今悦べる。

 信仰っていうのは今悦べなくちゃ駄目なんですよ。ああしてこうしてこうやってやっと現象が良くなってから喜びましょうではないのです。 

 今神に生かされている。今ここがそのまま神の国である。自分は今完全円満だ。それしかない。そしてその実相が自分で出て来る事しかない。それが分かれば今悦べます。現象の如何に関わらず。 そして現象的に色々問題が見えているのはこれ全て吾々を導く観世音菩薩の教えだとして改めていけば良いのです。そこに無限生長がある。

堀 浩二

# by koujihori | 2018-06-12 12:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

現象が良くなったと喜ぶのも現象にとらわれている。

 何か病気になったとか現象が悪くなって落ち込みっぱなしはもちろん駄目だけど病気が治った、金が儲かった等々現象が良くなったから有頂天になっても駄目なんだ。

 それは神示にも書かれている。そういうのは神を信じているのではなくて物を信じていると。

 現象が良くなったから喜ぶのも現象にとらわれているんです。何時如何なる時も実相独在、実相世界は今ここにあり今自分はこのまま神の生命であると自覚する事が大事ですね。

堀 浩二


# by koujihori | 2018-06-08 12:37 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家って何?

 生長の家って言うのは如何なる現象であってもそれが全て実相が出て来る為のステップであり有り難い観世音菩薩のお導きだと心から分かりこの世界は今このままで完全円満の世界であり自分は神に百%護られていたんだっていう自覚です。

堀 浩二
# by koujihori | 2018-06-06 16:54 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真理は吾が内にあり

 生長の家を長くやってるんならいい加減、真理は自分の中にあるって事分からなくちゃ駄目ですよ。何々先生に正解を聞こう、真理を聞こうじゃなくて。自分の中に正解がある。真理がある。自分は解決そのものだという事。
 それが神の子の自覚です。それが「神の国は汝の内にのみあり」って甘露の法雨にあるキリストの言葉です。

 でもそれは教化部長も生長の家の総裁もへったくれもあるかという事じゃありません。自他一体だから自分の中の真理は先達や師を通して自分の中で目覚めるという事になる。

 生長の家の教えの中心はもちろん生長の家大神-総裁-御教えです。で自分の中に真理があると分かると却ってこの流れが中心であると分かるものです。

堀 浩二


# by koujihori | 2018-05-30 13:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

現象は全て仏の説法である。

 現象がそのまま全て説法である。それは観世音菩薩様の御教示である。自分が本来でない心持ちである時、それは必ず自己の周囲の環境や自己の心の苦しみとなる。それを外形的に治すだけではどうにもならない。それらは全て観世音菩薩様が示して下さる自己の心持ちの間違いなのだからそれをそのまま受けてその中で自ずと自己反省して行く所に実相顕現がある。無限生長がある。
 そうなると今そのままで悦べる。

堀 浩二

# by koujihori | 2018-05-21 09:06 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る。

 実相が自分で出て来るというと奇妙に思うかも知れない。私はそれを榎本恵吾先生に習ったが先生の御著書によるとそれを最初に言ったのは雅春先生の直弟子で高弟の服部仁郎先生だそうだ。
 しかし、その事は清超先生も「正法眼蔵を読む」上巻p108に
「そんなのではなく、万法(現象)が自ずから転回してきてポロッと真の自己が現れて来る。それが悟りだ。実に自然法爾である。何もかもがそっちの方から整って来る。こっちが力んで整えようとしなくてもそのままで実相の完全さがポロ、ポロと現れて来る。何故なら「現成公案」本来完全円満なる実相があるからである。わしが、わしの悟りで・・・・というようなのではないのである。」 と書かれています。

