違う

 孤独が本当の心の状態であり、それは良いことだという論がある。確かに何か仕事に集中する時は周りの雑音に惑わされずそれをシャットアウトする事が大事だ。アーチストが作品を製作するのも思想家が思想するのも設計者が設計するのも職人が工芸品を手掛けるのもそういう状態が不可欠と言える。

 そして瞑想も正に外界の騒音をシャットアウトして内なる世界に心を振り向ける事だ。 

 しかし、キリストは自分以外に誰かと交わる時に神が現れるとも仰っており、小人閑居すれば悪事を為すという言葉もある。またありもしない妄想、取り越し苦労というのは自分だけの頭で考えている場合にそれが心に忍び込んで来る。一人で塞ぎ込んでないで友人や仲間と交わっている内にそんなものが妄想だった事が分かる。
 またシナジー効果というのは1+1=が2ではなくて3にも4にもなるという事で何かチームとかで仕事をする場合、お互いの良い面を出し合えば素晴らしい仕事が出来るという事である。

 要するに人間は一人では大した事は出来ず周囲からのアドバイス、助力等により初めて力を発揮出来る。それはとりもなおさず人間が肉体ではなく人間関係という肉体を超えた自他一体の存在であり、そこにこそ初めて人間の力、価値が発揮出来る。
 人間が人ではなくて人間と書く由縁もそこにある。分かり易い例が日ハムの大谷。彼はすごい才能の持ち主だがあれは栗山監督が二刀流を認めてそれを全力でサポートしているからこそ出来たのであり、それはイチローや野茂の成功も彼らの個性的なフォームの天才を認め伸ばした扇監督の存在があったればこそだ。
 だからみんな何か偉業を達成した時に感謝という言葉を口にするのである。

しかし、冒頭に述べた様に周囲の雑音をシャットアウトして集中する事も大事だ。野茂にしろ、大谷にしろ、イチローにしろ集中して練習したい時や実戦の際にああだこうだ周りから言われたらとても出来ないだろう。

 それではこの議論は如何に収斂すべきであろうか?

 それは内界と外界の区別であろう。キリストは「神の国は汝のうちにのみあり。外にこれを追い求めるものは永遠にこれを得る事あたわず」と仰っている。またチルチルミチルの話を知っているだろう?チルチルミチルの兄妹は幸福の青い鳥を追い求めて森へ探しに行ったが見つからずへとへとになって家に戻ったらその青い鳥は家にいたという話だ。

 これは内界というのは内なる霊なる世界、理念の世界であり、それこそが本当に実在する世界であり、外界というのは現象であり、それは現世(うつしよ)と読んで字の如く、内なる理念の真に存在する世界の映しの世界に過ぎず、アル様に見えて実は存在しない影の世界であるという事である。

 だからこの外界、現象世界にああだこうだ関わったりそこから雑音を受けるのではなくて内界本当にある理念の世界に集中して行く事が大事なのであり、それが瞑想であり座禅であり、その内界、理念の世界が展開される時、理念の世界に於いては自分と他は一体なのだから色々な仲間と話し合ったり、助けを受けたり、こっちが助けたりという事になるのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-28 11:00 | 学術問題 | Trackback | Comments(0)

今そのままで既に完全円満である。

 ちょっと心配事があって、かなりのストレスを受けていた。夜中々眠れなかったりひどい腹痛などがあって、神経はかなりのダメージを受けていた。だから土曜日の仲間内の貸しコートでの早朝テニスはくだらないミスが出てまるで駄目だった。

 そしてその後、テニスクラブへ行きテニスをしたが一戦目はやはり駄目で0-6のスコアで負け。体が重く、反応も鈍くどうしようもない。これはストレスにより体のダメージが残っているからだと思った。
 そして次のゲームをまたやったがその途中で内側からパーッと気がついた。

「自分は心配事があって心にストレスを感じ、それが神経を損ない、反射神経も体幹力も筋力も低下しているからテニスの力が発揮出来ないと思っている。しかし、それは間違いだ。力は今既に神から与えられている。これからではない!」と。

 そう思ったら力がすぐ出て来た。反応も良くなった。そしてそのゲームは6-3で勝つ事が出来たのである。

 それと共に体にストレスを与えていた問題も今そのまま既にナイと分かった。問題は今このままで神により解決されていると。だから、それによるストレスも無いし体のダメージもナイ。たった今。

 それが実相独在という事である。それが分かれば今すぐ力を発揮出来る。問題みたいなものも自ずと消えるのである。それをまだ心配事があるとかそれによる体のダメージが残っているなんて考えるのは迷いなのである。 

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-25 17:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

この世界は実相と実相が自分で出て来る事しかない。

 この世界には実相と実相が自分で出て来る事しかない。それが実相独在という事である。実相は生命であり、それは無限生長であり、従ってそれが同時に表現を欲する。その表現する行為が現象化であり、無限から有限となる。
 その過程は稚拙な段階から段々とレベルがアップするという事になるがそれが迷いは悟りの基礎工事という事である。先ず迷いが出て、色々な本来でない事、稚拙な事、悪事を働いてその中でその報いを受け、色々苦労する中で自分で悟り、そして実相が顕現する。それは実相は自分で出て来るという事である。
 その実相が自分で出て来る過程で自分が迷いによって人生上の問題を作り出す。その中で信仰が鍛えられる。そしてそれが繰り返すが実相が自分で出て来るという事であり、だからどこまで行っても実相独在なのである。

 だから、色々経験を積んで、色々分かったからと言って「色々と悟らせて頂きました。などと過去の罪や迷いにとらわれるのは却って悟りから遠きこと」と続々甘露の法雨に書かれているのである。そうした過程は現象であって、実相独在ではないからである。あくまで実相独在であり、それが自分で出て来てその過程が結果的に現象の色々な経験になるのであって、その現象的経験にとらわれて「自分はこれだけ悟った。」なんて考えたらそこでもう実相独在ではない。
 あくまで今このままここが実相であり天国浄土であり自分は完全円満の神であり自分は今まで一度も迷った事も悪事をした事も失敗した事も無いというのが実相独在の真理である。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-25 09:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

経験とは?

 人の相談に乗ったり、救ったりするのはその相手と同じ経験を積まなくては分からないという。しかし、生長の家では生長の家の真理を説くだけで相手が救われる。人を救うには何も全ての苦しみを経験しなくてはならないという事ではない。

 しかしながら経験というのは実相が無限生長する中で現象に顕現する過程で自ずとされるものである。だから、そうした経験は確かに後進を指導するのに役に立つし、相手の苦しみを分かってあげる事になるから親身になれるのも事実である。

 但し、繰り返すが生長の家において生長の家の講師が人を救うのはその講師の力でするのではなくてその講師を通して生長の家大神または高級霊がするのであるから生長の家の講師は全ての苦しみを経験しなくてはならないという事ではないと思う。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-25 09:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)