孤独と内界は違う

 孤独が本当の心の状態であり、それは良いことだという論がある。確かに何か仕事に集中する時は周りの雑音に惑わされずそれをシャットアウトする事が大事だ。アーチストが作品を製作するのも思想家が思想するのも設計者が設計するのも職人が工芸品を手掛けるのもそういう状態が不可欠と言える。

 そして瞑想も正に外界の騒音をシャットアウトして内なる世界に心を振り向ける事だ。 

 しかし、キリストは自分以外に誰かと交わる時に神が現れるとも仰っており、小人閑居すれば悪事を為すという言葉もある。またありもしない妄想、取り越し苦労というのは自分だけの頭で考えている場合にそれが心に忍び込んで来る。一人で塞ぎ込んでないで友人や仲間と交わっている内にそんなものが妄想だった事が分かる。
 またシナジー効果というのは1+1=が2ではなくて3にも4にもなるという事で何かチームとかで仕事をする場合、お互いの良い面を出し合えば素晴らしい仕事が出来るという事である。

 要するに人間は一人では大した事は出来ず周囲からのアドバイス、助力等により初めて力を発揮出来る。それはとりもなおさず人間が肉体ではなく人間関係という肉体を超えた自他一体の存在であり、そこにこそ初めて人間の力、価値が発揮出来る。
 人間が人ではなくて人間と書く由縁もそこにある。分かり易い例が日ハムの大谷。彼はすごい才能の持ち主だがあれは栗山監督が二刀流を認めてそれを全力でサポートしているからこそ出来たのであり、それはイチローや野茂の成功も彼らの個性的なフォームの天才を認め伸ばした扇監督の存在があったればこそだ。
 だからみんな何か偉業を達成した時に感謝という言葉を口にするのである。

しかし、冒頭に述べた様に周囲の雑音をシャットアウトして集中する事も大事だ。野茂にしろ、大谷にしろ、イチローにしろ集中して練習したい時や実戦の際にああだこうだ周りから言われたらとても出来ないだろう。

 それではこの議論は如何に収斂すべきであろうか?

 それは内界と外界の区別であろう。キリストは「神の国は汝のうちにのみあり。外にこれを追い求めるものは永遠にこれを得る事あたわず」と仰っている。またチルチルミチルの話を知っているだろう?チルチルミチルの兄妹は幸福の青い鳥を追い求めて森へ探しに行ったが見つからずへとへとになって家に戻ったらその青い鳥は家にいたという話だ。

 これは内界というのは内なる霊なる世界、理念の世界であり、それこそが本当に実在する世界であり、外界というのは現象であり、それは現世(うつしよ)と読んで字の如く、内なる理念の真に存在する世界の映しの世界に過ぎず、アル様に見えて実は存在しない影の世界であるという事である。

 だからこの外界、現象世界にああだこうだ関わったりそこから雑音を受けるのではなくて内界本当にある理念の世界に集中して行く事が大事なのであり、それが瞑想であり座禅であり、その内界、理念の世界が展開される時、理念の世界に於いては自分と他は一体なのだから色々な仲間と話し合ったり、助けを受けたり、こっちが助けたりという事になるのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-28 11:00 | 学術問題 | Trackback | Comments(0)

今そのままで既に完全円満である。

 ちょっと心配事があって、かなりのストレスを受けていた。夜中々眠れなかったりひどい腹痛などがあって、神経はかなりのダメージを受けていた。だから土曜日の仲間内の貸しコートでの早朝テニスはくだらないミスが出てまるで駄目だった。

 そしてその後、テニスクラブへ行きテニスをしたが一戦目はやはり駄目で0-6のスコアで負け。体が重く、反応も鈍くどうしようもない。これはストレスにより体のダメージが残っているからだと思った。
 そして次のゲームをまたやったがその途中で内側からパーッと気がついた。

「自分は心配事があって心にストレスを感じ、それが神経を損ない、反射神経も体幹力も筋力も低下しているからテニスの力が発揮出来ないと思っている。しかし、それは間違いだ。力は今既に神から与えられている。これからではない!」と。

 そう思ったら力がすぐ出て来た。反応も良くなった。そしてそのゲームは6-3で勝つ事が出来たのである。

 それと共に体にストレスを与えていた問題も今そのまま既にナイと分かった。問題は今このままで神により解決されていると。だから、それによるストレスも無いし体のダメージもナイ。たった今。

 それが実相独在という事である。それが分かれば今すぐ力を発揮出来る。問題みたいなものも自ずと消えるのである。それをまだ心配事があるとかそれによる体のダメージが残っているなんて考えるのは迷いなのである。 

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-25 17:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