堀 浩二

# by koujihori | 2018-05-18 10:12 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

これでもかとやる祈りとそのままでよいという心からの祈り

 ところで生長の家って祈りを徹底的にやればそれが成果を出してものごとが好転するって言う説き方とそのままでいいって説き方と両方ありますね。

 これはともかく徹底的に祈れというのはこれは初心者向け、入門遍という感じがします。

 清超先生も
「これでもか、これでもかという行は本来のものではない。やらないよりは良いけど」とご指導されています。また「正法眼蔵を読む」上巻では
「もちろん言葉にはそれ自体の力があり、真理の言葉は真実をあらわすところの力を備えている。しかし、経文を機械的に棒読みするだけで心はあらぬ方へ突っ走っているようなことでは仕方が無いではないか。これが仏法だと思い上がってはならぬ。仏法とは真理を行ずるところの法であるから経文の内容をよくかみしめて味わいつつ、その言葉通りの心にならぬといけない。「南無阿弥陀仏」と念ずるならば阿弥陀仏と一体であるところの自己を深く実感しなければならないのである。」と書かれています。

 要するにただ我(が)がこれでもかこれでもかと言うのでやる祈りは言葉には一定の力があるからある程度の効果がある。しかし、何時までもそんな境涯にいてはならない。内なる神が出て来て行う祈り、行にならなくてはならないという事だと思います。それが信仰の深化であり内なる神の国を発見していく過程であると思います。

 神が神するのが本当でありだから神想観も神がする。愛行も神がする。聖経読誦も神がするというのが本当です。そうすると神はそのままですからそのままで神想観であり愛行であり聖経読誦という事になります。

 でも本当にそこまでの境涯に達するにはやはり三正行が必要です。真剣に三正行を行ずる所内なる神の国を見出す。そうすればそのままで合掌三昧、行三昧となる。

 
 ただ初心者の人が三正行を真剣に行じようというのも内なる神の生命が動いてやるのです。これも「正法眼蔵を読む」に記されています。

堀 浩二


# by koujihori | 2018-05-16 14:44 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る。

 さっきの愛他的になるとノイローゼが治るって言う文章書いて気がついたんだけどノイローゼになって生長の家に来て「お前は利己主義だからノイローゼになるんだ。愛他的になったら治るよ。」と言われてその通り愛他的になったら治ったというのはそれはその人に元々愛他的な要素があってそれが自分で出て来る過程で一時期、利己的になりそしてノイローゼになって生長の家に来て、そこで指導された事がきっかけで本来の神の子の本性である愛他的な自分が出て来たという事になると思うよ。 要するに実相は自分で出て来るんです。

堀 浩二

# by koujihori | 2018-05-09 10:49 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

愛他的になれば病気は消える。

 私は最近愛他的になれて来た。会社の人達へも自然な笑顔が向けられる様になって来た。愛他的になれば大抵の病気は消えると思う。特にノイローゼなんかは。
 愛他的になるという事は本当の幸福だったんだ。とても広々とした愉快でかつ豊かな心になれる。人は利己的だから苦しい。そしてそれは愛のない行為要するに人への批判心になり、自分の事ばっかり考えるから恐怖心が出て来る。それが高じればノイローゼになる。

 でも愛他的になるのもそれも中々、我(が)では出来ない。内側から自ずと神様が出て来てそうなる。でそうなる素質は誰にもある。それは皆人間は神の子であり愛そのものだからだ。そして我(が)というのは利己主義に通じるがその我(が)が強くて利己主義であるという事も愛他的な自分が出て来る為の基礎工事、準備段階と言える。だから利己的な我の強い人は実は愛他的な要素が多分にあるという事になると思う。

堀 浩二


# by koujihori | 2018-05-09 10:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

神の国は汝のうちにのみあり

 僕は昔、生長の家に取り憑かれていたんだ。生長の家が取り憑くって変な言い方だけどどんな素晴らしいものでもそれを盲信したらカルトであり、それは取り憑かれるって事なんだ。
 何かに取り憑かれるって事は自分が無くて自分以外のものに支配されたり脅迫される事だ。だから僕は一時、強迫観念でノイローゼになった。ああしなくちゃいかんこうしなくちゃいかんって事で。

僕は生長の家に書いてあるものは無批判で全部受け容れていた。それが正しい信仰心だと思っていたんだ。でもそれは本当の信仰心ではない。繰り返しになるがそれはカルトであり、自分以外のものに支配されるという事なんだ。

 本当の信仰は自分の中に神と真理を見出すという事です。これが聖経「甘露の法雨」にある「神の国は汝のうちにのみあり」という言葉です。

堀 浩二


# by koujihori | 2018-04-12 15:50 | 信仰 | Trackback | Comments(0)