努力とか修行の意味

現在、北京オリンピック真っ盛りであり、各選手は自己の力を出し、メダルを取る事にしのぎを削っている。オリンピック選手でなくても、吾々は人間としてこの世に生を受けた以上は自己のフィールドで力を思う存分発揮したいし、また病気などの何らかの人生苦のさなかに居る人は無限力を発揮して、病気とかその他の問題を解決したいだろう。
 その為に吾々は努力とか訓練を熱心にする。しかし、吾々は努力とか訓練によって、不完全なでくの坊が完全な素晴らしい力を発揮するものに変化する訳ではない。自己が元々、不完全ででくの坊と思って、訓練したり、修行してもその力を発揮する事は難しい。ダイヤは磨けば光るがそれは元々素晴らしい輝きのある石であるからであり、元々輝きのないただの石ころをいくら磨いた所でダイヤの様な素晴らしい光沢は出て来ない。

 吾々が力を発揮したい、健康でありたいと切に願うのは吾々の本質がでくの坊とか病気であるからではなくて、無限力、無限健康を持った完全円満の神の生命であるからである。だから、それを発揮したいと心から思うのである。その為に色々な訓練や練習や修行をするが、その修行とか訓練というものが自己を良くする、即ち元々でくの坊であるつまらないものが素晴らしいものにしていくと思って、訓練しても、それはただの石ころをダイヤにする為に一所懸命磨いているのと同じで到底、素晴らしい力を発揮する事は出来ない。
 吾々の実相は神そのものであり、完全円満なのであるから、修行とか訓練というのは元々駄目なものを良くするものではなくて、既に完全円満である自己の実相を人生経験を通して、発見するという事である。
 人生経験の中でそれは具体的にどういう展開を取るかと言ったら、自分に何か課題が何らかの巡り合わせによって、与えられるのである。それは決して、吾々を苦しめる為に出て来るのではなくて、自己の内部の無限の可能性に気付かせてくれる為のものである。
 大抵はそれを受ける事が困難に感じ、恐怖に想い、それを受けるのに怖じ気づいて逃げ出したくなるのである。しかし、それを逃げないで立ち向かって行けば、恐いと思ったり、困難に感じた事は単なる自己の取り越し苦労に過ぎないものであり、実際にはそこに何も問題は無く、そこには神の国しか無かったという事を見出すのである。それが自己の生命の実相を発見するという事である。実際に自己の内部に無限力、完全円満を発見すれば、それが即ち、その無限力を表現する事が出来るのである。

 誠にも修行や訓練は自己を良くする事ではなくて、自己の内部に既に完全円満の神の生命を発見する人生経験の事である。だから、吾々は如何なる困難にあっても決して、諦めたらならないのである。その困難の先に天国があるとはそういう事である。

堀 浩二
by koujihori | 2008-08-20 13:15 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(1)
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Tracked from 社会と私 at 2008-08-20 14:01
タイトル : 社会と私
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Commented by koujihori at 2008-08-25 09:32
ナオチャン

 御警告、有り難う御座いました。今度、金子君の所へ三谷さんと呑みに行きましょう。電話しますよ。
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