この世界は実相と実相が自分で出て来る事しかない。

 この世界には実相と実相が自分で出て来る事しかない。それが実相独在という事である。実相は生命であり、それは無限生長であり、従ってそれが同時に表現を欲する。その表現する行為が現象化であり、無限から有限となる。
 その過程は稚拙な段階から段々とレベルがアップするという事になるがそれが迷いは悟りの基礎工事という事である。先ず迷いが出て、色々な本来でない事、稚拙な事、悪事を働いてその中でその報いを受け、色々苦労する中で自分で悟り、そして実相が顕現する。それは実相は自分で出て来るという事である。
 その実相が自分で出て来る過程で自分が迷いによって人生上の問題を作り出す。その中で信仰が鍛えられる。そしてそれが繰り返すが実相が自分で出て来るという事であり、だからどこまで行っても実相独在なのである。

 だから、色々経験を積んで、色々分かったからと言って「色々と悟らせて頂きました。などと過去の罪や迷いにとらわれるのは却って悟りから遠きこと」と続々甘露の法雨に書かれているのである。そうした過程は現象であって、実相独在ではないからである。あくまで実相独在であり、それが自分で出て来てその過程が結果的に現象の色々な経験になるのであって、その現象的経験にとらわれて「自分はこれだけ悟った。」なんて考えたらそこでもう実相独在ではない。
 あくまで今このままここが実相であり天国浄土であり自分は完全円満の神であり自分は今まで一度も迷った事も悪事をした事も失敗した事も無いというのが実相独在の真理である。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-25 09:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

経験とは?

 人の相談に乗ったり、救ったりするのはその相手と同じ経験を積まなくては分からないという。しかし、生長の家では生長の家の真理を説くだけで相手が救われる。人を救うには何も全ての苦しみを経験しなくてはならないという事ではない。

 しかしながら経験というのは実相が無限生長する中で現象に顕現する過程で自ずとされるものである。だから、そうした経験は確かに後進を指導するのに役に立つし、相手の苦しみを分かってあげる事になるから親身になれるのも事実である。

 但し、繰り返すが生長の家において生長の家の講師が人を救うのはその講師の力でするのではなくてその講師を通して生長の家大神または高級霊がするのであるから生長の家の講師は全ての苦しみを経験しなくてはならないという事ではないと思う。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-25 09:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今そのままでここがそのまま実相世界である。

 生長の家の信仰っていうのは実相は素晴らしいけど現象は自分の心が作るっていう感じでとらえてると心の安泰は無い。
 実相と現象は確かに違うけど現象はナイとも教えられている。雅春先生は心が現象を作るって事が分かっただけでは心を制御出来なくて非常に悩まれた。でも現象も心もナイ、実相が今ここにあると悟られて心という暴れ馬から降りて実相の大地に降りる事が出来たとお書きになっている。

 現象はナイ、心もナイっていうのは今このままでここがそのまま実相世界であり、自分そのまま自分の心そのままで神であり神の心であるって言う事。それが分かったら現象は心の影だから今現象としてはっきりと神の国が完全円満の神の自己と家族が現れる。

 要するにそのままでよいという事。心をああだこうだとこねくり回さなくて良いと言う事。そして実相は無限生長だからいくらでもそのままで発展するするという事。それが実相が自分で出て来るという事。そして、それこそが実相独在という事である。

堀 浩二 
# by koujihori | 2016-10-24 10:47 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

行き過ぎた自動化と環境問題は同根である。

 最近、自動車産業では自動化の流れがあるがこれは良くない傾向である。

 行き過ぎた自動化が良くないのはそれは人間の本来持っている無限力の訓練の機会を阻害するからである。それは本来神に与えられている生命力を閉ざす事でありそれは自然を大切にしない自然を破壊する現在の環境破壊の問題ともリンクしている。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-21 11:25 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

生長の家で病気を治そうと思うな。

 生長の家の人で本人や家族とかで病気などの何かしら問題が起こって、しかしながら中々その問題が解決しない事がある。
 周りからはやれ親に感謝しろだの先祖供養が足らないなどと指導され、それをしきりにやっても依然として問題が解決しない。

 それはとりもなおさず自分で問題をつかんでいるからである。

問題は心でつかまなければ今このままナイ。生長の家の人で中々問題が消えないのは問題を心につかんでそれを生長の家で解決しようとしているからである。

 生長の家で人間神の子完全円満、病ナシと教えられたのならそれをハイと受け取って、ズンズンそれを生活の中で実行して行けば良いのである。
 そして怨んでいる人がいたらそれを赦し、ズンズン仕事なり愛行をすれば良いのである。自分が親やご先祖様に生かされていると分かったら親孝行し先祖供養すれば良い。

 それをこの病気、この問題を治そうと思って先祖供養なり親に感謝の祈りをこれでもかこれでもかとやっても良くはならないのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2016-10-21 11:12 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

対人恐怖症は人を悪く思う心があるから

 対人恐怖症というのがあるがこれは相手の完全円満の実相を拝んでいないからそうなる。これは本来は病気ではない。(そういう意味なら全ての病気は本来存在しない。それは全て心の迷いの反映に過ぎない。)

