これでもかとやる祈りとそのままでよいという心からの祈り

 ところで生長の家って祈りを徹底的にやればそれが成果を出してものごとが好転するって言う説き方とそのままでいいって説き方と両方ありますね。

 これはともかく徹底的に祈れというのはこれは初心者向け、入門遍という感じがします。

 清超先生も
「これでもか、これでもかという行は本来のものではない。やらないよりは良いけど」とご指導されています。また「正法眼蔵を読む」上巻では
「もちろん言葉にはそれ自体の力があり、真理の言葉は真実をあらわすところの力を備えている。しかし、経文を機械的に棒読みするだけで心はあらぬ方へ突っ走っているようなことでは仕方が無いではないか。これが仏法だと思い上がってはならぬ。仏法とは真理を行ずるところの法であるから経文の内容をよくかみしめて味わいつつ、その言葉通りの心にならぬといけない。「南無阿弥陀仏」と念ずるならば阿弥陀仏と一体であるところの自己を深く実感しなければならないのである。」と書かれています。

 要するにただ我(が)がこれでもかこれでもかと言うのでやる祈りは言葉には一定の力があるからある程度の効果がある。しかし、何時までもそんな境涯にいてはならない。内なる神が出て来て行う祈り、行にならなくてはならないという事だと思います。それが信仰の深化であり内なる神の国を発見していく過程であると思います。

 神が神するのが本当でありだから神想観も神がする。愛行も神がする。聖経読誦も神がするというのが本当です。そうすると神はそのままですからそのままで神想観であり愛行であり聖経読誦という事になります。

 でも本当にそこまでの境涯に達するにはやはり三正行が必要です。真剣に三正行を行ずる所内なる神の国を見出す。そうすればそのままで合掌三昧、行三昧となる。

 
 ただ初心者の人が三正行を真剣に行じようというのも内なる神の生命が動いてやるのです。これも「正法眼蔵を読む」に記されています。

堀 浩二


by koujihori | 2018-05-16 14:44 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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