 相手を悪く思う。その心が度重なって潜在意識に溜まる。その心は恐怖心となるのである。それが対人恐怖症である。だから相手を神の子で良い人なんだと思う事が大事でそれを積み重ねれば対人恐怖は消える。

堀 浩二 
# by koujihori | 2016-10-13 10:13 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

真の生き甲斐とは

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 ものごとの、人間の価値とは何だろうか?地位か?名誉か?金儲けか?支配欲を満たす事か?
 そうではあるまい。地位や名誉や金や権力は無くてもこの世に真の価値を創出し、それをして世に貢献する事だ。それも自分で無くてはならない才能と方法で。
 人間は神からそれぞれその人でなくてはならない力と個性を与えられている。それを内側に見いだし、それを掘り出し、花開かせれば良いのである。
 そしてそれで真に他の人から悦ばれる。その時、最高の法悦と生き甲斐を見いだすであろう。地位は無くても一部の人からバカにされてもそれで良いと自己の魂が満足するはずである。

堀 浩二

※写真は私の作品「ひだまり」
# by koujihori | 2016-10-12 20:45 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来るがそれは全力であり真摯そのものである。

 実相は自分で出て来る。私はここ半年それを正に実感している。
 実相が自分で出て来るというのは自分は何もせずにのんべんだらりとしているという訳ではない。必死の全力の努力を傾注する事でもある。しかし、それは我(が)ではなくて自分の中の神が神して為される事である。だからそれは神への全託であり、神への絶対帰依であり、神への満腔の感謝である。

 生長の家の生き方は誠に素晴らしい。しかし、それは我(が)ではなくて自分の中の神が神して行うのである。その差は非常に微妙だが天と地ほどの差がある。そうなる為にはどうしたら良いかと言ったらそれはいずれ誰でもそうなる。実相は自分で出て来るからである。

 それはともかく私は生長の家講習会の推進で今まで如何に自分が人の実相を拝んでいなかったを痛感した。
 私の鎌倉相愛会の参加者目標数は20名である。前回の参加者が15名であり、それに対して5名のプラスである。しかし、目標を立てた以上はそれを達成すべく全力にならざるを得ない。私は教区相愛会連合会で副連合会長でもあるので立場上みっともない事は出来ない。

 それで一所懸命になった。講習会は11月13日であるから半年ほど前から参加促進を始めたがこれがいっこうにうだつが上がらない。この人は行ってくれると目星を付けていた人が様々な理由で次々と駄目になって行く。本当に焦った。
 そして先月に教区の練成会を一日だけ受講したがその際、白鳩会の女性が講習会の推進体験談をしていたのを聞いた。その女性Kさんは先祖供養の霊牌を毎月書いて教区で供養してもらう事と参加対象者を如意宝珠観で一人一人祝福する事と日時計日記で既に参加者目標突破を書いている事をせっせとやっていたら自己限定観が取れて推進のパワーが出て来て、実際既に参加者目標100名を達成したというのだ。

 私はと言うと祈りながら推進するというのは昔から聞いていたが実行した事は殆ど無い。ただ行ってくれそうな人にだけ声を掛けて行ってもらうという推進しかして来なかった。そんなやり方で毎回少しずつ行ってくれる人が少なくなって来ていたのだ。
 それは私が人を責め裁く心であったからだ。うちの鎌倉地区でも「あの人は駄目だ。この人も見込みが無い。」と心で裁いて勝手に排除していたのだ。そんなこんなでそういう人はもちろん、行ってくれると思った人も次々と脱落して行ったのだ。
 私ははたと悟った。私の鎌倉地区で会員が少ないのも誌友会の参加者が少ないのも講習会の参加者が少ないのも全て私の人の悪を見て責め裁く心が原因であったと。

 そして、私は大懺悔し、今までの心を改め、人の良い所、実相をひたすら観る事を決意した。現象的に如何なる意地悪に卑怯に悪く不完全に見えようともそんなものは全て自分の心の影でありその奥にその人の完全円満の実相があるという事を直視する決意をし、それを断行して行ったのである。
 そして如意宝珠観で参加促進対象者の実相を祝福する祈りを二週間ほど前から始めた。そしてもちろん参加促進の努力も最大限にしているがその中で今まで何度家庭訪問しても会えず、もうこの人は駄目だなと思っていたH氏(56)にも会え、受講券を渡す事が出来、またこちらから何度電話しても出なかったA氏、そのA氏からも電話があり、講習会の参加確約をしてくれた。
 私が彼らの実相を拝んで祝福する祈りをする様になったらそういう変化が現実にも出て来たのである。

 それはともかく私として一大自己変革が出来、人を責める心ではなくて人の実相を拝み、感謝する心になれた事が非常に大きい。これはいくら感謝しても仕切れない事である。
 私の「他の人を拝み感謝する」という実相が出て来たのである。これは実相が自分で出て来たのだ。

堀 浩二


# by koujihori | 2016-09-30 16:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)